Mind your own business

海外と日本の学校教育を比較することは,日本の学校教育を見直す機会や視点を与えてくれます。

たとえば批判的な見直しの中には,日本の学校教育が強く「一斉授業」型に傾倒していることを批判するものもあります。海外の学校で展開している個別的・協働的な学習活動の様子が対照的に紹介されるのです。

最近,私自身とある洋書の翻訳に携わりましたが,工業時代の時間ベースの教育システムから,情報時代は到達ベースの学習を促進させるシステムへとパラダイム転換すべきであることが強く主張されたものでした。

しかし,海外の事例を参照して日本の学校教育を批判的に見る試みには,いつも文化的な違いが乗り越えられない課題として立ちはだかります。

明治・大正時代の教育改革における「教育権」に対する理解が日米で異なっていることから始まって,戦後における「民主主義」への理解の土台も国家中心であったこと等が,今日の日本の学校教育を縛り続けて離さない現実があります。徳久恭子『日本型教育システムの誕生』で示されているように,教育権は「教権」として国家のもとにある教員の権利として認識され,国民の権利に優先するのが日本型なのです。

国家のもとでブラックな状況に置かれた教員が,それでも国民を強化する存在として責務を全うするために,一斉授業という方式を歓迎し,世界的にも注目されている授業研究文化の中で研ぎ澄ましていったのは,当然の流れだったのだろうと思います。

書店の本棚を眺めていたら,面白い本を見つけました。

『アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで』(ひとなる書房)
https://www.amazon.co.jp/dp/4894642425

タイトルに惹かれて手に取ると,読みやすい文章でアメリカの学校の様子がルポされています。それとともに,そこで感じる日米の違いについてインクルーシブ教育を中心に見聞きしたこと考えたことを真摯に綴っているのです。つまりインクルーシブ教育も日米で捉え方が異なっているし,日本でインクルーシブ教育に取り組むことの難しさがあるようです。

その本に書かれている日米の違いを象徴する言葉が「Mind your own business」です。この本での翻訳は「自分のことをちゃんとしなさい」です。書かれたエピソードは本を読んで楽しんでいただきたいですが,要するに著者がアメリカの学校で目にしたのは,他の子が違うことをしていたとしても,わざわざ干渉して構わないことを先生が子供たちに徹底していたという光景です。

著者はこの一見「利己的」に見える対応に違和感を示しつつ,一定の理解もできると語ります。その悩ましさを率直に綴りながらインクルーシブ教育の可能性を模索する興味深い本です。

その本を読んでいる,ちょうど同じタイミングで徳島にお客様。学校教育の様子を話していた文脈で,私がハッキリ言う前にお客様の方から「Mind your own business」という言葉が飛び出しました。

その方は中高生のときに「Mind your own business」を英語の授業で「私のことはほっといて」という翻訳で学んだといい,英文と日本語の対応の違いを不思議に思ったのが印象的であったとのこと。それ以来,ずっと心に残っている言葉になっているそうです。

日米に限らず,国の文化の違いは今後も残り続けると思います。だからこそ,相手の国の文化的な作法を知って対応できるようになることは大事なことかなと思います。

日本人が完全に「Mind your own business」姿勢へと変わることはあり得ません。ただ,ネットの社会になって人間同士の関わり方も不用意に近くなる場面が増えているとしたら,あえて「Mind your own business」の姿勢を前面に出していくことも必要になるのかなと考えたりします。

(追記)

先日公開されたTechCrunchの記事(「AltSchoolは子供たちの学習の変革を目指す、しかしそこで学ぶ子供たちの将来に対する懸念が浮上」)も、国によって教育に取り組む文化的な背景や姿勢が違い、現状をどのように認識してどのようなバランスに向かってアプローチするか、それぞれの土壌で考えなければならないことを考えさせるものでした。

フローチャートよ、もう一度?

せっかくの連休なので大学図書館で過ごしました。県内の他大学と自分の大学の2つ。短縮開館ですが,落ち着いた雰囲気で資料漁りができました。

1970年前後の頃の文献資料を拾い続けています。過去の言説を掘り続けていると,確かに歴史は繰り返しているという部分がないわけではありませんが,まったく放ったらかして引き受けもしないで今日に至っている事柄も少なくありません。そのようなものを整理して光を当てていければと思いますが,それはまたいずれ形にしたいと思います。

1970年代初頭の文献を眺めていて気づくのは「フローチャート」満載だということ。

フローチャートといえば,今日ではプログラミング体験・学習の文脈で学習活動に取り入れるかどうかという注目のされ方をしているものです。

10月に行なわれた日本教育メディア学会大会では,地元企画として教科学習におけるプログラミング教育の公開授業が催され,振り返りの議論が行なわれていました。小学6年生の算数「形が同じ図形」でしたが,そこで図形の拡大図・縮図・合同な図形を分類する手続きを表現する手段としてフローチャートが用いられていました。

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 この公開授業に噛みついたのは私ですが(毎度すみません…),それは算数という教科の見方・考え方とプログラミング的思考あるいはプログラミング体験要素の組み合わせ方やバランスについて,授業者の先生がどういう思慮・苦慮のもとで今回の授業の形に至ったのかを質問したものでした。

 この議論を中途半端にご紹介するのは誤解を招く可能性もありますので,また機会を改めて詳述するつもりです。ただ,(写真に表記されたような)フローチャートづくりが教科学習の中でのプログラミング体験であると短絡的に理解することは,現時点では問題が多く残されてしまうと感じます。

 そういう意味で,この夏に小学館から刊行された『プログラミング教育導入の前に知っておきたい思考のアイディア』も誤解を招くムックであると言わざるを得ません。

 基本的にこのムックが問題視される大きな原因は表紙と解説にあります。

 書名が表している通り,ムックの内容(特に実践アイデアパート)は「思考のアイデア」,つまり裏表紙に紹介されている「思考ツール」の系統に属する内容を扱ったものですが,表紙はプログラミング教育の関連の本であることを訴求し,研究者の解説パートはプログラミング的思考を論じています。

 解説パートと実践アイデアパートを接合するのは,「プログラミング的思考の要素」として紹介された「順序(順次)」「場合分け(分岐)」「繰り返し(反復)」であり,これを各教科の学習活動で行なえるようなアイデアを紹介しているという構造になっています。

 それらの要素をもっともよく見える化するものが「フローチャート」であり,このムックの実践アイデアにもたくさん用いられているというわけです。

 しかし,このムックにはフローチャートそのものをどう扱うべきかはほとんど論じられていません。もし短絡的な理解をする読者がいれば,フローチャートをつくることで教科の中でプログラミング的思考を扱ったことになるのだと読みとるかも知れません。

 このムックはそもそも「思考ツール」を扱ったシリーズの一冊ですから,フローチャートを始めとした思考ツールに関する議論は別のムックや書籍を参照してね…という割り切りの位置付けにあるのでしょう。表紙のデザインはともかく,これは論理的思考に関する実践の「ジャスト・アイデア」(たとえばのちょっとした提案)というムックなのです。

 フローチャートがプログラミング的思考と関係ないということではありません。とはいえ,そう単純な話ではないということを勘案してくれる読者がどれほどいるのか。そのことを思うと,このムックに関しては批判的な検討を加えながら広く議論されていくべきだと思われます。

1970年代の文献資料にフローチャートが満載であった理由ですが,当時は教育工学という学問が助走期を経て本格的に立ち上りつつあった時代であり,「授業のシステム化」「学習指導の最適化」といった考え方について大いに議論が盛り上がっていたのでした。

かつての授業研究や開発の分野はその手法においてプログラミングを強く意識していたのです。よい授業を図式化するということも真剣に議論され,フローチャートはその手段の一つだったわけです。その名残は,一部地域の授業指導案の書き方にも残っています。授業の流れをフローチャートで表現する地域や学校があるのです

学校全体の教育方針や研究方針を図化する中でもフローチャートの利用は珍しくはありませんが,今後カリキュラム・マネジメントの取り組みもますます議論されていくことを考えると,フローチャート満載時代が再びやって来る?のでしょうか。

「未来の仕事の65%が今はまだない」のその後

 2011年〜2012年頃に次のような文言が話題にのぼりました。

「2011年にアメリカの小学校に入学した子供たちの65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就く」

キャシー・デビッドソン氏(ニューヨーク市立大学教授)の予測

この予測は,様々なニュースや記事で取り上げられて,国の審議会でも触れられるに至り,たとえば次のような文書にも注釈として引用されています。

20141222「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)(中教審第177号)」
20150217「産業競争力会議 雇用・人材・教育WG 提出資料」
20150826「教育課程企画特別部会における論点整理について(報告)」
20150826「教職員等の指導体制の在り方に関する懇談会提言」
20160616「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)」
20161221「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号)」 

ちなみにこの元ネタはニューヨークタイムズ紙のインタビュー記事とされています。

20110807「Education Needs a Digital-Age Upgrade」(NYTimes)

しかし,当の予測者であるキャシー・デビッドソン氏は,2012年から「65%」という数値を使っていないと告白しています。

I’ve not used the figure since about 2012

20170531「65% of Future Jobs Haven’t Been Invented Yet? Cathy Davidson Responds to Cathy Davidson and the BBC」(hastac)by Cathy Davidson

ご本人は,開き直ってか,「すべての仕事が何かしらで変わってる」(100% of our jobs have changed in some way, if not in the actual methods we use, then in their economics, delivery systems, or their future)と持論展開されています。

これはBBCのインタビューに呼応して書かれたブログで,ご本人の生声による弁明はこちらで聞くことができます。

20170530「Have 65% of Future Jobs Not Yet Been Invented?」(BBC)

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いったい「65%」の数値はどこから来たのか?

キャシー・デビッドソン氏本人が書いているように,Jim Carroll著『Ready, Set, Done』 (2007)を読んで,その引用を辿って閲覧したオーストラリアのWebサイトから,「65%」を別の著書で引用し,それを新著で再利用したのだが,もとのオーストラリアWebサイトが新しい政権になって閉鎖されたため確かめようがなくなったのだといいます。

この件については,

20170711「65% of future jobs, which doesn’t exist, 70% of jobs automated, just not yet」(SPATIAL MACHINATIONS)
20170708「A Field Guide to ‘jobs that don’t exist yet’」(Long View on Education)
20170706「The Undead Factoid: Who Decided 65% of the Jobs of the Near Future Don't Exist Today?」(The Edtech Curmudgeon)
20161102「012 65%の都市伝説」(21世紀のヒューマン)
20150730「0085: 150730 「出典」は、果たしてどこに?(その2):"65%" の謎」(Here and Now 704 : いま、ここ、から。)
20150527「A Myth for Teachers: Jobs That Don’t Exist Yet」(Scenes From The Battleground)

といったWeb記事で話題にされていました。

10年ほど前に流行った「Did you know?」インフォグラフィックムービーでも同じようなモチーフのデータ提示がありました。こうした「未来への備えのために教育を変えなきゃ」言説は,関心を集めるのに便利であるため,私もやってしまっている側です。

それだけに,その根拠を確かめるところについても,気を配れたらと思います。

何を想い,諮問し答申するのか

学習指導要領改訂は,諮問と審議と答申の過程を経ることが定式化しています。

何かを問い何かを答えるにあたっては,どんな現状認識にあって,どんな未来を想定しているのかも重要になってきます。

そういえば,過去の諮問や答申は,何を想っていたのでしょう。少し巻き戻しを…。

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 【平成29(2017)年】

[平成29年改訂 諮問]20141120 初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)

「生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく変化し,子供たちが就くことになる職業の在り方についても,現在とは様変わりすることになるだろう」

「成熟社会を迎えた我が国が,個人と社会の豊かさを追求していくためには,一人一人の多様性を原動力とし,新たな価値を生み出していくことが必要」

[平成29年改訂 答申]20161221 幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号)

「近年顕著となってきているのは、知識・情報・技術をめぐる変化の早さが加速度的となり、情報化やグローバル化といった社会的変化が、人間の予測を超えて進展するようになってきていること」

「第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来が、社会や生活を大きく変えていくとの予測がなされている」 

 【平成20(2008)年】

[平成20年改訂 諮問]20050215 中央教育審議会(第47回)議事録

「主要先進国では、各国とも国の命運をかけて教育改革に取り組んでおります。時代や社会の変化の中で、我が国が様々な課題を乗り越えて真に豊かで教養のある国家として更に発展していくためには、切磋琢磨しながら新しい時代を切り拓く、心豊かでたくましい日本人の育成を目指し、国家戦略として、教育のあらゆる分野において人間力向上のための教育改革を一層推進していかなければなりません」

[平成20年改訂 答申]20080117 幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)

「21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-basedsociety)の時代であると言われている。
 「知識基盤社会」の特質としては、例えば、①知識には国境がなく、グローバル化が一層進む、②知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる、③知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要になる、④性別や年齢を問わず参画することが促進される、などを挙げることができる。」 

「このような知識基盤社会化やグローバル化は、アイディアなどの知識そのものや人材をめぐる国際競争を加速させるとともに、異なる文化・文明との共存や国際協力の必要性を増大させている。
 「競争」の観点からは、事前規制社会から事後チェック社会への転換が行われており、金融の自由化、労働法制の弾力化など社会経済の各分野での規制緩和や司法制度改革などの制度改革が進んでいる。このような社会において、自己責任を果たし、他者と切磋琢磨しつつ一定の役割を果たすためには、基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれらを活用して課題を見いだし、解決するための思考力・判断力・表現力等が必要である。しかも、知識・技能は、陳腐化しないよう常に更新する必要がある。生涯にわたって学ぶことが求められており、学校教育はそのための重要な基盤である。」

【平成15(2003)年】

[平成15年改訂 諮問]20030515 今後の初等中等教育改革の推進方策について

「我が国の社会が現在直面している様々な課題を乗り越え、今後さらなる発展を遂げ、国際的にも貢献していくためには、教育の普遍的な使命と新しい時代の大きな変化を踏まえ、21世紀を切り拓(ひら)く心豊かでたくましい日本人の育成が重要であります。」

「新しい時代の学校にあっては、より一層、子どもたちに豊かな心をはぐくむとともに確かな学力を身に付けさせ、保護者や国民の信頼に十分こたえることができるよう、一人一人の個性に応じ、その能力を最大限に伸ばす創意工夫に富んだ教育活動が行われることが重要であります。」

[平成15年改訂 答申]20031007 初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について(答申)

「いまだかつてなかったような急速かつ激しい変化が進行する社会を一人一人の人間が主体的・創造的に生き抜いていくために,教育に求められているのは,子どもたちに,基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力,自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性,たくましく生きるための健康や体力などの[生きる力]をはぐくむことである。」

「今後の社会においては,少子高齢化社会の進行と家族・地域の変容,高度情報化・グローバル化の進展,科学技術の進歩と地球環境問題の深刻化,国民意識の変容といった歴史的変動の潮流の中で既存の枠組みの再構築が急速に進むものと考えられる。こうした状況にあって学校教育の果たすべき役割を考えたとき,学校・家庭・地域社会の連携の下,新学習指導要領の基本的なねらいである,基礎・基本を徹底し,自ら学び自ら考える力などを育成することにより,[確かな学力]をはぐくみ,豊かな人間性やたくましく生きるための健康や体力なども含め,どのように社会が変化しても必要なものとなる[生きる力]の育成を進めることがますます重要となってきている。」 

【平成10(1998)年】

[平成10年改訂 諮問]19960827 諮問文「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」 (教育課程審議会)

「幼児児童生徒の人間として調和のとれた成長を目指し、国家及び社会の形成者として心身ともに健全で、21世紀を主体的に生きることができる国民を育成するため、社会の変化や幼児児童生徒の実態、教育課程実施の経験などを考慮するとともに、中央教育審議会の答申を踏まえ、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校を通じて教育上の諸課題を検討し、教育課程の基準の改善を図る必要がある。」 

[平成10年改訂 答申]19980729 幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について(答申) (平成10年7月29日 教育課程審議会)

「今日、我が国は、国際化、情報化、科学技術の進展、環境問題への関心の高まり、高齢化・少子化など社会の様々な面での変化が急速に進んでおり、今後一層の激しい変化が予想されている。これらの社会の変化は、子どもたちの教育環境や意識に大きな影響をもたらし、教育上の様々な課題を生じさせるものと思われる。
 このような激しい変化が予想される社会において、主体的、創造的に生きていくためには、中央教育審議会第一次答申においても指摘されているとおり、自ら考え、判断し行動できる資質や能力の育成を重視していくことが特に重要なこととなってくる。」 

【平成元(1989)年】

[平成元年改訂 諮問]

[平成元年改訂 答申]19871229 教育課程の基準の改善について(教育課程審議会 最終答申)