あなたがいれば

ドタバタと心慌ただしい日々が過ぎています。

そんなドタバタなここ数日、二人の人の訃報に触れました。

遠くに去ってしまったそのお二人の、一人は私がかつての職場でご一緒した先生で、もう一人は直接知らないのだけど受け持っている学生の友人という方です。

そういう知らせに触れたときの私は、どうやらいったん感情のブレーカーを落として、ぼんやりと一つ一つ繋ぎ直そうとするようです。そうしないと自分がもたないという直感でしょうか。あるいは職業柄かも知れません。

とても悲しいのに、悲しい感情に身を埋ずめた途端、埋ずめようとした自分が浮き上がってしまう感覚に陥るのです。悲しいのに悲しもうとする自分を見ている自分がいるのです。いつの頃からか感情の模索に切り替わってしまったように思います。

お二人のことを想像してました。

かつての同僚先生が私の名を呼ぶ調子を、私は実は好いていました。ある意味とても手厳しい方で、理屈の通らないことにはスカッとするほどの毒舌で否定をされる方でした。そんな同僚先生に緊張感を抱きながら、それでも仕事帰りの飲みで一緒にみんなで浴びるほどビールを飲んだとき同僚先生が楽しく笑う姿を私は好いていました。

もう一人である若者のことを、私はほとんど知りません。受け持ち学生の友人であること、そしてその学生がとても悲しんでいることだけが私に分かることでした。それで私は、大学時代の後輩のことを思い出しました。その後輩が、私にとって初めて二度と会えなくなった身近な人でした。後輩は今どうしてるだろう…そんなことを考えたりするのです。

私が去るとき、私は周りにどうして欲しいのだろう。感情の模索はそんな想像へと進み、やがて、少しでも何かを残しておきたいという気持ちに駆られます。時々は人々に思い出して欲しい、そう思っているからでしょうか。

たぶん私はこれからも時々思い出すのだと思います。私の名を呼ぶ調子と後輩のこと、そして友と別れた寂しさを。