商工経済の史的展開

商工活動と都市の繁栄

 ヨーロッパ中世都市は、古代都市のような純然たる消費都市と比べて、しだいに商工都市としての性格を強めていった。中世ヨーロッパは世界の他の地域と同じように農業社会であった。都市の住民は商工業のほか、農業も兼営した。この状態は、都市の商工業者と周辺の農民が相互依存関係を確立するまでつづいた。農工の分離は13世紀ごろに進展したという。

 都市は多様な姿を見せる。一般にこれを類型化して、南欧型都市と北欧型都市とに区別する。前者はローマ都市に源流を発するものが多いが、後者は農村と併存して発達し、アルプスの北側に分布する。農村が農民の集落であるのにたいし、都市は商工業者の集落といってよい。ヨーロッパの中世都市はその建築様式によって、ロマネスク式(11世紀中頃-12世紀末)とゴシック式(12世紀-16世紀)とに区別されることもある。

 中世都市は地理的に便利な位置に立地するものが多かった。都市はもともと内部からではなく、外部から作られた。遠近の地から移住したひとびとが都市を成立させた。とくにヨーロッパの都市は移住者が市民を構成した。これらのひとびとは本質的に商業の関係者または手工業者であった。12世紀初頭のヨーロッパでは商人と市民とは同義語であった。「12世紀末までのヨーロッパでは、都市と呼ばれるものの数は比較的少なかった。商人を吸引した所といえば、交通の要衝というような便利な集落であった。これらの地点は、やがて経済的中心となって周囲に大きい影響力を及ぼした。そこの商人ギルドは強大だった」(ピレンヌ『資本主義発達の諸段階』1955年、26ページ)。また、農村から職人が都市に流入した。職人の移住により、都市はしだいに新しい生産的工業的性格を帯びるようになった。

 ヨーロッパの中世都市は都市とその周辺の農村が都市圏を構成したが、都市の人口は5−6千以下のものが多く、万を越えるものは例外と見られる。2万人も人口を擁すれば大都市に属した。黒死病の流行直前のヨーロッパ人口は、商業中心地である北欧都市および南欧都市に集中する傾向にあったが、イタリア諸都市の人口が最も稠密であった。ミラノ、ベニスは約20万、フローレンス、ジェノア、ナポリ、パレルモなどは10万ほどの人口を有したという(ノースとトマス『西欧世界の勃興』1980年、67ページ)。

 ヨーロッパの中世都市は荘園とともに現れ、10−11世紀の「商業復興」に従って発達した。都市にたいしても封建領主は支配権を行使した。都市の住民は平和的手段か武力抗争かによって、封建領主から自治権を獲得した。都市の獲得した自治権の内容は広汎にわたった。それには、行政、司法、貨幣、徴税、度量衡なとが含まれていた。自治都市の成立史上、1044年のミラノ、1069年のフランスはル・マン、1070年のフランドルはカンブレ、そして1115年のフィレンツェなどの自治都市は著名である。自治都市において市民を代表するのが市会であり、市会は市民にたいし強い統制力をもっていた。都市法は主として都市の住民と市場を規制した。外来商人にたいする規制は無力であったという。市会は市民の利益を保護するため、輸入取引を規制し、外来商人は都市住民を代理商に立てなければ都市での取引を認めなかった。都市における代理商は最初、宿の主人を介して自由に商取引がおこなわれたのが、後に、これを強制するようにし、また公認のブローカーを通じて交易する決まりとなった。この規制は12世紀のベニス、13世紀のフランドル、ドイツ、イングランドにその代表事例が見られるという。(H.Pirenne, Economic and Social History of Medival Europe, London,1965,pp.177-78)。要するに都市の経済政策として市民による小売業の独占制度が実施された。市民にのみ営業権を認め、外商を排除した。これらはふつう、販売強制、通路強制、取引統制として知られている。都市の経済政策は対内規制がとくに重要視された。農村にたいし、農産物の供給を強制し、都市の食糧を確保したほか、都市と同種類の手工業を禁じた。都市内部に欠けている手工業は外部から親方を招へいして技術を伝習させた。より大規模な設備、たとえば染色設備、なめかわ設備は都市自体で設置した。

 中世都市の成立において、修道院の建設は、重要な位置を占めるものであった。ローマ帝国の崩壊後、教会の存在はいろいろな意味で重要であった。社会の基本的な政治区分は、宗教の管区と一致した。法王のもとで教区は司教管区と聖堂管区とが存在した。コウルトンによれば、イギリスでは、百家族につき、ひとつの管区聖堂があり、百以下の家族がひとつの聖堂を持つ村や町も多数に達した。

 11世紀ごろの開拓時代において、修道僧たちの存在が注目される。新しい都市形成の動力を修道院生活に求めるものもある。12〜15世紀に聖堂建設フィーバが起こったという。修道院は「原則として、富みも威光も権力も否定した。貧困を生活の一形式として受け入れた人たちが、肉体の生存のためのあらゆる道具立てを簡素に切り詰め、労働を道徳的義務とすることによって労働の位置をたかめた」。修道院コロニーは実際新しい城塞となり、修道院付属礼拝堂はその宮殿であった(マンフォード『歴史の都市 明日の都市』1969年、237ページ)。

 中世においてドイツのハンザ同盟都市の活躍は注目の対象である。ハンザ都市は12世紀後半にフランドル17都市が連盟を結成して以来、13世紀にドイツ諸都市が同盟を結んだ。ハンザは14世紀において最盛期を迎え、交易史上大きな役割を演じたが、加盟都市は、都市間の商権の保護、相互利益の促進などの目的で定期的に会合を開き、協力関係を維持した。しかし、諸都市はそれぞれ異なる利益と課題を抱えている事情もあって、ハンザはかなり緩やかな都市の結合でしかないとも見られている。


遠隔地商業

 近接地商業は、都市とその腹地、周辺の農村との取引には週市がたった。ふつう週に一、二回、都市の史上においても催され、農産物と工業製品の交換や遠隔地からもたらした特産物の取引がおこなわれた。商行為には都市の規制や強制が適用された。

 遠隔地商業は、商取引は全ヨーロッパまたはこれを越える広い地域にわたって営まれた。中世ヨーロッパでは、のちの時代にみる世界的商業はいまだ出現していなかったが、ある程度拡大したことは、たとえば10−11世紀に、商業活動が東部地域のエルベ河にまで及んだという指摘によっても知ることができる。ドイツとフランスの商人はイングランドにも進出し、イギリス商人はフランドルや南欧に羊毛などの商品を提供した。この種の取引は当時の国際商業であった。ヨーロッパ域内にいくつもの商業の中心地が形成した。それぞれの商圏が交流し、近接のアフリカ、アジアとも交易した。地中海を中心とする南欧と北海、バルト海を抱える北欧、西欧とは完全に隔絶した存在ではない。ヨーロッパはむしろ陸上と海上の交通によって結びあっていた。アルプスの道は人と物の行来が頻繁におこなわれた。ライン水路は地中海、大西洋および北海の水路とともに商品の南北流通の重要な通商路であった。つぎに若干の商圏についてみてみることとしよう。

 南欧商圏  地中海とその沿海諸地域は、ギリシア、ローマの時代からポリスを拠点として商業が発達した。その伝統はイスラムの侵入を受けたのちも変わることなく継承された。地中海商業ははじめ東方との貿易によってさかえ、ローマ帝国が崩壊してからもビザンチン帝国がよくこの海域の秩序を維持した。地中海東部の商業は数回の十字軍の遠征時にかなり繁栄した。当時のイタリア都市ベネチァ、ジェノア、ピサの商人進出は、この戦争景気の利益を存分に享受した。十字軍の遠征は11世紀末から13世紀にかけてイスラム教とから聖地を奪回する目的で、西方のキリスト教とが数回にわって発動したものでする。これに伴う商業利益は、商人が軍の補給、軍隊やその補給品をレバント方面の戦地に輸送し、また東方との貿易によってもたらされた。ジェノア商人の所有するカラック線は穀物、木材、棉花、染料など重量の積荷を輸送するのに適していたとされている。また、ベネチア商人はイタリア全土と自由に貿易をおこなったほか、その港にもたらされた商品の独占輸送を引受けていた。

 地中海商業は12世紀になると、レバントからしだいに南フランスやイスパニア海岸の方へ拡大していった。西部ではイタリアの都市に加えて、南フランスの海港都市、マルセイユ、モンペリエやスペインのバルセロナ、セビリアが中心となってヨーロッパ各地の物産、それにアフリカおよび東方の特産物を動かした。ピレンヌが中世ヨーロッパの「商業復興」という時、このようにアジアとアフリカを中心とする外国貿易がもたらしたヨーロッパの繁栄を意味するのである(H. Pirenne, op. cit.,pp.16-39)。

 北欧商圏  北海、バルト海を控えた北欧は、昔から漁業と海上商業が発達した。北欧のスカンディナビア、東欧の国国およびイングランド、スコットランドは、この二つの海によって結ばれている。北欧はまた、陸上と数多くの河川(ライン、ムーズ、ドナウ、ローヌ、ウィスラ、ドニエストル、ボルガ、ドビナ、ドニエプル......)を通じて、西ヨーロッパ、地中海、東欧ないし東方の諸地域と連結していた。

 民族移動期の北欧は孤立した発展をみたという。ノルマン人の活躍はバイキングきにさかのぼるが、10世紀ごろからかれらはむしろ商業に専念するようになった。これにはかれらの航海技術と勇敢な気質が役にたった。ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパでは海上商業がいよいよ盛んになった。もともと北の海域を自らの活動世界としたノルマン人は、アイスランド、グリーンランド、イングランド、フランドルなどの地方や北米についで、エルベ、ブェーゼル、ヴィスウァの諸河川の港町およびバルト海の諸島、ボスニア湾、フィンランド湾などの地にも出没した。ノルマン人は北欧商圏で活躍し、11世紀にイギリスを征服するなど最盛期を迎えた。はれらはイングランドやシシリーなど南イタリアに移住もした。バイキング商船を利用したかれらは、各地の特産品の取引に熱心であった。13世紀ごろに北欧での地位をハンザ商人に譲るまでかれらの貿易対象は全ヨーロッパ市場やこれを越える範囲の需要に応じるものが多かった。ノルマン人の海上商業は、フランダーズ、ドイツ、ケルト人たちをも刺激し、影響を与えた。

 北欧商圏では、13世紀ごろにドイツ商人が台頭した。ハンザとしの商人たちは、ノルウェー。デンマーク、スウェーデン諸国の国王から特権を入手し、諸国の貿易を独占した。イギリスにおけるドイツ商人の活躍はとくに目立った。北海、バルト海の二海域においてもドイツ商船が制覇した。

 ヨーゼフ・クーリッシエルはハンザ商人の活躍について、次のように述べている。北海とバルト海の海岸では、いたるところでドイツ・ハンザがかっこたる地歩を占めることに成功し、商業の支配権は北海とバルト海の商業上の支配的勢力であるハンザの手中に帰した。イングランドにおいてもそうであって。ドイツ・ハンザはボストンを抜いて、イングランドの羊毛輸出全体の76%を積み出した。ハンザ自身が報告しているように、フランドルでは、ブリュージュのハンザ商館がWドイツ・ハンザ勢力の主要な基礎である貨物集散地Wの役割を演じていた。スカンジナヴィア諸国においては、自国の商人はWハンザに雇われた仲買人と代理商Wにほかならなかった。最後にノブゴロドでは、ハンザ商館はW他のあらゆるものがそこから流れ出た生命の源泉Wであった。ノブゴロドでは、資本の少ない場合でもきわめて容易に成功することができる、といわれていた。これらすべての国々で、ハンザ商人は広汎な特権を所有することに成功し、それによってかれらは、その国の商人はもちろん他の外国商人をも商取引から駆逐することができたのである。もちろんかれらは、競争者を撃退するために暴力手段をとることも何らはばからなかった。このようにして、かれらはノルウエーとデンマークを訪れるイングランド人、バルト海に進出したオランダ人を虐待した。かれらはイングランド、フランドル、スカンジナヴィア、ノブゴロドにおいて、最も広汎な特権を要求したが、しかしその場合も決してイングランド人、フランドル人およびその他の外国人にかれらと同様の特権が認められることを好まなかった。ハンザに属さない商人たちは、ハンザ都市を訪れるべきでなく、またハンザとともに会社の商務に関与したり、あるいはかれらのもとで船舶を購入すべきではなかった。ハンザ商人はかれらの商品の委託販売を引受けてはならなかった」(ヨーゼフ・クーリッシェル『ヨーロッパ中世経済史』伊藤・諸田訳,1974年,381-82ページ)。

 東方商圏  アジア各地の人びとやアラビア人は、元来、農業を重視する民である。農業生産または牧畜に専念してきた。しかし商業や手工業も発達した。各地の特産物の流通、交易に商人たちが活躍した。イスラム商人の活躍範囲はその本国からはるか遠い異国に及んだ。かれらはモンスーンを利用し、毎年、中国の広州などの地と通商した。中国とアラビア間の貿易は6世紀ごろから泉州を重要拠点としておこなわれた。当時の泉州には多数のアラビア商人が来航した。

 8世紀初頭にイベリア半島進出を果たしたイスラム人は、ヨーロッパ各地で大活躍した。ヨーロッパと東方との貿易の一大中心地であったコンスタンティノープルは、主要貿易国の商人たちが集まった。「東洋の産物の一部は、コンスタンティノープルからこっかいをこえてキエフに運ばれ、そこからさらにバルト海方面に運ばれた。そのみちは、キエフからドニエプル河とボルガ河を通り、さらに東部の低地を横切り、ノブゴロド地方に通じていた。商品の他の部分は、コンスタンティノープルから地中海を越えてマルセイユにさらに今日のフランスへ、なかでもサン・ドニとトロワイエの大市へはこばれ、またイタリアのバヴィアとフェララの大市へも運ばれた。最後に、重要な通路がライン河を下ってフランドルに通じていた。このライン地方では、規則的な商取引がすでにカロリング時代に見出された。10−11世紀に、ライン河畔の諸都市はしだいに発展した。復活祭には、ライン河畔のすべての都市ばかりでなく、遠い海外の諸国からも、数えきれぬほどの人びとが、世界中に有名なケルンの歳市にむながり集まった」(前掲書、137-38ページ)。

中世の商品 
 北欧商人の取り扱う商品は、北欧の木材、鉄、銅、毛皮、魚、塩などの特産品やフランドルの毛織物であり、外来のぶどう酒、穀物、香辛料と工業製品などの産物であった。南欧商人の取り扱う商品は、土地の産物である羊毛、毛織物、ぶどう酒、塩、砂糖、鉄および金属製品があり、アジアからの薬品、染料、香辛料、宝石、ガラスきおよびアフリカ産の珊瑚、黒檀、象牙、奴隸などであった。東方の商人が主に取り扱った商品は陶磁器、絹製品、どんす、敷き物、宝石(ダイヤ、ルビー、真珠)、樟腦、白檀、明礬、金銀細工などがある。

(a)羊毛と毛織物  南欧のイタリアおよびイスパニアは羊毛の名産地であった。しかし、中世イギリスはとくに良質の羊毛産地として知られている。中世末期に毛織工業が発達するまで、イギリスはフランドルやイタリアなどの毛織物の中心地に羊毛を輸出した国である。リンカンシャー、ミットランド、ヨークシャーなどの産地から集荷された羊毛は、ロンドンとボストンを経由して外国へ輸出された。そこでは、大陸ヨーロッパの毛織者生産地がイギリスに羊毛の供給を仰ぐ経済関係の成立を見たのである。

 中世ヨーロッパでは、各地に毛織物が生産されていた。そのほとんどは生産地の需要に回されたが、イギリス、イタリア、南フランス等は、輸出のためにも生産された。フランドルやフローレンなどの産地では、イギリスが追い上げるまで高級毛織物の産地としてその名を馳せたものである。中世の大陸ヨーロッパは羊毛を産出しながら、品質の面ですぐれているイギリスの羊毛輸入に依存した。当時の羊毛または毛織物は、ぶどう酒とともに局地的市場のみの商品でなく、むしろ国際的な商品たる性格を備えていたのである(Eileen Power, The Wool Trade in English Medieval History,Oxford,1941,p.13)。

(b)毛皮  中世において取り扱われた毛皮の重要なものは、北方系のものであった。10世紀頃の北方系毛皮についてみると、黒てん(sable)、白てん(ermine)、いたち(weasel)、野うさぎ(coloured hare)、狐(black,white or red fox)、りす(Siberian squirrel など)、オッター(otter)、ビーバー(beaver)などをあげることができる。北方系の毛皮はのちの北米原産のものが加わる。カナダ東部の毛皮取引は16世紀以来盛んである。ここの毛皮はビーバーを主として取引がおこなわれた。北米の毛皮は主に当地の小動物が供給した。春と秋に捕獲されたビーバーのほか、てん(marten)、じゃこうネズミ(muskrat)、ミンク(mink)などの毛皮は珍重視された。大きい動物、シカ(deer)、ムース(moose)、カリブー(caribou)などは、皮と食肉を提供した(J.C.McManus,JEH,XXXII,1972)。

 北方系のほか、ヨーロッパ各地、アジア、アフリカにも毛皮のとれる動物を産出した。りす、うさぎ、狐それに羊などの毛皮も取引の対象となったことはいうまでもない。

(c)香辛料  アジアとくに香料諸島原産の香辛料は、14−16世紀のヨーロッパ市場で大量に取引がおこなわれた。これらの香辛料はインドのカリカットから紅海を通行して地中海方面に輸送された。レバントからベイルートをへて、アレキサンドリアに入り、そこから南ドイツ、さらに西欧への輸送ルートによる転送もおこなわれた。16世紀にインド航路が開通すると、ポルトガル人は、リスボンを中継地に胡椒や香辛料をアントワープにおくり、北欧に香辛料を輸送したベニス商人と競いあった。しかしベニスの香料取引商人は、ポルトガル人の競争によく耐えて、17世紀のオランダとイギリスの登場にいたるまでトルコ及びアラビア人とともに香料を重要商品と取り扱いつづけた(J.N.Ball,Merchants and Merchandise,London,1977,p.142)。香辛料は高価な商品で、商人たちに莫大な利益をもたらした。当時の貿易で取引された香辛料に、胡椒、肉桂、肉ずく、丁字、生薑などがあり、また、香薬に没薬、乳香、香油、龍涎香などがあった。ヨーロッパ人はなぜ大量の香辛料を必要としたか。故山田憲太郎教授は、かれらが食料品の保存と疫病の薬剤に胡椒を中心とする香辛料を求めたとして次のごとく説明している。「ドイツ、イギリス、オランダなど北部ヨーロッパの冬は厳しくてながい。だから秋に入ると、牛や羊の大部分を殺し、一冬の飼料に相当するだけの頭数に制限しなければならない。皮や毛はそれぞれの用途にあてるとしても、肉は塩漬にして保存食にあてる以外に方法はない。それから北海の漁業によるサケ、マス、タラ、ニシン、イワシなどの塩乾がある。また種々の野鳥もあるが、保存は塩である。どれも塩分を相当以上にきかして、日時がたつと腐敗臭ぷんぷんだろう。動物の脂肪、油脂とオリーブ油だけではごまかせない。油脂自体の油臭さもある。防臭力が強くて、食欲をそそる香味と辛辣な刺激と特異な味のあるもの、そしてこれらの塩乾物とよくマッチするものが是非必要である。これがスパイスである。スパイスを加味することによって、彼らの塩漬の肉、鳥、魚は腐敗をおくらせ、味は生気を取り戻してくれる。動物の脂肪とオリーブ油も、本来の油臭さを消して味を増してくれる。日常の食卓で、食欲をそそり、消化を助け、味のニュアンスが香味と刺激の上から楽しめるようになる。スパイスによって初めて彼らの食生活は充実する。... それから今日では想像もできない伝染病と悪疫の大流行である。天然痘、黒死病、コレラ、チフスその他が都市と農村に広く蔓延して、大多数の人々が死んだ。中世から近世の初めまで、これらの悪疫は悪風がもたらすものと信じられていた。この悪風は悪臭であるから、それを退散させるものは辛辣な刺激の極めて強い匂いであると信じられた。というわけで防疫剤として最もよく効くものは胡椒であると信じられた。ある町が伝染病にやられると、町全体に胡椒を散布し、要所要所では胡椒を盛んに焚いてくすべたという」(『南海香薬譜』、1982、305ページ; 『香薬東西』、1980、97-98ページ)。

(d)奴隸  奴隸制度の廃止まで、奴隸は重要商品として取引の対象になった。バイキングの世界、ローマ時代、北欧系のゲルマン人社会や農ど解放までのロシア、それに奴隸売買時代の西欧諸国において奴隸は重要な商品と考えられた(H.R.Ellis Davidson, The Viking Road to Byzantium,London,1976,p.100,104)。古くからハンブルグ、地中海の諸港には奴隸市場が立ち、また、コンスタンティノープルやサマルカンなどの東方市場に奴隸が売買された。実にさまざまな人種の奴隸が取引の対象となった。10−11世紀には、奴隸売買が盛んにおこなわれた。奴隸商人の手を通じて、スラブ人がスペインのカリフ護衛兵として売られた。ゲルマン人も奴隸として取引の対象となった。教会の所領地では非自由民が労働していた。「初期中世の商取引の対象として最も重要で、かつ史料のなかでいちばん取り上げられているものに、非自由人があることは疑いない」といわれている(クーリッシェル、144ページ)。

商業組織  商活動の発達により、商圏が拡大し、商人の組織化も進展するようになった。都市の商人は商人ギルドを結成し、都市または都市間の商取引を独占した。都市の商人たちは自分たちの権益を擁護する目的で、力を結集し、都市において営業権を排他的に独占するほか、遠隔地の貿易を確実、安全に遂行する見地から諸種の商業組織を形成した。たとえば、隊商あるいはキャラバン、船隊、商館、代理店、仲介人、護送隊などを作り出している。

 「イタリア商人は隊商を組んでシャンパーニュの大市におもむいた。上部ドイツやフランドルの商人も、この大市に旅行する場合は隊商を組織した。帰国後にはまた解消してしまう一時的結合にすぎなかったこの隊商から恒常的な組織、すなわち毎年シャンパーニュの大市を訪れる商人たちの団体である商人ギルドが形成された。」このような組織はイタリア、フランス、プロヴァンスなどの商人の間に組織されたという。また、フランドルにはイングランドの羊毛を主として扱ったブリュージュ商人のロンドン・ハンザが結成されていた。13世紀にはイープルとリール商人が加わり、フランドル・ハンザの活躍が目覚しかった。イングランドの諸都市では、12世紀から商人ギルドが出現し、ドイツの諸都市にも、商人ツンフトが現れた(クーリッシェル、447、468ページ)。

 中世ヨーロッパにおいて、自国以外の地で貿易に携わることは、当時の事情から多くの危険と困難を覚悟しなければ従事することができなかった。商人組織はしたがって商人の自衛団体でもあった。また、商人同志の間に存在する商取引にともなう紛争の解決や利益の促進にも重要であった。商人裁判所は、主な都市、ベネチア、ジェノア、フィレンツェ、バルセロナなどに設立され、ジェノア人とベネチア人の領事は商人の進出した都市において執務したという。

 中世の商人の経営組織は、上述したとおり、個別・零細の商人組織よりも、商人の相互の結合組織の発達が注目されるが、個別の商人についてみると、その間に商人組織にも商工業の発展とともに発達した。商事会社はイタリアをはじめ、ドイツ、フランドル、イングランドなどで発達した。なお、中国には個人のほか、合夥組織が存在した。 中世ヨーロッパにおいて、イタリアの商業組織の発達が注目される。イタリア諸都市の商人たちは、海外貿易のために、コンメンタ、ソキエタスを結成した。商人たちは航海ごとに任意にパートナーとなって、海外貿易に出資または経営をおこない、海外事業のリスクを分担し、利益を享受していたという。


世界商業の展開

 中世ヨーロッパにおける商業は、都市とその周辺の経済圏を基盤とする局地商業が発達したほか、一地方の需要を満たす範囲を遥かにこえた商取引が盛んであった。全国または国際間で地名度の高い定期市や大市、祭市などが各地に立った。このような商取引の場には、当地の商人に加えて、はるばる外国から多数の商人が参集した。12世紀中頃から14世紀初頭に栄えたシャンパーニュは、大市の立った国際貿易の中心地として著名であった。ヨーロッパ域内には、南欧、北欧にそれぞれ商圏が形成し、相互に交流もおこなわれた。また、東方およびアフリカとの取引が進められた。

 貿易ルートは、陸上および海上の両方が使用された。ヨーロッパとアジアは、陸路によって結ばれていたし、アフリカとの行来も便利であった。モンゴル帝国時代には、陸上交通の安全が保証されてもいた。海上交通は、大航海時代まで、主として地中海からレバントへの東進コースと太平洋からインド洋へ、そらに紅海からレバントへといった西漸のコースがよく利用された。14世紀ごろ、ヨーロッパから中国または東アジア諸国への陸路貿易は、カスピアン海の南北を迂回して、中央アジアに入る道が利用されたほか、アレキサンドリアからバグダット・ペルシア湾を経由して、インド方面にすすむ道が利用されたという。チムール時代では、サマルカンが中国、インドより、ペルシア、西欧へのキャラバンによる通商上の重要地点となり、東方から黒海の北方やタナ、さらにヨーロッパ各地への通路を制した。トルコ人の台頭とともにアレッポがキャラバンの経由地点になるなど、15世紀後半はトルコ人がこの地の貿易秩序の維持者となった。海上貿易ルートは、中世都市の商人が主導権競争をしながら、地中海や北海を中心に栄えた。

 近代国家の形成過程において外国貿易が拡大された。商業活動の規模が拡大し、商業活動の技術と組織が発展した。局地商業に加えて、遠隔地商業が重要な地位を占めるようになった。世界商業は、ヨーロッパの経済を潤すのに重要であった。一般に商業革命または価格革命と呼ばれている現象が出現するのもこの時代であった。これは後の産業革命に対比して命名されたものである。植民地を中心とする外国の富がヨーロッパに流入した結果でもある。新大陸のアメリカから大量の貴金属が流入し、その一部は、スペインを通じて拡散した。また、ポルトガルが独占した東インド貿易は、東洋の物産を大量にヨーロッパへ送り、安い価格で、販売された。オランダやイギリスが台頭するまで、スペインのセビリア商人は、ヨーロッパ各地の産物を輸出し、東洋の産物や、新大陸の産物を持ち帰った。東洋との貿易において、アメリカ産の銀を持ち込んだのも、主としてかれらであった。この手法は、後にイギリス人が踏襲した。

 経済活動においてもヨーロッパ諸国の勢力に消長が現れた。17−18世紀には、イスパニアが海外において優位を失い、また北欧においてドイツ、ハンザ商人の地位が動揺した。オランダ、フランス、イギリスが国際舞台の前面に現れた。これらの国は国家から特許を受けた特権会社を成立させ、世界各地にその勢力を伸ばしていった。東インド会社、西インド会社で知られているように、当時の特権会社には、一定の地域を独占的に経営するものが多かった。

 重商主義諸国は、当初、自国に有利な貿易差額をもたらす動機に諸国が動かされた。そこで、輸出を将励し、輸入を抑制する目的で、諸種の方策が講じられた。しかし、外国貿易の発展は、たんなる商取引の保護・育成にとどまっては、限界があり、同時に国内産業の保護・育成をおこなう必要があった。商業の発達が生産の発達を必要としたからでもある。

 競争の激化により諸国は国内産業の保護政策を展開した。イギリスとフランスにおいて代表的な保護政策が展開された。しかし、イギリスでは農業と工業の間に利益の対立が、さほど問題を提起しなかったのに比べて、フランスでは農業より、工業の保護が重要視されたと、後の重農主義者が主張した。


中世の工業

 手工業者は、農工分離の過程において出現するとされ、生産力の発展の産物とされる。事実、手工業者は、非常にふるい時代から出現している。古代中国やエジプト、ローマまたはバイキングの世界において、工芸品、船舶、車両、城塞が製作、建造された。手工業の技術はニーダムの研究などで「東方起源説」が唱えられている。中世の手工業者は、一般消費生活および生産活動に必要な品々を提供した。手工業者は、都市あるいは農村において、土地の人々の経済生活を支えたばかりでなく、遠隔地商業のための商品生産にも従事した。一般に羊毛やぶどう酒のような各地で求められる製品は、特産品として専業化がすすみ、広範に流通したが、大部分の中世手工業製品は局地的にしか流通しなかった。

(1)西洋の職人
 手工業者は、勤労に誇りを持ち、技術の熟練に精進した。中世社会の限られた需要のために生産したかれらは、都市の工業規制のもとで、生産技術と製品の流通権を独占した。中世の手工業者は局地的市場のために仕事をしたのであるが、それは顧客の註文に応じて生産する場合が多く、賃仕事ならびに代金仕事の形でおこなわれた。14世紀に入ってから賃仕事は代金仕事に代わっていったとされている。手工業者は、徒弟制度によって技術の伝承をおこなった。

 中世ヨーロッパのギルド制度は、親方がそれぞれの職業を代表した。親方は業界の代表階級であった。親方(master)は店舗、仕事場、生産道具を所有し、地方市場の需要に見合った数が存在した。親方はルールを作り、かつ守らせた。 職人(journeyman)はいわば中世のサラリーマンである。職人は、技術の保有者として自分自身の出身地においてはもちろん、国境を超えても常に尊重された。一般に職人は修業のための遍歴時代(wander year; wander-jahr)を経験して、生産技術をみがき、かつ資金を蓄積して、親方になるのが出世の決まりコースであった。しかし、13世紀の中頃から、かれらは単に日当のために働く人々としての地位が固定化するようになった。その原因は、都市の人口が増大し、職人の数も増加したこと、市場生産の発達により、生産活動のためにはより多くの資金が必要となって、かれらの経済能力では独立営業が困難であったことなどが指摘されている。このような背景のもとで、親方たちはギルドの門戸をしだいに閉鎖するようになり、職人が親方になる道を難しくしていった。具体的には、ギルドの加入金を引上げたり、資格作品(masterpiece)の要求を厳しくしたりした。生涯親方になる機会と希望を失った職人たちは、のちに職人ギルド(journeymen's guild)のもとに団結することとなった。

 手工業的技術の修得のため、徒弟(apprentice)は、10代に親方のもとに徒弟入し、職人に成長すべく、生産技術の訓練を受けた。「数世紀にわたる時期を通じて、徒弟制度は大部分のクラフトではかなりよく機能していた。徒弟制度は、各工程を繰り返し模倣する機会と長期にわたる個人的接触、および製法の定石やクラフトの他の秘伝の修得にあった」(ジョン・ハーウェ『中世の職人』102ページ)。手工業は業種によって技術の内容が異なるが、多くの業種は利発の徒弟にとって業界の秘訣はそれほど修得しにくいものではない。日本でも徒弟が技術を身につけるためには師匠からその奥義を盗み取り、見よう見まねで技術を習得するものだと指摘されている。業種によって、徒弟の訓練法が異なるが、徒弟教育は個人教育であり、徒弟は数年間にわたって一人の師匠から技術を教わるわけで、技量の高い師匠につけばかなり高度なものを身につけることができた(『中世の職人』104ページ)のである。しかし、中世ヨーロッパでは後継者の養成という見地から親方は、自分が習得したとおりに弟子にも、生産の技術と知識を伝授する伝統があるとされている。徒弟と親方の間では、徒弟奉公契約もむすばれた。契約は必ずしも文書の形式をとる必要はなかった。むしろ慣習にしたがって結ばれるのがふつうである。中世のフランスでは、立会人を前に口頭契約でもよければ、私署証書でも、公正証書でもよかった。公正証書による契約の例が中世末期に多くみられたという(p.ブリソン『中世職人史』、臼井訳、刀江書院、1928年、p.32)。徒弟の修業期間は国、時代それに職種によって相違が存在した。ドイツでは2ないし6カ年間、フランスでは6カ年、イギリスでは、7カ年、12カ年または15か年間の例が伝えられている。

(2)東洋の職人
 東洋世界においても多芸多才の手工業者が多方面にその才能を発揮してきた。古くから多くの手工業作品が伝えられている。日用品には各地の絹製品、綿製品、陶磁器などがあり、土木建築には寺社仏閣、城壁、それに一般民家などがある。手工業者は一般に製品製作の全工程について一通りの生産知識と技術を備えていることが要求された。とくに日用品の生産を中心とする業種にはそれぞれ年季を有する手工業者が就労した。

 王朝中国の手工業者は、官営工場(作坊)と私営工房で就労した。官営工房には多くの熟練手工業者が製作活動に従事した。宮廷の消費需要に応じる生産や兵器生産は専門技術を身に付けた手工業者が担当した。冶金、製陶、骨器の製造、玉の加工、紡績および醸酒などの生産活動に不自由民が使役された。漢代の役人「考工令」は兵器、染織の生産を監督し、「将作大匠」は土木工事を管轄した。『宋書』の「百官誌」によると、西晋から少府と衛尉が工業の官督機関となった。

 官営工場に所属する手工業者のほか、兵士が各種の生産活動に従事した(『塩鉄論』に「卒徒衣食県官、作鋳鉄器、給用甚衆無妨於民」とある)。専門技術を保有する兵士の数は限られたが、かれらは軍匠として登録された。手工業者の大部分は民間からでた。強制労働に服する用役労働制は秦漢時代に始まり、唐代の手工業者は全国的に組織され、5人が1組となって「火」をつくり、5火ごとに1人の長をおき、州県ごとに1「団」をつくる形で統制された。輪番制で服役した。番匠として登録された手工業者は、毎年20日間義務労働に服した。上番できないばあい、所定の代納金を納入しなければならなかった。許可なしでは離籍が認められなかった。元と明代でも技術者は一般民戸と区別されて匠戸として工部に登録され、地方に在住するものは、輪班制によって交代で京師におもむいて年3カ月間服役し、京師在住のものは元代の「係官匠戸」のように住坐として毎月10日間服役した。前者は全体の九割近くを占めたと推計されている。また地方にいて政府の仕事場で毎月20日間労働に服した存留匠が存在した。これらは強制労働であり、服役規定に違反するものは刑罰が用意されていた。

 技術を身につけた民間人は匠戸として登録された。雇用労働は、永年雇用(長工)と臨時雇用(短工)の存在が知られている。雇主のもとであたかも家族の一員として各種の肉体的労働に服する長工は刻苦勤労型が多くみられ、雇主に対し忠実に尽すのがふつうであった。17世紀ごろの蘇州などに臨時雇用のための労働市場が立ち、「把頭」と呼ばれる仲介者が織物業労務の周旋、手配を担当したとされる。

 食糧加工、衣類生産、農具、工具の製作、鉱山の経営、各種の土木事業において手工業者が活躍した。貨幣経済の発達により、農村は王朝の財政基盤に組み込まれ、農業の経営は商業、手工業といっそう緊密な関係をもつようになった。農民は零細な耕地を耕作するほか、積極的に副業を経営した。綿花の栽培と綿製品の生産、養蚕と絹製品の生産は13世紀末から江南地方において盛んに営まれ、綿紡織業が農村に定着していった。明代中期になると太湖周辺や杭州などの農村において農民が生糸や絹織物を生産する農村手工業が発展した。

 大小の都市においても農村のそれを凌ぐ手工業が発達した。江南地方(蘇州、松江、常州、杭州など)は絹製品の名産地となり、住民の多くが、紡績と織布で生計を立てていた。桑の栽培、養蚕、製糸、撚糸、染色、機織の工程を担当する仕事が奨励され、盛んになった。都市人口の増大により、市場が拡大したことも重要であった。

 手工業者は多様な就業形態をとるが、作坊、作院などが労働現場となった。作院と作坊は、五代から知られ、宋代では官営の兵器工場として諸州にもおかれた。この頃から専業手工業者が業種別に作を組織したとされている。

 手工業者は各自の仕事場においてはやくから専業に製作活動をおこなった。生産技術は親から子へと受け継がれ、秘伝として門外不出なものが多かった。門弟の数は限定され、奥義、機微と熟練度が重視された。「工の子は恒に工となる」(『管子』)といわれた。

 インドの職業的カーストは、手工業者を特定の職種に固定するとされる。これはカースト制度が職業の不平等と世襲制を基礎に成立したからである。都市の手工業者と農村の手工業者のいずれを問わず、特定の業種(鍛冶屋、大工、壷つくり、皮はぎ、篭製作、床屋、洗濯など)にとどまり、諸種の工業製品と労働に従事したのである。

(3)クラフト・ギルド
 中世ヨーロッパの都市において、手工業者はそれぞれの業種別(クラフト)によって団体を結成していた。これはクラフト・ギルド(craft guild;zunft)と呼ばれている。イタリアではおよそ10世紀に現れ、12世紀には規約が制定された。イングランド、ドイツなどのギルドはやや遅れて13世紀に入ってから規約化が進展したという。ギルドの成立は、諸説ふんぷんであるが、ローマの「コレギア」(collegia)に由来する説、中世の王領や教会領における手工業者の集団化説、また都市住民の自由な団体説などが有力である。クーリッシェルによれば、ブレンターノ、ビューヒャー、シュモラー、ゲーリンク、ゾームらが荘園法的団体と自由な手工業者たちの結合説を展開したという。しかしその後の研究は手工業者が非自由から自由へ上昇するような見解を否定し、荘園法説の存立を困難にしている。「今日では、ツンフトの成立を、自由な手工業者のイニシアティブから起こったとみる説が、有力視されて」いる(クーリッシェル、p.302)。ポスタンは12世紀にイングランドの多くの都市が局地的市場の独占、管理統制のためにギルドを手段として選択したとみている(ポスタン前掲書、272ページ)。

 初期のギルドは毛織物職工や靴職人などの間に成立したと見られている。ピレンヌは次の古い手工業者の職業的団体が存在したと指摘している。すなわち、マインツの毛織職工、ウォームの魚屋、ウールツバーグの靴職人、であり、また、イングランドではロンドンやオックスフォードに織布工ギルドが最初に現れてから、同職ギルドがニューカッスル、ヨーク、ノリッジ、ハンティントン、ウィンチェスター、リンカーンなどの諸都市にも見られるようになった。14世紀以降のギルドは経済の発展とともに手工業の領域が拡大したことを反映し、多種多様な職種にわたって成立した。たとえば、毛皮、毛織、絹製品、なめ皮、皮製品、桶、釘、刀、鞍、甲冑、武器、ペンキ、ガラス、鉄工、石工、木工、大工などがあげられる。

 手工業者の団体が出現した背景には都市の人口が増加した点を見逃すことはできない。商工業の専業化が進んでいる都市では商人ギルドのほか、同業ギルドが組織され、それぞれの役割を果たした。これはギルドがしだいに門戸を閉鎖し、ギルドへの新規加入を拒否するようになった結果と見ることもできる。ギルドは都市において独占的地位に立ち、 都市内部の同業者に対しても差別を行った。たとえば、ロンドンには制服組合員(livery)による上位の同職ギルドと平組合員(yeoman)による低位の同職ギルドが存在した(ポスタン前掲書、273ページ)。大都市における商人ギルドは、市政に対する影響力によって商人ギルドに加入することを困難にするが、手工業者は都市において手工業を廃業しない限り、これに対抗して自分たちの団体であるクラフトギルドの結成に訴えざるをえなくなった。同職ギルドは都市において自らの地位を公認させる目的でギルド闘争と呼ばれる運動を通じて、都市の自治権を手中にしていた商人ギルドと争った。

 ピレンヌによると、11世紀ごろに都市は多数の手工業団体を区別して管理したという。しかし、同職ギルドはしだいに勢力をえて、13世紀では手工業の範囲がかなり限定されていたものが、14世紀に入ると、手工業者の存在領域が大いに拡大した。中世ヨーロッパの手工業者は、手工的熟練技術に依拠して生産に従事したが、たとえば、造船技術、織布技術、造幣技術、車の製造技術、建築技術それに日用品の加工生産などの分野でみられるように高度な技術水準に達している。


近代工業の発展

前貸問屋制度

 遠隔地貿易の発展は都市における商工業をいっそう発展させることとなった。都市を拠点にする商人は流通過程において活躍するほか、生産過程にも介入することになる。ノーリッチ、リード、バミンガムなど産業中心地の商人は倉庫を所有し、原材料、中間財、在庫などの形態で商品を蓄えた。(J.D.Chambers)また生産者である親方は商人より資本額は少ないが、 18世紀末には大抵独立した経営者であった。

 商人あるいは商人化した親方が、多数の小親方をその配下におく生産形態はイギリスの毛織物工業がよい例を提供する。15世紀以来家内工業的に経営された同工業は、17世紀から著しく繁栄し、小親方が問屋から原料、道具または資金を受け入れ、その見返りに製品を納入しという。このような小親方が問屋に従属する生産形態を一般に前貸し問屋制度(putting-out system)と呼んでいる(クーリッシル「ヨーロッパ近世経済史1」241-2ページ)。

 ジェイムズ1世は造船業と漁業との奨励に格別熱心であった。イギリスはフェリペ2世やルイ14世によってベルギーやフランスから追放された新教徒の製造業者たちの来住によって、はかり知れぬほど工業上の技能を増して工業資本を大きくした。イギリスは彼らに、そのいっそう精巧な羊毛工業や、帽子・亜ま織物・ガラス・紙・絹織物・時計などの諸製造業の発達や、さらにまたその金属工業の一部について恩恵をこうむっているのである。−−しかもこれらの工業諸部門を、イギリスは輸入禁止と高関税とによって急速に発達させることをこころえていたのであった(リスト『経済学の国民的体系』小林訳、岩波書店、1970年105ページ)。

マニュファクチュア 
 マルクスは、16世紀中頃から18世紀中頃にいたる200年間を本来的マニュファクチャの時代と規定したが、クーリッシェルによれば、18世紀でもイギリスの毛織物工業におけるマニュファクチャはむしろ例外的存在であったという(前掲書、241ページ)。ボルケナウはいう。「マニュファクチャは、16世紀の初頭以来徐々に発展していた。マニュファクチャ技術というのは、生産過程の手工業的な基礎を完全に保存しながら、極度にまで労働の分割がおこなわれているところに存する。17世紀の自然科学は産業上の生産に用だてられていない。17世紀は水の世紀だ。あらゆる自然力のうち、水力だけが、手工業の手段によって統御されうる唯一の動力だからである」と(『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房、1965、24、25、31、36ページ)。

プロト工業
  近年、中世から近代への移行期が新たに関心を呼んでいる。経済事実の社会的関連から社会史的方法で研究が進められている。また手工的生産前に基礎をおくことを考える場合、最近の経済的事情と符合する事実が注目される。前工業化論またはプロト工業化論は第三世界の工業化を念頭におく傾向が指摘されているが、産業革命期における技術革新や資本蓄積への再評価も無視できない。プロト工業化を主張する人々はタウン・カントリーの二元論に立って両者の関係に注目し、都市の工業規制から自由である農村工業の発展を立証する作業が行われるが、現実は非常に複雑で多様性に富んでいる。たとえば、都市のマニュファクチュアを軽視すべきでないこと、失業は当時の農村ばかりでなく都市でも一般に存在したこと、レジャーを楽しむ習慣があったこと、労働市場が確立されていないこと、仕事が不規則であったこと、しかし農業収入は都市・農村関係によってのみ決定されず、国内ばかりでなく外国との取り引きとも関係していたことなどが指摘されている。(M.Berg,P.Hudson and M.Sonenscher ed.,Manufacture in town and country before the factory,1983,p.27)

 工業化に注目する人たちの中では前近代の工業に注目するものがいる。前工業化論またはプロト工業化論を主張する人たちは通常第三世界の工業化を念頭におく傾向が見出される。プロト工業はタウン・カントリーの関係を二分する論者によれば、都市の工業規制から自由である農村工業にその典型を見るという。

  1. プロト工業化論は農村工業の存在を重視する。
  2. プロト工業化は工場工業の発展で本格的な工業化に移行した。
  3. プロト工業化論が1990年代において全盛を迎える。

工場制工業

 イギリスの工業化は世界中の国々の工業化を先導した例として注目されている。イギリスにおいて最初に産業革命が起こったからである。

 イギリスの木綿工業において最初に産業革命が起こり、機械的生産が行われた結果、経済事情は一変した。工場制工業は新しい時代の生産様式として次第に不動の地位を確立していった。

イギリス国内において機械を生産に採用した工場制工業が、全国各地で新しい工業中心地を形成し、製品市場の発展をもたらしたと同時に、関連経済部門の発展をも促した。1830年頃から立法などで諸制度が整備するにともない会社組織による工業経営は、貨幣制度、銀行制度それに金融市場の整備から多くの便益を享受することができるようになった。その結果、綿紡績業をはじめ、鉄鋼、機械の製造や交通通信事業が発達し経済発展に不可欠な工業生産の基礎が確立された。イギリスは「世界の工場」とまで言われるように発達した。

 イギリスの経験から工業化の条件として(1)技術革新(2)企業家(3)工業労働者(4)市場の拡大(5)資本形成などの要因が重要視されている。

  1. アシュトンはイギリスの技術的変革が国民経済の一部にしか起こらなかったという。
  2. 産業革命期に合理的行動を起こした起業家が出現した。
  3. 熟練労働者の不足が生産現場での発明を促したという。
  4. イギリス各地には繊維・金属・農産物の有名産地が存在した。
  5. 19世紀の燃料革命は化石燃料への移行を意味した。
  6. 19世紀の技術革新により自然の力から無機エネルギーの使用が始まった。
  7. 産業革命期の典型的な経営組織はパートナーシップであった。

 イギリスの場合、民間投資の重要性が指摘されている。工場建設、海外投資とくに社会資本の形成は工業化の全過程において重きを占める。道路、鉄道、港湾、運河などの整備は、人間と物資の移動を容易にし、生産活動の円滑化を助け、生産コストの低減をもたらしたのである。

 アシュトンは言う。
 「工業資本家は、その工場を建設しまたそれを拡張するために、長期の資本を必要としたのみではない、原料の購入費や、定期的に賃金労働者へわたるべき金額などにあてるための運転資本をも必要とした。これらの短期資本のうち最初のものは、羊毛商人、棉花商人、製鉄業者などの生産者や商人によって負担されるのが普通であって、かれらは信用で原料を供給し、その信用は何カ月にも及び、生産の全期間にわたることさえしばしばであった。しかしながら完成品のストックをすぐにも配達されるような状態で抱えている費用、また、販売と支払とのギャップをうずめるための費用も相当な負担であった。この場合にも長期信用が普通に行なわれた」(アシュトン『産業革命』106ページ)。


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