第1講 現実経済と経済史

経済生活の歴史

 経済学者のボールディングはいう。歴史家は知らず知らずのうちに記録そのものを重視しがちである。しかし、記録の耐久性とその記録を残したところの実際のできごとは、かならずしも関連性がない(ボールディング「歴史はいかに書かれるべきか」講談社文庫、1979年、195ページ)。これは傾聴に値する発言である。

 経済生活の普遍性と特殊性を考えよう。経済史は歴史的個性を重視する。異なる社会の経済史実や事件が取り上げられるが、共通性を持つものと独自性を持つものが見出される。普遍的な経験は法則性の発見に寄与するが、特殊な経験は個性の発見に有益である。 ファクターファインリングの方法は歴史経済学が利用する手法である。 しかし経済史の叙述は多様な手法が採用され、単一の理論ないし特定のモデルの適用は難しいとも考えられている。

 経済史の叙述に取り上げられる経済生活は記述者の個性を反映する。多くの経済活動及び経験が対象として注目されるが、これは実際の生活経験と比べて量的でははるかに及ばない、限られた範囲のものである。また経済史家の経済史像にマッチした経済生活という意味では取捨選択された対象である。これは記憶された経験の一部である。記述者の問題認識や研究方法と密接な関係を持つ。

 歴史の経験は全部でないにしても記憶の経験となる。両者は時間の経過と環境の変化で変質し、損失する。記録はその保存手段となる。記録の生成過程において経験と記憶の欠落が生ずる。調査研究により新たに記録が作成される。こうして現実の経験と記録の間には質量の違い及び直接・間接の関係が見出される。にもかかわらず歴史は課題研究も通史も記録を重視して叙述される。


ありそうな経済史と言えそうな経済史

 現代建築は建築家の設計図にもとづいて建造物が構築される。歴史は記述者が自ら構想を練り、史料を取り扱って叙述する。作品を作り出す結果は同じでも歴史の作品は伝えるものとの関係から言えば一つの仮説にしかならないのである。

 あなたが経済史の作品をまとめるケースを考えてみよう。まず現実と直面する。目の前に現れる資料の山と雑然とした証拠品にどう対処すればよいか考える必要がある。この場合、いきなり作業に入るよりも資料の山を掻き分けたり、欲しいものを見つけたりするのに必要な手がかりを持つことが何より大切である。もちろん紙や鉛筆などの筆記用具も不可欠であるが、それにもまして歴史の考え方や歴史的過去をとらえる力量が不可欠である。ここではこれらを経済史像と大まかに表現することにする。経済史の研究に際し、いわばありそうな経済史像を必要となるのである。このありそうな経済史像から出発して、経済史料の収集・整理が進められることになろう。そして集められた証拠に基づいて歴史が叙述されることになる。この叙述された歴史が一つの歴史像として提示される。これをいえそうな経済史像と呼ぶことにしよう。そうすると、ありそうな経済史像といえそうな経済史像は、異なるものとして存在することが分かる。

経済史の構想 経済史家が歴史的過去を観察し、説明するのに必要な認識枠組みとしての経済史像が考えられる。これは設計図に相当し、ありそうな経済史像である。

経済史の作品 経済史家が歴史的過去を諸種の史料および証拠にもとづいて実証的にまとめた経済史の作品がある。通常、著作や口述の形をとるものが多い。 これは経済史家が研究をへて、歴史的過去にたいする認識を体系として確立する経済史像であり、いえそうな経済史像である。

 もっとも、現実としてこの二種類の経済史像は、そう簡単に判別されるわけでもなく、明確に区別されるものでもない。この区別は論理的分類である。理論的にいえば、両者は経済史の研究または経済史の叙述の過程において統一をみることになる。

歴史観・世界観 研究者の歴史観・世界観は経済史を含む社会科学を基本的に性格付ける。社会科学は自然科学と異なり、研究主体の世界観を離れては存在しえない。個人の価値観、人生観、世界観が学問になると、共通認識になり、公共性を帯びる。
ケインズは「長期では皆死んでいるではないか」といい、「今、ここにある危機」の解決に奔走した。
マルクスは「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。大切なのはそれを変革することである」と断言した。
シュンペーターは「すべてを理解することはすべてをゆるすことである」と説いている。
川勝平太『経済史入門』


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