第2講 経済史の捉え方

歴史学としての経済史

 経済史は経済文化史または社会経済史など広義または一般歴史としても発展してきた。

 中国の史書では、貨殖、平準、食貨などの概念で経済生活が記述された。司馬遷の『史記』や班固の『漢書』など歴史の発展を方向付けた著作はともに経済生活を取り扱った。目をヨーロッパに転ずると、ギリシア史学、ローマ史学または近代史学においても経済生活の歴史が取り扱いの対象となった。しかし、洋の東西を問わず経済史が独立した学問領域として確立するまでにはいたらなかった。

 さらにヨーロッパの史学について考えてみよう。ヨーロッパ史学は中世において年代記および教訓的物語を多数生み出したが、ルネッサンス期に啓蒙思想またはローマン主義思潮の台頭で、自然科学の影響も受けて近代史学が形成した。その過程において進歩や発展の思想、それに合理主義精神にもとづく実証史学が広く受入れられるようになった。19世紀になると歴史学はしだいに近代科学の1分野として位置づけられるようになり、客観的方法が重視されるようになった。こうして歴史研究は、単に歴史事実を紹介し、物語として伝えられたり、歴史的過去から教訓を読み取るために記述されたりする存在から、発展的史学として認められるようになった。もっとも、今日においても発展的史学とともに物語や教訓のための歴史が書かれていることは周知のとおりである。

 広義の歴史学からすると、経済史は歴史学の一分野でしかないと考えることもできよう。それは政治史、文化史、思想史、文学史、宗教史、音楽史、医学史、科学技術史などと同列して考えられる。しかし他でなく経済史として認められるためにはどのような内容や形式を盛り込むかの問題が提起される。今日では経済現象、経済史実、経済問題などを取り扱う経済のものの見方が求められている。

 歴史学としての経済史は研究方法が重要視される。歴史の叙述との関連で歴史家E. H. カーは「歴史は、それみずから、歴史家が資料を組立てて作る型なのだ」と指摘したが、経済史の型をいかに組み立てるかは問題である。

 プラムによれば、歴史は過去そのものではない。過去というものは常にある目的で作り上げられたイデオロギーである。それは個人を支配したり、社会を動かしたり、はたまた社会階級を激励したりするために用意されたものである(J.H.Plumb,The Death of the Past,1973,p.16)」という。ここでは 客観的な歴史叙述との関連問題が提起される。

 歴史の認識は、証拠の解釈が必要とされる。解釈は人間的な営みである。主観的になりがちであるが、いかに歴史の客観性を高めるかに配慮するすることは不可欠といえよう。

歴史の客観性
 事実の確認には観察者が必要である。確認済みの事実を記録化するのに記録者がいる。記録者は事実を自ら確認するか他人の作業に依存する。記録された事実または観察された事件に基づいて歴史が叙述者によって伝えられる。
 このように歴史ははなはだ人間的な営みである。人間的要素の評価いかんで客観性が定まるといえよう。  すでにみたように個人の価値観、人生観、世界観が学問になると共通認識になり、公共性を帯びるとする見方がある。


経済学としての経済史

 経済史は経済発展の歴史または歴史経済学としても研究されてきた。とくに経済学の考え方を取り入れた経済史研究に注目したい。

 経済史家のポスタンは「史学者たちの間の哲学に対する無関心は実にはなはだしいものであり、その無関心のおかげで、多くの史学者は、一方ではもっとも単純な実在論的仮説にもとづいて自己の研究をおこないながら、他方ではまったく安易に哲学的観念論に忠誠を誓うというようなことができるのである」(『史実と問題意識』1974、90ページ) と指摘し、経済史の叙述には理論の適用が重要であると主張する。

 イギリス人のカニンガム(1849-1919)著『イギリスの工業と商業の成長(1882)』、アーノルド・トインビー(1852-83)『18世紀イギリス産業革命講義(1884)』およびロジャー著『労働と賃金の6世紀(1884)』は、経済史が学問として認知される初期の代表的な研究とされる。やがてドイツにおいて『季刊 社会経済史』が1893年に創刊された。

 長い間、日本では経済学といえば、マルクス経済学と近代経済学(古典学派ならびにケインズ学派を含むマルクス経済学以外のものの総称)の二つに分かれている状態がつづき、相互に拮抗した。経済史の研究でも「マル経」の立場と「近経」の立場に分かれて研究が行われてきた。とくに日本のマルクス経済学は経済原論であると同時に歴史論および政策論の性格を備えている。

日本資本主義論争  戦前日本(1927-37年頃)のマルクス主義理論家の間で展開された論争をいう。日本社会の世界史的位置規定や社会主義革命の戦略とそれの規定要因などをめぐって論争が行われた。日本は「すでに資本主義になっている」と「まだ封建制が残る」の違う現状分析によって激しく論争が展開された。イギリスの事例やマルクスの理論を援用した代表的な文献に大塚久雄『近代欧州経済史序説』と山田盛太郎『日本資本主義分析』がある。

 1990年までの戦後数十年間は冷戦時代がつづいた。資本主義陣営と社会主義陣営が対立する中で、経済学には異なる体制の研究や比較体制論の研究分野が形成した。また、米ソ2大超大国の勢力拡張競争を背景に経済成長論や経済開発論のような歴史的観点を持つ経済学も出現した。一方、現実世界では日本が高度成長を遂げ、イギリスが経済成長の鈍化で悩んだ。また、ソ連の崩壊や社会主義の市場経済化などの変化があらわれた。日本の経済学研究事情は変容し、経済史の新しい発想が求められるようになった。「アジアの中の日本」という視点、文明論的視野、海から文明をとらえる視点、環境という視点などが紹介されている。(川勝平太『経済史入門』43-48ページ)

経済史の成立
 経済史は古典派経済学でなくドイツ歴史学派の中から生れたといわれる。古典派経済学が抽象的原理からの演繹的方法を重視したのにたいし、ドイツ歴史学派は現在・過去における経済行為および制度の調査研究に強い関心を示したことに由来している。
 経済学は科学としての性格を強化する形で研究されてきたが、その体系は理論と歴史と政策という3本柱の上に築かれるものとも考えられてきた。しかし理論化、抽象化の方法論および分析道具が整備される過程において理論と歴史と政策の分離や融合が繰り返されてきた。


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