私教育と公教育とプログラミング教育

 カリキュラム研究の恩師は「私教育」と「公教育」を区別なり整理して教育の物事を考えなければならないと考えている方です。私も基本的にその見方に同意します。
 それを私立学校と公立学校の違いのことと受け止める人もいるかも知れませんが,そうではありません。たとえば義務教育段階というのは、日本国民が等しく受けることが権利として保証されていますが,このような教育を担うのは公立学校だけでなく,私立学校も担っているのはご存知の通りです。義務教育のような主に法令に従っている教育を「公教育」と考えます。

 未来の教育や学習はどうあるべきかを展望する試みが盛んです。
 私自身も、新しいツールや豊富な教育リソースを前提とした多様な授業・学習の姿を想像することが多くなっています。
 それは私教育の領域で目指すべき姿でしょうか,あるいは公教育の領域で目指すべき姿なのでしょうか。この単純な問いは、丁寧に考えるほど難しい問いになります。
 私は公教育のもとで、新しいツールや教育リソースが豊かになることを期待している人間ですが,その場合に新しいツールの何をどこまで,教育リソースの何をどれくらい、といった線引きが明確にされていなければなりません。
 公教育とは,そういう明確さの中に留め置かれているものだからです。
 海外の国によって、「何を」は学校裁量となっているところもあるでしょうが,どんな国でも多かれ少なかれ公教育としての担保を何らかの形で押さえているはずです。

 社会の中で、私教育と公教育の線引きをどこに設定するのかが問われています。
 日本の初等中等教育は、学習指導要領が教育内容を規定しています。これが公教育で扱うことの領域を表わしているわけです。これ以外のことは私教育となります。
 逆にいえば,学習指導要領が規定しているのは、教育行政や政治に携わる人間がその先の私教育に立ち入ってはいけない限界線です。
 私教育側から「あれも扱え」「これも扱え」とリクエストすることが流行っていますが,もしもその通りに公教育を拡大すると、私教育が自由にできる部分を減らすことにもなりかねません。
 公教育の線引きをしている学習指導要領が改訂の際に見せる禁欲的な姿勢は,時の権力や時流によって不当に私教育を圧迫しないためでもあるのです。

 それでも線引きの線は、社会全体が変わっていく中で、その位置を変化させないわけにもいきません。その変化に追随するために学習指導要領は10年程度を単位として改訂が加えられるのです。
 その場合にも,私教育と公教育の線引きは慎重に議論されなくてはなりません。

 教育の情報化には、「情報教育」「ICT活用」「校務の情報化」といった三大主題があります(情報モラルを独立して扱ったり、特別支援の場合を別立てで考えることもあるので、大ざっぱな捉えです)。
 このうち教育内容に関わるのは「情報教育」であり、情報活用能力の育成はここのところずっと話題になっているテーマでもあります(ここでは情報モラルも含みます)。
 この情報教育は、専門教育としての「情報処理教育」と隣接しています。情報処理教育はコンピュータ科学といった学問分野と密接な関係にありますが,すごく乱暴に言えば,プログラミング教育を思い浮かべるとよいと思います。
 とはいえ、情報教育だってコンピュータ科学の知見のお世話になっているので,つまり線引きが難しいところの一つというわけです。
 さて、情報教育を私教育と公教育の線引きから考えるとき,どのように扱うべきなのでしょうか。昨今は確かに情報通信技術が発達し,インターネットと無縁で社会生活することは困難です。しかし、ならばいったいどの程度までの範囲を公教育で扱うべきなのでしょうか。
 さらに、情報教育と情報処理教育との曖昧な境界線において、プログラミング教育といったものをいくらかでも公教育として扱うべきなのでしょうか。
 最近,元気の良い小中高校生たちの活躍がクローズアップされ,アプリ開発やプログラミング教育の面白さも注目されたりしています。こうした教育あるいは学習活動は、私教育のままではダメなのでしょうか。公教育というルールに従う世界に根付かせた方がよいのでしょうか。それとも間口を明けておけという単なる確認でよいのでしょうか。

 私も教育とテクノロジーのより良い関係を望む者のひとりですが,いざ公教育のあるべき姿を考えようとすると、手放し歓迎というわけにはいきません。
 これは教育論としてよりも、国民あるいは市民として我が子をどう教育して欲しいかという政治的な主張の問題になります。
 その場合,実現という目的への一番の近道は、住んでいる地域の自治体や議員・議会に働き掛けることです。国全体がそうあるべきということなら、国会議員への陳情や世論を束ねる政治活動をするか、あるいは強い影響力を伴った経済活動によって実現していく他ありません。そのような現実的な考え方ができるかどうか、この議論をする人間には問われていると思います。