書籍の最近のブログ記事

ドナルド・A・ショーン (原1983) 『省察的実践とは何か』鳳書房 2007

はじめに

第1部 専門的知識と行為の中の省察
1章 専門的知識に対する信頼の危機
2章 技術的合理性から行為の中の省察へ ※

第2部 プロフェッショナルによる行為の中の省察
3章 状況との省察的な対話としての建築デザイン
4章 精神療法
5章 行為の中の省察の構造
6章 科学に基礎を置く専門的職業の省察的実践
7章 都市計画
8章 マネジメントの〈わざ〉
9章 行為の中の省察の類型と制約

第3部 結論
10章 専門的職業の意味と社会における位置づけ ※前半

(※は,部分訳書『専門家の知恵』(ゆみる出版 2001)で翻訳された)


前半(1章〜5章)までの感想



【メモ】
 とりあえず,前半だけ駆け足でさらったので,記録公開。まず,本書に関していくつかの注意点を。

 本書『省察的実践とは何か』は,Donald A. Schon (1983) "The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action"の完訳本である。これに先立って,部分的に翻訳して刊行した『専門家の知恵』という訳書が存在する。

 2つの訳本は,翻訳者が異なり,出版社が異なる(もちろん翻訳範囲も異なる)。このことが意味することは,それぞれの文脈に位置づけられて翻訳出版されたため,訳語などに対するスタンスが異なっているということである。特にこれを象徴するのが「省察的実践」と「反省的実践」という訳語である。

 今後の訳語選択は,引用する者にとって悩ましい問題であるが,全訳本が刊行されるにあたって,部分訳書の翻訳者が刊行を承諾をしたと明記されているので,今後は「省察的実践」という表記が増える可能性もある(もちろんこの訳語の選択を承認したかどうかは,別の問題ではあるのだが…)。
 ただし,教育分野などでは,「反省的実践」という訳語がかなりの程度浸透してしまっている事情もあり,他分野と比べて,その転換は遅くなると思われる。しばらくは「反省的実践家」,もしくは「省察的実践家(反省的実践家)」といった補足・並列表記が散見されるだろう。


 本書は,Amazon.co.jpなどのいくつかのネット書店で品切れ扱いとなっている。しかし,実際には出版社に在庫があったり,実際の書店に在庫がある状態(2008年10月現在)なので,割高な古本などを慌てて買う必要はない。(ジュンク堂扱い) 


1章 専門的知識に対する信頼の危機

○専門的職業(profession)は,私たちの社会に必要不可欠なものとなっている。(3頁)
○プロフェッショナルとは,問題を定義づけ,解決してくれる,特別な訓練を受けた人々。

 →エヴァレット・ヒューズがいみじくも,「〈プロフェッショナル〉は,偉大なる社会的意義のための卓越した知を求める」と名づけたものに敬意を払い,その見返りとして,特別の権限と威信をプロフェッショナルに与えるのである。(3頁)

●「私たちは,プロフェッショナルに頼りきっているとはいえ,彼らに対する信頼がゆらぐきざしも見えつつ」ある。(3-4頁)
●「人類的な意義にかかわる卓越した知を身につけたい」というプロフェッショナルへの要求そのものに向けられる疑問。その現れ…

 →民衆がプロフェッショナルへの信頼感をもたなくなっていること
  左翼系の人々による,プロフェッショナルに対する激しいイデオロギー攻撃
  プロフェッショナル自身の利害関心や世の中への支配を維持したいというパワーエリートの関心に沿う点の暴露
  卓越した知への要求をめぐり,プロフェッショナル自身が自信を失うきざしが見えている。

--

○1963年,アメリカ芸術科学アカデミーの雑誌『ディーダラス』のプロフェッショナルに関する特集

 →「アメリカの生活のいたるところでプロフェッショナルが勝利をおさめている」で始まる。

●「しばらくは,プロフェッショナルはその役割に対する需要の増大に対応していたが,やがて負担の増加に苦しむことになった。」(7頁)

 →『ディーダラス』誌のエッセイ記事。酷使される医師,科学研究周辺の官僚主義への癒着,司法の独立性困難,など。
  成功に伴う困難に関する描写の出現

●1963年から1981年の間,「この時期,プロフェッショナルも普通の人間も,専門家の能力に対する信頼の低下という社会現象に悩まされ,プロフェッショナルの正統性に重大な疑義を投げかけていた」(9頁)

●「プロフェッショナルが無能になっていることは,学術面でも明らかになっている。」(11頁)

 →「プロフェッショナルが頼りになるのはあくまで仕事に対してであり,仕事を意味づける点ではあまり当てにならない」(チャールズ・ライク)


★プロフェッショナルに対する信頼が危機に陥っており,そしておそらくプロフェッショナルそれ自体のイメージが低落していることの原因:

 →プロフェッショナルのもつ,実効性に対する疑いの増大,人々のウェルビーイングへの貢献に対する懐疑的な評価に根ざしている。


 【疑いの中心にあるのは,専門的知識への疑問である。】(13頁)

---

専門的知識の能力に深刻な考えをもつ各分野のプロフェッショナルの解釈
●専門的知識は実践の場が変化するという性質にそぐわない
●複雑性,不確実性,不安定さ,独自性,価値観の葛藤など,求められる実践の場において見られる諸現象にますます合わなくなっている


●専門的知識が,たとえプロフェッショナルの現場における新しい需要に追いついたとしても,プロフェッショナルの仕事によって改善できるのは一時的なものに過ぎないだろう。(14頁)

 →専門的職業は今や,「予測できない状況に適合する」という課題を突きつけられている。(14頁)

●要するに,一流のプロフェッショナルがプロフェッショナルに対する信頼が危機に瀕していることについて記述し語るとき,彼らは実践・実務の現場では,伝統的な行動様式や知識が当てはまらないという点に焦点を置く傾向がある。(17頁)

 →複雑性,不確実性,不安定性,独自性,価値観の衝突のもつ重要性への認識の高まり
  「多様な意見」いくつもの手段からひとつを選択実行しなければならない実践者の苦境も裏に

★プロフェッショナルの実践が,少なくとも問題を解決することと同じくらい,問題を見つけることにかかわるならば,問題の設定(problem setting)もまた,プロフェッショナルの実践であると認識することができる。


--

○1960年代「プロフェッショナルが謳歌する」時代 → 1970年代,1980年代初頭の「懐疑と不安」へ導く出来事。

○プロフェッショナルはまだ,プロフェッショナルの能力の中心として見なされるようになったプロセスを説明できないままである。(18頁)

 →専門的知識から照らしてみれば,これらプロセスは奇妙に映るからだろう。(18頁)


 【(次章にあるように)実践の認識論に向かって行かざるを得ないことになる。】(19頁)

 


【メモ】
 プロフェッショナルに対する需要と期待が大きかった時代から,プロフェッショナルに対する懐疑と不安の時代への移り変わり。この流れの中で,専門的知識を提供するプロフェッショナルと,その専門的知識を実行する実践者のそれぞれが苦しみ悩む。複雑化,不確実性,不安定性,独自性,価値観の衝突といった専門的多面性に,伝統的な専門的知識が対応できていないという問題が重大視されてきたわけである。

 そこには,実践者が状況に合わせてみせる巧みな能力について,プロフェッショナル自身が満足に説明できないという課題があるという。このような問題を考えるために,実践の認識論について考えなければならないと論じているようだ。


 

2章 技術的合理性から行為の中の省察へ

1 実践に関する支配的な認識論

■  この節では,〈技術的合理性〉というモデルに関する概要が説明される。大雑把に言えば,体系的で標準化・一般化された知識を,問題に「適用する」という考え方である。

 だから,専門的知識に階層を見たり,専門的職業の間に優劣を見たり,大学世界にも「知識」と「技能」に序列の考え方が垣間見られたりする。

 こうした〈技術的合理性〉というモデルに対しては,疑いも発生するが,すでにこのモデルはプロフェッショナル自身が依拠する制度に組み込まれてしまっているため,覆すことが難しくもなっている。


○〈技術的合理性 (Technical Rationality)〉のモデルは,プロフェッショナをめぐる考え方や,研究,教育,実践と制度との結びつきに関する考え方を,力強く推し進めてきた。(21頁)

○プロフェッショナルの活動
 →科学の理論や技術を厳密に適用する,道具的な問題解決という考え方で成り立つ。


○メジャーな専門的職業とマイナーな専門的職業(ネイザン・グレイザー)

 メジャーな専門的職業:科学的知識が典型的にもっている体系的で基本的な知を基礎としている
 マイナーな専門的職業:変わりやすいあいまいな目的や,実践にかかわる制度の不安定な状況に苦しみ,体系的で科学的なプロフェッショナルの知の基礎を発展させることができない

  →グレイザーは,マイナーな専門的職業に対して失望感を抱いているらしい


○専門的職業の人びとが身につけている体系的な知の基礎の特性
 「専門分化していること」
 「境界がはっきりしていること」
 「科学的であること」
 「標準化されていること」

 →ウィルバート・ムーアは,標準化されているという特性を重視して次のように書いている。
  「プロフェッショナルは具体的な問題に,きわめて一般的な原則,〈標準化された〉原則を適用するのである。」(26頁)

○適用(application)という概念から,専門的知識は階層をなすものとしてとらえる見方が導かれる。

 →「一般的諸原理」が最高レベル,「具体的な問題解決」が最低レベルに位置するようになる(24頁)


○〈技術的合理性〉のモデルは,プロフェッショナル教育の序列のついたカリキュラムの中に組み込まれる。

 →専門的知識の階層モデルから類推すると,研究は実践から制度的に分離しており,研究が実践と結びつくのは,注意深く定義された交換関係によってであるということになる。(27頁)

  研究と実践のとの階層分化は,プロフェッショナルスクールのカリキュラムが序列化されている点にも現れている。

○〈技術的合理性〉モデルの見地からすれば,実質的な知が存在するのは,基礎科学および応用科学の理論と技術の中ということになる。したがって,基礎科学と応用科学こそが最初に来るべきなのである。「技能」は,具体的な問題を解決する理論と技術を用いることの中にあり,それゆえ,学生が関連する科学を学んだあとに提供されるべきものとなる。(28頁)


 【実践に関する支配的なモデルとは,〈技術的合理性〉によって導き出される序列化の考え方】


--

2 技術的合理性の起源

■  この節では,専門的知識に関する支配的なモデルである〈技術的合理性〉が,どうして大学にまでも浸透してしまったのかについて,その起源を歴史的に扱っている。

 十六世紀の宗教改革以降,「科学と技術」の台頭に始まり,次第に科学的世界観が支配的になっていく中で,十九世紀後半の実証主義の浸透が起こり,それが〈技術的合理性〉による序列化,研究と実践の分離をもたらしたという。


○〈技術的合理性〉は,実証主義の遺産である。(31頁)
○〈技術的合理性〉は,実証主義の基礎となる実践の認識論である。(32頁)

○十九世紀になると実証主義は,科学と技術の勃興を支えるものとして発展し,また科学と技術の成果をウェルビーイングに用いることをめざす社会運動として発展した,強力な哲学的教義である。

○実証主義の三つの主要教義(オーギュスト・コント)
 第一,経験科学を世界に関する実証的知識の唯一の源泉であるとする信念
 第二,神秘主義や迷信,その他の擬似知識を人間の心から追放する意図
 第三,科学的知識と技術的コントロールを人間社会へと拡張するプログラム

○実証主義者たちが科学的知識の排他性を説明し正当化する努力を洗練させるにつれて,観察に基づく説明が一定の理論をともなうものであることに気づくようになった。感覚的経験の要素には分解できないような経験的知識があり,それを意味づける必要性にも気づくようになった。彼らは自然の法則を,自然に内在している事実としてではなく,観察した現象を説明するために創り出された構成物ととらえ始めるようになった。科学はこうして,実証主義者たちにとっては仮説−演繹的な体系となったのである。(33-34頁)

○実証主義の教義に照らしてみると,実践は謎めいた特異なものとして現れた。実践的な知は存在するが,それは実証主義のカテゴリーにぴったりあてはまるものではない。

 →実践的な知は,目的と手段いう関係をめぐる知として構成されるようになった。目的に対し「どのように行動したらよいか」という問いを,目的を達成するのに最適な手段といった道具的な問いとして。


○アメリカの大学の現在のような構造とスタイルの誕生は,十九世紀後半から二十世紀初頭,実証主義の知的支配が確立され始めた時期に,ドイツの伝統に由来する形で入ってきた。

○新しい大学モデルの誕生にともない,実証主義の認識論も大学内に登場するようになったが,そこには上位の大学とそうでない専門的職業との間で,労働を適切に配分するという序列化された考え方が見られた。(36頁)

 →大学とプロフェッショナルスクールの関係や違い。高次元の学校と低次元の学校の適切な関係とは,分離と交換の関係であるという考え方。これはまた,プロフェッショナルスクールにいる技術者が,大学に職を得るのを許さないという現れ方をした。


○しかし,専門的職業を大学内部に受け入れようとする一般的な風潮などもあり,専門的職業は新しい大学に地位を占め,その数を増やしていく。

 →逆にそのことが,知の階層構造を大学内の地位に繁栄させることにもなり,「新しい理論を創造する人びとは,それを実践に適用する人びとよりも高い地位にあり,「高次元の学習」を担う学部は,「低次元の学部」を担当する学部よりも優位にあると考えられた」(37頁)


 【実証主義のカリキュラムの種がまかれ,研究と実践の分離が誕生した。】


--

3 技術的合理性の限界に気づき始める

■  この節では,専門的知識の適用を前提とする〈技術的合理性〉のモデルの限界について述べている。科学技術信奉の強いときには見過ごされていたものの,次第に実践の複雑性や不確実性,不安感や独自性や価値観の衝突といった問題がクローズアップされてきたことを論じている。

 こうした問題を認識しながらも,当時の研究者は依然として〈技術的合理性〉を維持する形で解決しようと試みるが,そのような実証主義の実践的認識へのこだわり自体,本家の科学哲学ではよい評判を得ていない。

 実践の拡散的な状況を説明するための,別の実践の認識論を探究しなければならないことが示される。


○「第二次世界大戦」と「スプートニクショック」

 →科学的研究の発展,国家が科学や技術に投資する動きを加速させる
  専門職主義の勝利のお膳立て〜『ディーダラス』誌の特集

○副次的には,科学的研究をプロフェッショナルの実践の基礎と見なす考え方が強まる効果をもたらすことにもなった。(38頁)

 →しかし,1963年から1982年まで二十年間に,一般のひともプロフェッショナルも,次第に専門的職業の欠点や限界に気づくようになった。


○プロフェッショナルの実践は問題の〈解決〉(problem solving)のプロセスである。:定められた目的に一番ふさわしい手段を選びとることによりおこなわれる。

 →しかし,問題の解決ばかり強調すると,どんな目的を達成すべきであるかを定義し,選ぶべき手段は何かを決めるプロセスを無視することになる。


○実践者は,「問題状況」を「問題」へと移し変えるために,そのままでは意味をなさない不確かな状況に,一定の意味を与えていかなければならないのである。:実践の中核にある作業

 →問題の設定とは,注意を向ける事項に〈名前をつけ〉,注意を払おうとする状況に〈枠組み(フレーム)を与える〉相互的なプロセスなのである。(41頁)
  問題の設定それ自体は,技術的な問題ではない。つまり,〈技術的合理性〉のモデルとは異なった探究作業である。


○実証主義の認識論のしばりを受けている実践者は「厳密性か適切性か(rigor or relevance)」というジレンマに陥る。これは実践の領域においていっそうはっきりと生じる。

 →「フォーマルモデリング(formal modeling)」という分野は,実践者が示すふたつの反応を観察するのに興味深い状況を提供してくれる。フォーマルで量的な,コンピュータ化されたモデルに対する幅広い関心によって盛り上がったが,その後,この楽観的な期待は,膨らみすぎたものであったという意見も出る。複雑で,あま明確に定義できないような問題では,一般的に有効な成果をもたらさなかったのである。


●多くの実践者が厳密性か適切性かをめぐるジレンマに対してとった対応は,専門的知識に合わせて実践状況を切り取ってしまうことであった。(44頁)

 →このような戦略は,「状況を見誤り,状況を操作して,標準のモデルや技術に対する信頼感を維持したいという実践者の関心に貢献してしまう危険を産み出している。」(45頁)


技術的熟達がもつ限界について考察した専門的職業の研究者

エドガー・シャイン
基礎科学や応用科学が「収斂的(convergent)」であるのに対し,実践は「拡散的(divergent)」であるという事実にギャップをみた。

ネイザン・グレイザー
メジャーな専門的職業とマイナーな専門的職業(前出)

ハーバートサイモン
プロフェッショナルの実践が本質的にかかわるのは「デザイン」と呼ぶものであり,デザインには「現在の状況をより好ましいものに変える」プロセスがともなっている。サイモンは,自然科学とデザインの実践との間にギャップがあるとし,そのギャップを埋めるのがデザインの科学であると提言した。

 →彼らは,専門的知識を科学的に基礎づけることと,現実世界の実践がもつ要求との間にギャップがあり,そのギャップを,〈技術的合理性〉のモデルを維持する方法で埋めようとしているのである。(48頁)


●専門的職業の人びとを悩ませてきたジレンマの原因は,科学それ自体ではなく,科学に対する実証主義者の考え方にあったことは明らかだと思われる。(49頁)


 【直観的なプロセスに暗黙に作用している実践の認識論の探究を深めよう】


--

4 行為の中の省察

■  この節では,これまでみてきた〈技術的合理性〉のモデルの起源や限界を踏まえ,行為の中,実践の中における省察によって,拾いきれなかった問題をとらえることを提言している。

 「行為における知の生成(knowing)」であるとか,実践者の振り返りで起こる「行為についての省察(reflection-on-action)」だけでなく,行為している最中の「行為の中の省察(reflection-in-action)」に関して事例を示していく中で,〈技術的合理性〉の制約を受けない,実践の文脈に引付けた新しい理論の構築に関する可能性を指摘する。

 まだこの節の時点では,その概要を示したに過ぎず,以下続く章の事例の探究によって,「行為の中の省察」がどのようなものであるかが模索されると思われる。


○日常生活での行為は,意識しないまま自然に生じる,直観的な行動である。(50頁)
○私たちの知の形成は,行為のパターンや取り扱う素材に対する触感の中に,暗黙のうちにそれとなく存在している。私たちの知の形成はまさに,行為の〈中(in)〉にあると言ってよい。(50頁)

 →行為の中の省察(reflection-in-action)というプロセス全体が,実践者が状況のもつ不確実性や不安定さ,独自性,状況における価値観の葛藤に対する際に用いる〈わざ〉の中心部分を占めている。(51頁)


(1) 行為の中の知の生成


○行為の中の知の生成:知的な行為の中にもある種の知が備わっているという考え方


○熟練した行為は,「私たちが表現できる以上の知」を明らかにする。この種の知について論じている人びと。

チェスター・バーナード
「思考プロセス」と「非論理的なプロセス」を区別し,非論理的なプロセスは,言葉や推論では表現できないものであり,その存在がわかるのは,判断や決定のときか行為のときのみであるという。

マイケル・ポランニー
「暗黙知」人の顔を見分けることができても,どのようにして自分が知っている顔を見分けるのか説明することはできない。

クリス・アレキサンダー
工芸品などのデザインにおける知の生成について考察。ある作品の形が文脈に「ぴったりこない」と認識し,修正をする中でぴったりきたと認識するときの規則についてうまく説明できない。

ジェフリー・ヴィッカーズ
アレキサンダーの事例について,十分に表現できない形の感覚に頼る行為は,何も芸術的な判断の場合に限られないと指摘。私たちは皆,このような暗黙の規範を用いて,自分たちの実践的能力に依存しながら判断し,状況についての質的理解を進めている。

アルフレッド・シュッツとその後継者たち
暗黙のうちにおこなわれている日常生活でのノウハウについて分析した。

バードウィステル
暗黙知が動作やしぐさを認識するときに具体化されることを説明するのに貢献した。


○知の生成(knowing)の特性:通常の実践知を特徴を示すモデル

・意識しないままに実施の仕方がわるような行為,認知,判断がある。私たちは自分の行為に先立って,あるいは行為の最中にその行為,認知,判断について考える必要はない。
・私たちは,こうした行為,認知,判断を学んでいるのに気づかないことが多い。私たちはただ,そうしたことをおこなっているという事実に気づくだけなのである。
・行為の本質(staff)に対する自分たちの感覚の中には,あとから(subsequently)取り入れられることになる了解事項について,あらかじめ気づいていた場合もあるだろう。また,これまでまったく気づかなかったという場合もあるだろう。どちらの場合でも,私たちの行為が指し示す知の生成を記述することは,通常できない。


(2) 行為の中の省察


○「行為の中の知の生成」が認められるならば,行為していることがらについて考えることも認められてよい。

 →「歩きながら考える」「分別を持ち続ける」「為すことによって学ぶ」といった言い回しが示すのは,私たちのできることは,行為について考えることだけでなく,行動の最中におこなっていることそれ自体についても考えることである。(55頁)


○直観的な行為から驚き,喜び,希望が生まれ,予期しなかったことが発生すると,私たちは行為の中の省察によってその事態に対応するだろう。(略)このようなプロセスでの省察の対象となるのは,行為の結果であり,行為それ自体であり,行為の中にある暗黙的で直観的な知であり,それらが相互に作用しあったものである。(57-58頁)

○ブロックのバランス実験に取り組む子ども達の行為:ブロックのバランスをとる際に〈幾何学的中心〉から〈重心〉へと子ども自身の理論を変化させていく様子が観察される。また子ども達は「成功を志向すること」から「理論を志向すること」へと理論を変化させた。

 →観察者は,このような子ども達による〈知の生成(knowing)〉を,(他に表現のしようがなく)行為の中での〈知識(knowledge)〉と置き換えて表現している。
  「このような置き換えは,行為の中の省察について話を進めるときに避けて通れないと思われる。ある種の知の生成とその変化について説明するためには,ある言葉を用いなければならないが,知の生成や知の生成の変化というのはおそらく,言葉では表現されてこなかったものである。」(61頁)


(3) 実践の中の省察


○「実践(practice)」という単語は意味が両義的である。:一定の範囲におけるプロフェッショナル的な状況における活動。また,活動への準備。プロフェッショナルの実践には,繰り返しの要素も含まれている。(62頁)


●実践が繰り返され決まりきったものとなるにつれて,また〈実践の中の知の生成〉が暗黙的で無意識的になっていくにつれて,実践者は現在おこなっていることについて考える大事な機会を見失ってしまうようになるだろう。(63頁)

 →このような事態は,実践者の「過剰学習」と呼ばれる。


○実践者の省察は,こうした過剰学習を修正するものとなりうる。実践者は省察によって,専門分化した実践の反復経験の中で発生した暗黙の経験があることを明らかにし,それを批判することができる。

 →メタ認知の上で起こることだろうか?(りん)


○問題が発生し,対応可能な問題にすぐには置き換えられない状況に陥ったときは,実践者は新しい問題の設定方法を生みだし,新たなフレームを作って状況にあてはめようとする。

 →「フレーム実験」と名づけたい。(65頁)


○実践者は目の前の現象を省察し,さらには現象をとらえる際の理解について,つまり,自分の行動の中に暗黙のままになっている理解についても省察を重ねる。(70頁)

 →行為の中で省察するとき,そのひとは実践の文脈における研究者となる。すでに確立している理論や技術のカテゴリーに頼るのではなく,行為の中の省察を通して,独自の事例についての新しい理論を構築するのである。


○問題の解決は,省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり,行為の中の省察はそれ自体として厳密なものとなり,実践の〈わざ〉は,不確実性と独自性という点において,科学的な研究技法と結びつくようになる。(71-72頁)


 【行為の中の省察による「実践の認識論」を発展させるべきである】

 
 


【メモ】
 翻訳文を一通り読んでも,いざ要約するとなるとかなり難儀だった。ただ,たぶん書いてあることはかなりシンプルなことだと思う。
 私たちは行為をするときに,前もって学んだ知識というものを適用することもあるけれども,それが通用しない事態もあるのだということ。そのようなときに,私たちが行なっていることは,状況との対話であり,行為の中での省察なのだと。繰り返される実践の中で,省察が重ねられていくことにより,より文脈に即した枠組みづくりや理論づくりに繋がっていくのだと,そんな感じなのではないかと思う。

 行為の中の省察を,このような形でとらえることで,これまで言語化されなかった実践家の実践を,より広範に,より深く,より厳密に検討していくことができるようになる,とショーンは考えたのだろう。


第2部 プロフェッショナルによる行為の中の省察 −いくつかの文脈

3章 状況との省察的な対話としての建徳デザイン

4章 精神療法 −固有の宇宙をもつ患者

5章 行為の中の省察の構造

■  3〜5章はワンセット。

 3章では建築デザインにおける図面上のデザイン指導の事例,4章では精神医学分野の臨床実習指導の事例を取り上げて,それぞれ,問題に直面している学生とそれを指導する指導者との間のプロトコルを分析している。

 5章では,この2つの章を取り上げて,両者の類似点をあげながら,指導者が学生の問題にどのようにかかわっていくのかを分析しながら,行為の中の省察の構造を描き出そうとする。

 ここで新たに登場するキーワードは「状況との省察的な対話」である。なかなか興味深い3つの章である。

--

〈3章〉建築デザイン

●指導者は,学生がはまり込んで困ってしまった問題に対して,手本を示すことによって,習得して欲しい能力が実際に使われる様子を見せようとする。

○〈デザインすることについての言語〉=「メタ言語」

 →メタ言語を介して,学生にデザインするという行為について省察する手ほどきをしている。


--

〈4章〉精神治療

●研修医の患者である女性がかかえる男性問題に関して,スーパーバイザーは,患者と治療者との関係に問題を転移させることによって,何かしらの糸口をつかませようとする。

○エリクソンが描き出している精神分析的な治療実践:「転移」という現象への特別な位置づけ

 →スーパーバイザーは,患者と男性との関係から患者と治療者との関係へとわずかに言い換える。


--

〈5章〉行為の中の省察の構造

○ふたつの事例とも,実践者は実践の問題を,固有の事例として取り組んでいる。

○問題状況に固有の特徴を発見しようとし,徐々に発見していったものから,そこでのかかわり方をデザインしている。(148頁)

○その状況が問題であることを見つけ出した以上,その状況の枠組みの転換(reframe)をしなければならない(148頁)

○実践者の〈わざ〉は,膨大な情報を選別して管理する能力,ひらめきと推論の長い筋道をつむぎだす能力,探究の流れを中断することなしに同時に複数のものの見方を保つ能力(148-149頁)


○未知の状況を既知の状況と見なし,既知の状況でおこったことがあるとしながら未知の状況の中でおこなおうというのが,私たちの能力なのである。(158頁)

○行為の中の省察での新たな経験は,実践者のレパートリーを豊かにする。(159頁)


○実践者による仮説を試す実験は,状況とのゲームである。(167頁)

○行為の中の省察を行なう探究者は,実験の三つの段階,すなわち探究,手立てを試すこと,および仮説を試すことの三つのレベルに関連する考察が制約を受けるような状況においてゲームを行なっている。(169頁)


○実践者は自分の仮想世界では,仮説を試す実験において,実践世界に固有ないくつかの制約を管理することができる。したがって,自分の仮想世界を構築し操作する能力は,実験を芸術的に実行するだけでなく,実験を厳密に遂行するために重要な要素である。(174頁)

○探究者はある状況をみずからの枠組みにあてはめようとすると同時に,状況からの反論にみずからを開いておかなくてはならない。(180頁)

 
 


【メモ】
 残念ながら斜め読みなので,それぞれの事例の深いところや具体的な分析については取りこぼしがある。「状況との省察的な対話」の構造記述に関しては,教育者としての経験を重ねて興味深く読むことができたが,無意識にやっているからできるんだなとも思う。全部意識してたら大変だ。


 美味しそうな後半に触らずして,前半だけで感想を書くのももったいない気がするが,2章と5章でおおよそ粗描されている「行為の中の省察」から,いくらか感想めいたことを書いてみたい。

 まず〈技術的合理性〉モデルと「行為の中の省察」の対置である。

 〈技術的合理性〉のモデルとは,かなり単純化すれば,予め一般化され習得された専門的知識を,問題に対して「適用する」ような実践の考え方(実践の認識論)ということだと思う。
 一方,「行為の中の省察」は,そのようなモデルでは拾いきれない,複雑性や不確実性や独自性,あるいは価値観の衝突に起因する問題に対処するために,問題を設定し,知を生成していく過程を実践と考える認識論といえる。

 言ってしまえば,持ち込んだ既成の知識に解決策を求めるか,あるいは問題の中に沈み込みながら解決の知を編み出していくのか,という違いとも表現できる。

--

 ショーンは,「じゃ,問題の中で解決の知を編み出していくような人って,どうやっているの?」と問うて,その行為の過程を追いかけた。


 で,わかったことは,「行為の中の省察」みたいなことをしている人ってのは「探究者」で,結構,実践の状況の中で試行錯誤して解決の糸口や知を見つけ出そうとしているってことだった。

 なんだ,あんまり特別なことしてないな,と思うのだが,熟練者の試行錯誤は,単なる試行錯誤ではないという点がポイント。そしてまた,実践者が陥りやすい点についても上手に回避する術をもっているという点が違うようだ。


 どうやら「行為の中の省察」を行なえる探究者(省察的実践家)は,自分の頭の中に問題状況を再現し,いろいろなことが試せる「仮想世界」をもっており,そこでいろんなレパートリーをサッサッサッと試行錯誤しちゃって,「んじゃ,これどうかな」と現実世界に向けて手立てを差し出していくらしい。

 さらに,こうした探究者は,繰り返される実践によって自分自身の生成する知が暗黙的で無意識になって,マンネリ化する危険(過剰学習)を,これまた省察によって,うまく回避することができる人のようである。

--

 どうしてそのようなことが可能なのかというと,要するに常に問題の一つひとつに対して,固有性をみて,問題の捉え方を設定し直すことができるからだ。

 つまり,一つひとつの問題を常に「新鮮に」捉えることができるので,気持ちを切り替える感じで,新たな捉え方ができるというわけである。

 私たちは,一旦問題にはまると,なかなかそこから抜け出せなかったりする。それは直面してしまった問題の難しさに起因する場合もあるし,あるいは自分自身のもっている信念や価値観に捕らわれてしまっている場合も少なくない。(厳密性か適切性かのジレンマにはまる場合もあるだろう。)

 おそらく,熟練した探究者(省察的実践家)は,このようながんじがらめになりそうな状況においても,自分自身の問題設定方法をやり直すことができて,新しいフレームをつくっては状況にあてはめ,問題を把握し直すことで,問題を乗り切ろうとすることができる人だと考えられる。

 こうした「状況の枠組みの転換」ができるためにも,探究者(省察的実践家)は,問題の状況との省察的な対話を心掛ける。つまり,直面している固有の問題に素直に耳を傾け,また自分自身を捕らえようとしているあらゆる既存の枠組みを(仮想世界なんかを使って)退けようとする努力を惜しまない。

--

 省察的実践者というのは,もう少し感覚的な言葉で書くと,「しなやかで柔軟性のある」人であり,また同時に「真摯な態度で鋭い」人であると表現できそうだ。

 ま,言ったり書いたりするのは簡単なのだが,これらの側面をバランスよく持つ人になるのは,なかなか難しい。あるいはだからこそ,時間がかかるのかも知れない。

 ただ,個人的には,必ずしも時間をかけなくても,人には誰しもそういう側面が備わっているものだし,上手に状況と接することができれば(あるいはそういう風にコーディネートできれば),省察的実践を行なうことができるのではないかと思う。そういう意味では,あらためて自分は環境・状況デザイン派なのかも知れないと思った。

格差と葛藤

user-pic
0

20080424a

 小学生の学習について親子が持っている意識や特性に関するデータ分析をしたことがある。親の関与が,子どもの学習や自主性を活性させ,成績にも影響する関係にあることを確かめた。

 この場合,私たちが考えていた「家庭教育」は,親が子に何某かを施すというようなものとしてではなく,単純に「学校教育」外に生じている学習のうちで家庭でなされているものを対象として指し示す用語としてだった。けれども,親の関与には様々な程度があることも指摘しており,学習に直接関与するものも含まれていたという点では,この本の「家庭教育」と無縁というわけではなかった。

--

 本田由紀『「家庭教育」の隘路』(勁草書房2008.2)である。ニートに関する著書などでも知られる本田先生,どうもNHKの番組で派手にぶちかましたらしいが,残念ながらその回を見ることができなかった。^_^

 本田先生は,ほとばしる問題意識を勢いよく研究へと昇華させる手腕をお持ちで,たまに苦笑いしながらも感嘆するばかりである。この本も書き出しは「私はよい母親ではない。」で始まっており,本論の冷静さを担保するためのエモーショナルな導入が展開する。「ニートって言うな!」の成功パターン?を踏襲し,今回は「家庭教育って言うな!」である。


 家庭教育の重要性を考える人間の端くれとし,「家庭教育って言うな!」と言われれば,「え〜!」と身構えてしまうものの,その主張を丁寧に汲み取らなければ,どちらにしても不幸な物別れで終わってしまう。
 私たちは「家庭教育」を脅迫的に要求してしまっていて,本田先生がいう「格差」と「葛藤」の拡大を生み出すことに加担しているのであろうか。それともこのお話には,どこかに誤解や迂回路があるのだろうか。

--

 本書では,家庭教育の実態をインタビュー調査から描き出し,家庭教育に関わる母親たちがすでに重荷を背負っていることが明らかにされる。そして質問紙調査のデータ分析から,子育ての在り方に「きっちり」と「のびのび」という主成分が見いだされたとし,それによって子ども達の将来にいくらかの傾向も見られるが,結局のところ母親たちはその両方について苦労することには変わらないことが描かれる。

 家庭教育の現実は様々であるが,そのような多様な現実について「格差」と「葛藤」という問題枠組みから現状把握しようというのがこの本の趣旨である。困ったことに,どちらに転んでも母親が苦労を強いられているという現実は,そう簡単には変わらない。であれば,いま現在の仕掛けを解明して,少しでも有効な手立てを打つ材料にしようというわけだ。


 その上で,「家庭教育って言うな!」という投げかけは,家庭教育そのものの否定や放棄を主張しているのではなく,どちらかといえば,見て見ぬふりしながら熱を冷ましましょうよ,という提案であるといえる。

--

 親の関与の必要性を喧伝すれば,それだけ母親たちは急き立てられて熱っぽくなる。そうならない母親たちもいる。それぞれの反応や行動に問題などこれっぽっちもない。むしろ問題は,そのシチュエーションを想像力もなく作り出す無思慮な喧伝にある。

 もしもそうなら,私は無思慮な家庭教育推進者なのだろうか。それを完全に否定することは難しい。けれども,私が関わっている範疇で言えば,むしろ私たちは「家庭教育」について,親の関与の重要性を踏まえつつ,親の現実に即した提案をしていくことで,この問題を迂回できないだろうかと模索しているのである。

 テクノロジーを使うことで,親の負担を軽減しつつも,十分な親関与というものを実現できるかも知れない。もちろんテクノロジーが1割で,それを活用するためのデザインに9割の比重があるとすれば,そう簡単な話でないことも重々承知していることだ。

 それでも私たちは家庭教育における親の関与が必要であると考え,そこへチャレンジしていくことに変わりはない。本田先生は教育社会学の立場から真摯に問題を撃つが,私たちは教育の立場から様々なアプローチをするのみである。もちろん「家庭教育とは言わない」というアプローチも手元に携えながら…。