2008年5月アーカイブ

慮る

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 家に閉じこもって研究作業。文章を書きながら考えを練りだしていった方が得意なので,大学行くのも諦めて過ごしていた。さすがに疲れたので,現実逃避モードへ。

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 文系から理系っぽい分野に越境して苦労してますみたいな愚痴を繰り返すのは,みっともないと承知している。けれども,越境につきまとう苦労や乗り越える知恵みたいなものは,もう少し書き出して共有すべきではないのかなとも思う。
 情報学というのは学際的な研究アプローチを取らざるを得ないと言っていたのは西垣通先生だったが,同時にそれはとても大変な作業であるということも指摘されている。私の力不足はすでによく知られたことなのだから,あらためて恥をさらしていく覚悟を固めよう。


 大雑把に言って,私がそれまで考えていた研究思考様式は「あれもあるよね,そうも考えられるよね,だからこうして見通してみたらどうだろう」的なものだった。思考に余白を設けて,適応可能性を広げるとでも言おうか,逆に言えば幅広く通底するものをあぶり出すというか,そういう知的基礎体力を養っていたわけである。

 これを文系的な様式と言うつもりはない。そうでない領域はたくさんあるし,人によってはそもそもそんな思考様式は認められないと考えている人もいるだろう。ただ,物事の本質を考えるときに,様々な可能性を担保し探究していく態度を取らない人はいないと思う。私自身の問題は,そればっかりに長けていて絞り込みが得意でないということだ。まあ,それはとりあえず置いておこう。


 新たに学び直している研究思考様式は「物事にはその必然性を保証するロジックが必要で,さらにそのロジックの必然性を保証するロジックが必要なのだ」というものである。こちらは思考に余白を設けるなんてもってのほかで,適応可能範囲は絞られれば絞られるほど望ましい。そんな感じの思考を要請されるのだ。先に記したように正直,このための知的基礎体力を養ってこなかったから,頭で分かっていても,動かすときに結構しんどいことが分かってきた。

 どちらかといえば理系的な様式なのかも知れないが,もちろん,これもまた領域によって様々だと思うので,確定的なことはいえない。たとえば人文系というイメージの強い心理学では,極めてシステマチックに研究方法が組み立てられている。人の心がうつろいやすいものである分,それを扱う学問様式はかなり厳密に組み立てられている。


 こんな2つの様式を越境して,最初はだいぶ戸惑った。使っていた筋肉が違うのだから,どうしても使い慣れた筋肉を動かすし,そのことが邪魔をすることもある。
 それでも最近は,ようやく周りの人たちが暗黙裏にこなしている思考の働き方が感覚として分かりかけてきたのも確かで,上手くできるのとはまた別だが,自己意識できるようになってきた。あとは体力をつけるしかないか…。

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 Facebook日本語版の提供が始まったそうで,創設者が来日していてインタビューを受けた記事を読んだ。そこにこんな下りがあった。

 (前略)FacebookとGoogleは世界をより透明なものにしていくという1つの目標を持っていると思います。Googleのやっていることは、お互いを補完するような役割なのではないかと僕は思っています。

 ただ僕らが見据えているのは、あくまで「人」です。大切に思っている人と、その人をもっとよく知りたい、そして共有したいと思う気持ちが大事で、まずは人ありきなんです。

 でもGoogleの場合、どちらかというとインデックス化するとか、マシンがどうだとか、情報をいかに整理するか、そういうところに注力しているのではないかと思います。

 今後、より情報化が進んだ社会において、僕らは人を主体として安心でき、信頼できる情報交換の場を提供していきます。Googleはまた違う角度からそれを追求するでしょう。もしかしたら、お互い進もうとしている方向性は一緒なのかもしれません。ただ、その主体が違うだけなのです。


 GoogleとFacebookの方向性の違いを先ほどの話とダブらせてしまうのは相変わらず悪い癖だが,それよりも最後の段落で語っている情報化が進んだ社会において「人」を主体とする考え方に共感を覚えた。

 さてと,どうしましょうかね,ロジック…。

物憂げな日々

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 ここ数日,関東地方は天候不安定で五月とは思えない寒い日を過ごしたりした。今日はそろそろ梅雨の季節であることを思わせる雨。小学校の校庭もすっかり雨水に浸り,今朝は子ども達の雨傘が賑やかに揺れていた。

 清々しいというわけにはいかないが,雨の日のしっとりとした雰囲気もまた心地よいものである。静かに自習するのには丁度よい感じ。宿題の英語文献を翻訳する作業にいそしむことにしよう。

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 上京して二年が経過し,三年目を迎えた。その振り返りも兼ねて,ここ最近テレビや雑誌でも取り上げられている就職や格差の問題について感じたことを扱った駄文を書いては途中で止め,書き直してはボツにし,また書いてみるも納得できずに公開していなかった。あれこれの話題が妙に重たく,どんよりしているからだ。


 栗田哲也『なぜ「教育が主戦場」となったのか』(勁草書房2008)という本が書店に並んでいたりする。栗田氏の主張は,教育の問題が「国vsグローバリズム」となっているというものである。これ自体は特に目新しい指摘でもない。矢継ぎ早の改革を批判してきた藤田英典先生たちが指摘していることの中にも,市場原理主義的な教育システム導入の問題は含まれている。その上,この国は,国家の価値観が壊れていく原因を真正面に引き受けないまま,国家主義的な教育も強化しようとした矛盾改革を断行していることが大きな問題となっているのである。

 そのような問題が,ここ最近は,同じ職場内での格差であるとか,社会保険や年金の問題であるとか,中国にまつわる一連の問題であるとかの形をして私たちの前に提示されている。どの問題もグローバリズムの世の中にあって,どこかに歪みが発生したまま直さず起こってしまった事象のように思える。

 こうした話しに引付けながら自分の二年間を振り返ると,若干憂鬱になる。

 この二年間は,知的な面で得るものが多く大きかった点で有意義なものだった。タイミングとしても,ここ十数年で成熟してきた新しい議論を大学院で学べていることは恵まれていると思う。
 一方で,経済的な面では,定職を捨てわずかな蓄えを頼りにやってきた。こうなって初めて年金保険料や国民健康保険料が家計を圧迫することの現実を実感もする。もうしばらく東京で暮らせる程度はあるが,低空飛行を肝に銘じないといけない。

 かつてある程度の地位を経験してから,今は下流社会の厳しさを近くに感じる毎日へ。大学院での勉学は有意義だが,自分の研究は五里霧中にある状態。何を論じるにも自分自身の切実感ばかりが目立ってしまって暗く憂鬱な駄文になりがちだ。

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 もう一つの大いなる悩みは,依然として,この国にとって望ましい未来が何なのか,焦点化できていないことである。これはもしかしたら,私が他の人たちと議論し足りないせいなのかも知れず,世間にはそういうビジョンのようなものがあるのかも知れない。

 新しい学習指導要領は,活用型学習指導を重視しているとされる。知識や技能を活用する必要性は分かるのだけれども,具体的にどのように活用させるのかの議論は,個別の現場に任されている。個別の現場の先生方には,先生方の間で「こう活用して欲しい」という具体的なイメージがあるとは思うけれど,それがそもそも何に基づいているものなのかという議論まではなされていない。
 そういったエアポケットみたいなところに「愛国心」を仕掛けたのが教育基本法の改正騒ぎだったみたいなところはあるが,それとて日本の未来をどう描くのかという根本的なコンセンサスを形成するという大事な過程部分は知らんぷり(政治家の都合のいいものが用意されればいいや程度)だったわけで,実に中途半端である。
 だから,教育について語る言葉は,どこか中空を当てもなく見回すだけになってしまい,眼が泳いでいるようなものになりがちなのだ。

 おそらく,正しいことをごく普通に正しくできるようにすることがこの国にいま必要なことだと思う。そのためにこの国の教育現場が日々実践していることは,学習指導要領や教育基本法が変わる前からも変わった後も,ずっと変わらず間違っていなかったし,むしろどんなに状況が変化したり悪化しようとも貫き続けてきたことは賞賛すべきと思う。

 その上で,頑なすぎるところや硬直化したところを改善改革する必要はあったわけであるが,結局は,そのような改革のプロセスと時を同じくして起こった急激な社会変動の影響が重なって,教育システムデザインにおける不易流行のバランスを欠いたのである。ある意味では,誰のせいでもなかったのかも知れない。

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 でも正しさとは何だろう。正しくないことは即座に否定されるべきだろうか。正しいか正しくないかを四六時中,監視するような社会を求めるべきだろうか。超法規的な正しさとか,「ここだけね」という局所的な正しさは,どのように扱われるべきなのか。実のところ,望ましい未来について「正しさ」は何も語っていない。

 「よりよく生きる」でも「伝統を守る」でも「個人の価値の尊重」でも,そう書き表したからといって,私たちが日本で暮らすという具体的な姿を語っていることにはならない。だとしたら,これはやはり「私にとって」「あなたにとって」の日本の暮らしというものを何らかの形(ただしマスコミベースのワイドショー形式の弊害が大きいことは分かっている…)ですり合わていく過程を確保しなければならないということなのだろう。そうしたからといって結論めいたものが出てくるわけではないが,そうしないとしたら本当に何も出てこない。

 いまちょうどクリティカル・シンキングに関する文献を読んでいるのだが,そのような思考態度・実践姿勢を育むことが必要とされているのかなと,読みながら考えている。

書棚を迎えて

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 本棚を買った。増え続けて床の上に足の踏み場もないほど溜まった文献資料の検索性の悪さがいよいよ深刻な問題となったので,引越しもしたところだし,これを機に本棚を導入することにしたのである。何を今さらという感じだが,諸々のタイミングでこの時期になってしまった。

 これまでも,大学寮に据え付けのスチール本棚と木製ラックを皮切りに,あれこれ理想の本棚を探して試してきたことがある。木製の本棚,パイプ式の組み立てラック,スライド式の二重書棚など。あれこれ導入したが満足いくものはなく,その過程でも増え続ける文献資料などが収納しきれないという悪循環に陥っていた。

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 本棚というのはなかなか難しい代物だ。本棚を導入するということは,ある種の固定化を受け入れるということでもある。物理的には場所や空間の確保や占有ということであるし,精神的には所有物の不動性からくる重たさも感じる。それだけに,実際のモノとしての本棚についても,あれこれこだわってしまうところがある。

 住宅販売の宣伝などをみると,マイホームに立派な書棚が設置されているイメージを見るとうっとりしてしまう。とはいえ,現実は厳しいので,出来る範囲で自分の文化資本や知識資本の具象である蔵書を試行錯誤で維持していかなければならない。その際にやはり,どんな本棚を選ぶのかというのは重大な問題なのだ。

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 で,今回買った本棚は,結局スチール本棚であった。それはある意味,原点回帰。徹底的な実用志向が,他のどんな本棚よりもいまの自分には合っているといったところか。やはり学生時代にはスチール本棚である。

 スチール本棚の定番といえば,コクヨの「ホームシェルフ」という商品だった。ところがこの定番商品は,ついこの間,廃番となってしまい購入することが出来なくなっている。これは正直驚きである。
 コクヨはユニバーサルデザインに力を入れ,従来の文具からの脱皮を図ろうと努力を続ける変革企業への道を歩んでいる。このこと自体は大いに評価すべきことなのだが,昔ながらの定番商品を作らなくなってしまうのは少々残念だ。しかも立て替え商品を提案しているわけではないので,ますます悲しい。

 けれども,こうした定番商品には類似品があるもので,実際,東洋事務機器工業というところが「クールラック」という商品名でスチール本棚を製造している。他のユーザーの情報によれば,コクヨの商品とサイズも使い勝手もほぼ同じということで,かなりの人気商品となっているらしい。しかも価格はリーズナブル。これはいい。

 幅800mm,高さ1800mmのスチール本棚を壁に並べるために3本注文し,GWの狭間の平日に商品が届いた。さすがに段ボールも大きくて後始末は大変であるが,組み立てに工具はいらず,簡単に組み立てができた。

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 さっそく床の上の文献資料をどんどん本棚に収納をしていった。やっぱりこうやって並んでくれると本を手に取るのも楽である。床も自由に動けるし。

 ところが最終的に問題が勃発した。

 「本棚が足りない…」 

 予想以上に文献資料が溜まっていたようで,全部入りきらなかった。ああ,なんか予感はしていたが,まさかなぁ…。というわけで,悩んだ末に追加注文をすることにした。まあ,あれこれ集めに集めた自分が悪いのだが,こればっかりは仕方ない。