20130830 滋賀大学教育学部附属中学校 公開授業 研究協議会

 滋賀大学教育学部附属中学校の研究協議会が2013年8月30日に行なわれました。

 ご縁をいただいて私が来賓研究者として参加してきました。先月に集中研修会にお邪魔しましたので,そこからの成果が披露されたという次第です。

 「思考力・判断力・表現力」という並びのトリオは見慣れたもの。

 その中でも思考力と表現力については多くを語られているにも関わらず,判断力はどこの文献も言葉少なで,ほとんど思考の中に埋没した扱いとなっています。

 滋賀大附属は,その「判断」に着目して、これを思考から表現への「つなぎ目」として捉えて授業研究の軸に据えるというのです。

 依頼を受けた私は,その着眼点の良さに感心しました。

 私自身かねてから,思考の中で織りなされる「判断」と,あえて思考と並列して記述している「判断」との違いが曖昧だと感じたことがあったので、これは挑戦してみる価値のあるテーマだと思ったのです。

 とはいえ,まだ「判断」あるいは「判断力」というものが何であって,どう育んだり評価すればよいのか,蓄積が十分あるわけではありません。

 今回の公開授業も,研究協議会も,その点については模索状態であったと思いますし,私の講演内容もどこか言葉遊びを通して手探りしていたことは否めません。

 しかし,問題提起と疑問が生ずるところには,様々な問答や対話が発生します。

 私の乱暴な講演が終わってから,幾人もの先生方と言葉を交わし考えを掛け合わせて,興味深い見解に至るものもありました。

 学校という場は(原理的には)「知識伝達」を前提として成立したものですが,昨今では「知識構築」(または知識創造)の実践が求められています。

 一般的には「工業化社会」から脱して「知識基盤社会」が到来していることにその根拠が求められていますが,つまりそれは従来の知識では対応できない自体が増えているということでもあろうかと思います。

 あたらな知識の構築(知識創造)が必要とされるのは,新しい事態に対応できる新しい情報や規則といったものを生み出さなければならないためであり,そのための能力や技能こそが育成されなければならないわけです。

 これを「判断」というキーワードから眺めると,従来までは社会に立ち向かうに必要な判断のための「判断材料」と「判断基準」をふくめて学校教育の中で「知識伝達」してきたのであり,それで通用する時代がこれまで続いてきたのですが,いよいよ社会が変わってきたことによって,それが通用しない時代へと突入したのだと思います。

 そうなると学校教育は,従来の「判断材料」と「判断基準」を含み込んだ知的財産を後継に伝承するという「知識伝達」のみならず,新しい時代に対応した判断のための「材料」と「基準」を児童生徒自ら見つけたり生み出す「知識構築」ができる能力の育成を新たな仕事として抱え込むことが求められているわけです。

 また「知識構築」能力の育成と構築した知識を「遵守あるいは活用する意欲や態度」の育成とは,また違う課題でもあり,扱わなければならない領域は広いといえます。

 「知識伝達」を前提として成立し,極力そこに最適化してきた日本の学校が,そのままの条件で新たに「知識構築」能力の育成までを担うことは無茶な注文をしているとしかいいようがありません。本来であれば,潤沢な予算と規則の緩和などが優先的に検討されるべきですが,いまのところ従来と同様に「根性で乗り切れ」となっています。

 こうした悔しい現実がある中で,それでも「判断」というものを軸に学校教育をどう再構築するのかといった青写真を描くのも興味深い議論と思います。

 そんな議論をしていくと,日本人の態度保留傾向や若者の迷惑行為の背景など,様々な自省についても関係が読取れる話まで発展するのですが,それはまたの機会に。