農業経済の史的展開

中世の農業

 農耕と牧畜のはじまりは経済生活の重大な変革をもたらすものであったが、農業のおこりについてはかならずしも明らかではない。伝播説によれば、農耕は牧畜とともにイランの西南部からアナトリア高原南部をへて、ギリシアの半島部や島嶼部にいたる、西アジアから東地中海域を中心にはじまった。当時の農法は天水による乾地農法が採用され、肥料をほどこさない略奪農法であった。土地の生産性が低く、耕地を頻繁にかえる必要があり、農村をつねに移転しなければならず、したがって大集落に発展することができなかった。

 農業の発生期には女性の労働が重要であったという。これは世界各地に分布する諸民族の間に共通して見られる現象である。ニューギニア、オーストラリア、ポリネシア、ニュージランド、ブラジル、ケルト、ペルーや北米のインディアンの人々や部族のあいだにこれをみることができる。

 人類は牧畜および農耕の発達とともに、遊動生活からしだいに定着生活に入り、とくに農耕が主たる生業になるにしたがい定着生活は決定的となった。遊動生活から定着生活への過程は、すこぶる緩慢に進行した。完全に定着するまでは一種の半定着ともいうべき状態が維持され、耕作技術の進歩によって、移動の必要がすくなくなり、これまで一定の土地には数年しかとどまらず、地味が枯渇すれば他の土地へ移動するということを繰り返す必要が減り、一定の土地との関係がとくに密接となり、ここに村落という新しい集団が生まれることになった。村落集団の成立は、定着を前提とするが、定着生活と農耕生活とは密接な関係がある。世界最古の文明とされる中国、エジプト、メソポタミアにおける農耕生活の発達は、いずれも河川流域に定住がおこなわれた結果の産物であった。肥沃な耕地を求めて農民が特定の土地に定住すると村落が形成することとなった。

 定着によって新たに生まれる村落集団の結合原理は、しだいに血縁から地縁へと移っていった。古代ギリシア、中国、日本の村落構成をみると、定着過程においてもその後においても、人びとは移住、来住、征服、被征服の関係が重なることにしたがい、意識上、血縁関係よりも土地との関係がしだいに密接になってくる。地縁的集団としての村落が形成した過程において、生活単位としての家族が重要な役割を演じた。一人の家父のもとに傍系の親族を広く包含する大家族共同体もしくは所帯共同体が形成した。このように村落共同体は地縁団体として発展したが、血縁団体の名残を濃厚にとどめてもいた。守護神の共同さいし、首長が司祭者である、司祭者が一定の家柄から出たという慣行にこれをみいだすことができる。(堀江保蔵『経済史概説』93ページ)。

 村落共同体における土地の保有と利用は、地域や民族によって必ずしも一様にはなっていないが、一般には共同経済として認識される。

 ゲルマン民族の土地保有状態をみると、農家の私有地には宅地、菜園があり、マルク(森林、原野、牧草地などの入会地)については共同利用がおこなわれ、耕地は、社会的地位や家族の労働力ないし欲望に応じて、分割保有されていた。首長または首長たるべき身分にあるものは、多数の従士をしたがえ、広大な土地を保有した。自由民とよばれる一般の村民はそれぞれ一定面積の耕地を保有したが、全く耕地を保有せず、小作人に似た奴隷もいた。古代ゲルマン社会は、身分的差別が存在した社会である。

 「ロシアの農村共同体はいつのころとも分らない遠い昔から存在している。これとかなり似た形態のものはすべてのスラヴ系民族の間に見受けられる。ゼルビヤ人、ブルガリヤ人、モンテネグロ人のもとでは、それはロシアにおけるよりももっと純粋な形で保存されていた。農村共同体はいわば社会的な一つの単位であり、法人である。国家はけっしてその内部に立ち入ることはできなかった。共同体は所有者であり、納税の義務をもつ。それはすべての者にたいして、またおのおのの個人にたいして責任をもつ。それゆえに内部のことにかかわるすべてにおいて自治的である」(ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫,225ページ)。

 農業の起源説に単源説と複源説とがはやくから主張されたが、後者の支持者が多い。農業立地からすれば、乾燥地農業と湿潤地農業とに分けてみることができるが、地中海式農業は、よく知られているとおり南欧地方の気候条件、すなわち冬季の温暖、湿潤に対して、夏季の高温、乾燥のもとで、乾燥地農業が展開されてきた。農家は平地に冬小麦や大麦を栽培し、山地の斜にオリーブ、ぶどう、かんきつ類、イチジク、コルクガシなどを栽培する。また、乾燥気候にに強い山羊や羊を飼育されている。焼畑農業は、ヨーロッパとくに南ドイツ各地、アフリカそれに南・東南アジアにおいてふるくから採用された。古代中国においても「火耕水耨」とよばれる農法が採用された。

 乾燥地農業に対して湿潤地農業が世界各地で経営される。モンスーンアジアにおける稲作農業はその典型である。稲作農業は世界中に分布するが、モンスーンアジアの稲作は高温多湿の条件に恵まれ多毛作が可能である。潅漑技術、畜力による犂耕技術を中心に農耕技術が展開されている。

 中世ヨーロッパにおける農業生産技術の進歩は、重量犂、馬の使役、三圃制による輪作などに注目している。農業の記録は犂耕文化の所産とする見解がある。中世の農業は、ヨーロッパにおいて二つの犂耕文化が存在する。一つは南欧において発達した軽量犂文化であるが、南欧、とくに地中海沿岸の農業に利用されている。ここの柔らかい土地は耕しやすい土壌という条件にあるゆえ、ローマ時代から二年周期の農法がとられ、人力または畜力による犂耕が採用されてきた。軽量犂はスカンでィナビアにも利用される。いま一つは重量犂を採用する犂耕文化であるが、温帯ヨーロッパ、とくにイギリス、フランスまたは旧ローマ帝国領以外の地域において重量犂が使用された。犂の種類は耕地の性質と不可分の関係にあるので、よく知られているように、有輪重量犂は粘土質のような堅く耕しにくい地域で採用されていた。重量犂は5世紀以後に広がり、農業生産力の発展を促した。この犂は軽量犂と比べて深耕することが可能であり、粘土質土壌の耕作に有効であった。重量犂は4〜8頭の牛または馬を使用したが、これでは単一の家族の資力を超え容易に提供することができず、したがって農民は村落共同体の成員の協力に頼らざるをえなかったのである(Hodgett,A Social and Economic History of Medieval Europe,London,1972,p.20)。

 アングロ=サクソン時代の農業技術体系に占める重量犂または、カルーカ(carruca)は重要であった。「中世に現れた重量犂は、ローマン=ブリテンを含むローマ帝国の大半の地域で用いられていた軽量犂よりも、大型で効率の高い道具であった。完成した形の重量犂には、第一に、鉄製の犂頭があった。これに対してそれ以前に使用の軽量犂、アラトゥラ(aratra)は、精々尖端を鉄で被せた木製の犂頭であった。第二に、犂刀(coulter knife)をもっているが、これは犂頭の前方に固定され、溝を切り込み、切れ目の運動を方向付けるものであった。第三に犂頭と平行して取付けられた犂板(moulding board)があり、その機能は切れ目の土壌を反転させ、これをその側面におくことであった。さらに完成した犂は、第四に車輪を備えねば成らなかった」(ポスタン「中世の経済と社会」62ページ)。

 農法として輪換式または穀草式農業方法、輪栽式農法それに輪圃式農法が知られているが、中世ヨーロッパでは穀草式より輪栽式農法が発達し、二圃式より三圃式農法が普及した。荘園では一般に三圃式農法が採用された。三圃式農法は、平坦な地形、肥沃な地味、良質な牧草地をもつ温帯ヨーロッパに8世紀から盛んであったが、土地の起伏の激しい地中海沿岸では、秋蒔小麦の栽培と休閑とを繰り返す二圃式農法が作用されたという。マックス・ウェーバーは三圃式農法が8世紀頃からドイツにもっとも普及したと指摘している。

 中世ヨーロッパ農業は、荘園組織のもとで展開されたものが重要視される。荘園の枠外で経営された農業も発達したが、中世社会においては、封建関係の基礎となった荘園農業が最も重要であるといえよう。荘園は中世ヨーロッパ社会を支える経済組織だったのである。荘園制度は封建制度を土地関係の側面から観察したものである。


荘園組織

 荘園は外形的にみるばあい、宅地(toft)、耕地(croft)、緑草地(green)と道路(street)などを主な構成要素としているが、物理的基礎として大量の土地を占有することで成り立っている。ポスタンが指摘するように、大エステートは荘園制度の経済的基礎をなすものである。しかし大土地所有は中世に始まったものではない。その先行例として、次のものがあげられる。イタリアではローマの拡張期に大土地所有制度が成立している。土地の少数者への集中は贈与、相続、売買、婚姻および強奪によるものであった。ガリア地方にはローマ人到来より、ずっと以前から大土地所有制度が存在した。ローマ人もビラーを経営した。中世初期の大土地所有には、ローマのビラーを受け継いだものと新しく成立したものが共存した(M.M.Postan,The Medieval Economy and Society,Penguin Books,1976,p.85)。したがって、中世初期の封土によって成立した荘園を理解する場合でも、ゲルマン的要素に加えて、ローマ的要素の重要性に注意する必要があろう。

村落には教会、 家屋、 小屋などの建物があるが、 領主の屋敷が最大の建物である。 これを中心に荘園庁、 召使や奴隷小屋、 家畜小屋、 仕事場が配置されるのが普通である。 村落の人口の多数を占める村人の住居が核を集合する形で配置されるか分散的に点在している。農民の居住環境は住居空間の拡大、住宅戸数の増加、木造もののほか石造農家の出現などの形で変化した。

所領において領主は不輸不入の政治的特権により、徴税権と裁判権を有したほか、封土は相続により私有財産として固定化した。領主は荘園の土地を直営地と保有地とに区別して利用し、それを主な収入源にした(M.M.Postan,MES,p.82)。荘園の管理と運営のために、代官、荘役、財産管理人、小役人などが執務した。

メイトランドは、法の観点から農民を自由農民と不自由農民と区分したが、彼らは土地に依存するか、自らの労働に依存するかで生計を立てるほか道がなかった。自作農と借地農は土地に依存する傾向が強く、小農民と小屋住農民は労働力に依存する傾向が強かった。一般に借地農は保有地にとどまり、荘園の慣習や規制にしたがって土地を耕し、貢納と賦役を負担した。貢納は年貢とも呼ばれるが、実物で納入する生産物地代である。賦役は労働地代であるが、労働賦役(week work)と課題賦役(boon work)とに二分することができる。前者は領主の直営地を耕す労働力の提供であるが、後者は領主のために運搬・建築など土木工事作業に従事する。このほか、農民は人頭税、相続性、結婚税などの支払いおよび粉ひき用水車、パン焼きかまど、ぶどう酒醸造場などの施設使用に対する支払いを負担した。

 荘園の発展過程において、農民の従属性が強化されていった。ゲルマン侵攻時のローマ農村社会には、すでに後の中世農奴に類似した要素が含まれていた。ローマ末期には奴隸が使役されたほか、多くの自由農民がコロニーとして農業耕作に従事した。かれらは土地を耕し、租税とその他の義務を負った。他の市民も他人に身を託し、パトロンのもとで食客となった。中世の托身制度は、自由民が権勢家に屈伏する状態で、権威は土地と人民に及んだ。托身契約により、ひとは領主または地主に従属するばかりでなく、土地とともに移転可能の対象にもなった。托身契約は修道院文書として保存されたという。自由人が権勢家に従属する事実は8世紀以前にかなり一般化したが、チャーリ一世は勅令をもって一般自由民の地主従属を法制化した。

 農民は耕地の保有量からみればそれぞれ身分的に相違がある。土地保有量でいえば、自作農、小作農、小農民と小屋住み農民の順になる。イギリスでは30エーカーの開放耕地を保有する農民が標準耕地保有農民とみられている。農民は開放耕地の耕作と他の共同地の利用の代償として領主にたいする義務を負うものとされた。農民は一般に次の義務を負担した。すなわち、週賦役、年間を通じて週の内3日間直営地の耕作その他の労働力を提供する。これは労働地代といわれるものである。特別賦役、農繁期にはさらに特別の義務労働がかせられた。収穫期の刈り取り、脱穀、運搬などの労働にあたる。この種の労働は農民にとって忙しい時期の特別奉仕であるゆえ、かなりの負担になる。貢納の義務、実物または貨幣による貢納が義務づけられている。人頭税、婚姻税、借地相続税等の取り立てがこれである。また、領主の所有する施設を利用すれば、使用料を支払わなければなないし、諸種の罰則にしたがって、罰金、過料の徴収に従わなければならない。荘園のなかには、きわめて軽微な封建地代しか負担しない自由農民が存在した。自由農民は世襲的に自分たちの所有地をこうした。この人たちは多くの自由を享受したと考えられる。免役地代の負担、上級領主の法廷出訴など一般農民と区別される自由を有したのである。

イギリスの所領における保有地の規模
所領マナ数時期富農層 中農層零細保有農
Shaftesbury Abbey 17 12世紀後期 285人 209人 242人
Canons of St Paul's 14 13世紀初期 175 366 501
Bishops of Wincehster 15 13世紀中期 268 645 713
St Peter's, Gloucester 17 13世紀中期 264 158 363
Glastonbury Abbey 32 13世紀中期 359 593 1094
St Swithun's Priory 4 13世紀中期 14 104 65
Bishops of Worcester 7 13世紀末期 132 188 120
Berkeley Estates 2 13世紀中期 16 17 43
合計 108   1513 2280 3141
構成比     22% 33% 45%
備考: 富農層= 1ヴァーギト(30エーカー)以上;中農層 = 1/4ヴァーギト以上、1ヴァーフィト未満; 零細保有農 = 1/4ヴァーギト未満
出所: ポスタン『中世の経済と社会』訳書、167ページ

 農民は農作業の他、森にこもって木を伐採する。大工や屋根ぶき職人にもなる。農工具の製作と修理もすれば、食料や衣料の加工・製造にも従事する。ときには行商人になるものもある。もっとも農民はすべての用具を生産することは無理である。靴、ポット、布などすべてのものを自給品と考えるのは不自然である。村には工業の専業者がいたのである。領主はその作業場に多くの奴隷職人を使役し、食料始め日用品の加工、製造や邸宅、道路などの建築、土木工事に就労させた。また賦役労働に服するもののなかにもかなり熟練した労働者が存在したことは容易に想像できる。とくに貨幣経済の浸透により、農村には独立手工業者が出現するようになったのである。職人は農民のためにいろいろな仕事をした。衣料生産、衣服加工、靴の製造、道具の製作、パンの焼製などはその主なものに数えられる。これらの製品に対し、農民は代償として現金を支払ったり、穀物など実物を渡したりした(G.E.Mingay,English Landed Society in the Eighteenth Century, p.239)。

 イギリスには、荘園の遍在を意味することば、「至るところにマナーが存在する」というのがある。しかし、これは俗説である。地方史や個別荘園の研究によって、荘園制度の未発達地帯が明らかにされている。イギリスでは次の地方が程度の差があるにせよ、非マナー地帯であったといわれている。

イーストアイグリア、ケント、中西部地方、イングランドの北部、ベニン丘陵地の南北地方、スコットランドとイングランドの境界地方、ウェールズ辺地、このほか、デボンシャー、コーンウォールの中部、北部などイングランド南西部のマナーの支配力や機能は、イングランドの他の地方と相違があるという報告がある(Postan,op.cit.,p.97)。


開放耕地制度

 開放耕地は6世紀末から7世紀にかけて増加したが、11世紀から14世紀初期にいたる間に森林と荒れ地の減少に反比例してふえつづけた。最初は人口の急激な増大が開放耕地の増加をもたらした。とくにドイツの中部、南西部、ライン流域における開放耕地の増加は人口の増大と密接な関係があったという(G.A.J.Hodgett, A Social and Economic History of Medieval Europe,1972)。

イギリスの開放耕地は18世紀の大規模囲い込みが実施されるまで多くの地方(parishesすなわち地方行政区は多くの場合教区と一致する)に存続した(Britannica)。 囲い込みから除外された開放耕地が今日でもかつての面影を伝えているとの報告例がある。ノッティンガムシャーのラックストン(Laxton, Nottinghamshire)にある開放耕地は、耕地の外側に生け垣なしの土地が残存するが、土地保有の統合により、地条はもはや存在しない。また、デボンシャーのブラウントン(Braunton, Devonshire)でも開放耕地は近年に地条の統合が進んでいるという(Beresford & St. Joseph, Medieval England, pp.40,44)

 開放耕地制度(open fields system)はその組織、 経営において若干の特徴を示している。 主な特徴についてみてみるとしよう。

(1)三圃制農法  この農法は9世紀ごろからヨーロッパにおいて普及したという。開放耕地は一般に若干の区画に耕地を分けこれをファーロング(furlongs)と呼び、各ファーロングはさらにうねと溝によって画する地条(strips)に分けられる。地条間と区画間には垣根を作らない開放形態で土地が利用された。地条は最初、大きさがまちまちだったのが、しだいに標準化された。地条の長さは耕作作業中に牛が犂を一引きするうちに、耕作者が土地をまっすぐ犂耕できる状態のもので、その幅は犂の広さ約5.5ヤードに相当するものとされる。面積はしだいに定量化し、約1エーカーに近づいていく(Encyclopeadia Britannica)。このような地条が集まってファーロングすなわち耕区を構成するが、若干の耕区が集まって一つの耕圃を形成する。そして、三つの耕圃を交互に休閑地(fallow)にしながら輪作するのが三圃制農法にほかならない。

 耕圃の利用方式として、春作物と冬作物を順次異なる耕圃に栽培するが、毎年耕圃の一つを休耕にする。これを簡単に概念化すると次の通りになる。もちろん現実は地域、時期などを思えば、作付けの変更、耕圃の利用などかなりの変化があることは容易に推察することができる(例えば、ポスタン『中世の経済と社会』第四章参照)。

農業作付方式
年度耕圃1耕圃2耕圃3
第1年目春作物冬作物休耕
第2年目冬作物休耕春作物
第3年目休耕春作物冬作物

冬作物(Winter crops)として、小麦(wheat)、ライ麦(rye)、いんげん豆(beans)があり、春作物(Spring crops)として、大麦(barley)、オート麦(oats)、えんどう豆(peas or vetches)がある。穀物のほか、飼料作物であるかぶら(turnip)とクローバー(clover)や衣料作物である亜麻(flax)と麻(hemp)それにタイセイ(woad)、アカネ(madder)、サフラン(saffron)、ティーゼル(teasels)などの染料作物も栽培された。

各耕圃の耕作日程は各地に違いがあることは容易に理解できるが、たとえば春作物を栽培する春耕圃を1月頃に犂耕し、3月に播種する。そして8月下旬に収穫を終えて、刈り株放牧にする。冬作物を栽培する冬耕圃を10月頃に犂耕し、1月に播種する。そして8月上旬に収穫を終えて、刈り株放牧にする。また休耕地を6月中に1ないし2度犂耕し、休閑地として放牧だけおこなう。

農作業の時期は一定の暦によって行われ、一説によると、温帯ヨーロッパの農業暦は南欧のそれと相違があり、9世紀ごろになると、最初の犂耕は3月におこなわれ、大麦を播種する場合、2月が犂耕の時期であった。休閑地はふつう5月から使用された(Hodgett,op.cit.)。

(2)耕地混在制領主の直営地と農民の保有地は各耕圃に分散することを意味する。 農耕に利用する耕地が各耕圃に分散し、他人の保有する地条と交錯する状態を維持する。このような土地保有形態は、社会、政治、相続制度ないし農業技術にその由来原因があると考えられている。農村共同体の成立との関連でみれば、定住と耕地の開墾などによる土地の新規取得と確保という事実も重要である。

(3)強制耕作制  土地利用は村落共同体の規制によって共同耕作しなければならない。これは農作物の収穫後に耕地を共同放牧地にすることや、共同輪作をおこなうのに必要であった。農作業の内容、たとえば、作柄、播種、刈り入れ、牧草地の割当て、木材の伐採、荒れ地の利用またはかきねの設定と撤去などにまで共同規制が及んだ。

ケルト人は、ローマ占領の400年もの前に開放耕地における部族共同耕作方式を発展させていたと伝えられている。自由ケルト人は五つの地条を保有するが、 部族の規定によって共同耕作し、 分配を受けた。 犂は部族の共同財産だが、 牛は私有物となった。 この制度はノルマン人が導入した荘園組織によく融合したという(Encyclopedia Britannica)。


牧羊農業

 ヨーロッパの農村社会には農民の世界にたいし、牧民の世界が存在した。牧羊経営は農業経営とともに農村生活の重要な構成部分であった。牧民は農民と比べて定着性が低く、 移動性、自由性に富んでいた。イギリスの牧羊経営はノルマン征服時代にさかのぼるとされている。牧羊は直営地農業と借地農業において経営された。牧羊は単一の荘園に限定されないのが一般的であるという。大規模牧羊は超マナー、すなわちいくつかの荘園のなかで経営された。家畜の管理は荘園の土地管理人である荘役(bailiff)に代わって専属の管理人(stock keeper)が担当した。13−14世紀初頭までが牧羊の黄金時代とされ、大エステートだけでなく、小規模生産としてイングランド中に多数の農民が羊を飼育した。地方によっては、500頭ないし4000頭の羊群が飼育されたという記録がある。イギリス北東部のヨークシャーや中東部のリンカンシャーにおいて発達した牧羊農業は、この地方の柔らかい土壌の改良に羊を利用したいう。この場合、羊は肥料を提供したほか、養分になる物質を土のなかに踏み込むのに役立った。これらの地方における耕地と採草地、果樹園または森林用地の比率は、ミッドランドと比べてかなり低いとされている。中世末期に農牧兼営が展開されたが、この種の農法は先の開放耕地農法と区別されるものである(M.W.Beresford;J.K.st Joseph,Medieval England,1972 edition,p.45)。

 イギリス産の羊は大別すると、短毛と長毛との二種類があるが、家畜台帳における羊の分類は、雌羊、雄羊、ホージェト、ラムなどとなっている。記録によると、羊の変動要因は、購入、自然増加による増大と病害、売却、納税による減少が重要であった。ふつう、ミカエル祭(Michaelmas,9月29日)時の羊の数量を基準に変動が把握された。

 羊毛は当時の重要商品であった。大陸のフランドル、イタリア、スペンの諸国が、イギリスの羊毛を求めた。羊毛取引を通じて、諸国経済の相互依存関係が確立された(Eileen Power,The Wool Trade in English Medieval History,Oxford,1941,pp.33-36)。なお、イギリス羊毛の対欧州大陸輸出は15世紀に入って減少したが、これはフランドルの毛織物工業の衰退を同時に進行した現象であり、イギリス毛織物工業の発展によるものでもあった。

 さきに述べたとおり、牧民は農民と比べて定着性が低い。牧民は家畜のための牧草地を求めて移動するのがふつうである。イギリスの牧民も地方によっては夏なら山間部に放牧し、冬なら谷間に戻る方式をとったという。地中海地方では気候条件によって家畜群が大移動するが、モンゴル高原、中央アジアまたは西南アジア、ないしアフリカにおいて、牧民が広大な草原地帯で遊牧経済を展開している。遊牧社会と農牧兼営社会とは立地条件に区別がある点に注意を要するが、各地の条件により、羊、牛、馬、ラクダなど異なる家畜が牧民の財産を構成している。


水田農業

 モンスーンアジアには、焼畑農法と潅漑農業が採用されている。焼畑農業は乾燥地帯の農法として、たとえば、マライのラダン、インドシナのライ、フィリピンのカイギン、インドネシアのラダンまたはフマ、それに古代中国で盛んだった火耕水耨農法をあげることができる。焼畑農法と乾地農法は現実の農法として存続している。「ヨーロッパでも南ドイツそのほか、森林・沼沢地に残っており、アフリカ・南アジアの熱帯林・サバンナではいまでもふつうの耕作法である」(熊代幸雄『比較農法論』 1974年、380ページ)。

 稲作は主としてアジア、アフリカ、オセアニア、アメリカおよびヨーロッパに分布しているが、世界の耕作面積の90%は東南アジアに集中している。稲の種類は多く、多様な基準で分類される。その栽培方式によると、直播稲と移栽稲に分けられるが、水稲と陸稲の区別もよく知られている。

水田稲作は、モンスーンアジアの潅漑農業圏内でとくに発達した。ここは人口の多い地域としても知られている。潅漑水利による土地の維持・改良は、水稲栽培に不可欠である。水なしでは稲作が成り立たない。稲作の場合、潅水中の沈澱物を利用し、酸性の土壌を改良するのである。モンスーン地域では水利事業、とくに潅漑工事が重要視されてきた。

 潅漑の取水方式には、流れ式と揚水式とがある。アジア大陸とくに乾燥地域には地下水の利用が一般におこなわれ、中国の華北部や西北部の井戸および中央アジア・南西アジアにみるカナートからの取水によるものは揚水式潅漑であり、華中とくに江南地方やインドのインダス、ガンジス川下流域、タイのメコン川流域などモンスーンアジアにみるものは河川、クリークまたは貯水池から用水路を利用しての潅漑で流れ式潅漑である。どの潅漑方式においても取水するさい、一定の揚水装置を必要とする。中国の例でみると、昔から潅漑用具の一つとして水車が発達したことが、とくに注目の対象になる。潅漑施設の整備により農業の発展が促されたが、排水、利水技術の進歩は不足がちな耕地の創出手段としても活用された、本来なら、耕地に利用されない土地が農業耕作用地として利用されるようになった。中国農業史において水利田(囲田、塗田、う田、梯田)と呼ばれる農耕用地は、水利潅漑の賜物であった。

 潅漑農業に適用される農業耕作方式に耨耕法と翻耕法が重要であるが、鍬から犂への移行により、犂耕農法が採用された。中国犂およびインド犂は、アジア各地に広く普及したが、それぞれの犂耕文化圏を形成している。農法として中耕法の採用も重要である。人間の労働力による手労働中耕は華北から華南に至るまでの地域、朝鮮、日本、東南アジアにおいて採用されている。水田農業は手作業を中心に営まれる栽培体系である(家長泰光『犂と農耕の文化』1980年)

 潅漑農業において農家はやはり基本的位置を占める。資本集約農法より労働集約農法に依存することで、家族はいきなり大世帯のものが形成された。農家は村落の構成単位にもなった。このことは中国ばかりでなく、インドについてもいえる。インドの北部や南部の農村では家族ごとで土地が所有された。村落共同体は最初の王朝であるマウリヤ朝からグプタ朝をへて、ムガル帝国時代にいたる間を通じて人々の生活を規制していたことが知られている。

 土地利用は、多くの場合、土地の所有関係によって異なるが、王領地と私有地とが併存しているなかで、前者が決定的な役割を果たした。それは個人による土地の兼併を抑制する働きをしたと同時に、農業経営の方式をも制約した。中国の均田制の例でみると、作柄の制限、すなわち穀物、くわ、あさのみ栽培、土地保有の規制などが重要内容となっていた。均田制のもとでは土地私有も容認されていたが、しかし土地私有による新しい土地関係の成立は、均田制の崩壊後私有地の急増により地主・佃戸関係の発達をみてからであった。宋代以降の中国には、多くの貧しい農民が大地主の荘園経営に組み込まれていった。

 潅漑農業で栽培される農産物は、穀物、野菜、果実などが重要である。東洋では五穀(米、麦、稷はたは粟、豆、黍)を重視する伝統があるが、このほか、多種多様の作物が栽培される。たとえば、コーリャン、イモ、とうもろこしなどや落花生、大豆、野菜、桑、麻、綿、茶や各種の果実類(龍眼、リーチ、マンゴー、ヤシ、パパイヤ、バナナ)がある。なお、農家にはガチョウ、アヒル、ニワトリ、豚や魚などの飼育を副業とするものが多い。

 東洋の農地制度について一瞥しよう。土地の利用と所有は政治、社会とともに変遷した。重農政策の実施で農業は重視されたが、農地制度は農業生産を制限した。中国では国家政策として均田制(5世紀〜8世紀)が採用され、農地が穀物などの生産に利用された。均田農民は穀物や衣料品を中心に栽培した。均田制が弛緩すると、土地は少数の地主の手に集中し、8世紀末から地主経営や小作農業が発達した。自作農のほか、土地を持たない農民が小作農、隷属農となって農業生産に従事した。

 インドでは土地の共同体所有が原則であり、農民が土地占有権と財産の所有を認められていた。13世紀ごろの北部インド農村では、家族が土地所有の単位であったが、南部インドでは土地の私有もみられたが、共同体所有が広くみられたという。16世紀には農地の売買がおこなわれ、土地持ち農民とおそらく村の荒地などを一時耕作した小作農民との区別があらわれた。

 農村では、農民の上にザミーンダールが存在し、その上に国家の統治機構や官職知行が君臨した。「領主村」は北部インドに普及し、南部インドにも散在した。「ムスリムの侵入と征服はヒンドゥーの支配層の分散と領主化をいっそう進めた、ラージプート系の氏族制国家が敗北したばあい、いわば頭の部分だけが駆逐、排除され、分有地を持つ一般の氏族成員はそのまま分有地の小領主、小地主として残ることが多かった。また敗北した王朝貴族は家臣団をつれて、ムスリム支配の周辺、僻地に落ち、そこに小王国を建設してムスリム王朝に恭順し、貢納・参軍の義務をおう事例も広くみられた。ムスリム諸王朝はヒンドゥー従属王にたいしてはその諸領の自治を認めるのが普通であったが、直轄領にいた大小のさまざまな地主、領主、豪族にたいしては、一般にこれをザミーンダールなどと総称した」(『アジア歴史事典』)。


近代農業

ヨーロッパの農業は、16世紀ころから徐々に発展する萌しをみせはじめる。農業革命というばあい、土地制度の変革と農業技術の進歩が重要視されるが、農地制度の再編は農業経営の変化を反映するものと考えられる。囲い込み運動の進展はこのばあい特に重要である。ここではイギリスの事例を説明する。

囲い込み運動
 イギリスの土地囲い込みはチューダー王朝時代の第一次囲い込みとハノーバー朝(1714-1917-)の第二次囲い込み運動とに区別される。 土地の囲い込みは、チューダー王朝時代以前にもおこなわれたとされているが、知られている事例が少ないことで取扱い上困難をともなうという理由もあって明らかではない。第二次囲い込み運動は近代農業の発展と歩調を合わせて進展した。

 チューダー時代の囲い込みは土地所有と経営の変化をもたらしたが、これは経済事情の変化とともに進行したものであった。城塞の撤去、道路の整備、貿易の発達、生活や流行の変化などで、土地の利用面にも変化をもたらしたと考えられる。一説によれば、農地の囲い込み面積は約3%にしか達しなかったという「囲い込運動の多くは、発展する織物工業にようもうを供給するためのものであった」。(E.F.Gay,Inclosures in England in the Sixteenth Century, Quarterly Journal of Economics,XVII,1903,pp.576-97)。

 毛織物製品の生産と取引が、急速に発展して、羊毛の需要が増大し、価格が上昇した。羊毛供給業者にとって価格の上昇による利益は甚大となった。しかし、大量の需要にこたえるには羊毛の増産を必要とした。農地の囲い込みはその結果であり、耕地から牧場へと土地の利用形態が変化する過程で、農村には雇用機会が減少し、村を見限って都市や他郷に移住する農民が多数現れた。農村部にとどまる人口の減少と廃村の多出で、この時代の囲い込みは又の名を人減らし囲い込みともいう。人間の減少にくらべて羊の数が増大したことで「羊が人間を食う」時代とたとえていうこともある。近年、研究の進展により、この時代には羊だけでなく牛や馬などの家畜が飼育されたこと、二つの農村が合併した結果、一方の農村では家屋が放置され人口が減ったが合併村落の中心となった村落はあらゆる点で栄えたことなでが指摘されている(C.Dahlman,The Open Field System and Beyond,1980,p.165)。

 牧羊囲い込みは、1550年ごろに退潮しはじめ、スチュアート朝(1603-1714)時代の囲い込みは、農業または農牧業を営む目的で進められた。その原因としてイギリスの毛織物に対する外国の需要が減少し、価格が下落したことが重要視されている。イギリスの毛織物に対する熱狂的な需要はもはや存在しなかったのである。このほか、大衆の反発、政府の規制および穀物栽培の利益増大が指摘されている(M.W.Beresford;J.K.st Joseph,Medieval England,1958,p.133)

 「牧羊囲い込みフィーバーは、1551年にイギリス毛織物の外国市場が崩壊し、価格が下落したことで衰退しはじめた。このため、羊毛生産のブームは事実上終了となった」(p.98,Industrial Britain)。

修道院の解散  修道院は大量の土地を所有した。従って修道院の解散による土地所有関係の変化は無視できない。イギリスではヘンリー8世時代に、首長令が議会を通過し、イギリス国教会の成立をみた。国王と法王との対立よりイギリス国民は法王でなく、国王に対する忠誠を求められた。王は、イギリス領土内での法王の影響力を削減する目的もあって、トマス・クロムウェルに修道院の解体につながった一連の行動を取らせた。まず1536年に弱小修道院が廃止され、つづいて1539年に大修道院が解体させられた。解体させられた修道院の財産は政府によって没収された。このことによって修道院は形式上もはや存在しないものとなった。

 解体後の修道院所領やエステートは、売却または贈与の対象とされ、他人の所有下に移転していった。このとき、ジェントリーやヨーマンによっても土地が購入され、農業用地とされた。修道院のなかでは、修道院の廃止を予見して前以て対策を講じたものもあった。土地は事前に処分されたり、借地として貸与されたりした。

第二次囲い込運動として知られている囲い込みは、議会の立法をもって進められた。議会囲い込みの連続実施によって、それまで残存した開放耕地がほとんど消滅したという。小農経営に代わって、大農経営が注目の対象となった。その陰に多数の小土地保有者の没落がみられる事実についてドッブは、つぎの指摘をしている。

 「土地保有の変化は、多数の小土地保有者の代わりに少数の大土地保有者が現れるという方向にすすんだ。

 それは、債務を背負わされたためのこともあろうし、18世紀の後半から19世紀の初めにかけて、農家の手工業という昔からの副業が大規模の工業のために仕事がなくなってしまったこともあろうし、またはずっと新しい農業方法を取り入れた資本のかかる大農場との競争のために禍を受けた場合もあるだろう」(ドッブ『資本主義発展の研究』II,10ページ)

 第一次囲い込みと第二次囲い込みを比較してみると、両者は規模、性格およびその影響においてかなりの相違がある。このことをドッブは、次のように指摘している。「チューダー朝における第一次囲い込運動は、もっとも影響を受けた四つの州でも、囲いこまれた土地はおよそ10%に達しなかったのと比べると、18世紀と19世紀の前半には、14もの州で、共有耕地と荒ぶ地のある部分とを囲いこむ諸法令によって囲いこまれた面積を百分率にすると、25%から50%ほどにもなり、16の州においてはやっと5%以下にとどまった。第一次にはなんらかの影響を受けた地域は、あわせて25州であったのに、18,9世紀では、36州で法令が通過した。第二次に囲いこまれた土地の総面積は、第一次の約8倍ないし9倍の規模に達し、イギリス総面積のほぼ五分の一を占めた」(ドッブ前掲書、9ページ)。

 チャプマンらによれば、立法による土地の囲い込みは、1750年まで約30万エーカーだったものが、1750−1850年の間に4千の法律にもとづいて600万エーカーに達した。これは全耕地の四分の一に相当する。そして囲い込みの最重要原因は麦の価格の変動であったという(S.D.Chapman & J.D.Chambers,The Beginnings of Industrial Britain,London,1970,p.110)

農業技術
 農業生産において土地と直接に関連する農耕器具の発達が重要な意義をもつ。開放耕地制のもとでは三圃制農法が採用され、畜力犂による作業が中心となり、播種・刈り入れ作業は人力でおこなわれた。そこには中耕のための畜力農具が欠如していた。三圃制は中耕・除草なしに散播形式によって穀物が再生産されるために確立された技術体系であるという。16−17世紀ごろに、三圃式農法を改良する方法として耕地に永年制の栽培牧草が導入され、穀草式農法または輪換式農法が採用された。そのばあいでも耕地の栽培作物は穀物のみであった。

 ヨーロッパ農業は、16世紀から混合農法の採用により生産性が向上したとされるが、19世紀中頃にいたるまで技術の進歩はそれほど顕著でなかった。農業技術として19世紀後半から近代的な輪栽式農法が採用された。ここに至って、大型の有輪犂と異なる小型、軽量の無輪犂が開発され、画期的な畜力条播機および中耕機も出現した。また耕作法も穀物だけの散播・無中耕農業から穀物以外に飼料作物、根菜類をも栽培する条播・中耕農業に転換された。産業革命期には馬2頭による改良無輪犂の利用が一般化した。

 フランスのモンソーが提唱したタル農法をはじめ、農業機械化の方向がしだいに注目され、蒸気犂、播種機、中耕機、飼料裁断機、脱穀機などが普及するようになった。これらの機械は畜力に依存するものであったが、畜力機械化農法は1860年以降のアメリカにおいて開花した。マコーミックのリーパー(機械刈り取り機)やプラウ・ドリル・スレッシャーなどが発明された。動力機は19世紀後半に脱穀機が普及したが、20世紀に入ると蒸気エンジンに加えて、ガソリン・エンジンが開発された。アメリカ農業は両大戦期間において発展し、1920年代に電化の進展で動力機械化の作業体系が完成した。50年まで大半の農村が電化された。

 19世紀中頃から農業技術研究所がドイツ、イギリス、フランスに設立され、組織的に農業技術の開発が行なわれるようになった。

 技術の進歩は新しい作付体系を可能にした。とうもろこし・えん麦・クローバーの3年輪作や、とうもろこし・とうもろこし・えん麦・クローバーの4年輪作が採用された。

 イングランドの農業地帯は、農牧境界線(caird's line)によって大きく東部の主穀産地(chief grain districts)と西部の放牧、酪農(grazing & dairying)中心の農牧地区とに分けられる。18世紀末まで農業や牧畜業における新しい技術と農法の導入は主としてレスターシャーと東部地方においておこなわれたが、しだいに各地へ拡大していった。近代イギリスの農業は、議会立法による保護のもとで発展した。穀物法によって守られていた農業経営は、同法の廃止、外国農産物の輸入、競争などにより、70年ごろから衰退へと傾いていった。

 18世紀中頃からイングランド東部においてノーフォーク農法として知られる農業経営方法が展開された。タウンセントが1730年代にはじめたこの農業経営方法は、4年に一つの周期をなすことから、4年周期農法と呼ばれている。その方法として一定の耕地内に数種類の作物が交互に輪作される。輪作法の採用により、従来から採用されている休閑地をとることなく、すべての耕地を有効に利用し、作物の輪作がおこなわれる。その結果、土地生産力の維持、向上に役立ち、穀物と家畜のための飼料を栽培することで、農産物の増産とともに肉類と乳製品の供給が増加するようになった。(Encyclopedia Americana,1962 edition)。

 アシュトンの説明に耳を傾けよう。「(ノーフォーク農法)の内容は、砂の多い土壌に泥灰土や粘土を混入すること、作物の輪作、ぶせいやクローバーその他新しい草の栽培、羊よりもむしろ穀物や家畜を生産すること、および借地農によって長期の定期借地契約下に大規模な保有地において耕作が行なわれることなどであった」(『産業革命』30ページ)。

 家畜品種の改良にもみるべきものが現れた。レスターの羊、サフォーク羊、ヘレフォードの牛は、フランスのシャロレー牛およびドイツのホルスタイン牛と並んで著名である。

 新しい農作物としてとうもろこしおよびポテトが導入された。ポテトという作物は土地を選ばないことで、アイルランド、ドイツの東エルベ地方を中心に栽培された。1845年の大飢饉にいたるまでの半世紀もの間、アイルランドはポテトの栽培面積を広げ、食料として依存した。


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