2008年6月アーカイブ

ED-MEDIA

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 6/30〜7/4にオーストリアのウィーンで「ED-MEDIA」という国際学会がある。いろいろな先生方はもちろん,ゼミ生の中でも何人かが旅立って学会参加する。

 残念ながら私は,人生の貧乏期真っただ中ということもあり,ウィーンに出かけることは叶わない。というか,修士論文の中間発表が控えているので,海外渡航している場合じゃない。人生ね,お金とタイミングの影響は大きい。

 それでも一昨年,泣きながら翻訳に関わったペーパーの生まれ変わりが見事発表となっているので,身体は日本にあるけれど,気持ちは他の人に託して空想参加である。人間ね,思い込めばもうそこはウィーンなのである。

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 海外渡航はしないが,今週末は米国に住む妹家族が日本にやって来ている。姪っ子甥っ子たちと久し振りに会える。本当は研究しないといけないけど,しばらく伯父さんモード。

 ICT活用授業力ゼミという研究会が始まり,その中の一パートであるミニ講座の初回を担当した。「新学習指導要領と情報教育」というお題で15分のワンマンショー。

 「新学習指導要領と情報教育」というお題は,あちこちのセミナーでいろんな先輩研究者の方々が講演したり,レクチャーしている。この時期の流行ものである。似たような話になるのは,仕方ない面もあるが,面白くはない。
 実践的で具体的な話に落とし込むのが良いとは思えど,それは他に実践パートがあるので,ミニ講座パートで下手にやっても勝ち目はない。どうしようかと考えあぐねて,面白味はないが,臨教審以降の流れを確認してみることにした。

 私たちは20,30年前のことになると,生きて過ごしてきただけに,覚えているつもりで忘れていたり,前後関係が入れ替わったりしている。そんなに前じゃないと思っていたら,かなり前だったとか。短い時間にたくさんのことが起こったために,振り返ってみたら驚くべき駆け足だと気がついたり。意外と記録も残していなかったり。

 そんなわけで,大ざっぱな年表を駆け足で眺めて,流れを押さえておこうというわけだった。正直言うと,それは90分授業2回分にしても十分成立する範囲なのだが,15分に収める必要もあり,早口ジェットコースター講義である。

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 こうして15分のジェットコースターが終わって,初めて言えることがある。本当の講座は,実はここから始まるはずであったが,それはまたゆっくり書くことにしよう。

 打ち上げた花火が思いの外花開かずに落ちてしまう悲しさ。教育振興基本計画は,そういう物悲しさがある。もう少し優雅に表現すれば,ささやかな線香花火を見るような,そんな感じなのかもしれない。

 お忘れかもしれないが,我が国は平成18年の暮れ行く中で教育基本法を改正した。そこで文部科学省が手にしたアイテムというのが「教育振興基本計画」であった。

 この国には「ナントカ基本計画」という類いの施策があって,多くは「閣議決定」という手続きを経て,具体的なアクションに結びつけていくものとして扱われている。つまり,「基本計画」を提案し,閣議決定されれば,計画実施のための予算確保の根拠になるわけだ。

 旧来の教育基本法を新しいものに変える必然性はあまりない。けれども,教育振興基本計画を策定してもよいと認めてもらえるなら,変えない理由もない。改悪と人はいうけれど,具体的な基本計画を立てて閣議決定さえすれば,教育予算を確保できる(そして別の言い方をすれば権益確保もできる)のだから,飛び込んでみよう。それが平成18年の暮れに見た夢であった。

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 そして,平成20年6月27日。みんなの期待を盛り込んだ(かも知れない,盛り込んでないかも知れない)教育振興基本計画の原案は,財務省や総務省の反対を斥けることもできず,念願だったはずの「具体的な数値目標」を盛り込めずに7月1日に閣議決定されることとなった。予算確保(そして権益確保)の夢は淡くも消えていくというわけである。

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 文科省の人々は嫌がるかも知れないが,この攻防を観戦できる場所の一つが,財務省・財政制度等審議会の財政制度分科会財政構造改革部会で配布された資料の上である。

財政制度分科会財政構造改革部会(平成20年5月19日提出資料)

 実は,同じ論戦は1年前の同部会で行なわれており,今回は再戦。財務省が繰り出してきた「反論」は,基本的に昨年と同じであるが,その提示方法は,分かりやすさを追求してより説得性を高めるため,様々な飛び道具やレトリックを駆使していて圧巻である。これ以上やったら,コメディの域に達してしまう。

 もちろんこれは財務相側の一方的なパンチであり,公平な試合場面を見ていることにはならない。とはいえ,ここで改めて思わざるを得ないのである。教育をまじめに論ずることが難しい時代に入ってしまったのだなと。

 財務省は「OECD平均と比べることにどれほどの意味があるというのか」と主張する。なるほど「成果」を重視する立場からすれば,OECD平均という漠然とした目標の示し方が気に入らないのもうなずける。しかし,だとすれば「先進5カ国と比較して遜色ない」云々という文言も,いかほど意味のある反論といえるのか。

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 まあ,しかし,教育振興基本計画に具体的な数値目標が盛り込まれたとしても,膨大な項目のどれがどの順番で実現されるかハッキリしているわけではないのだから,目標達成の難しさは変わらないという予見もあり得る。

 むしろ,財務省の一部会に提出したこの資料の内容を,もっと人々が吟味する場をつくり,文科省vs財務省から多くを学ぶよう仕向けていくことが重要だと思う。今回の資料は,いかにもテレビ向きな作り方であり,ミスリードする可能性にも満ちているが,人々の注目を集めやすくした功績は認めるべきである。ならば,なおさら,この資料を肴に,私たちは教育についての見識を深める機会にしなければならない。

おこぼれ

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 木曜はゼミの日。ゼミが終わるとお腹も減るので,いつもみんなで夕食に出かける。今日は福武ホールで,某文具メーカーさんがプレゼンイベントをしていて,その懇親会の場に紛れ込んでもよいとご招待を受けたので,みんなでご馳走になりに行った。素晴らしい料理を堪能。福武ホール竣工の時期に在学できたタイミングの良さのおかげである。感謝感謝。

情報教育の流れ-2

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 情報教育に関する動向の歴史を,学習指導要領の変遷に重ねて眺めてみる作業の続きをしてみたい。とりあえず情報教育にかかわるトピックスを資料などもとに書き出してみよう。

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S25 全国放送教育研究会連盟 設立

▽S33-35 学習指導要領改訂

S45 情報処理振興事業協会(旧IPA)設立

▽S43-45 学習指導要領改訂 〜高等学校の情報技術科(工業),情報処理科(商業)

S46 日本教育工学協会(JAET)設立

▽S52-53 学習指導要領改訂

S57 日本教育工学振興会(JAPET)設立
S59 日本教育工学会(JSET)設立

▼S59-62 臨時教育審議会 〜「情報活用能力」

S60 情報化社会に対応する初等中等教育の在り方に関する調査研究協力者会議
S60 〈コンピュータ教育元年〉
S61 コンピュータ教育開発センター(CEC)設立
S61 『コンピュータと教育』
S61 『未来の教室〜CAI教育の挑戦』
S63 学習ソフトウェア情報研究センター 設立

▽H1 学習指導要領改訂〜選択領域「情報基礎」

H2 「情報教育に関する手引き」
    →「情報活用能力」の4つの観点提示
H5 『教室にやってきた未来』
H6 情報化教育促進議員連盟設立
H7 「100校プロジェクト」(通産省)
H8 「こねっとプラン」(NTT)
H8 コンピュータ利用教育協議会(CIEC)設立
H8 『コンピュータのある教室』
H8 中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
H8 情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の進展等に関する調査研究協力者会議
    →「情報活用能力」の観点が3つに見直される
H9 『新・コンピュータと教育』
H9 『不思議缶ネットワークの子どもたち』
H10 教育分野におけるインターネットの活用促進に関する懇談会

▽H10 学習指導要領改訂

H11 『マルチメディアと教育』
H11 衛星通信を活用した教育情報配信ネットワークの在り方に関する調査研究協力者会議
H12 教育情報ナショナルセンター機能の整備に関する研究開発委員会
H13 「e-Japan重点計画」
H14 『教育工学への招待』
H14 初等中等教育におけるITの活用の推進に関する検討会議
H14 「情報教育の実践と学校の情報化」(新「情報教育に関する手引」)
H14 「e-Japan2002プログラム」
H15 教育における地上デジタルテレビ放送の活用に関する検討会
H15 ICT 教育推進プログラム協議会 設立
H15 『デジタル社会のリテラシー』

▽H15 学習指導要領改正

H16 『実践的情報教育カイゼン提案』
H16 『メディアとのつきあい方学習』
H16 情報処理推進機構(IPA)改組設立
H16 教育情報化推進協議会 設立
H16  初等中等教育における教育の情報化に関する検討会
H17 デジタル放送教育活用促進協議会 設立
H17 e-Japan目標達成年 〜目標達成ならず
H17 ポスト2005における文部科学省のIT戦略のあり方に関する調査研究会
H18 「IT新改革戦略」「重点計画-2006」
    →教員1人1台のコンピュータ整備を目標として掲げる
H18 教員のICT活用指導力の基準の具体化・明確化に関する検討会
H18-19 学校教育情報化推進総合プラン
H19 ICTメディアリテラシー育成プログラム(総務省)
H19 教員のICT活用指導力の基準(チェックリスト)
H19 学校のICT化のサポート体制の在り方に関する検討会
H20 『わかる・できる授業のための教室のICT環境』

▽H20 学習指導要領改訂

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 まだ十分な年表ではないが,おおよそこんな感じである。年号変換を勘違いしているものがあるかもしれないが,だいたいこんな順序で出来事や出版物が登場した。

 これと先の年表と掛け合わせて考えると,情報教育の流れを考える材料にはなりそうである。

情報教育の流れ

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 研究会のミニ講座「新学習指導要領と情報教育」を担当することになったので,下調べのために,あらためて学習指導要領や情報教育に関する政府関係の資料や,巷の解説書を見渡している。
 最近,日常的な情報収集をさぼっていたので,結構大変。文部科学省の努力もあって,必要な資料はたくさん開示されているから,情報を集めることは楽になったが,逆に膨大な情報を整理して理解するのは難しくなっているようにも思う。

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 学習指導要領の改訂。私たちは,それがほぼ10年周期で改訂されてきたという歴史を教わった。けれども昨今では学習指導要領を取り巻く環境や認識も変わり,改正も行なわれているので,10年単位で変わるという話は,そろそろ忘れた方がよさそうな時代に入ってきた。

 それに伴って「新しい学習指導要領」とか「新学習指導要領」という呼び方も,だいぶ混乱気味になっている。30代後半の私にとって「新学習指導要領」と聞くと平成元年改訂のものを思い浮かべてしまうのだが,私より上の世代の方はもっと以前の改訂を思い浮かべる人も出てくるだろうし,下の世代は平成10-11年改訂のものをそう思うかも知れない。いまやそれは平成20年改訂のものを指すわけであるが,じゃあ次の改訂も「新学習指導要領」となると,古い資料を漁る身には結構厄介な表現で勘違いを引き起こしやすい。是非とも「S52-53学習指導要領」とか「H20学習指導要領」とか年号表記していただきたいものである。

 学習指導要領の変遷については,文部科学省の「新しい学習指導要領」ページ内にある「参考資料(リンク集)」で開示されている資料など,あちこち説明があるので参照していただきたいが,おおよそ次のような変遷である。


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S33-35改訂:教育課程の基準としての性格の明確化
     →「(試案)」が取れた指導要領として有名
S43-45改訂:教育内容の一層の向上(「教育内容の現代化」)
     →そして「四六答申」が出るも実現せず
S52-53改訂:ゆとりある充実した学校生活の実現=学習負担の適正化
     →「教育の人間化」,落ちこぼれ問題の反動として

(S59-62 臨時教育審議会)

H1改訂:社会変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成
     →「新しい学力観」と「生活科」が鍵語
H10-11改訂:基礎・基本を確実に身につけさせ,自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成
     →学級崩壊への対応と学力低下議論の始まり
H15改正:学習指導要領のねらいの一層の実現の観点から(「確かな学力」)
     →世紀を超えた学力低下論争の末に…「学びのすすめ2002」
H20改訂:「活用」型学習
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 いやはや,気がつけば21世紀です。何やっていたんでしょうか私たちは…。

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 さて,情報教育の方はどうなっていたか。上の変遷と対応させながら流れを追うことにしよう。ただ,その前に,情報に関わる歴史的な出来事を確認してみたい。そもそも情報教育が重要視されてきたのは,情報を扱う機会増え,それに関係する機器などが生活に入り込んで利用が日常化したからである。その変化を大雑把に押さえてみたい。

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S21 東京通信工業株式会社(現ソニー)設立
S30 日本初のトランジスタ・ラジオ
S33 ソニーへ社名変更
S33 ダイエー開店
S34 「少年マガジン」「少年サンデー」創刊
S35 所得倍増計画

▽S33-35改訂〜拘束力強化

S37 ビートルズ来日
S39 東京オリンピック
S43 映画「2001年宇宙の旅」
S44 「8時だよ全員集合」開始
S45 大阪万博

▽S43-45改訂〜「教育の現代化」

S46 NHK完全カラー化
S47 情報誌『ぴあ』創刊
S51 家庭用VHSビデオ発売
S51 NEC社「TK-80」
S51 アップルコンピュータ社「Apple I」
S52 アップルコンピュータ社「Apple II」
S52 「月刊アスキー」創刊
S53 日本語ワープロ「JW-10」

▽S52-53改訂〜「教育の人間化」

S54 シャープ社「MZ-80K」
S54 NEC社「PC-8001」
S56 IBM社「IBM PC」(PC-DOS)
S57 カード式公衆電話
S57 「ログイン」創刊
S57 「PC-9801」
S58 「PASOPIA7」「MSX」
S58 「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)発売
S59 アップルコンピュータ社「Macintosh」
S59 NHK衛星放送
S60 つくば科学万博
S60 パソコン通信「アスキーネット」
S60 「PC-8801mkII SR」
S61 パソコン通信「PC-VAN」
S61 使い捨てカメラ「写ルンです」
S62 パソコン通信「NIFTY-Serve」
S62 「一太郎Ver3」
S62 国鉄からJRへ

▼S59-62 臨時教育審議会〜教育の自由化路線

S63 ドラゴンクエスト3発売
S63 初の完全デジタルカメラ「DS-1P」
S63 「アエラ」創刊
S64 「ゲームボーイ」
S64 天安門事件・ベルリンの壁撤廃

▽H1改訂〜「新しい学力観」

H2 エプソン互換機
H2 「FM TOWNS」
H3 リーナス・トーバルズ「Linux」
H6 携帯電話販売自由化
H6 個人向けインターネットプロバイダー誕生
H6 「Yahoo!」始動
H7 マイクロソフト社「Windows95」
H7 レッドハット社「Red Hat Linux2.0」
H8 「Yahoo! Japan」始動
H10 アップルコンピュータ社「iMac」
H10 「google」始動
H11 NTTドコモ「i-mode」サービス開始
H11 「魔法のiらんど」開始
H11 「2ちゃんねる」開始

▽H10-11改訂〜「生きる力」

H12 「プレイステーション2」発売
H13 電子マネー「Edy」実用サービス開始
H13 電子マネー「Suica」正式サービス開始
H13 「iPod」発売
H13 アップルコンピュータ社「MacOS X」
H13 マイクロソフト社「Windows XP」
H14 マイクロソフト社「Xbox」
H15 「Skype」配布開始
H15 「Second Life」始動

▽H15改正〜「確かな学力」

H16 「iPod mini」発売
H16 おサイフ・ケータイ開始
H16 「mixi」開始
H18 「モバゲータウン」開始
H17 愛地球博
H17 「iTunes Music Store」始動
H18 ワンセグ放送開始
H18 「プレイステーション3」「Wii」発売
H19 マイクロソフト社「Windows Vista」
H19 「PASMO」サービス開始
H19 iPhone発売
H20 iPhone G3発売

▽H20改訂〜「知識活用」型

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 こうしてみると,当時の社会状況を思い浮かべながら学習指導要領が改訂されていく様子を想像しやすいだろうか。だいぶ長くなってしまったけれども…。

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 つづく

ICT活用授業力ゼミ

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 この週末に「ICT活用授業力ゼミ」という研究会が行なわれる。メディア教育開発センターの中川一史先生を中心に,今後継続的に続けられる研究会の第1回目。

ICT活用授業力ゼミ
http://www.broadbandschool.jp/event/Seminar.html
 ※私の肩書きは正しくは「東京大学大学院学際情報学府」です。ごめんなさい。

 僭越ながら,トップバッターの一人としてミニ講座を担当することになった。しかも「新学習指導要領と情報教育」なんて大きなテーマをいただいた。雑誌を読む感覚でざっくばらんに進行しようということなので,詰め込みすぎずに,軽い前座のつもりでテーマについて話そうと思っている。
 

日本賞受付中

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 いつも気がつくと授賞式と特別番組の日がやって来て,あっという間に去っていき,毎年知名度がなかなか上がらない「日本賞」は,ただいま作品応募を大々的に受付中である。

 いま,このときに日本賞とは何かを知っておくことは良いことではないだろうか。ここで宣伝しないから,いつも知られず終わるのだと思う。

 そもそも世界の優れた教育番組に賞を与えるために,我らがNHKが世界に向けて設けた国際コンクールである。実は長い歴史があるのだが,日本国内の知名度は残念ながら高いとは言えない。しかし,世界の教育番組制作関係者にとっては注目すべきコンクールとして,毎年優れた作品が寄せられるという次第である。


 そして今回,教育番組国際コンクールであった「日本賞」が,時代に対応してなのか教育コンテンツ国際コンクールとして新たに生まれ変わり,番組という形式にとらわれない音と映像によるコンテンツを審査対象にすることになった。


 残念ながら個人応募は受け付けておらず,何かしら教育に携わる団体や組織としてでないと応募はできない。関われるとしたら,視聴者としてNHKが展開する教育フェアの番組やイベントに触れるぐらいだろうか。それが日本賞の知名度不足や距離を遠くしている原因かも知れないが,ぜひ,この機会に日本賞についてサイトを見ながら勉強してみてはどうだろうか。

消せるボールペン

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 今月のゼミでの研究発表が終わり,ちょっとだけ一息つく。教育実践の記録様式に対して一つの提案をして,それを実際に実験してみようという研究。その提案部分がぼちぼちプレ実験してみようか(してみないと分からんなぁ)くらいになったので,次は実験協力者探しのフェイズに入る。慌ただしい夏になりそうだ。

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 お手伝いしている小学校のパソコン準備室に,パソコン教室での授業を終えた子どもたち何人かが,寄り道で遊びに来た。「何やっているのか?」という素朴な問いから始まり,パソコン覗いたり,カバンや筆記用具を漁ったり,チェックを受ける。子どもたちなりに何者なのか気になっていたようである。

 最近,愛用している筆記具を見て「これ僕も使ってるよ」「わたしも使ってる」と声を聞かされた。さすが文具に気を使う小学生,商品チェックもかかさないらしい。周りであんまり話題になっていないから人気ないのかなと思っていたが,意外に小学生の愛用者が多いことにびっくりした。

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 私が愛用しているのは,消えるボールペン「フリクションボール」である。

 資料なんかに書き込みをする機会が多いのだが,普通のボールペーンだと修正が難しい。修正が頻繁になったときに,取り消し線や塗り潰しが大きく場所をとってしまい,新たな修正書き込みが難しくなることが難点だったわけである。
 とはいえ,消しゴムで消せる鉛筆やシャープペンで記入すると,視認性という面でボールペンに劣ってしまう。そのトレードオフは悩ましい。修正ペンや修正テープを活用する人もいると思うが,それはそれで資料の書き込みという場面で使うのには面倒なことが多い。

 というわけで,単純に考えれば「消せるボールペーン」という商品にはニーズがあるし,欲しかったというわけだ。

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 消せるボールペーンなんて本当にあるのか? インク研究開発者のチャレンジのおかげで,いままでのボールペンのインクとは異なる,新たなインクの開発によって消せるボールペンは実現した。

 たとえば,三菱鉛筆社の「uniball Signo イレイサブル」は,典型的な消せるボールペンである。そもそも「uniball Signo」シリーズは水性顔料ゲルインクを採用した書き味の良いボールペーンシリーズで,消せないバージョンは100円ショップでも定番となっているくらいポピュラーな商品であり,私も消せないボールペーンとして愛用している。その消せるバージョンとして登場したのが「イレイサブル」という商品である。

 この商品がなぜ消せるのかは,商品ホームページにも解説がある。要するに,紙の上での定着具合をインクの特性でコントロールして,鉛筆と同じように消しゴムで擦れば紙から剥がれるようにしたわけだ。これは発想としては単純素朴で,それを実現するための新しいインクを開発する苦労が実った結果,実現した商品である。

 ただ,インクの定着具合はインクの工夫だけで完全にコントロールできるわけではない。書き込む紙の特性にも大きく影響されるし,実は書き味にも少なからず影響を与えてしまっている。肝心の「消せる」という機能も,いつでもきれいに消せるというわけではない難しいもあったわけである。

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 「消せるボールペン」は,「かろうじて消せる」という程度のもの。そんな認識が定着しつつあるところに,次なる刺客として登場したのがパイロット社の「フリクションボール」である。この消せるボールペンは,これまでの消せるボールペンとは異なる発想で消すことに挑戦した意欲作である。

 これまで,ボールペンの字を消すためには,鉛筆と同じで,インクを紙から取り去ればよいと考えられてきた。インクが無くなれば字も無くなり,新たに紙に書くことができる。
 しかし,この方法の問題は,キレイに取り去るのが難しいということだった。鉛筆の文字を消しゴムで消していたら,紙が汚れたり,シワシワになってしまったという苦い経験をした人もいると思う。ボールペンでもその問題は根本的に同じだった。

 そこで,他に文字を消す方法は無いかと考えたとき,私たちが使うもう一つのアイテムが「修正液」である。あの白い液体を上から塗りたくって,新たな書き込みスペースをつくってしまうという発想である。
 要するに,文字を消すというのは見えなくなれば良いのであって,インクを剥がす手間をかける必要は無い。インクはそのまま放っておいて,新たに書けるようにスペースをつくりましょうというのが修正液の発想である。

 この発想を修正液なしで実現できないだろうか。パイロット社の開発者たちは,そう考えたに違いない。そして古い書類のインク文字が薄く消えかかっていることなど,いろいろな物事から発想を得て,何かの方法でインクが透明になってしまえば,文字を消したと同じことになる!という考えに至ったのだろう。

 消しゴムで消すときに起こるのは,ゴムと紙が擦れて温度が上がるということ。だったらある温度になったらインクが透明になってしまうインクを開発すればいい。そうやってでき上がったのが「フリクションボール」という消せるボールペンである。

 実際,このボールペンの消え方は,別の方法と比べてとてもキレイである。そして消えたところに新たな別の書き込みができる。その上この方法なら,蛍光ペンにも適用が容易である。資料の書き込みには蛍光ペンタイプも重宝する。

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 というわけで,消せるボールペンには二つの方式があり,それぞれに特徴がある。

 いずれの方式でも,消せるボールペンは「消せる」という特性があるため重要な書類の記入に使用することは避けなければならない。この点は気をつけないといけない。
 それを注意すれば,筆記具として,とても使い勝手の良いものなので,愛用しているというわけである。それが小学生にも受け入れられているというのは,なるほどなぁとも思う。

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 最近は,使い勝手の良さから「フリクションボール」をノートを書くときにも使用してしまっている。実は,これについては,私自身ちょっと反省をしていて,なるべく早いうちに「uniball Signo イレイサブル」に切り替えるか,普通の顔料インクボールペンに戻したいと考えている。

 インクの開発努力によって,使い勝手の良い筆記具が登場したのはありがたいが,こうした消せるインクの耐久性は,まだ十分検証されていない。特に特定温度によってインクそのものが透明になってしまうフリクションボールの場合,意図せざる環境変化によってインクが透明になる可能性がある。これは「記録を残す」という観点から考えると,危険な可能性である。

 30年後,いまの子どもたちが小学生時代のノートを見返す機会があったとき,フリクションボールで書かれた部分だけがそっくりそのまま消え去っていたという笑えない事態が起こらないとは限らない。

 資料に書き込む程度のことであれば,インクが消えても資料本体が残るという意味で,まだ許容できる部分もある。けれども,ノートなどの記録が丸ごとインクの透明化で見えなくなってしまったら,これはこれで大変な話である。

 そう考えて,そろそろ普通のボーペーンに戻ろうか,それともせめて違う方式の消せるボールペンに戻ろうかと考えている次第である。
 自分のノートが残るのは恥ずかしいとは思うし,死んだあと他人に見られるなんて,それはそれで逃げ出したくなる話だ。けれども,そう生きちゃったものは仕方ないし,未来の歴史研究者や考古学者たちが過去を知る術を得なければならないことを考えたとき,記録を残すということ(記録の内容という意味じゃない)に最大限の配慮をすることは私たち一人一人の義務のようにも思えるのである。

 それは,未熟ながらも現在の私の研究にも通底する思いなのである。

 「組織学習システム論」という大学院の授業を受けている。今回のテーマはずばり「組織学習論」であった。取り上げられた文献をご紹介した方がイメージしやすいだろうか。

 1. 安藤史江(2001)『組織学習と組織内地図』
 2. ピーター・センゲ(1995)『最強組織の法則−新時代チームワークとは何か』
 3. デヴィッド=ボーム(2007)『ダイアローグ 対立から共生へ 議論から対話へ』
 4. ジョセフ・ジャウォースキー(2007)『シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ』
 5. ピーター・センゲ,オットー・シャーマン(2007)『出現する未来』

 これらは書店でいえばビジネスコーナーに置かれている書籍ばかりである。要するに企業における教育や学習についてフォーカスしたもの。学校教育畑の人間には,少々縁遠かったりもする。ただし,縁遠かったにしても,いまや無視できなくなっているのは確かで,今後は概念の対応や連携の仕方などについても課題が発見されて,研究が盛んになる分野である。

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 秋葉原で起こった事件について,何も考えないわけにはいかない。そろそろ明確に認識され始めているように,これは社会的な不平等(格差と呼ばれる問題)と深く関係し,諸々の表面的な対応(刃物の販売制限やネット書き込みの監視強化)などは本質的な解決策ではない,ある「現況の断片」だということである。

 そして,おそらくは肥大化した個人の学習に比して,組織や社会の学習が相応に発展していないことによる歪みもしくは葛藤が,解消されずに行き場をなくして所々で爆発していると表現できるかもしれない。

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 残念ながら今回の発表担当ではなかったため,直接文献を読んだわけではない。しかし『出現する未来』という書物の記述が興味深く思えた。最初私は,この書が対話におけるU型プロセスというものを提示して,そのU字底辺部分を「プレゼンシング」という過程であると説明しているのが,よくわからなかった。何かを提示するという過程なのかと想像した。

 ところが,これは「提示」ではなく「出現」なのだという。なるほどタイトルはそう書いてある。そして原書の名前もシンプルに「PRESENCE」である。

 対話において一度自分の認識を括弧に入れ,固定化した認識の変化に前向きである対話を継続することで,対話する者同士に大局的な視野や世界観が「出現」するというのである。そこで発生しているのは,学び直しに近い。あとは,それを実際に行動へと結びつけていくプロセスに移り,組織としての学習が達成されていくというわけである。

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 皆さんも容易に想像されると思うが,こうした学習が発生する組織に所属する個人は,個人レベルでの発展と組織レベルでの発展に有意義な連関を見出すことから,その職業人生に満足感を得やすいと推測される。

 ところが現実には,そのような学習を満足行く形で達成している組織は少ない。志はあっても,なかなか十分に取り組めなかったり,第三者の力を借りる必要があったりと,実現への道のりは険しい。それが普通である。

 むしろ問題なのは,悪いほうへ悪いほうへと組織が突き進んでしまっている現実があることだ。「出現」させるどころか,「隠ぺい」もしくは「偽装」させるプロセスを躊躇なく展開しているといってもいい。

 そしておそらくは,秋葉原の事件を起こした張本人も,そうした世界に身を置いていた一人なのではないか。これとて安易なステレオタイプかもしれないが,少なくとも理不尽さを抱えた日常を生きて,私たちと同様にそれに強い不満を抱いていたことは確かである。本人にとっての,その具体的な理不尽さや不満を推し量ることは,私たちにはできないとはいえ…。

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 今回の授業で扱った文献やその著者たちの考えを聞きながら,そして秋葉原の事件のことを重ね合わせてみたりしていると,ちょっとだけ「エヴァンゲリオン」のことが思い出されてしまう。

 テレビ版のラストは,あらゆる人物事の境が取り払われて,地続きな「私」になるといったモチーフの映像が展開していたように思う。まさにそういったものが「出現」したのであるが…,あらためて,あれこれ解釈できるあのアニメの謎ぶりが面白く思えてしまった。


 それにしても私たちに出現する未来とは何だろうか。対話の必要性がますます高まっているのかもしれない。

 日曜日,いろいろ事情あってApple Storeに技術サポートをお願いしにいくことになった。私は根っからのApple好きであることはよく知られた話なのだが,Apple Storeを始めとしたAppleの商売下手は大嫌いなので,頼りにしつつも何があっても驚かない気持ちで出向いた。

 案の定,今回他社製品が絡んだ技術サポートは対象外で受けられないと返答してきた。こういう場合,「そんな理不尽なルールがあるか!対応しろよ」と粘るのが普通の消費者なのかもしれないが,この会社の営業方針と付き合いが長くなると,そうした抗議のエネルギー自体が無駄であることも承知しているので,むしろ現実的な方策を打つことにした。


 「受け付けられないということはわかりました。それで,この技術サポートを受けるための別に可能な選択肢は何ですか,教えてください」とお願いしたのである。

 自分のところでサービスできないということは,事実上,他へたらい回しするということである。だとすれば当然ながら,より良いたらい回し先を紹介するくらいのサービスは十分に提供してもらいたいじゃないか。


 「いま,近辺のリストを印刷してお渡しします」といったところは,先方の定石のようである。問題は,リストを客に渡してからのことである。それで店員はすっかり満足だ。仕事は終わったような気持ちでいる。

 私はリストを眺めて,わざとつぶやいてみた。「えっと,株式会社のサービスが多いですね。日曜日はやってないかなぁ…」店員は,一緒にリストを見つめて,なんの反応もない。

 まったく…,ナントカ・ジーニアスとかコンシェルジェとか聞いて呆れるわ。私がApple Storeに日曜日に駆け込んできた理由とか,できればいまから別の店に出向きたいという気持ちを察して,サービスを生み出そうという気概も空気も感じられない。早くにたらし回しモードに移ったなら,移ったなりに,たらい回し先まで案内し届け終わるまで面倒見るのがApple Storeの本来の哲学じゃないのか?

 他社製品が絡む技術サポートを受け付けないことによる自分たちのサービスの効率化や合理化を推し進めているにもかかわらず,合理化の先,消費者の満足までサービスが届いていないんじゃ,話にならない。こういう中途半端な精神でAppleブランドを背負っている人間が多いから困ってしまう。

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 結局,日曜日に技術サポートを引き受けてくれたのは,多摩に店舗を構える老舗のマック販売店。マック愛好家の間でも昔から知られたお店であった。結局,Appleという会社と長く付き合い,振り回されて苦労した者同士で助け合ったという感じ。


 サービスとは何か。商売人にとっては永遠の問いであり,問い続けることで生み出し続けるしかない。そうした本質に向かう真摯な問い掛けをせず,上っ面だけの目新しさを追いかけるのに終始しているとしたら,そのうちハリボテみたいな全体が崩れ落ちるに違いない。それは何事においてもそうだと思う。

凡ミス

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 今日は凡ミス。16:00からの用事を午後6:00からと思い込み,スカッと吹っ飛ばしてしまった。思い込み時刻通りに現場に着いたら,(当然ながら)跡形もなく事が済んで誰もいなかった。ああ…。

 結局,かち合って出られないと思っていた大学院の行事に参加することになった。同じコースに所属している人たちとの交流の機会で,普段慌ただしくてなかなか話ができない人たちと少しだけ近況報告を交わした感じである。

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 久し振りの晴天。洗濯と少々のアイロンがけをした。秋冬物をうまく洗濯して収納したいが,セーターなどは洗い方が難しそうで,まだ手が出せない。

 水曜は小学校お手伝いの日。先生方とゆっくりお話する機会はほとんどないが,たまに隙間時間のタイミングが合ったりした機会に,あれこれ教えてもらう。現場の日常は,ある程度知っているつもりでいても,学校毎に違うということもあるし,重ねた経験の異なる先生方の眼を介すると,同じものでもまた違った見え方をするので奥深い。


 昨今,教員養成の現場に〈実務家教員〉を配置することが条件に掲げられていて,現場経験○年以上という方々が大学教員になっている。現場の日常を肌感覚で知っている実務家教員が,養成現場で指導することによって現実との乖離を最小限にし,実践的指導力もしくはその構築素地が調えられた教員志望生を輩出していることが期待されているのだと思う。あるいは教育研究の方面にも,良い影響があることが望まれているのだと思う。

 私は高等教育でしか現場経験がないので,研究対象にしている現場については未経験な〈非・実務者教員〉ということになる。それゆえ,現場の肌感覚の有無に関しては勝てない部分がある。その分,限られた現場訪問の機会と自身の想像力を使って,少しでも現実に近づこうと努力する。そこで実務家教員に見えないものも見えてくると信じて努力を積み重ねるしかない。競争しているわけではなくて,むしろ互恵的に切磋琢磨するということを目指して。


 理論と実践,知識と現実といった様々なギャップがある。教員養成と教育現場との乗り越え難いギャップというものもある。そこのところを逆にどうメリットに変えていけるのか,それを考えることも大事だと思う。

iPhone 3G

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 ニュースでお聞き及びと思うが,アップル社が日本でソフトバンクモバイルと組んでiPhone 3Gを7月11日に発売することになった。噂のiPod携帯電話が,いよいよ日本に上陸というわけである。

 日本では,iPod Touchという製品が同じような操作性の機器としてリリースされており,だいたいの使用イメージというのは知られているところだけれども,iPhoneという携帯電話として登場する今回の機器は,携帯電話通信網を使って通信できることと,カメラとGPS機能が追加されたという違いがある。

 このような機能は,従来の携帯電話で珍しくはない。しかし,あらためてiPhoneという通信機器を吟味したとき,携帯電話とは全く違う情報端末としての次元の違う可能性が広がっていることがわかってくる。

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 現在までも,教育の現場に携帯電話を積極的に取り込み,授業や学習に活かそうという実験的試みがいくつかなされてきている。しかし,モバイル端末としての有用性は確認されながらも,端末操作の難しさや機能デザインの柔軟性の無さ,あるいは料金コストを考えた場合に,本格的な導入にはまだハードルが高いということも見えていた。

 すでに市場に出回っているスマートフォンを利用した社会人向けの学習コンテンツの研究では,一定程度の効果も認められ,あとは端末コストと通信コストの問題であるところまでいっている。

 そこにiPhoneである。

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 iPhone 3Gが注目すべき製品であるのには理由がある。これは 1) MacやWindowsと同じレベルのプラットフォームレベルの商品であるということ。2) 全世界70カ国を対象に安価($199〜)で提供されること。極端な話,この2点である。

 1)は,もっと細かい特徴に細分化できるが,とにかくタッチパネル操作によるパソコン並に高性能な携帯電話・情報端末であるということだ。消費者からすると従来のスマートフォンとか携帯情報端末との違いがわかりにくいが,この機器のためのソフト開発をするという立場から眺めると,その次元の違いは明らかである。

 2)は,そのような高性能な機器が,世界各国で安価に販売されるため,普及する程度がかなり高くなるということである。たとえば,世界の誰かとやり取りするときに,同じiPhoneだと使えるアプリが共通なので,なにかと便利だったりするかもしれない。海外での活用事例を取り込むこともできるし,逆に日本での活用事例を海外に提供することもできる。

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 いま,日本の学校は教員一人一台のパソコン整備が進められている。先生たちは教室,もしくは職員室に自分の仕事用パソコンを持つわけである。

 それが一段落するかしないかのところで,そのパソコンと組み合わせて使うデバイスに関しても未来を見据えなければならない。その際,連絡用の携帯電話としても使用でき,教育支援のための様々なアプリを開発することが期待できるiPhoneのようなモバイル端末が当然俎上にのぼってくるはずである。


 おそらく,あちこちの研究グループがiPhoneの教育利用に関するアイデアを練っていることだろう。これまでの機器とはその操作性も開発環境も,そしてコストの問題さえ一線を画してしまう。そんな可能性を持った機器だからこそ,ごくごく普通の教育実践を支えてくれる有能なツールとして活用できることが期待されている。


 まずは学校現場でのiPhone活用の可能性を模索する研究プロジェクトがいくつか登場するだろう。授業の中で子どもたちが使うツールとして,また教師にとっての公務支援ツールとして。

 それから,高等教育では学生にiPhoneを支給するところが出てくるだろう。入学生にパソコンやiPodを支給するのと同じ調子で,最初のうちならiPhone支給が宣伝上も効果的である。語学教育用のツールとしても,学生支援や学務の大学ポータルサイトへのアクセス端末としてもかなり理想的だ。Microsoft Exchangeを活用する手もある。

 塾や通信教育業界も,Nintendo DSと同じようにプラットフォームとしての可能性を見逃さないだろう。アプリの開発によってタッチスクリーンや傾きセンサー,カメラやGPSなどを利用したDSとはまた違った教育ソフトを提供することが可能になる。

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 携帯電話との親和性が比較的高い日本における活用事例は,きっと世界的にも注目を集めるはずだし,世界に情報発信するよいきっかけになるだろう。時間はかかるかもしれないが,大きな変化が起こり始めると思う。
 それだけに,先日のNEW Education Expoの雰囲気が,世界を先取りするどころか,自分たちの目標にすら到達するのに四苦八苦している状態であることを憂いでしまうのだ。杞憂であればいいが。

 秋田喜代美先生の授業「授業の心理学」に出席している。今年この授業では"Preparing Teachers for a Changing World" (→版元)という文献を講読している。主に教師の学習や教師教育に関して焦点を当てたもので,タイトルからも分かるように新しい時代を見据えて取り組まれた仕事である。教師が知っておくべきことや何を学ぶべきであるのか,教師教育カリキュラムの在り方も射程に入れて論じられていたりする。

 ちなみに学習科学に関する枠組みとしてHPLフレームワークと呼ばれるものがあるが,本書はそれに則った成果でもある。HPLとは"How People Learn" (→版元)という学習科学に関する文献のことで,今日,学習を語る際に多く参照される考え方。邦訳は『授業を変える』(北大路書房2002)という書名で,実は名前が似ていて紛らわしい書があって困るのだが,教育や学習に関して興味がある人は一読しておくべきである。

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 学生時代を教員養成学部で過ごし,現場の教師にはならなかったけれど違う角度から教育や実践のことを考え続けてきた。そうした関連の問題が,21世紀に入ってから徐々に,このようなまとまった形の学術成果として現れてきていることを思うと,大変興味深い。とはいえ問題は整理されたからといって,それにどう取り組んでいくかはまだまだこれから。考えなければならないことは,まだたくさんあるいえる。

 あらためて,教師というのは「学習者以上に優れた学習者であらねばならない」のだと確信した。そう考えたとき,研修受講モデルを基本とした教師教育や教師学習の在り方が望ましいのかどうか。そのような問いから出発して,もう一度,日本の教育を眺め直さなければならないと思う。

 情報教育教員をしていた経験も評価されてか,学習ソフトウェア情報研究センター(学情研)が主催する「学習ソフトウェアコンクール」の審査員をさせていただいた。(第23回のお知らせ:募集終了済)

 先日,予備審査会に出席して,いろんなソフトやコンテンツを見せていただいた。審査過程にあるから,具体的なことを書くわけにはいかないが,いろいろ創意工夫したソフトや作品が並び,評価するのもなかなか大変である。とはいえ,審査員側もそれぞれの経験に基づき作品を審査し,総合的な観点から作品が絞られていく。最終審査はこれから。どんな作品が選ばれるのか楽しみである。

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 こうやってコンクールやコンテストが開催されることで,作品づくりへの動機を生んだり,作品を作った人に対して労をねぎらったり,広く作品を知ってもらうきっかけになることが目指されている。

 営利的ビジネス的なものとはまた異なるが,こういう教育現場や教育にかかわる人たち同士の互恵的な動きも上手く持続するように全体がデザインされるよう期待したい。

NEW Education Expo 2008

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 2008年6月5〜7日にかけてNEW Education Expo in 東京が行なわれた。Expo自体は13回目を数えるが、私が参加するようになったのは一昨年からなので、今年で3回目の参加となった。

 本当は同日にBEATセミナーが東京大学・福武ホールで行なわれていたので、そちらも気にはなったが、公開授業を見たかったのと、後期からの非常勤のネタを集める必要もあったので、Expoを選択。BEATセミナーは、あとから身近な人たちに様子を聞くことにしよう。

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 昨年は何かが間違ってセッションの登壇者になったが、今回は一来場者に戻って気楽な気持ちで最終日に出かけた。Expo自体は年々来場者も増えているようで盛況であった。

 ただ、個人的には不満と不安が募った。私が参加した3年間だけを考えても、トピックスの目新しさはあっても、本質的な状況の進歩はないように思われた。確かに新しい学習指導要領においては、教科の域にまで情報にかかわる文言が入り込み、情報教育や教育の情報化は、いよいよ本格化するように思われている。

 ところが現実には、情報教育や教育の情報化のための環境整備に着手することが、ますます困難な状況になってきているようにも見える(ex.地方分権化)。賑やかだった企業展示ブースは、私の目にはますます混沌として、そこにいる誰も教育市場におけるグランド・ビジョンを描けていないように思われたのである。

 3年間、差し出されたパンフレットを受け取ったり受け取らなかったりを繰り返して集まった、そのパンフの山を比べてみると、ある種の固定化されたパターンとバラバラさ加減に、私は大きな不安を感じざるを得ない。弱者は当然のことながら、強者にとっても、どこまで持ちこたえれば道が開かれるのかが見えないチキンレース状態にある。いや、むしろ小回りが利かなくなっている分だけ、その消耗具合は想像以上なのではないか(ex.学研etc)。

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 それでもこうして毎年、教育関係の大規模なイベントを継続的に開催しているNEW Education Expoの関係者の皆さんには頭が下がる。私は、教育市場が活性化し、教育に貢献してくれる企業がハッピーになってくれることを心底祈っている。

 たとえば、英国ロンドンで毎年行われている世界最大の教育関係展示イベント「BETT」は、世界から教育関連の企業が集まり大変賑やかである。NEW Education Expoが目指している一つの理想だと思うが、ここに集う企業の人たちは「企業人」であると同時に、教育を支援する「貢献者」としてプライドに満ちた姿勢で参加している。またそこに参加するあらゆるレベルの教育関係者もまた教育界を活性化させたいという思いで集う。そして、BETT会場は、異なる立場の人たちがセミナーや展示物を話の肴に教育を語らうサロンの集合体と化すのである。

 私は、ここにNEW Education Expoが次のステージへ飛躍するヒントがあるように思う。いまのExpoには、セミナーや展示物、あるいは教育の未来について参加者同士のみならず、企業の人々と語らう場も余裕もほとんどない。意見交換会は場を移して別途行なわれるが、それは来場者のほとんどを返した後だ。それで語らうべき人々と語らえているだろうか。


 私の懸念は、現時点の規模において、こうした場に集う私たちが教育について語らいを持ちえないとしたら、今後どうやって教育の市場は互恵的な関係を発展させながら大きくなっていけるのか。このままではあまり幸せな未来はないんじゃないかと思えるのである。ともに教育文化をくつる者同士になるのか、それとも消費文化を分担する者同士になるしかないのか。

 ある意味、NEW Education Expoが変わることができるとき、教育市場の新しい在り方が始まると思う。

軽量軽快化

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 教育ト書きの更新頻度がなかなか上がらないのは、書き手の忙しさもあるが、何より駄文を書いてから公開する段になって躊躇うようになってしまったことが大きい。

 以前継続していたブログに対して、応援の声がある一方で、心配や懸念の声も聞かされて、それはそれで周りに迷惑をかけているのだろうと思えていた。その上、私自身が大きな環境の変化を経験し、意図せざる出来事をいくつか味わい、自信喪失もある中で、その流れを断ち切る必要性に駆られて、続けていたブログを終わらせることにしたのは確かである。

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 "Scientific American Mind"誌の2008年4-5月号は「The Social Psychology of Success」という巻頭記事で「Stereotype on the barin」(脳におけるステレオタイプ)をテーマとした特集である。

 これはちょっとだけピグマリオン効果にも似たお話で、ピグマリオンが教師の「期待」が教え子に影響するというものであったのに対して、こちらは「ステレオタイプ」が悪影響を及ぼすというものである。つまり、ある種のステレオタイプについて自覚してしまうことが、パフォーマンスを下げたり(あるいは逆に上げたり)するという現象である。

 記事によると、こうした現象が起こるのは、自分がどの特定グループに属しているかという認識、自己の所属アイデンティティが関与しているのだということらしい。特定グループに対する評価(のステレオタイプ)が、自分のパフォーマンスの正否にも影響するというわけである。

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 果たして、ある程度安定していた組織や所属から飛び出して先行きわからぬ状態に移ったのだと考えることが、私自身のパフォーマンスを上下させたのかどうかはハッキリしない。それでもメンタルな部分を経由して、だいぶ縮こまってたようにも感ずるし、そう思って逆に虚勢を張れば、逆効果を生むことにもなる。その均衡点を探す作業すら、あっちこっちぶつかりながらなので大変である。

 春に新たなブログを始めることにしたのは、新しいペースを形作りたいという思いからであった。とはいえ、過去の駄文との差別化を意識しながら、自分が今いる立場や環境、周りに人々への配慮など、結果的にはパフォーマンスを抑制する結果となっている。これはあんまり嬉しいことではない。

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 そうか、根本的な原因は、このブログの重厚長大を目指しがちな駄文にあるのだ。初心に帰りきれていない甘さ。私にとってのこの場所は、軽快に物事を横断しようという実験空間であったはずなのだ。だからこそ、読む皆さんには「こっそりお楽しみ」いただくことをお願いしてきた。私が楽しくなくてどうするのか。


 ここで仕切り直し。軽量軽快を目指して、更新頻度を上げていこう。