2008年4月アーカイブ

格差と葛藤

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20080424a

 小学生の学習について親子が持っている意識や特性に関するデータ分析をしたことがある。親の関与が,子どもの学習や自主性を活性させ,成績にも影響する関係にあることを確かめた。

 この場合,私たちが考えていた「家庭教育」は,親が子に何某かを施すというようなものとしてではなく,単純に「学校教育」外に生じている学習のうちで家庭でなされているものを対象として指し示す用語としてだった。けれども,親の関与には様々な程度があることも指摘しており,学習に直接関与するものも含まれていたという点では,この本の「家庭教育」と無縁というわけではなかった。

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 本田由紀『「家庭教育」の隘路』(勁草書房2008.2)である。ニートに関する著書などでも知られる本田先生,どうもNHKの番組で派手にぶちかましたらしいが,残念ながらその回を見ることができなかった。^_^

 本田先生は,ほとばしる問題意識を勢いよく研究へと昇華させる手腕をお持ちで,たまに苦笑いしながらも感嘆するばかりである。この本も書き出しは「私はよい母親ではない。」で始まっており,本論の冷静さを担保するためのエモーショナルな導入が展開する。「ニートって言うな!」の成功パターン?を踏襲し,今回は「家庭教育って言うな!」である。


 家庭教育の重要性を考える人間の端くれとし,「家庭教育って言うな!」と言われれば,「え〜!」と身構えてしまうものの,その主張を丁寧に汲み取らなければ,どちらにしても不幸な物別れで終わってしまう。
 私たちは「家庭教育」を脅迫的に要求してしまっていて,本田先生がいう「格差」と「葛藤」の拡大を生み出すことに加担しているのであろうか。それともこのお話には,どこかに誤解や迂回路があるのだろうか。

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 本書では,家庭教育の実態をインタビュー調査から描き出し,家庭教育に関わる母親たちがすでに重荷を背負っていることが明らかにされる。そして質問紙調査のデータ分析から,子育ての在り方に「きっちり」と「のびのび」という主成分が見いだされたとし,それによって子ども達の将来にいくらかの傾向も見られるが,結局のところ母親たちはその両方について苦労することには変わらないことが描かれる。

 家庭教育の現実は様々であるが,そのような多様な現実について「格差」と「葛藤」という問題枠組みから現状把握しようというのがこの本の趣旨である。困ったことに,どちらに転んでも母親が苦労を強いられているという現実は,そう簡単には変わらない。であれば,いま現在の仕掛けを解明して,少しでも有効な手立てを打つ材料にしようというわけだ。


 その上で,「家庭教育って言うな!」という投げかけは,家庭教育そのものの否定や放棄を主張しているのではなく,どちらかといえば,見て見ぬふりしながら熱を冷ましましょうよ,という提案であるといえる。

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 親の関与の必要性を喧伝すれば,それだけ母親たちは急き立てられて熱っぽくなる。そうならない母親たちもいる。それぞれの反応や行動に問題などこれっぽっちもない。むしろ問題は,そのシチュエーションを想像力もなく作り出す無思慮な喧伝にある。

 もしもそうなら,私は無思慮な家庭教育推進者なのだろうか。それを完全に否定することは難しい。けれども,私が関わっている範疇で言えば,むしろ私たちは「家庭教育」について,親の関与の重要性を踏まえつつ,親の現実に即した提案をしていくことで,この問題を迂回できないだろうかと模索しているのである。

 テクノロジーを使うことで,親の負担を軽減しつつも,十分な親関与というものを実現できるかも知れない。もちろんテクノロジーが1割で,それを活用するためのデザインに9割の比重があるとすれば,そう簡単な話でないことも重々承知していることだ。

 それでも私たちは家庭教育における親の関与が必要であると考え,そこへチャレンジしていくことに変わりはない。本田先生は教育社会学の立場から真摯に問題を撃つが,私たちは教育の立場から様々なアプローチをするのみである。もちろん「家庭教育とは言わない」というアプローチも手元に携えながら…。

歌声は永遠に

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20080423c

 「魔法にかけられて」を鑑賞以来,劇中歌が忘れられず,思わず海の向こうの配信サービスで購入して,たまに楽しんでいる。良いものは何度観ても楽しくなるし感動もする。

 次第に気持ちが抑えきれなくなって,とうとう金字塔ともいえる「メリーポピンズ」を手に入れてしまった。映画製作から40年もの歳月が流れており,現在市場に出回っているのはこれを祝う40周年記念DVDである。

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 早速再生したDVDは,日本語吹き替えモードになっていた。一抹の不安は「吹き替え声優」さん問題。実は,テレビの洋画番組で「メリーポピンズ」に接した世代なので,そのバージョンの印象が強く残っているのである。

 結論から言えば,残念ながら吹き替えはテレビ版とは異なるもの。とはいえ,ベテラン声優も多く参加して当時の雰囲気も香りつつ,ビデオ版自体はディズニーのコントロール下で制作された素晴らしい出来である。
 ちなみにテレビ版でメリーポピンズことジュリー・アンドリュースを吹き替えたのは武藤礼子さん(メルモちゃん!)で,バートことディック・バン・ダイクには佐々木功さん(ロッキー!)だと思われる。

 こうして記憶の中の吹き替えバージョンと現在バージョンの違いを辿ることで,いかに「声」というものが,私たちの感覚と記憶に大きな働きかけをしているものであるかを再確認している。そして声だけではない。声優さんたちが繰り出す「言い回し」の魅力や重要性をあらためて実感するのだ
 この「言い回し」は,特に「メリーポピンズ」のようなミュージカル映画だと,唄の調子としてハッキリと記憶に焼き付けられてしまうため,記憶に基づく吹き替えバージョンと現在バージョンとの違いが受け入れられないときもある。

 どうしても吹き替え(場合によっては字幕翻訳も)は時代性が反映されてしまうため,新たに録音ということは起こりうる。また,声優さんもいつしか天に召されて,新たに声を聞けなくなることもある。それはとても寂しいことではあるが,時の流れとはそういうものなのかも知れない。
 刑事コロンボしかり,ルパン三世しかり,トリビアのナレーションしかり,ジェットストリームしかり…。ヤッターマンのドロンボー一味が復活したのは,そういう意味では文句なく嬉し楽しくなる出来事なのだ。


 一方で今日,声優になろうとしている人々や活躍している若い声優さんたちは,厳しい時代の中で厳しいチャレンジをしていると思う。声優は確かに魅力的な仕事だが,かつてほどに声は届かなくなってしまった。一つ一つは魅力的かも知れないが,あまりに多声過ぎて埋もれてしまっているようにも思う。もう少し一つ一つの作品や吹き替えられる俳優が余裕を持って受け止められたらいいのに,いまはあまりにチャネルが多すぎて,声を消費してしまっているようにも思う。

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 それにしても,ジュリー・アンドリュースの歌声が響き,ディック・バン・ダイクの陽気な演技が冴える「メリーポピンズ」は素晴らしい。

 「魔法にかけられて」と「メリーポピンズ」とでは,もちろん格が違う。たとえば「魔法にかけられて」は男女の愛を主軸にしていたが,「メリーポピンズ」は家族愛を主軸にした作品である。そういう意味で映画で描けるものの厚みは断然異なる(そもそもジャンルも異なるが…)。

 とはいえ,どちらの映画にも愛すべき歌声が響く。何度でも何度でも酔いしれていたい。

ただ粛々と

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20080423a

 平成20年4月22日に二回目となる全国学力・学習状況調査が行なわれた(昨年度は4月24日)。小学6年生と中学3年生が対象となって,国語と算数(数学)の学力試験と学習状況の質問紙調査に取り組んだ。報道によれば,無事終わったようだ。

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 全国学力・学習状況調査の実施に関する議論にはいろいろな層(レイヤー)や位相(フェイズ)がある。

 1) 必要性に関する議論
 2) 政治・政策的な議論
 3) 経費コストの議論
 4) 調査内容・手法に関する議論
 5) 実施に関する議論
 6) 結果の扱いに関する議論

 学力・学習状況調査の必要性や意義について議論が生まれるというのも,よく考えると不思議なものである。私は調査は必要なものと考えるけれども,他の立場に立てば「全国一律にやる必要があるのか?」とか「現場を圧迫する」という考えのもと必要ではないと考えることもできる。
 しかし,その時点ですでに議論のレイヤーやフェイズがごっちゃになっていることに注意したい。「全国一律」の悉皆なのか「現場圧迫」的なものかどうかは,調査手法などの問題として切り分けて考えなければならない。

 調査は文部科学省や文教族の政治・政策的な道具であるとの議論もあるかも知れない。当然予算の問題と絡んでくるだろう。経費やコストの問題からは逃げられない。
 どんな調査を行なうのか,調査計画の立て方や調査の方法,実際の試験や質問紙の内容についても,議論は尽きないだろう。そしていざ実施となれば,三万二千校もの学校と試験用紙や関係書類のやりとりをする必要がある。そして採点・集計を経て,結果の返却。その結果をどのように扱うかも議論は山積みだ。


 粗雑なものでもレイヤーやフェイズについての枠組みを手元に置いた上で,全国学力・学習状況調査に関して議論を続けることは大事だ。メリットとデメリットがあるのは承知のこと。私たちに必要なことは,メリットに対してオープンな態度を取り,デメリットを少しでもより小さくしたり,抑制的に接することだと思う。

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 今年度の試験問題や質問内容は,昨年度実施に対して出た声をいくらか踏まえた形跡も見受けられる。主として知識を問う「A」問題,主として活用をみる「B」問題という構成は踏襲している。一見しただけなので印象論でしかないが,小学校に関しては,国語の出題にはあまり変化が見られないが,算数はB問題の出題に図が多用されていることがわかる。

 また,学習状況などを問う質問紙では,質問項目が少なくなったり,選択肢順を入れ替えたりしている。学力テスト自体に関する質問(問題について,どのように思いましたか?)の関連項目は大幅にカットされた。
 こうして調査内容自体は見直しが図られ改善されていく。

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 私は,理想的なことをいえば,こうした調査が粛々と続いていき,結果の扱いについても私たちが抑制的であること(例えば,この結果は限定的なものであることを理解し,オーバーリアクションしないこと)を保つことで,教育を良くする努力に役立てられると思う。
 もちろん,調査の内容や方法に対する技術的な改善,より妥当な可能性を模索する努力も,同時に怠らないことが前提条件ではある。悉皆調査のせいで調査結果の返却が遅いことが問題ならば,それを何かしらの方法で解決すべきである。


 ただ,現実的なことをいえば,この国には残念ながらそのような方向性をとる気はないし,そのための予算経費は増額されるどころか,縮小されるパイの中で分捕らなければならない。
 その現実を前に,私は現在の形のままで全国学力・学習状況調査が続けられるとは思わないし,そのコストを他に回した方がよいという判断をしなければならない場合もあると考える。私たちが想像している以上に,この国は困窮している。

魅せられて

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20080413b

 この週末かけて,とあるセミナーのレポート作成仕事をしていた。ほぼ文字起こし的な仕事なので,聞き直しや資料再確認,通訳さんが誤魔化しちゃった部分の探索と確認など,うんざりする作業が続く。疲れて集中力が低下して,作業効率が落ちて,またつかれるという悪循環。

 「うぁ〜」と叫んだかどうかは記憶にないが,仕事を放棄して映画を観に行くことにした。週末に映画一本観る余裕のない人生を送っているなんて…。こんなときこそ逃避行である。

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 初めて観たディズニー映画が何だったのかという記憶は正直ない。熱烈なディズニーファンとしての行動をとるわけでもない。けれども,根っからのディズニー好きだと思う。夢と魔法があってもいい,心のどこかでそう思っている。

 しかし,ディズニー哲学に共感はしても,ここしばらくディズニーが不調であったことから,全体の印象が霞んでいた。肝心のアニメ映画で,経営や製作現場に関わるいろいろなドタバタもあって,最近の作品は往年の威光は感じられなかった。ピクサー・アニメーションスタジオが一緒になったとはいえ,その部分以外に変化はないんじゃないかとさえ思っていた。

 ところが,実際には着実に復活の道を歩んでいるようである。たぶんこれからいろいろなところで変化を感じることになるだろうが,今回観に行った『魔法にかけられて』は,ディズニーの持っているテイストがほとんどすべて注ぎ込まれた正真正銘ディズニー映画だと思った。

 というか,2時間映画にディズニーテイストをすべて詰め込んだせいで,ある意味でノンストップ・ディズニー映画である。アニメから実写,そしてディズニー自身が使ってきたお約束を徹底的にパロディする作風は,人によっては悪い冗談からつくったB級映画と思うかも知れない。けれども,こうしたコメディタッチもディズニーのお家芸であり,しかも,大まじめでやっているから,2時間は飽きるどころか極上のディズニー体験を味わうことができる。

 宣伝文句のようにディズニーを越えたとは言えないが,「これぞディズニー映画」であることは間違いない。

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 夢と魔法に憧れる精神性は,アメリカンドリームを抱きつづけるアメリカ人の精神性と密接である。つまり,ディズニーの世界とは,かつてのアメリカ世界とほぼイコールだといえる。あるいは宗教までさかのぼって,キリスト教世界とでも考えると面白いのだろうか。

 そういう意味では,日本的なものを考えたときに,ジブリがあって,『となりのトトロ』にみられる日本観や宗教観が人々の心をとらえているあたりに,月並みだけれど写し鏡的な構図をみることもできる。それがまた,アメリカに住む人達にも好まれていたりするあたりも似ている。

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 原題は「ENCHANTED」(魅せられて)。ある意味シンプルなディズニー映画だから,名作傑作として残るかどうかは心もとないが,シンプルだからこそ魅了される映画である。

その席に座る人

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20080410b

 昨年度まで仕事をご一緒した方々と夕食会をした。これで最後になる人達もいるので,お別れ会の意味も半ばある。僕が東京に出てきて最初に請け負った仕事。そのご縁に感謝している。たまに事前準備がおして時間になっても誰も来ていなかったりする人達だけど,事の本質を見極めつつ出来る限りの努力をしようとする姿勢は尊敬できるし,信頼している。

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 僕は,異業種の同じ世代と身近な交流をしたことがほとんどなかった。社会にも出ず,学校教育界隈を自分勝手に漂流してきた人間だから,交流がないのも当然か。それに教育の世界である。商業の世界とは一線を画すことが求められているところもあったから,企業で働く同世代の様子を知る機会はほとんどなかった。

 一念発起して上京したとき,幸運にもその機会を得ることとなった。一定の距離を保ちながらも,異業種で活躍する似たような世代の人達とコラボレーションできたことは,純粋に嬉しかったし,よい経験となった。

 教育の世界に対する商業の世界の重なり方について,観念的に議論を展開させて主張を述べることはできても,実際的に関わっている人達の意識も踏まえなければ,社会につながっていく教育のデザインを描くことは難しいように思う。それは「公教育」に関わる議論でも,「家庭教育」に関わる議論においてもそうだと考えている。

 いままで顔のよく見えなかった相手にも,同時代を生きて頑張っている顔があり,社会を構成している者としての責任があるのだという事実。そこに向けて,しっかりとしたメッセージを送り続ける必要があると思う。

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 夕食会は,とても楽しく過ごした。最後は慌ただしく退席してしまったが,名残惜しいくらいがちょうどいい。縁があればまた会えるはずである。

緊張気味に

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 土砂降りの雨が過ぎ去った翌日,いつもの小学校へ出かけた。新しい校長先生達との初対面の日。今年度も引き続きお邪魔してよいものかどうかが決まる緊張の日である。幸い,快く受け入れてくださって,さっそくパソコン設定の相談事。緊張していたのは自分だけだったみたいだ。

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 通勤通学する人の流れを眺めていると,新しい洋服や制服を少し気にしている人達に気付く。ふと,忘れてしまっていた感覚が呼び起こされた。期待と不安の入り混じった身に新しい服を着て出かけた日の緊張。それが緩やかに解かれていき,気に留めることもない日常へと転化していくのは,何気なく不思議である。

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 初々しい一年生が,校庭めぐりしている。六年の歳月がもたらす変化の大きさを,この場所は丸ごと飲み込んでいるのかと思うと,畏れさえ感ずる。中学一年生になった君たちは,校庭を散策した日のことを覚えているだろうか。

 パソコンルームの準備室で過ごす水曜日。できるだけたくさんのことを学びたい。