20181010_Wed

水曜日なんだけど金曜授業。

専門ゼミナールで『ライフロング・キンダーガーテン』の第1章を読み始め。

諸般の事情で本が到着したのが本日だったので,ゼミ生達はまだ中身を読めていない。最初ということもあり,私が担当して概説をした。概要をつかんでもらおうと,レジュメを作成して一気に説明をしてしまったが,もっとゆっくり味わうように進んでもよかったなと反省。次回は事前に読んでもらっておいて第1章の再検討から始めたい。

その後,学生と談話。

進路についてあれこれ話を聞く。「どうすればいいのか,よくわからない」と困っている様子。学生によっては,本当に何も決まっていない場合もあるが,その学生は自分なりに関心のある分野の企業を調べてあたりをつけている。それでも教職と一般企業とを悩み,また一般企業でもそこでいいのか「何が正解かわからない」と思うところを話してくれていた。

私の乏しい人生経験から役立つ話はできなかったが,いろいろ話をしていて,私自身も「これが正解かわからない」状態だったのに,なんとか今に至っているのは何故なのかを振り返った。

好むことや苦にならない自分の軸足になるものが一つだけでなく,二つ三つあったからなんとか時を過ごせたのかなと思う。

特別好きなことはないという人も多いが,とりあえず身を置いたり,軸足を据える場を見つけられれば,それがまず大事。その上で,いざというとき別の場にその身や軸足を移せるかどうか。そういう場を見つけられるかどうかが,「なんとかなる」につながるのではないか。その先が正解かどうかは,実のところあんまり関係ないのかも知れない。正解であることを心掛けたいとは思うけれど。

そういう意味で,昔と今では,身や軸足を移すための諸条件や状況がかなり変わっているのかも知れないなと思う。

私たちの時代は,あらかじめ限られた情報流通手段しかなかったので,流れ込んでくる情報を自身でフィルタリングする必要は薄くて,そうする習慣も強くない。つまり,わりとあれこれを知ろうとする姿勢が保たれていた。けれど,いまはインターネット経由で情報がたくさん流れ込んでくるので,最近の人は無関係と思うもの,関心ないものは自身で無意識にフィルタリングする習慣がついている。逆に関心あるものは無駄なものでも消費したりもする。

この仮説が正しいとは証明されていないけれど,たとえば授業中に提示される学習内容を「難しい」と括って受け付け難くなってしまうのを説明できるかも知れない。

話を戻せば,進路のことを話していて「何が正解かわからない」と言う,その言葉が発せられる原因は何かを考えた時,もしかしたら無意識に発動してしまっているフィルタリングのせいではないか,と思えたのである。

話のオチは,だからこそ「クリエイティブ・ラーニング・スパイラル」に巻き込こんでいくような,そうしたゼミナールや学びの環境を一緒に作っていけばいいんじゃないの?ということになるが,転がり始めるための最初は,まだまだ暗中模索といったところである。