<論文>

「信大YOU遊サタデー」における「人間力」の考察

林向達 名古屋大学大学院教育学研究科教育学専攻
土井進 信州大学教育学部附属教育実践研究指導センター
(1996年3月20日 受理)

【概要】 本論考は「信大YOU遊サタデー」(以下YOU遊サタデー)という応用教育実習の場を考察し、どのような意義が見出せるかを明らかにするものである。
 YOU遊サタデーを端的に定義すれば、年齢・性別を問わない相手に対して迅速な判断に基づいた実際的な教育行為を展開する場だと記述できる。こうした活動が教員を目指す学生にとって自己の教育実践力の形成を促すものであることはすでに「応用教育実習」の観点から土井進が述べているところである。1) こうした行為を現象的に見ていき、YOU遊サタデーという場がどのような実際性と意義を持ち得るのかを検討していきたい。

【キーワード】 教員養成 教育実践 人間力 教育的タクト 自己と他者

1.YOU遊サタデーの必要性

 師範学校を祖とする教員養成大学や学部は、今日においてもその意義を変化させていないと思われる。しかしながらそれらが、きわめて多様化した社会とその中における教育活動への対応に出遅れたことは否定はできまい。また学卒者の教員就職率も明らかに減少の一途をたどるに至って、地域の教育ニーズを担っていく機関としては、かなりの程度までその力を失っているといえる。これは教育県として名を馳せる長野県においても例外ではない。小林洋文は、長野県師範学校が戦後、国立大学教育学部に移管されたことを説明する文脈において「信州大学教育学部が戦前ほどには長野県の教育センターとしての役割をはたせなくなった状況の変化は大きい」と指摘している。2) このような状況が大学改革の流れと絡み合い、教育学部はこれまでにない苦難の時期を迎えている。小林輝行・信州大学教育学部長は「明日の教育と教員養成の課題」3)と題する論文の中で、切実なる現状と学部としての取り組みについて論じ、今後の長野県教育界の発展に努めていきたい旨を記した。そこに示された学部改組の努力と今後のニーズにこたえるべく用意された新課程は、価値ある試みであり、今後の進展にも期待がかけられるものである。しかし論文は、もうひとりの主役たる学生たちが、いかにあるべきなのかを記していないという点で課題を論じ切っていない。近年における教育学部の総体的なパワー低下の原因は、学部の「時代遅れ」的組織構成のみならず、学生たちの日常生活の実際にも潜んでいたと考えるべきではなかろうか。
 それならば近年の学生たちが、教員への志望を低下させている現状があるのだろうか。小林輝行は同論文で「数年前までは、教員就職率9割強を誇り全国の教員養成大学・学部のトップに位置していた私どもの学部も年々低下し、現在では、5、60パーセントそこそこになり、全国の教員養成大学・学部の中で十数番めになってきている。」4) と報告するものの、これには県教委の採用方針などといった外的要素を加味する余地があり、一概に学生の教員志望の思いが弱まったと結論づけることはできまい。しかしながら学生たちの間に卒業後の進路に対する不安が増加していることも確かなようだ。学生たちの不安を拡大させるのは就職難だけではない。教育界における様々な問題が教育への希望の芽を摘みとる状況は、学生たちの個々の可能性と積極性を減退させる現実である。
 その状況下において、教員養成機関の現状に対し率直に指摘したいことは、学生の「熱意」をぶつける場所が、どこにも見当たらないということである。信州大学教育学部に関すれば、このような現状は、長野市西長野に単独でキャンパスを構え、総合大学としての持ち味を発揮し得ていないことも一因ではある。しかし、それにもまして、足が地についていない状態にある学生の日常を直視しなければならない。これは講義の抽象性と希少な実践経験との断絶から来るものであろうし、また地域社会との没交渉によって学部生として自ら閉鎖性を招いていることの結果でもある。5) 学生たちにはこうした状況を打開する何かよい方法が必要であり、それも学生自らが主体となり得るものであることが重要であった。「やればできるのだ」という若い世代としてきわめて根元的な「力」とそれを発揮し実現させる場の創造が、信州大学教育学部には必要だったのである。
 YOU遊サタデーは、新たに設定した場において次の三者を同居させ、様々な展開を企図した。それは「学生」「大学」「地域社会」であり、従来までの子どもまつりや大学祭、また市民講座といった活動とは一線を画するものを目指したのである。活動は教育学部単独キャンパスであることをむしろ利点として、徹底的に垣根を崩すことを志向した。YOU遊サタデーはそうした雰囲気を背負った場でもあるのだ。
 学生たちはYOU遊サタデーという新たな「学びの空間」を創造する作業に着手するにあたって、教育の本質について考えをめぐらさずにはいられなかった。文化再生産理論を引くまでもなく、教育の持つ権力性は、YOU遊サタデーいう場においても構造的に発生する。自らが無意識に設定してしまう枠組をどれだけ闘い崩し拡げることができるのか。しかしながらこうした実践的な姿勢こそ教育の実際性を矮小化させてしまう根源だとするなら、果たして「場」の創造自体に問題が孕んでいることになりはしないのか。
 くるめく疑問の中で準備は何度も足止めをうける。しかし、正解など見当たらない。そして何よりも、時近づく中で、現実的な手段を選択しなければならなかった。「やる気に勝るものなし」という言が、結果的に実際理論となる。そしてすべてはそこに集約されるだろう。おそらく実践技術そのものを観察したところでYOU遊サタデーもまた、様々な欠落を内に持った側面的教育実践やも知れない。結果的には各回ごとに成功を果たしたが、学生たちの足を止めた疑問を解消してくれるには、ほど遠い通過点的結果であった。しかし、それでもなおYOU遊サタデーという活動は、教員養成機関に欠けていた穴を埋めるだけの力を持ち得る。理想の形ではないにしても、それがもたらした個々への変革は無視できないからだ。

2.YOU遊サタデーの実際性

 なぜここで、なおもYOU遊サタデーが力を持ち得ると断言するのであろうか。おそらく様々な立場から疑問が投げられるであろう。そこで具体化のために向けた理念的努力からは一旦離れ、YOU遊サタデーの持ち得る可能性について、もう少し実際的な場面を提示することから同じく結論へ辿り着きたい。

(1)人間力
 YOU遊サタデーに参加したスタッフにとり、参加者との活動は常に新しい視野をもたらすものとなっている。異年齢の混在した集団の予測不可能な行方こそ、日常には体験できない貴重な経験となろう。しかし単にそのような予測困難な事態を味わうだけではない。スタッフは集団に対して何らかの働きかけを行なう役目を帯びている。共に惑いつつも、共に目標の達成に向けて歩もうと全体を促す演出者たらなければならないのだ。そこで要求されるものを土井進は「人間力」と評している。
 「教育力」「実践力」「指導力」といった種の能力や「理解力」「表現力」「思考力」「判断力」などのより機能分類的な能力の数々は、教育者に求められるものである。しかし、単に個々の能力が備わっているだけでは事態へ対処することは難しい。こうした様々な形をとる能力をいかに活用していくのか、つまり「力」を統合したり配分したりする「力」、《力能》が問題である。この《力能》(力の力) competence for ability 6)こそ「人間力」の核心ではないかと考えられるのである。

(2)個人レベルにおける人間力
 実際の場面においてこのような人間力は、どのように見ることができるであろうか。まずもって個人レベルで捉えることができよう。
 「みんなで楽しい紙芝居を作ろうぜ!」7) において、ある子はアンパンマンとバイキンマンを登場人物とした物語を描いた。しかし、その子の絵を描く力はまだ十分でないため、アンパンマンは長方形、バイキンマンは三角を描いただけのものだった。私たちはこの時点で子どもの表現力・絵を描く技力の未発達を捉えることになるが、現実は興味深いものを示していた。紙芝居の別の場面で、2人の登場人物の戦うシーンが登場する。このとき、各々の登場人物はきちんと長方形と三角で描き分けられていたのである。もちろんこれを当然のこととして見ることも可能ではあるが、この場面からあえて次のようなことを考えてみたい。
 実際のアンパンマンというキャラクターとクレヨンで描いた長方形は、どう見ても似ても似つかないものである。だからといって他のいかなる図形もアンパンマンだと主張することはできないだろう。それは同時に描き分けたバイキンマンが理由ではなく、別場面においても一貫して長方形をアンパンマンとして描いたことが理由なのである。描画の力は未熟ながらも、それをいかに用いるか、つまりアンパンマンを長方形として描ききる力に「人間力」を読み取ることができる。
 同様にキャプテン・スタッフ個人にもそのような人間力の断片を見てとることができる。紙芝居を描いた子が、描き終えたことで様々な力、「物語構成力」や「絵を描く力」などを連携させられるよう人間力を伸ばしていくのと同じである。「お手玉を作って遊ぼう」のキャプテンは、当初いささか自分自身が活動に対して乗り気でないことを感じていた。ところが子ども達と実際に交わり、お手玉づくりの実践を展開することで自らが計画したプランが現実へと転化していくにつれ、心境が変わったようである。終了後の反省会時には「またやってみたくなりました」という前向きな感想を述べてくれた。それほど大袈裟な変化というわけではないが、キャプテン・スタッフはYOU遊サタデー内で自己設定した講座を運営していく過程で、個人としての人間力をも成長させるのだと思われる。

(3)関係レベルにおける人間力
 そしてまた関係レベルにおける人間力の発展も捉えられるだろう。この関係のレベルには前出の三者各々の内の関係と三者同士の関係、さらにはこれに世代間の関係性が掛け合わされていく。羅列的ではあるが三者各々の関係性として考えられるものを書き出してみよう。
「学生」
  キャプテン−スタッフ
  先輩−後輩
  他学科学生同士
「大学」
  事務官−教官
  大学本部−学部
  他学科教官同士
「地域」
 大人−子ども
 他学年同士
 他校同士

 これらがさらに「学生−大学」「学生−地域」「大学−地域」と関係を持つことになり、関係性の中だけでも複雑さを理解できる。しかし問題は関係性だけでは終わりはしない。これら関係性は「場」があって初めて展開されるものであり、YOU遊サタデーにはまさに大小様々な場が詰め込まれているといえる。それは講座や、閉会式の場、また昼食時間中でもあるだろう。そしてここに働くものが「人間力」であることは次のような事例に照らしても明らかである。
 「トランポリン」をはじめとして大学教官が活動に参加した講座がいくつもある。そこでは「大学教員−小学生」という珍しい関係が成り立っていた。普段大学生に対する教育活動には慣れている教官も小学生相手に四苦八苦の場面が展開された。端からは珍妙視されやすいこの状況も、注意してみれば大変興味深い。そこには教官自身の観念崩しの体験が起こっている。
 そのような珍しい関係は「父母−学生」「父母−大学教員」にも同様にいえることであろう。学生たちは大学という塀の中であまりに孤立的であった。そうした反省から大学開放の流れは起きているのである。そこで大事なことが地域との素朴な接触であることはすでに述べたところである。8)
 「教育学部ってどんなところ」では、昨年から信州大学に興味を示した高校生が少しずつ参加している。ここでは他に見られない興味深い人間関係が発生していた。講座に参加した受験生が見事信州大学に合格。「大学生−受験生」という関係が一転して「先輩−後輩」の関係に昇華されたのである。
 従来学生たちは、まだ見ぬ後輩を言葉通り、見ることは無いのが通常であった。また4年生の学生にとっては、卒業後に入学する後輩など学年格差が理由でなかなか知り合えないものである。しかしながらYOU遊サタデーの場では、学部卒業者と入学希望者が専攻の違いをも超えて共に語らう機会がもたれている。そしてかつての参加者が、学生となりYOU遊サタデーの活動に参加してくれるという嬉しい現実が起きている。今年度の参加者も閉会式において、参加した子ども達に向かい、学生となって皆さんと遊びたいとの想いを感想として述べてくれた。
 YOU遊サタデーに参加した学生同士にも様々な関係が成り立ち、そこで互いを磨き合っている。例えば、実行委員という中心的メンバーとそれをサポートする数多き学生スタッフの間は常に緊張状態にある。一人ひとりに細かな配慮をする過程で自ずと人間力が試され伸ばされていくことは紛れもない事実であり、スタッフ同士の協調もまた同じく様々な視野の開拓を促していく。こうした関係は学年、専攻間だけでなく学部間、学部と大学院の違いも越えて展開されているのである。
 第2期YOU遊サタデーでは、長野キャンパスを飛び出し、外部からの出張要請に応えた。YOU遊サタデーがつくり得る「場」が必ずしも物理的な場所に縛られることなく、いつどこでも実現可能であることが分かる。多くの人々との関わりがここでも展開された。
 そして信州大学の本部所在地である松本キャンパスでの開催も実現した。この背景には「ものづくり」の精神に共感された(財)長野県テクノハイランド開発機構の共催を得たことが大きな力となっている。YOU遊サタデーの「活動を通して地域社会をも取り込み、多彩な拡大を続けるように」8) との願いが具体化した一例といえる。
 ここで記さなかった様々な事例をも含めて振り返った上で、改めてYOU遊サタデーが学生の「人間力の向上」に貢献している事実を主張したい。より拡張すれば「参加者全員が成長する」場としてのYOU遊サタデーの有効性である。

(4)他者への人間力
 人間力の向上は、1)個人レベル 2)関係性のレベル で起きることを指摘した。このときいずれのレベルも他者(他者性)とのやりとりが展開されている。葛藤や協調などを通して自分自身を見つめなおす効果が出てくるのである。しかし単に他者との干渉によって人間力が向上するわけではない。様々なやりとりの中で最も重要なことは、他者を自己として捉え返す働きである。単に自我どうしのぶつかり合いや手の結び合いだけではその場を乗り越えるだけの方略的行為に留まってしまう。しかし、すでにいくつかの事例で確認した通り、明らかに個々人の意識は変化している。こうなるためには自己の立場を一旦ずらす作業が前提となる。それは土井が「他者の喜びを我が喜びとしていこうという深い志」1)として表現するものと通じる。あるいはそれそのものではなかろうか。
 スタッフや参加者が各々「我を忘れて」夢中になる。その自己を忘れるステップに他者を想うチャンスが訪れると考えられる。しかし自己を忘れるとは、自己を見失うという意味ではない。ここでは〈自己〉が顕在しているのである。〈自己〉とは、明らかに日常における自己とは異質であり、ずれを生じさせている。ではどのような自己なのであろうか。学生たちはYOU遊サタデー当日までに様々な準備活動を展開してきた。そして当日の活動も各々の遊学プランに基づき進められていく。つまり〈自己〉はそうしたものに則ったものであると考えられる。特定のねらいのもとに他の参加者の自己も〈自己〉として寄り集まり、全参加者は個々を相互交換できる(対等関係的)条件を限界は持ちながらも満たす「場」を形成することとなる。
 このような状況は人間力の向上を個人レベルと関係性のレベルの2層に解した点とも整合性を持つ。つまり参加者は個人レベルにおいて自己を見失うのではなく、新たな自己をずらし見つけることを展開していく。そのようなずらす活動を成り立たせているのが関係性のレベルである。個々を相互交換できる「場」の設定によって活動は進むが、ここで「場」が持つ限界性こそが人間力の向上の重要な鍵要素になる。年齢の違い、立場の違い、考え方の違いといった相違による対等関係の限界性に他者が浮かび上がる。そこで参加者はなおもYOU遊サタデーの精神に則った〈自己〉で「他人を想う」「共に活動する」ことを個人レベルの内に実践していかねばならないのである。この実践に際して用いられることになる個人の力が、先に示した力の力、つまり「人間力」に他ならない。
 我々全般に欠けているのは、きわめて素朴な「他人を想う心」ではないか。それは一見簡単そうな行為ではあるが、これほど人間力を必要とする行為も他にない。なぜならばいくら人間力を注いで他人を想おうと、所詮素朴な行為なのである。褒められるべきものではないし、できた達成感もない。ゆえに必要な人間力に果てがなくなってしまう。そこに難しさがある。しかしそれは難しくはあるが、とても素晴らしいことでもある。人間力は限りある資源といったものではない。誰にでも生み出せるものであり、YOU遊サタデーの活動はその生み出しのきっかけと場を提供する。YOU遊サタデーが人間力の向上(参加者の成長)の場として有効性を持つとする根拠はここからも明らかだと思う。
 しかし、YOU遊サタデーにも未熟な点や逆効果な側面がないわけではない。YOU遊サタデーはあくまでもプラスのベクトルを伸ばす場合に限ってその意義をもち得るという制限も背負う。

3.YOU遊サタデーの無効性

 ここまでYOU遊サタデーの必要性や有効性について考えてきたが、一方でYOU遊サタデーの無効性、無用性について考えてみなければならない。以下に5つのキーワードを挙げておく。

(1)時間
 学生の本分は学業である。教育学部では教員免許取得のために多くの単位を取得しなければならず、時間的余裕がない場合が多い。信州大学教育学部では2年時になるべく多くの単位を取り、3年次は教育実習で忙しく、4年時には卒業研究を進めなければならない。一方YOU遊サタデーの準備には膨大な時間がかかる。特定の学生スタッフが苦労を強いられ、本業が疎かになってしまうような事態が発生したのでは、YOU遊サタデーに良い評価を与えるのは難しい。
(2)教員採用
 近年の就職難と教職への影響は冒頭で述べたとおり、今年度信州大学教育学部からの教員採用試験合格者は激減した。現状としては一次試験での不合格者が多く、このことは何よりも筆記試験の結果が影響していることを表している。
 YOU遊サタデーが「人間力の向上」を主張し効果を上げたとしても、まずもって知識面での向上なしには意味を成さない。YOU遊サタデーは実践のための準備や活動を通して、教師への心構えといったもの、やる気といったものを奮い立たせてくれるものであるが、残念ながら教員採用試験対策に直接つながらない。強いていえば面接試験で経験を生かせる程度であろう。前述の時間の問題と共にその存在が試験勉強の障害となるならば、やはりYOU遊サタデーに厳しい評価がつく。
(3)意識
 年毎に学生が少しずつ入れ替わるのは制度として当然である。しかし、このことがYOU遊サタデーに対する学生の意識の変化を生むことになるだろう。必要性を感じる学生がいる一方で、必要を感じない学生もいる。主旨を勘違いする者がいるやも知れない。
 また、外部に広がったYOU遊サタデーの評判もある。地域の人々との関わりはそれ自体素晴らしい事であるにしても、それをこなし維持することは容易なことではない。学生が入れ替わり、意識が変わってしまった段階で、外部の評判とのズレやYOU遊サタデーの主旨とのズレが起こってくればYOU遊サタデーを続けることは困難だろう。
(4)伝統
 YOU遊サタデーも実績と共に伝統なるものが生まれてくる。しかし伝統というもので今後後輩たちを縛るようなことになればそれも弊害であろう。
 今後、第3期以降のYOU遊サタデーは今まで以上に辛い現実に直面するだろう。これまでの実績を踏まえつつ、さらに新たな挑戦を周りから期待されるのである。しかし、すでに第2期において継承と発展の難しさは実証されている。第3期以降でまたそれらを継承し発展させることになれば、とても学生の手に負えるものではなくなるだろう。あるいは継承だけが先行し、惰性による実践が繰り広げられかねない。YOU遊サタデーにとってそれは本意ではない。もちろんYOU遊サタデーの大切な部分は継承すべきと考えられるが、伝統なるもので後輩たちを疎外することになるならば、あっさりとYOU遊サタデーの形式を捨てるべきだともいえる。YOU遊サタデーの様態は常にその場の学生たちによって望まれて生まれたものでなくてはならないと考える。
(5)幻想
 最後に学生たちがYOU遊サタデーの有効性という幻想に微睡んでいるのではないかという疑惑である。本当の教育現場はこれほど甘い世界ではない。一日だけという触発的な教育実践は確かに刺激的であるかもしれないが、現場の現実は毎日同じ顔の児童・生徒と付き合い、どこまでも責任を負わなくてはならない。そのような現実の中で果たして楽観的なYOU遊サタデーの実践が、どれほど力を持ち得るのか。極端に記せば、YOU遊サタデーは教育実践力の形成や教師としての技能を磨くには役に立たないやも知れない。そのような側面が全くないとはいえない。
 いずれの観点にしろ、YOU遊サタデーの無効性は根強く存在する。これらが大きく表面化するようなことがあれば無用性が論じられてしかるべきであろう。しかし誤解なきよう記しておくが、ここで述べた無効性はYOU遊サタデー無用論を規定するためではなく、前向きに克服すべき対象を明確化するため記したのである。YOU遊サタデーの有効性は、なお変わらない。

4.YOU遊サタデーの存在意義

 渡辺一博・第2期実行委員長は、YOU遊サタデーの意義と第2期の活動方針を各々4つにまとめた。9) YOU遊サタデーの意義としては「触れ合いの場」「教育者としての実践と力量形成の場」「地域社会に開かれた学部づくり」「学校週5日制時代への橋渡し」と定義し、こうした土台の上に第2期は「地域ぐるみの取組み」「学部ぐるみの取組み」「出張YOU遊サタデー」「福祉面での開拓と充実」を目標として掲げたわけである。
 このうち「福祉面」の課題は十分に挑戦ができなかったが、いずれの試みも好結果を収めたという点は目を瞠るものがある。まずこうした活動を実現し、継続し得るものにまで発展させた点を評価しなければならない。さらにYOU遊サタデーが内包する長所と短所は、そのままYOU遊サタデーの意義を表しているということがここまでの記述で明らかになったと思われる。つまり当初学生たちを悩ませた疑問、場を創造すること自体に孕む問題が、実は人間力の向上といった諸過程を導き出したと考えることができるのである。
 吉本均は「教師と子どもの間の教育的関係は、応答的なかかわりのなかで成立する技術(アート)の性格をもつのであり、『働きかける技術(アート)』(art in action)の『知』なのである。/そして、アートとしての知は、刻々の対応力、応答的力量としての教育的なタクトの性格をおびてくることになる。タクト(Takt, tact)とは、語源的には、人との『接し方』という意味で、人と接するさいの『気転』『機才』『応答力』などと呼ばれている。」10) と記し、「共感と応答」を授業においてつくりだす「教育的タクト」が教師にとり大切であると述べている。土井の「人間力」と吉本の「教育的タクト」は、「接し方」「力量」など多くの点を共有することから、ほぼ同一線上にあるものと考えていい。されば吉本が述べているように「刻々の応答的な対応力としてのタクトは、しかし、決して『名人芸』なのではなく『生まれつきの才能』でもない」という言が同じく「人間力」にもいえる。
 YOU遊サタデーの実践は吉本の次元からすれば、準備段階における遊学プランの構想などの未熟さを指摘できる。しかし、これはYOU遊サタデーが、吉本のいう教育的タクトを各々の学生が探し出し形成する実験的な場であることから当然である。しかもYOU遊サタデーは学校と違い、異年齢、異性別の集団を相手とする。万一「生まれつきの才能」として教育的タクトなり人間力を持ち合わせていたとしても、必ず乱れが生じるのである。YOU遊サタデーには常に自己をずらし続けなければならない緊張状態が学生に対し開かれているといえる。吉本に則するならYOU遊サタデーは、教師(=オーケストラの指揮者)になるため、最も自分に合ったタクト(=指揮棒)がどれであるのか、試行錯誤して見つけ出す場であると表現できるであろう。
 教員養成学部である信州大学教育学部においてYOU遊サタデーは、誕生すべくして誕生した応用教育実習の場であったといえる。教師になるための前段階であるからこそ、学生たちは伸び伸びと自由な教育実践を展開でき、そして地域社会とも気軽に接することができたのである。そして教育学部に限らず、広く参加者を募り輪を拡げてきた点を注視すれば、YOU遊サタデーが必ずしも教育実践にのみ有効というわけではないことがわかる。ゆえに実践的指導力や教育的タクトといった概念ではなく、より一般的な「人間力」が表現として適していると思われるのである。
 学生にとりYOU遊サタデーの存在は、揺れ動く自己を確認することであり、そして揺れやずれの中から新たな自己を見つけ出す機会に他ならない。さらにその場に集う人々との想いの交わし合いを通して人間としての深みを身につけていくのだと思われる。つまり学生たちはYOU遊サタデーをきっかけとして教育学部について考え、子ども達を見つめ、自己に思いをめぐらし、他人を想うことの大切さを感じとった。こうした普段の学生生活では生起し得ない様々な心的経験に遭遇できたことこそYOU遊サタデーの実際的意義なのだといえる。

5.おわりに

 土井進は『平成6年度「信大YOU遊サタデー」の実践−体験的学習の指導による実践的力量の形成−』のあとがきにおいて「子どもたちの喜びを我が喜びとするために全力投球している学生たちの生き生きと輝いた姿によって、教育学部キャンパスが蘇生したように感じられた。」と感慨を記している。渡辺一博が雑誌の取材に対して「今では信州大学が誇りに思えるし、そう言えるようになった」と答えた、その意識の変化だけでも意味がある。筆者もまた母校を誇れるようになり、そして多くの尊敬できる後輩や同輩、先輩と出会えた。他の誰でもないその仲間がそこに居たことこそ大切なのであり、単純に人間同士の葛藤があれば良いと記述することではないと思う。だからこそ本活動は「信大YOU遊サタデー」という固有名称であり、いずれ変わるべき時が来なければならない。

 

〔注〕

1) 土井進「〈実践報告〉『信大YOU遊サタデー』のもつ応用教育実習としての意義」信州大学教育学部教育実践研究指導センター紀要第3号 1995
2) 小林洋文「教育県の社会史・序説 −『教育県・長野』の考察−」(中内敏夫他『社会規範 −−タブーと褒賞』藤原書店1995)
3) 小林輝行「明日の教育と教員養成の課題」(『信濃教育』第1300号 信濃教育会1995)
4) 小林輝行は「教員養成を目的とする大学・学部の教員就職率が五割をきるような現状が続くならば、教員養成大学・学部は一県一校は必要なく二県に一校あればよいのではないか、また、中学校・高等学校の教員養成は、現在の開放制免許制度のもとにおいては、教員養成大学・学部でする必要がないのではないか、といった議論が財政当局等を中心に現在根強く存在する。現に、今年度より文部省は教員養成学部の縮小に明確に踏み切り、後者の問題については、昨年十月ごろから既に議論の段階から現実的問題として、大学改革の中に登場し始めてきている。」と切迫した現状をも記す。
5) 山口直行「信大YOU遊サタデーが目指すもの」(『平成6年度「信大YOU遊サタデー」の実践 −体験的学習の指導による実践的力量の形成−』信州大学教育学部附属教育実践研究指導センター1995年3月)
6) いわば自己制御力能の必要性を指摘していると考えていい。しかし筆者は、自己制御力能をふまえた自己表現力能まで論議を進展させたいと考えている。つまり「場」を形成するための力として開かれていることが望まれるのである。
7) 奥原克水による実践記録参照のこと。
8) 林向達「第1期YOU遊サタデーをつくる」(『平成6年度「信大YOU遊サタデー」の実践 −体験的学習の指導による実践的力量の形成−』信州大学教育学部附属教育実践研究指導センター1995年3月)
9) 渡辺一博 冊子『「信大YOU遊サタデー」の手引き』1995年10月9日発行
10) 吉本均「教育的タクトとは何か」(柴田義松・杉山明男・水越敏行・吉本均編著『教育実践の研究』図書文化1990)