20世紀に生を受けて、21世紀との境をまたぐ時代に生きている。人が暦で社会生活している以上は、そこに何かしらの意味が発生すると思う。私も否応なくそこへ巻き込まれている。
30年弱の20世紀の経験は、私に様々なものをもたらした。特に後半は、コンピュータ技術の進歩と普及によって、情報を中心としたライフスタイルへと急速に引き込まれていった。こんな文章を日記でなく他人が見ることの出来るスペースに書けるということ自体が、前半までとは根本的に変わってしまっている。不思議なものだ。
残念ながら、ここ数年を賑わせている情報技術ブームとはタイミングが合わず、がっぷりよつすることは出来なかった。パソコンとパソコン通信が一部でもてはやされた頃には、パソコン通信局をつくって情報提供を行なうビジネスだとか、電子マガジンをつくるなどの夢を描いたものだが、私が中学・高校生だったこともあるし、技術がまだ未熟だったこともあるし、そもそも社会はそういうものに対して疎かった。いま、ベンチャー企業を立ち上げて活躍している若者達を見ると、実力には時の運も含まれるのだなと改めて確認する。
その後半15年間の中でも、さらに後半の8年間は、私自身だけでなく世間の意識も激変した。たとえば、私はご先祖様を台湾にもっている。名前からもそれが見え隠れすることから周りの人々の反応や態度は、過去には冷たいものも多かった。日本の国際意識が低かったということもあるかも知れない。それが90年代に入ってからはまるで異なっていた。むしろそれは一つの特徴として賞賛さえされるようになった。この変化に驚いたのは私自身であった。
日本社会で暮らすためには、事を荒立てずにつつがなく振る舞っていなければならないと自分自身を固めていた。ハチャメチャなことをすれば、単に私だけでなく家族やその他の物事にも余計なレッテルを貼られてしまう。子供心にそう悟って暮らしてきた身からすれば、今日の自由奔放な何やっても結果さえよければ全て良しという社会風潮は、青天の霹靂である。
私の身体はかなり限定されたレールの上を走ってきた。一方、私の思考はそこから逃避しようと懸命だった。大学教員という世間から見ればそれなりの職に就くことができたものの、私自身はこの現状に満足しているわけではない。いかにも今風な意識だと思われるかも知れないが、私自身にしてみれば、幼い頃から抱き続けている感情の一つである。それが原動力でもある。
そしてようやく次のステップにいけるチャンスが来たように思う。もちろん現在の道を究めたわけではない。まだごっこ遊びをした程度なのは承知している。けれども私は何かまた別のチャレンジに向けて走り始めたいと真剣に考えている。それが単なるサラリーマンになることなのか、ベンチャー企業の���長になることなのかはわからない。いずれにしても21世紀を生きていく以上は、これまでとは異なる生き方を受け入れる覚悟が必要なのだと思う。
これまでの私は、自分の満足と周りへの責任の順番が奇妙に逆転していたと思う。「責任を果たすことに満足」していた状態から「満足するために責任を果たす」という状態に近づかなくてはならない。このふたつは紙一重で、周りの条件次第でコロコロ変わってしまう。家族をつくって家庭愛の満足感でそれを補うという方法が力を持ち得なくなってきた今日、この状態の変移は仕事をする個人にとってとても重要な問題だ。だからこそ職を変えるという行動が価値を持つ。
21世紀の私は、そういう選択も視野に入れることで、より今現在の仕事も頑張れるし、同時に未来の希望も捨てずに生きていけるように思う。もっとも自殺を選択肢として持って生きるほどには大胆になれないが‥‥。
20世紀最後の年、私はアフリカに訪れるチャンスを得た。それは身体の経験としても印象深かったが、私の思考に若干でも世界的視野を一つ付け加えてくれた点で意義深かった。そして世界はいつでも僕らを待っていると思えた。いや、待ってるんじゃない。いつでも飛び込みOKなんだ。
教育という一見閉じたような世界に居座り続ける自分はちっぽけだ。20世紀にわかったことは本当にそれぐらいである。ただ、閉じた世界が扉の開け閉めを上手にするようになったとき、そこには大きなエネルギーと豊かなジャンプ力が備わると思う。だからこそ私はそこに関わりたいし、21世紀に私の立場が変わろうともその気持ちは変わらない。
これまで出会ったたくさんの人々に感謝しつつ。さあ、21世紀にいってみよう!
(2000.12.31 林向達)