金融経済の史的展開

ヨーロッパ貨幣の概略

 中世ヨーロッパにおいて広汎に流通した貨幣はビサンツ帝国のような経済が安定した国々の通貨(ベザント金貨)であった。一般に国内商業で使用された貨幣は銀貨が重要であった。ドイツの銀貨をはじめ、後のベネチア、ベローナー、フィレンツェおよびミランが鋳造した銀貨、またはルイ9世のフランス、アラゴン、カスティールそれに低地諸国の貨幣が流通した。国際貿易では金貨がおもに使用された。13世紀のヨーロッパではイタリア、イギリス、フランスなどの国々が金貨の主要供給国であった。金貨として、フローレンスのフローリン(florin)、ベネチアのダカット(ducat)、イギリスのノーブル(noble)、フランスのエキュー(ecu)などが知られ、後にポルトガルのクルザード(cruzado)やカスティールのエスクード(escudo)も有名である。また銀貨としてドイツのグロッシェン(groschen)、イギリスのスターリング(sterling)、フランスのトゥールノア(tournois)やポルトガルまたはカスティールのレアール(real)がよく知られている。

 ヨーロッパにおいてギリシア人が最初にコインを鋳造した。それまでペルシアの金貨がギリシアにも流通したが、ギリシア人は独自のコインをポリスが独占的に鋳造した。 (M.I.Fineley,Ancient Economy,p.166)しかし、ギリシアのコインはその美しい外形と比べて貨幣としてさほど機能しなかった。 (Finley, EHR18-1,p.31)

ギリシア(アテネ)の貨幣制度

        1 ドラクマ(drachma)  = 6 オボロース(obols)
      100 ドラクマ(drachmas) = 1 ミナ(mina)
    6,000 ドラクマ(drachmas) = 1 タラント(talent)

 古代ギリシアではドラクマよりもな2ドラクマに相当するスタテル (stater重 量は8.73から12.57グラムの銀相当)の方が普通の鋳造貨幣であった。前5世紀末の アテネでは、法廷の判事が一日3オボロースを受け取った。奴隷一人の値段は 200-600ドラクマで、都市の小さい家は2000ドラクマを要した(Cloude Mosse, Ancient World at Work,p.117)。

ローマは前2世紀中頃からソリドゥス金貨(solidus)、デナリウス銀貨(denarius)それにフオリス銅貨(follis)などを鋳造し、帝国領域内外に広く流通した(高橋象平『西洋経済史』38-39ページ)。

 カロリング王朝ではコイン鋳造権が国王に集中したが、小領国が分立したドイツでは聖俗の貴族に造幣特権が賦与された。封建領主は各自の領内において自由にコインを鋳造したことで、貨幣制度の統一は実現しなかった。中世のコインは各地で、鋳造され、多くの場合、その鋳造地においてのみ通用したのである。多種多様なコインが鋳造された中世では、異なる地域間に交易を成り立たせるうえで、交換手段の面から特殊な工夫を必要とした。異種貨幣の両替、信用の保証や提供を営む金融業者も登場した。金融活動が早くから発達したイタリアでは、商人が金融業を営んだ。かれらは厚い信用をもち、遠隔地商業を営むとともに、貨幣も取り扱い、銀行、保険業務を扱った。貨幣経済の発達とともに、ユダヤ商人が台頭した点も見逃せない。

 「中世の信用はほとんどもっぱら消費信用であり、しかも、ことに諸候と都市の公信用は、実際には民間の信用に比べてほとんど差異を示していない。商業信用、すなわち商取引に投資するために資本を貸付ることは、遥かに小さな意味しかもたなった。それが十分な発達をとげたのは、ただ地中海商業においてだけであった。イタリアと南フランスの商人のあいだでは、商品の供給に関する売買契約を信用で行うのが日常的な現象であった。実際そのとおりで、商品供給のさい信用を与えるには、8日から2カ月半ないし3カ月半のあいだを上下したある期間が定められた。これに反して、ハンザ商人は外国人に商品を信用貸しすることも、またかれらの商品を掛けで買うことも、認めなかった。しかしながら、ロシアやバルト海沿岸地方の諸都市との商取引において、ハンザ商人はかれらの商品を信用販売するよう強制され、それゆえ自らも商品を掛けで購入しなければならなかった。このような商行為の非常な流行は、フランス商人やドイツ商人の営業帳簿によって実証されている。......供与された信用は往々にして長期にわたった」(クーリッシェル、「ヨーロッパ中世経済史」542-543ページ)。


中国貨幣の概略

 中国では秦の始皇帝時代に半両銭の流通で貨幣の統一が図られたが、それまでの通貨は銭、刀、布、爰など多様な形態をとった。コインは各王朝において鋳造されたが銅を素材とする銅銭が基本通貨の地位を占め、広範に流通した。金属貨幣は特定の型を志向しつつも多様な形態で流通したが、定形の通貨のほか秤量貨幣も流通した。黄金、銀両が重宝された。貨幣史を通じて、元が使用されるまで(銭)文、(銀)両が通貨の基本単位となった。銅銭1千文を1貫として流通した。

 秦の半両銭は、後世の鋳造貨幣の基本例を提供した。漢代の5銖銭は、これをさらに洗練化し、形式、品質、重量の面で、流通に適する銅銭とされ、長期にわたって銅銭の標準型と目された。唐代は、618年に開元通宝が鋳造され、銖のかわりに銭を貨幣の単位にした。1両は10銭に相当し、1斤4両の重さを1000銭の重量にした。その後、銅銭の価値が下落し、666年および760年頃に名目価値の大きい銅銭が鋳造され、開元通宝と併用された。明代では、洪武銭をはじめ、永楽銭、宣徳銭、弘治銭、万暦銭などが鋳造された。清代では、開国当初康煕年間に、実質価値の異なる銅銭が制銭として鋳造された。やがて、乾髓驍フ在位初期に、実質価値の大きいものは、しだいに姿を消して、小制銭がもっぱら流通した。

 中国の史書は、唐代の飛銭を紙幣の起源とするが、飛銭を単なる送金為替と主張するものは、宋代の交子を本来の意味の紙幣とみる。交子それに銭引は、最初から兌換性を備えた。紙幣は南宋の関子、会子、元代の至元宝鈔、中統交鈔、明代の大明宝鈔、清朝の鈔貫、大清宝鈔と戸部官票がそれぞれ発行された。

 また12世紀に鉄銭、14世紀から金銀が交換手段に利用された。明代に銀銭が併用され、洋銀も流入した。民間では取引の便宜を図るため、各種の物資が交換手段として活用された。穀物をはじめ、衣料品、食料品などが利用された。

 貨幣の多くは流通地域が限られていた。これは数量に限度があることからくる原因も重要であった。政府は貨幣の国外流出を制限することもあったが、国内でも特定地域に限定して流通することもあった。貨幣不足地域は実物、穀物、衣料、その他を使用した。金銀などは大量交易に利用された。『隋書』によると、京師などに銭が使われたが、穀物などを使う地方もあった。

 貨幣供給は、紀元前に漢の武帝が貨幣を官鋳してから、しだいに官庁の管理下におかれた。北魏(491)、宋(465)、東魏(548)、後晋(938,939)にそれぞれ一時私鋳が認められたが、官鋳貨幣が主として流通した。

 大銭の発行による貨幣供給の増加は各時代を通じて採用され、貨幣に対する需要の増加と貨幣不足を補った。呉の当五百銭・当千銭、唐の当十銭・当五十銭、宋の当十銭、明の当十銭・当百銭・当千銭、清の当十銭・当百銭・当千銭など枚挙にいとまがない。明代は開国当初に大中通宝銭を鋳造し、従来の歴代銭と同時流通させたが、洪武4年に改鋳がおこなわれ、小銭を発行した。民間はこれを不便とした。そこで流通界の要請により、8年から大明宝鈔が発行されるに至った。明末当五銭の鋳造が決定されたが、実現しなかった。

 近代貨幣は19世紀後半に登場する。これは外国貿易の進展や社会経済の発展を背景にするものである。これについては別の箇所で取り扱うこととする。


世界通貨制度

 イギリスの金本位制はイングランド銀行が金準備をもって兌換券を発行したことに始まるとされる。南海の泡沫事件以来、イングランド銀行は、支払のための現金準備を確立しはじめた。金銀が同時に使用されたが1816年金本位に移行した。

 イングランド、スコットランドそれにアイルランドはそれぞれ異なる銀行制度を維持していたが、イングランドではロンドンの金融機関と地方金融機関がそれぞれ紙幣の発行を含む銀行業務を営んだ。1826年の銀行法により、イングランド銀行以外の金融機関もロンドン周辺65マイル圏外ならパートナシップ銀行の設立が認められた。駅馬車や鉄道による交通事情の改善、郵便一律料金制度の実施、電報の利用などで、ロンドンの金融機関が地方銀行の代理業務を引受ける形でロンドンの市場と地方の市場が連動するようになった。

 多くの銀行は銀行券を発行したが、地方銀行は余剰資金をロンドンの金融機関から証券の買い入れや預金の形で運用し、不足資金を借り入れた。こうして地方市場はロンドン市場と結び付いてそれほど孤立した状態ではなかった。

 イギリスがナポレオン戦争の時に金を失い、金本位制を放棄した。戦争中イングランド銀行は1千万ポンドから2900万ポンドに紙幣発行高を増大させ、他の銀行も信用を膨張した。1821年にイギリスは再び金本位制に復活したが、イングランド銀行は全国の準備銀行の地位を与えられた。1825−26年の金融危機をへてイングランド銀行は全国各地に支店を設立し、地方銀行に貸し出しをおこなった。各銀行の準備金もしだいにイングランド銀行にプールされるようになった。地方銀行がロンドンの金融機関に依存し、ロンドンの金融機関がイングランド銀行に依存する体制がしだいに形成し、金融市場に対するイングランド銀行の影響力が拡大した。

 1833年からイングランド銀行の兌換券はイングランドとウェールズにおける法貨の資格を与えられた。さらに1844年の銀行(ピール条例)によってイングランド銀行は兌換券の独占発行権を獲得した。ピール条例は1400万ポンドの限度枠内なら金準備を必要としないが、この限度額をこえる発行に100%の金準備を要求した。条例の制定3年後にイングランド銀行は兌換不能の状態に直面した。しかし金準備の不足は米国カリフォルニアの金鉱発見およびオーストラリア、ユーコン、それに南アフリカで金の採掘により、イギリスに金が流入したことで解消した。

 国際決済制度は金本位制の崩壊後、金為替本位制の採用による国際流動性を創出することがこころみられた。1944年44カ国の代表によるブレトン・ウッズ協定をもって発足した国際通貨基金(IMF)や世界銀行は固定相場制による平価の維持をめざしたことで知られている。基金の設立により、第二次世界大戦以前のように金を諸国間に移動する国際決済方法は一般におこなわれなくなり、代わって国際通貨基金を通じて決済が行われることとなった。

 1960年からドルに対する不安が広がり、金価が暴騰したが、事態の収拾のため米国の提唱により、1961年に米、英、仏、西独、イタリア、オランダ、ベルギー、スイスの8カ国の参加する国際金プール制が発足した。この制度は、一定の割合によって各国が出資し、ロンドン自由金市場で金相場を操作した。67年に仏が離脱したが、総額2億7000万ドルに対する各国の出資率は、米59.3%、西独11%、英9.3%、イタリア9.3%、ベルギー3.7%、オランダ3.7%、スイス3.7%であった。

 固定為替相場制度は、国際流動性の不足が深刻化し、種種の対策が高じられたが、やがて変動為替相場に移行した。その間、1969年9月に開かれた第24回年次総会でIMF特別引出権(SDR)の創設が決定された。IMFは1970年から72年にかけて初年度の35億を含め、合計95億ドルのSDRを加盟国に配分した。 1970年代に入ると、アメリカはドル防衛策を展開する。71年8月15日ニクソン米大統領は計8項目からなるドル防衛策の実施を発表した。すなわち、(1)一時的に金の交換を停止する、(2)10%の輸入課徴金を徴収する、(3)賃金、物価を90日間凍結、(4)生計費閣僚委を設置し、長期的賃金、物価安定策をつくる、(5)投資税控除の復活、(6)自動車消費税の廃止、(7)73年実施予定の個人所得税減税を一年繰り上げ実施、(8)連邦支出を47億ドル削減などであり、これらの方策により米国は金とドルの交換制を停止した。同年12月に主要十カ国蔵相会議が米国の首都ワシントンで開かれ、国際通貨の安定のための基準を協議した。これがいわゆるスミソニアン体制と知られる時代の幕開けとなった。それ以来、為替相場の安定を中心とする経済協議のための先進国首脳・蔵相会議が世界政治の舞台での重要行事となった。

 アメリカについで日本およびヨーロッパ諸国は変動相場に移った。ニクソン米大統領の発表直後に円の変動相場移行声明が発表され、1973年米国がドル切り下げを断行すると、日本も変動相場制に移行した(1973年2月14日)。アメリカ市場でニューヨーク連邦準備銀行が円買い、ドル売りを実行したように、日本銀行は日本市場でドルと円相場の安定(ドル直物の取り引きに介入)に乗り出した。

 世界経済の不況が深刻化するなかで、アメリカもヨーロッパ諸国も失業とインフレに見舞われたが、日本は国内経済と輸出の面で繁栄を享受することとなり、世界の注目をあびた。アメリカ国内の経済停滞が深刻化するにしたがって1985年9月末から円高ドル安の局面が急激に展開し、円高基調の為替相場がつづいた。ドル対円のレートは1ドル320円から下がりはじめ、70年代には300円台から200円台に、そして80年代には200円台から100円台に下がりつづけた。一方、ヨーロッパでは欧州通貨制度(EMS)の形成により、国際通貨の変動に対処しようとする動きが注目された。共通通貨の発行や共同体域内の統一決済が志向された。 単一通貨=ユーロ (euro) は計画に基づいて2002年1月1日からユーロ地域またはユーロ圏(the euro area)において統一通貨として流通するにいたった。


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