デジタル教材・教科書のデザイン

 先日,原稿依頼を受けたのでデジタル教材と教科書のデザインに関する原稿を書きました。
 「デジタル教材・教科書デザイン」という題目だけ与えられたので,それを純粋に引き受けた内容を書いたのですが,学校の先生向きの内容にはならなかったなぁという感じで終えてしまいました。
 思うに教材デザインという分野に関係するのは,教材開発することを商売としている人々がほとんどで、学校の先生方は教材デザインというより授業デザインを気にする人の方が圧倒的に多いはずです。
 それでもデジタル教材・教科書のデザインというテーマを論じる機会は滅多にないので、あえて変化球を投げてみることにしました。

 デジタル教材や教科書の定義や理解のされ方に関しては,いくらか先行議論があるので,それを参照することから始めました。
 デジタル教材・教科書のデザインを論じるということは,デジタル教材・教科書とは斯くの如きものを論じるようなものなので,なかなか難しい。
 紙数のため十分な指摘は盛り込めなかったのですが,諸外国の「digital textbook」や「electronic textbook」という言葉は緩やかな括りになっていて,Web上で実現されている役立つ学習コンテンツなら何でも範囲に含めてしまうところがあります。
 それを日本で「デジタル教科書」と訳して理解しようとしたときに,眼前の検定教科書をデジタル化することを起点として議論が展開し、Webで提供されている学習コンテンツは「デジタル教材」であっても「デジタル教科書」じゃないよねみたいな理解が確立されてしまったわけです。
 正直なところ,海外の基準に照らせば、日本ほどデジタル教科書資源が豊かな国もないかも知れません。だから,海外からすれば、世界に誇る電子機器メーカーを有しているのに学校には端末が導入されず、少なくない学習資源を有しているにも関わらずNICERのような事業を停止してしまう,クレイジーな現実が理解できないでしょう。
 この時点で,日本におけるデジタル教材・教科書デザインの取り組みは,社会的な動きとして大いに理不尽なのですが、これをあえて日本なりの伝統的な教育方法の完璧主義がもたらした遠回りだと前向きに捉えることにして,ならば,どのようなデジタル教材・教科書が求められているのかを考えていくことが大事になります。

 これまで印刷図書の教科書であれば、その編集や出版こそがデザイン活動でした。これがデジタル教材・教科書になった場合,これまでとは異なるデザインの考え方やり方が必要になります。
 そこでまずは教材の構造をコンテンツ,メディア,ツールの3つからなるものと考えて、それぞれの角度からデザインを考えていくことにしました。多少無理の生ずるやり方ですが,限られた紙数で考察するには,こうした方がマシなときもあります(マシなだけで良くはなりませんでしたが…)。
 いわゆる定番のインストラクショナルデザインの理論は無視できないので軽く触れた上で、デジタルコンテンツの代表ともいえるWebサイトの構築でよく参照される情報デザインとか情報アーキテクチャという知見も活かせることなど触れました。
 さらにデジタルデータの特性やデジタルデータを扱うツールのデザインも別途考えなければならないことをバタバタと触れて、最後にデジタル教材・教科書の本質は「履歴」をどう学習に活かすのか,ということだと指摘して紙数が尽きました。

 相変わらず問いだけ発して終わってしまった消化不良感残る原稿ですが、言いたかったことは、「デジタル教材・教科書のデザインは授業・学習活動から逆算しなければならない」ということです。
 従来の教授・学習自体が,図書教材・教科書を前提として構築されてきた成果物なので,慣れ親しんだ印刷物(本や冊子)を使う限りほとんど悩みは発生しません。
 しかし,デジタル教材・教科書の場合、デジタルで記録されたコンテンツが同一だとしても,実際に操作するツールの使い勝手によって教授・学習活動は変わってきてしまいます。
 そのツールとは多くの場合,パソコンなどの情報機器ということになりますが,本や冊子のときにはあまり考える必要もなかった「安全性」「信頼性」「簡便性」といった要素を改めて吟味し、これらを満たさなければなりません。
 さらにデジタル教材・教科書であることの最大のメリットとは,履歴をとれることです。デジタル教材・教科書を使用して学習する過程を様々な方法で記録に残すことで,それを指導・学習の深化・促進に活かすことが可能となります(必ず活きるというわけではなく、活かすことが可能になるという程度のことだと自制的に理解したほうがよいと思います。学習の道具は,あくまでも道具なのですから…)。
 今後は,こうした活かし方ができるようにデジタル教材・教科書自体が進化していく必要があるということを示唆しました。

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 さてここに,とある文具店で写させていただいた風景写真があります。ノート売り場の棚です。主に小学生向けの学習ノートですが、様々な種類があるとわかります。
 デジタル教材・教科書に電子ノート機能をつけて,児童生徒が学習の記録を残せるようにしているものがたくさんありますが、残念ながらあまり満足のいく出来ではありません。
 こうした文具店の風景を見れば,ノートが如何に多様な目的や要望に合わせてつくられているかが分かりますし、簡単な電子ノート機能をつけただけでその幅広い要望を満たせるわけがないことも容易に納得できます。
 履歴を残すという以前に、私たちが教授・学習という活動で営んでいた諸々を,もっとつぶさに観察して理解していくことがとても大事だということが分かります。
 
 デジタル教材・教科書をデザインするとは,教授学習の文化を創造していくことですが、そのためには従来の伝統文化に対する真摯な対応を省略するわけにはいかないということを私たちは理解して、前進しなければならないと思います。
 

追悼 Steve Jobs氏

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 この人を知ったのはいつのことだろうか。
 私がMacユーザーになったのは大学生の時に大学のMacを使い始めてからだが,アップル社の製品を憧れたのはApple IIcの頃からであった。
 だから,正確にはJobs氏を知るのは,彼の生み出したモノの歴史を追いかける中で,創業ストーリーを聞いた機会だったのだと思う。
 二人のスティーブ… 最初はWoz氏の技術に魅力を感じていたのだろうけれど,直にJobs氏の存在感が強く意識されるようになった。

 Jobs氏を直接見たのはMacWorld Expo Tokyo 2000だった。
 展示会場を回る彼を追っかけて「We love you, Steve!!」と叫んだものだった。
 たった11年前のことである。
 その間のアップル社の快進撃はご存知の通りである。

 教育とコンピュータに関わる以上,アップルを無視することは難しい。
 そして,私は胸を張ってのアップル・ファンである。
 一時は,教員の職を辞めて,Apple Storeスタッフに転職しようともした。
 運命はそれを受け入れはしなかったけれど,いまでもアップルの哲学に共感する。

 Mr. Jobs,あなたが居なくなるなんて,とても寂しい。
 

20110917-19 日本教育工学会 第27回全国大会に参加しました

 2011年9月17日から19日まで,首都大学東京にて日本教育工学会 第27回大会が行なわれましたので参加してきました。

 教育の情報化関連のお仕事を追いかけていて,末端とはいえ国の事業である「フューチャースクール推進事業」と「学びのイノベーション事業」に関わる人間となった今,それに関して学会の場で報告することは当然のこと。

 今回の学会大会では,事業1年目の報告を兼ねて,研究者としてどう関わるべきかについて投げ掛ける発表を行ないました。それについては発表スライドが別のエントリーに掲げてありますので,そちらを参照してください。

 今年は、とても良い会場と運営に恵まれた大会でした。

 その部分に関する不満がほとんど意識に上らなかったのは珍しいことかもしれません。いや、珍しいかどうかさえも考えなかったくらいトラブルもなくスムーズに運営されていました。ですから、素晴らしかったのだと思います。

 これは、これまでの大会運営から真摯に学び、実際の準備と運営に活かすことに専心したきた関係者の皆さんのおかげだと思います。

 一方、今年の学会の中身については、複雑な気持ちを抱く結果となりました。

 特に、学会の取り組みを象徴するといってよいシンポジウム企画において、「この国の現在」と学術研究をどう交わらせるのかといった学会としての姿勢が読み取りづらかったことは、私の不満を大きくしてしまいました。

 

 たとえばシンポジウム「デジタル教科書時代の新たな学びと指導方法」は、実にタイムリーなタイトルであり、文部科学省が学習者用デジタル教科書を開発して実験していることもあって、どのような示唆が得られるのか期待されていました。

 しかし、一つ一つの発表は興味深かったものの、そこから示唆されたことは、小柳先生の発表にあったTPCK (Technological Pedagogical Content Knowledge) などから見通される教師の新たに必要となる知識技能を持つことの重要性や、柴田先生の発表が指摘するように授業のありようを「持ち帰り型」から「持ち寄り型」へと変革することの必要性が了解されたところに留まりました。

 もちろん、ここから自分なりに読み取り、現在進行中の国家事業を検討する観点として適用することは可能かもしれませんが、むしろそこをシンポジウムの場で議論したり、一定程度の共通理解としてまとめていただきたかったと思うのでした。

 一つ一つの商品をショーケースに持ち込んではみたものの、お客が見やすいようにショーケースの中をアレンジせずに終わった感じになっていると言えます。

 それよりも大きく不満を募らせたのは、2日目のシンポジウム「グローバルな時代において日本の教育工学は何ができるか」でした。

 シンポジウムの事前紹介文には、こんなフレーズが含まれていました。

「日本の教育工学研究は,これまで以上にグローバルな教育のための研究を模索し,国際的に成果を発信し,国策をリードしなくてはならない.」

 このような前提で「日本で教育工学を研究するということは…」を考えていく企画意図であったわけですが、気がつけば「日本教育工学会はどうあるべきか」といった課題も巻き込んで議論が進められようとしていました。

 その混在が物事の理解を混乱させたように思います。

 

 テーマに関する基本構図は次のようなことだと私は理解しています。

  • グローバルな時代において教育工学研究者として生きる以上、海外フィールドで活躍することは大変重要である。
  • 海外のフィールドで活躍するためには、様々なノウハウがあり、また心得なければならない姿勢や態度のようなものもある。
  • また、日本人である以上、自国の教育について見識を持ち合わせなければならず、その立場から研究成果を発進して国際貢献すべきである。
  • 日本教育工学会は、若手が海外フィールドへ進出することを奨励しており、積極的な支援策を講じる用意があるのでアイデアが欲しい。

 ところが、このようなことに「日本の教育工学は何ができるか」というタイトルを被せて考えようとしたところでおかしなことが起こります。

 

 「日本の教育工学」とは何かを考えたとき、解釈がバラバラになっていたのです。

 それは日本人が生んだ教育工学研究の知見という意味なのでしょうか、それとも日本人(もしくは日本をフィールドとする)教育工学研究者のことでしょうか、あるいは日本教育工学会などの日本の研究学術集団のことなのでしょうか。

 指定等論者は特に、日本の教育工学のことを日本教育工学会のこととして考えながら議論しようとしていたように思います。

 

 私にしてみると、シンポジウムの混乱も不満の対象となりましたが、そこで展開するやり取りから透けて見えた無意識な「国際重視・国内軽視」の姿勢に愕然としました。

 この調子では、いくら海外で活躍しても日本の文脈を捨てない限り世界から認められることはできなくなるのではないかという危惧を抱きました。

 もう一度、先に引用したシンポの紹介文を見てください。

 私たちはまずグローバルな教育のための研究をして国際的に成果発信をしてから、その後に国策をリードすると書いてあります。この場合の国策はもしかしたら日本のことではないかもしれませんが、日本も含まれていると信じましょう。

 どうも企画者側の通念としては、「国際→国内」という経路の方にプライオリティがあるようです。

 そのうえで、登壇者の国際活躍のためのレクチャーを聞いていると、総じて次のようなことを前提しているように私には聞こえました。

 「国内作法・流儀は通用しません。日本の文脈から抜け出て国際標準的な作法・流儀で研究を進めることが肝要です」と。

 そこで議論すべきことがあるとすれば、「日本の文脈に寄り添う教育工学研究をグローバルな文脈に乗せるためにはどうしたら良いか」ということであったはずです。

 しかし、残念ながら登壇者のほとんどは日本の文脈を離れることによって研究を進めてきた人たちばかり。おそらく、海外文献を年間300本読み、国際学術誌に投稿し続ける中で、日本の文脈をロジカルに発信することができるようになりますと言いたかったのかもしれませんが、必ずしもそう明言したわけではなかったので真意はわかりません。

 それならそれで、海外で活躍したい人たちは、今回のレクチャーを参考にして羽ばたいていけばよいだけのことですから大した問題ではありません。日本の文脈を離れて研究に慢心し、その成果を日本に持ち帰ってくれるなら、それも立派な学術活動です。

 しかし、もう少し広い視野で考えたとき、日本の文脈を後回しにしているツケは早晩やって来るように思います。

 そのように思ったのは、シンポジウムの議論が、日本教育工学会としてどうすべきかという議論にすり替わろうとしていたときでした。

 学会のあり方を論じる場として適当であったかどうかは議論の余地があるかもしれませんが、そもそもシンポジウム企画は昨年の続きという位置づけも与えられており、主催者側には学会の今後を議論してもらうという願いが当初からあったことは事実です。それもあって、最後は学会はどうあるべきかみたいな話になりました。

 ここで、例年なら私が手を上げて議論をふっかける展開も十分予想できましたが、私はTwitterを使ったバックチャネルの方で問題意識をツイートしており、それがどうも取り上げられる気配がないというところで、手を上げることも諦めました。

 私の考えはこうでした。

  • 国際的な活躍をすることは大事なことで、そのためには様々なリソースが必要になるから、大学機関や学会は多様な支援をすべきと思う。
  • 日本人である以上、やがて他国の研究者から「あなたの国は教育にどう取り組んでいるのか」と問われる場面が必ず訪れる。
  • 問いかけに対し、自国の教育の取り組み、自国の研究者たちはどのような取り組みをしているのかロジカルに説明できる準備があるのか。
  • 日本教育工学会に限ってみれば、自国の現在進行中の国策や国家事業についてまとまった発信も取り組みも見つけることが難しい。
  • このような国内を軽視した状態をそのままに、国際的な活躍の部分だけをクローズアップして論じることは、方輪走行のような不安定な状態ではないのか。

   だから私は登壇者よりも口悪く、こうツイートしたのです。

「私にはよくわかんない。かつてNIMEのような組織が国から消えたこともスルー、教育の情報化ビジョンのことも触れず、国家的な事業に対するコミットも無し。そういうのが普通だとすれば、私にはよくわかんない。国際的な活躍をしようというのは異論無いけど…」(20110918のツイート

 まあ、こんな危ないツイートを紹介できるわけもないでしょうから、無視されて当然だったかもしれません。それに企画でやりたいことも別のことでしょう。だから私は、今回は学習の成果を活かして、手を上げませんでした。

 海外で活躍する若手研究者の皆さんにとっては有意義なレクチャー企画だったと思います。また、研究とは何かを考える材料を提示してくれたという意味でも興味深いものだったと思います。

 

 私がたまたま国のお仕事に関わっているために、ネガティブに考えてしまったのだろうと思います。

 とはいえ、日本の教育工学は、国策や国家事業について、何ができるのでしょう。日本教育工学会は、所属会員に学会として何か示唆を与えてくれないものでしょうか。私が間違ったことを言っているのなら諭してくれることはないのでしょうか。

 一人でやっているわけではないはずなのに、私は一人で考え込んでいます。  

20110918 日本教育工学会大会発表スライド

 首都大学東京で行われた日本教育工学会 第27回大会にて一般研究発表をしました。国内の教育情報化の取り組みに対して学会などの研究者共同体がすべきことを少し論じました。お越しいただいた皆様ありがとうございました。
一般研究発表
「学校の情報通信環境整備事業の導入過程における問題と課題」
(日本教育工学会第27回大会,2011年9月18日(日))


AERA「Research Points」
http://www.aera.net/?id=314
情報処理学会「提言/プレスリリース」
http://www.ipsj.or.jp/release/pressrelease.html
 

[FS/LI] 20110906 地域協議会02と研究授業

20110906_fs.jpg フューチャースクール推進事業と学びのイノベーション事業の第2回地域協議会が開催されました。当日は外国語活動の研修会も同時開催されました。
 当日は,総務省として四国総合通信局の担当者と,文部科学省として本省の担当者の方が徳島にお越しになり,2つの省が揃った初めての協議会でした。
 協議会に先立ち,5年生と6年生の外国語活動の授業が,電子黒板とデジタル教材を活用して行なわれました。先生たちも子どもたちも多少緊張気味。外国語活動は授業の雰囲気やテンションも大事なので,その辺で研究授業でやるには四苦八苦が伴いがちです。
 それでも,先生方は準備や練習の成果を発揮して頑張られていましたし,子どもたちも途中からなんとかペースを掴み直してきたようでした。
 タブレットPCやデジタル教科書も授業の中の個別学習や協働学習の場面で活用されるなど,使い分けを配慮しながら取り入れられていました。
 もちろん,まだまだノウハウを蓄積しなければならなかったり,端末や教材側の改善改良が不可欠ですが,事業の主旨に則って,いろいろ試みがなされているところです。

 今回のように,文部科学省の担当の方が直接現場にお越しになるのは,事業の説明のためとはいえ,大変珍しいことです。
 いろいろと実証校に負担をかけている事について気にしているようで,まずは直接学校現場に足を運んで挨拶と説明をしなければならないだろうと考えて,全国の実証校を回っているのだそうです。
 担当者の方と直接お話をして,考えていることなど共有できたことはよかったと思います。今後の課題についても,大きく異論があるわけではなさそうです。
 とはいえ,事業自体は多くの関係者が連携して動く必要があるため,考えていることが即座にそのまま実現することは難しい側面があります。また,事業に対する批判者が少なからず居るとも聞きます。そうした人々の声で,現実は,思わぬ方向に動いてしまうこともあるかも知れません。
 とはいえ,少しでもこの事業が教育を前進させる契機になるよう進められればと,意見交換をしながら思いを強くしました。