メタ認知的素朴理論?

先日,大阪の小学校に助言講師としてお邪魔しました。

ICT活用をテーマとした公開授業でしたが,活用の拠点校として,公開されたいずれの学年もICTそのものにフォーカスするのではなく,授業のねらいを達成するために取り入れられた形となっていて好感が持てました。

私の話でも,ICTそのものより,改訂された学習指導要領が,これまでとよく似た顔をしながらも体質をガラッと変えてしまったフルモデルチェンジ相当のものであることをお伝えしていました。

その中には「資質・能力」や「見方・考え方」というキーワードとともに「メタ認知」についても取り上げていました。

この1週間くらい前,私はベイトソンの「学習とコミュニケーションの階型論」(『精神の生態学』)を読む機会を持ちました。

〈学習I〉〈学習Ⅱ〉〈学習Ⅲ〉というキーワードで知られるベイトソンの学習概念論をまとめた論文です。特徴的な分類名が印象に残っている方々もいらっしゃると思います。ちなみにベイトソンは「ダブルバインド」に関する言及が有名で,これも学習と深く関わる概念です。

「学習とコミュニケーションの階型論」をあらためて読み,これは学習の分類の話ではなく,学習の階型に関する話なんだと,論文タイトルが意味していたことをあらためて気がつかされました。自分は今まで何を見ていたのかと…。

あらためて…,
私たちが,あるメッセージを受け取るためには,メッセージを文脈に位置づけてカテゴライズする必要があります。この人何のこと言ってるんだろう?と考えることです。

小難しく言うと…
あるメッセージをカテゴライズする際,メッセージを「メンバー」,カテゴリーを「クラス」とすれば,「メンバーのクラス分け」が生じているといえるわけです。このクラスとメンバーという階層構造が厳密で,正しくメンバーをクラス分けをしないと,私たちの学習もコミュニケーションもうまく成立しませんよというのが学習とコミュニケーションの階型論の前提です。

実は,この時点ですでに「メタ」な要素が登場しています。
メンバーのクラス分けができるということは,すなわち全体を引いてみて俯瞰できているということ。一段上がったメタ的な視点でものごとを認知しているのだといえます。

つまり,階型というのは,単に区別して仕分けるだけの分類とは違い,階級の違いをメタ的視点で認識した上で上下関係を混同することなく仕分けることができることを意味しているのです。

ちなみに,せっかくですので学習の階型についてそれぞれの定義部分を若干要約改変して抜き出してみます。実はゼロとかⅣとかもあります。

〈ゼロ学習〉:反応が一つに決まっている
〈学習Ⅰ〉:反応が一つに定まる定まり方の変化,すなわちはじめの反応に代わる反応が,所定の選択肢群のなかから選びとられる変化
〈学習Ⅱ〉:〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化。選択肢群そのものが修正される変化や,経験の連続体が切り取られる,その切り取られ方の変化
〈学習Ⅲ〉:〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化
〈学習Ⅳ〉:〈学習Ⅲ〉に生じる変化。地球上に生きる(成体の)有機体が,このレベルの変化に行きつくことはないと思われる

ご覧のように,一つ前(下位)の段階の学習の変化に関して言及する定義になっていることが分かります。

また,「ダブルバインド」は,階型の違う(等級の違う)メッセージ同士が矛盾を引き起こしていることで生じる現象とされています。

たとえば親子関係で,親が子を遠ざけたり敵意があるような行動(メンバー)をとってしまっているにもかかわらず,これを「あなたのことを愛しているから」と子を想っているように言及(クラス分け)するといったような状況です。

そんな風にベイトソンの論文に刺激を受けて,階型論やダブルバインド,メタ認知のことが頭の中をかき混ぜている時に,小学1年生のクラスの公開授業を参観したのです。(やっと本題が帰ってきました)

算数で「数を数える」教材をデジタルで作成して用いる授業でした。ICT活用そのものは特別なものはなく素直なものでした。これは全学年で地に足のついた利用ができていたという意味でよいことです。

金魚の数を数える題材でした。
しかも金魚には種類の違うものがありますから,「わかりやすくせいり」して数えることを学習のねらいとしています。金魚は良いモチーフだと思えました。

しかし,これがくせ者でした。

金魚は,昨年6月ごろに行なわれた授業参観時の教材モチーフとして,すでに登場済みだったのです。そしてこれにまつわる経験がこの1年生クラスには共有されて残っていました。

「先生,またいじわるするつもりやろ」

どうも昨年の先行授業の金魚を使った教材で,少々意地悪な演出をしたことが子どもたちには印象に残ったらしく,今回もそれで引っかけようとしているんではないかと子どもたちが思ったようなのです。

こうした連想にもとづく子どもたちの反応は,授業では珍しいことではありません。ちょっとの脱線があって「でも,今回は違うから大丈夫」とでも返せば,治まるのがパターンです。

ただ,今回の金魚は,凄かった。授業中,終始,先生は金魚で意地悪するんじゃなかろうかと突っ込みを入れてはクラスが涌くわけです。

担任の先生との関係性ができているからこそのやり取りだから,このクラスにとっては大したことではなかったりでしょうけれど,初めて訪問した私の目には凄い光景にしか見えませんでした。

そして私は,助言のために用意していた「メタ認知」の話と,ベイトソンのコミュニケーションの階型論のことを思い返して,日本の授業に展開するメタコミュニケーションが思っている以上に大きな問題なのではなかろうかという妄想を展開するようになっていったのです。

もっと乱暴に言って,大阪・関西というエリアに対するステレオタイプにもとづいて考えてしまうなら,笑いとか関西ノリのようなメタコミュニケーションに対する認知が異様に発達している子どもたちに立ち向かうことの難しさを,あらためて痛感したのでした。

今度の学習指導要領が「メタ認知」を含んだ能力観を前提としているなんてことがよく言われたりするわけですが,実のところ,本音と建て前という形でも分かるように日本というのは高度にメタ認知を働かせている文化圏であり,いまさらメタ認知を意識して…という次元では全くないわけです。

むしろ必要なのは,すでに日常生活や社会生活の中で培われてしまっているメタ認知のメタ認知的知識やメタ認知的技能などを,その上の次元を駆使してどうやって学習へと仕向けさせていくのかというメタメタ認知的な方略を考えることではないかと思えたのです。

私たちは,日常生活の観察にもとづいて身につけてしまう知識や概念のことを素朴概念とか素朴理論といって,ときに正しい知識と矛盾する場合の誤概念をどうやって学びほぐす(アン・ラーニングする)のかについて議論することがあります。子どもたちは全くの白紙で学校にやって来て授業を受けるわけではないからです。

同様な意味で,メタ認知についても日常生活のコンテキストにもとづいてある種の素朴概念や理論が身に付いてしまっていると考えるのは不自然なことではないと思います。

だとしたら,この「メタ認知的素朴理論」とでもいったものをどうにかするためのメタメタ認知的なアプローチを考えていくことが必要な領域もきっとあるのではないか…。

ちょっと妄想が過ぎましたが,ベイトソンの学習の階型論を〈ゼロ〉から〈Ⅳ〉まで辿っていくことを考えると,思考実験的ではありますが,もしかしたら実際の授業を読み解く際の面白い捉え方ができるのではないかとも思います。

今回は全員の良好な関係性の中で展開される素直なコミュニケーションでしたが,一方で,等級の異なるメッセージ同士の矛盾によるダブルバインドのことを考えると,むしろこっちの状況で悩んでいる人が実際問題多いのかも知れません。

お父さんとお母さんとで言っていることが矛盾しているとか,先生と先生とで言っていることが違うとか,国と教育委員会とで言っていることが違うとか…。

ベイトソンに言わせれば,日本人はみんな精神分裂症を発症しているのかも知れません。それが当たり前になっているというだけで。