物憂げな日々

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 ここ数日,関東地方は天候不安定で五月とは思えない寒い日を過ごしたりした。今日はそろそろ梅雨の季節であることを思わせる雨。小学校の校庭もすっかり雨水に浸り,今朝は子ども達の雨傘が賑やかに揺れていた。

 清々しいというわけにはいかないが,雨の日のしっとりとした雰囲気もまた心地よいものである。静かに自習するのには丁度よい感じ。宿題の英語文献を翻訳する作業にいそしむことにしよう。

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 上京して二年が経過し,三年目を迎えた。その振り返りも兼ねて,ここ最近テレビや雑誌でも取り上げられている就職や格差の問題について感じたことを扱った駄文を書いては途中で止め,書き直してはボツにし,また書いてみるも納得できずに公開していなかった。あれこれの話題が妙に重たく,どんよりしているからだ。


 栗田哲也『なぜ「教育が主戦場」となったのか』(勁草書房2008)という本が書店に並んでいたりする。栗田氏の主張は,教育の問題が「国vsグローバリズム」となっているというものである。これ自体は特に目新しい指摘でもない。矢継ぎ早の改革を批判してきた藤田英典先生たちが指摘していることの中にも,市場原理主義的な教育システム導入の問題は含まれている。その上,この国は,国家の価値観が壊れていく原因を真正面に引き受けないまま,国家主義的な教育も強化しようとした矛盾改革を断行していることが大きな問題となっているのである。

 そのような問題が,ここ最近は,同じ職場内での格差であるとか,社会保険や年金の問題であるとか,中国にまつわる一連の問題であるとかの形をして私たちの前に提示されている。どの問題もグローバリズムの世の中にあって,どこかに歪みが発生したまま直さず起こってしまった事象のように思える。

 こうした話しに引付けながら自分の二年間を振り返ると,若干憂鬱になる。

 この二年間は,知的な面で得るものが多く大きかった点で有意義なものだった。タイミングとしても,ここ十数年で成熟してきた新しい議論を大学院で学べていることは恵まれていると思う。
 一方で,経済的な面では,定職を捨てわずかな蓄えを頼りにやってきた。こうなって初めて年金保険料や国民健康保険料が家計を圧迫することの現実を実感もする。もうしばらく東京で暮らせる程度はあるが,低空飛行を肝に銘じないといけない。

 かつてある程度の地位を経験してから,今は下流社会の厳しさを近くに感じる毎日へ。大学院での勉学は有意義だが,自分の研究は五里霧中にある状態。何を論じるにも自分自身の切実感ばかりが目立ってしまって暗く憂鬱な駄文になりがちだ。

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 もう一つの大いなる悩みは,依然として,この国にとって望ましい未来が何なのか,焦点化できていないことである。これはもしかしたら,私が他の人たちと議論し足りないせいなのかも知れず,世間にはそういうビジョンのようなものがあるのかも知れない。

 新しい学習指導要領は,活用型学習指導を重視しているとされる。知識や技能を活用する必要性は分かるのだけれども,具体的にどのように活用させるのかの議論は,個別の現場に任されている。個別の現場の先生方には,先生方の間で「こう活用して欲しい」という具体的なイメージがあるとは思うけれど,それがそもそも何に基づいているものなのかという議論まではなされていない。
 そういったエアポケットみたいなところに「愛国心」を仕掛けたのが教育基本法の改正騒ぎだったみたいなところはあるが,それとて日本の未来をどう描くのかという根本的なコンセンサスを形成するという大事な過程部分は知らんぷり(政治家の都合のいいものが用意されればいいや程度)だったわけで,実に中途半端である。
 だから,教育について語る言葉は,どこか中空を当てもなく見回すだけになってしまい,眼が泳いでいるようなものになりがちなのだ。

 おそらく,正しいことをごく普通に正しくできるようにすることがこの国にいま必要なことだと思う。そのためにこの国の教育現場が日々実践していることは,学習指導要領や教育基本法が変わる前からも変わった後も,ずっと変わらず間違っていなかったし,むしろどんなに状況が変化したり悪化しようとも貫き続けてきたことは賞賛すべきと思う。

 その上で,頑なすぎるところや硬直化したところを改善改革する必要はあったわけであるが,結局は,そのような改革のプロセスと時を同じくして起こった急激な社会変動の影響が重なって,教育システムデザインにおける不易流行のバランスを欠いたのである。ある意味では,誰のせいでもなかったのかも知れない。

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 でも正しさとは何だろう。正しくないことは即座に否定されるべきだろうか。正しいか正しくないかを四六時中,監視するような社会を求めるべきだろうか。超法規的な正しさとか,「ここだけね」という局所的な正しさは,どのように扱われるべきなのか。実のところ,望ましい未来について「正しさ」は何も語っていない。

 「よりよく生きる」でも「伝統を守る」でも「個人の価値の尊重」でも,そう書き表したからといって,私たちが日本で暮らすという具体的な姿を語っていることにはならない。だとしたら,これはやはり「私にとって」「あなたにとって」の日本の暮らしというものを何らかの形(ただしマスコミベースのワイドショー形式の弊害が大きいことは分かっている…)ですり合わていく過程を確保しなければならないということなのだろう。そうしたからといって結論めいたものが出てくるわけではないが,そうしないとしたら本当に何も出てこない。

 いまちょうどクリティカル・シンキングに関する文献を読んでいるのだが,そのような思考態度・実践姿勢を育むことが必要とされているのかなと,読みながら考えている。

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