めぐる季節

今週で授業が終了し、来週の試験期間で前期が終わります。今年はいつもの年以上に慌ただしく、あっという間に過ぎた4月から7月でした。

暑くムッとする時期のせいかも知れませんが,このところ学生たちの調子や雰囲気がよくありません。心身のリズムが崩れているともいえるし,上級生へとあがる毎にやってくる慣れや倦怠,ストレスといったものが適度な余裕を見失わせているのかも知れません。

学生たちの言葉の端々に時折触れると,避けては通れないその苛立ちを理解はできるものの,だからといって感情に任せて刺々しさをあらわにする大人げなさを心配もします。

私には子どもがいません。

意図してそうしたつもりはありませんが,慌ただしく過ごしているうちに,ここまで来てしまいました。私が遅くもなく結婚していれば,ちょうど今の学生たちの年ごろの娘や息子がいたのだろうと思います。

この職に就いてからずっと,他の方々の娘さんや息子さんを預かる仕事を続けているうちに,まなざしばかりは父親風になっていましたが,所詮,私は学生達にとって他人様。その立ち位置から何度も出発して,学生たちに何かを託そうと繰り返し試みるだけの存在です。

なるべくニュートラルに接するよう心掛けています。同じ学生と別の機会に接するときでも,なるべくリセットするようにしてます。もちろん連続的な付き合いの中で関係性を積み上げはしますが,だからといって変えないということもないようにしています。学生たちはより良く成長することもあるし,より悪く成長することもあるし,それを順不同で繰り返していきますから。

そんな変化を長期に眺めながら,私たちは学生たちを社会に送り出していくのです。

もちろん最後には,すべての経験をより良い成長の方へと振り替えていって巣立って欲しいと願っているし,そのための指導や支援に私たちは携わっているのだけれど,とはいえ最終的には学生たち自身がどうケリをつけるか決めるしかないのだろうと思います。そこに私たちが入る余地はないと思います。

それでもときどき考えます。

この子たちの誰かは,運命が違えば,自分の子どもとして生まれてきたのではないか。

ならば,少しでも正しいことができるように気づき考えて欲しい,人に寄り添えるようになって欲しい,異なることや反対のことについても考えられるような人になって欲しい。

なんてウザイ想像なのだろう…自分でも思います。

だからでしょう。私には子どもがいません。

小中学校では夏休みが始まり,先生たちの研修の夏が始まります。

私も微力ながら学校や教育センターに出向いて研修会講師をお引き受けしたり,教員免許更新講習の講師を担当したりします。

新しい学習指導要領が3月に告示されたので,その話題を中心にお話することになると思いますが,私が官製の内容をしゃべっても通り一辺倒になるだけなので,アドリブで考えを深めていければと思っています。

異なることを考える人もこの世界には必要でしょうから。