2008年7月アーカイブ

去りゆく七月に

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 まもなく七月が終わる。

 大学の図書室。そのくたびれた蔵書を見て,せつなくなる。

 かつて学部生時代に新刊として書店に並んで輝いていた本。

 その変化に,時の流れを感じた。


 それでも蔵書は,多くの人の手に取られ,多くを伝えたのだろう。

 同じ時間の中で,自分は何ができたのか。


 せつなさを共有する相手はいない。

 遠ざけてしまった人達のことを想い,離れていこうとする自分を無闇に鼓舞する。

 学術の世界に留まろうとするからには,自分の中に想いがあるはず。

 しかし,それも図書室の蔵書のようにくたびれてしまっているのだろうか。


 自分に才覚がないことは分かっている。

 問題は,それでもなお,前に向かって歩むか歩まないか。

 それだけの話なのだ。


 その一歩ごとに,私は人から離れていこうとする。

 そうしないと,自分の気持ちを支えてはいけないから。

 そうしないと,たぶん前へ進めないから。

 
 
 言葉ばかりが浪費されていく感謝と,ただ一言「ごめん」の想いが

 伝わらないまま,今年も七月が去っていく。


 君は元気だろうか。 君は幸せだろうか。

 

洗濯と執筆と

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 家にこもってパチパチと作文。ついでに溜まった洗濯ものを一気に片付ける。部屋中干し物だらけだ。さすがにこれだけ暑いと乾くのが早い。

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 修士論文研究に関するネタを一通り書き出す作業をしていた。あちこちへの寄り道途中で拾った知見などを,一つの筋の上に乗せてみようというわけである。こうして書き出してみると強引な部分がいくつも見つかる。まだまだやらなければならないことが山積しているようだ。

 とはいえ,秋にある日本教育工学会への発表申込みは今月末。原稿をさっさと準備して申し込まねばならない。今日もその原稿作成をしているところ。わ〜っと書き出してネタはあるのだが,A4サイズ2枚に収めるとなると,それはそれ用の文章を書かないと落ち着かないので,遅筆なくせして,文面を再執筆している。自分の文章コピペすればいいのに…。

 ネット上に教育に関する駄文を書いて長い時間を経てきた。思考をめぐらせること,考え続けることが大事だと思ってきたし,斜に構えて行儀良いとはいえないが物事を批判的に見続ける必要も感じていた。けれども,だんだん教育関連の話題は,話題にすること自体が重苦しく,一筋の光を探り出すことがますます困難になってきたようにも思える。


 過去の教員採用に関して不正があったとの報道は,汚職事件としての構図は分かりやすく,マスコミ好みなのは確かだが,その問題を真面目に扱えば扱うほど,教育現場を苦しめる(ひいては子ども達を苦しめる)事態を生み出しかねず,話題にすることを躊躇せざるを得ない。


 時代と社会が大きく変わっていく中で,取り残されている学校教育のことを誰も見ていなかった,誰も本気で見ようとしなかったことが,すべての元凶ではないか。
 もっと正確に言えば,それぞれの人たちが,それぞれの見たいようにしか見ておらず,本当になすべきことを見ようとしなかったのだと思う。不正を起こさせないようにするための契機は,実は幾度もあったはずなのだ。


 重要書類や記録が改ざんされる。たとえば,2005年度までに本気で教育の情報化やって,情報セキュリティにも取り組んで情報利用の手順ができていたら,不正を続けられないようにできたかも知れない。絶対ではないとしても,契機の一つではあったはずである。

 学校に新しいパソコンが増えるという中途半端な見方でいるから,教育の情報化は真面目に取り組まれなかった。あれほど整備の必要性が唱えられていたにもかかわらず,見たいように見て,本当にすべきことを見なかった。


 そういうことに想像力を及ばせないで,今回の不正報道だけ見て,やれ「公教育行政の失墜」だと言わないでいただきたい。一つ一つ,国民として目を光らせていなかったにもかかわらず,そのツケが積み上がった部分だけ見て,どこかの誰かのせいだと考えるのはやめていただきたい。

 そういうマスコミ報道を見たら,そんな報道の在り方自体に違和感を感じ,自分の周りにいる人たちや先生たちとの信頼関係を,どうやって再確認し,必要あらば再構築し,維持していくことができるのか,第三者(教師・保護者以外の立場。たとえば大学の研究者,大学院生など)を巻き込んで考えたり行動に移すべきである。


 もしも「公教育制度の失墜」なる言い方を許すなら,それはその周辺にいる国民一人ひとりが無責任だったことを言うに等しい。それを報じているマスコミがまともな監視機能を有していなかったことを言うに等しい。だとすれば,まともな監視機能の無かったマスコミが言うその言葉をどうして信ずることができようか。


 もしそういう事態を望んでいないのだというなら,保護者は自分自身を信じ,それと同様に教師を信じなければならない。自分だけを信じて教師を信じないのも,自分自身を信じずに教師だけを信ずるのもおかしい。同じことは教育に関わる教師を始めとした関係者にも必要である。そして,互いを信じて関係を紡ぐことから,初めて子ども達に胸を張れるのではなかったか。そのバランスを欠けば,誰かが負荷を背負い,全体が歪む。


 相手を縛る方法ばかりを考えるよりも,互いのフリーハンドが守られるために最低限何が必要なのかを考える互恵的な発想から問題を捉えない限り,日本の教育はますます縮こまり,日本自体も縮むか,末は雲散霧消してしまう。それじゃダメなのである。
 

終業式

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 毎週水曜日の小学校お手伝い。今週は理由があって金曜日に変更したので,終業式の日となった。気がつけば1学期が終わってしまったというわけである。あっという間だ。

 先生達も成績付けの山場が終わって,少しだけ,ほんの少しだけホッとした雰囲気。というか,逆に成績付けの時期が異様に緊張度が高いともいえる。ただ,昨今は山場を超えても,まだ様々なものが続く感があって,一昔前のように夏休みで気持ちをリフレッシュしたり,ゆとりを持つということは,難しくなっているようでもある。

 また夏休みは,保護者にとって生活の文脈とは全く関係なく,子ども達が登校しなくてよい期間が始まるわけで,特に様々な事情で日中は家を空けるという家庭にとっては,その対応に頭を悩ませるところもあるかも知れない。
 そのことが回り回って,長期休業という制度を持つ学校教育への不満を募らせる遠因の一つになっているとも聞く。気持ちは分からないではないが,これは一つの文化と割り切って,うまく乗り切るしかない。

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 それにしても,朝にも関わらず,そして体育館も出入口や窓は全開にも関わらず,かなり蒸し暑い終業式だった。体育館といえば,ひんやりとした場所だという印象が強かったが,この暑さは尋常ではない。時代とともに気温は上昇してしまっているのだろうか。知らないうちに終わってしまった環境サミットは,何か成果があったっけ?

 この夏は,本当に大変な夏になりそうだ。

遅筆

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 なんやかんやで,これから修士論文の中間発表があって,そのための資料など準備をしているのだけど,どうもグシャグシャとしているので,再構成中。でもやはり筆が進まない。

 駄文はいつもあんなに長文なので書くのに苦労していないように思われるかも知れないが,私,かなりの遅筆家である。自分で納得してないと,ほとんど書けない人なのだ。

 なんだか,すごく疲れた。暑いから体力消耗しているせいもあるな…。はやく完成させたい。

お恥ずかしい…

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 たぶん人生で最大級の大きさで名前と顔が載ったのだと思います。「小さくお願いします」って願いは,通ずるはずもなく…。これはお引き受けした仕事の一部として責任を持って参加したもの(肩書きの表示もそれが理由です)。ただ個人的には,裏方でさりげないのが好みなので,お恥ずかしい限りです。

 ご無沙汰している皆さんに,生きている証拠として見ていただけることを願いつつ。

iPhone発売開始

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 とうとうアップルのiPhoneがソフトバンクから発売された。昨日からマスコミ各社による報道が許可されて,あちこちのWebサイトでは紹介記事やレビュー記事が掲載されている。

 発売日の朝には,各チャネルのニュース番組が東京・表参道のソフトバンク販売店に並んだ行列を中継していた。ちなみに実機によるデモンストレーションをアナウンサーたちが披露するのだが,使い慣れてないせいなのか,緊張して汗かいているのか,あまり上手に操作できていなかった(一番上手だったのはNHKのアナウンサーで,普段からiPod Touchを使っているのではないかと思われるほど手慣れていた)。

 ラジオでも同じように話題を取り上げている。TOKYO FMの番組でも専門家のコメントで機能を詳解しているが,日本語入力の新しいアイデアについて,ちゃんと紹介し評価しているなど,言葉だけの説明ながら掘り下げて報道していた。

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 iPhoneの発売は歓迎すべきことだし,本体価格が2万数千円からであることも嬉しいが,月々の基本使用料が七千円程度かかる。家計に占める通信経費をまとめれば,それくらいになる場合もあるかも知れないが,それをiPhoneだけで置き換えるというわけにはいかないだろう。料金に関しては課題も多い。

 というわけで,当然のことながら私自身は入手することはできそうにない。しばらくはiPod Touchを愛用するつもり。

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 それにしても,今回のニュース報道で,他社の対応を紹介する件があったのだが,他社はiPhoneに対して「日本文化になじまない」というイメージをつけようと躍起になっているのが分かる。

 たとえば「日本はメール文化である」とか「絵文字がない」とか「ワンセグがない」とか「電子マネーがない」とか…。日本がメール文化であるというのは,絵文字メールを使う若いユーザーが多いということで絵文字機能がないのは問題だという文脈のことだと思われるが,とにかく,iPhoneに搭載していない機能について言及する形で差別化を強調していた。


 このような発言を聞くと,日本のケータイ・ユーザーは,確かに絵文字やワンセグ,電子マネーを使っているのだけれども,それは能動的に欲して利用しているのか,受動的に(機能があるから)利用しているのか,いつも考えてしまう。

 あれば便利で,もはや無くてはならないという風になっているのだが,無いと生活できないというわけでもない。少しアンチな考え方をすれば,私たちはメールやワンセグに時間をとられるようになってしまったし,電子マネーで細々とした消費が増えて家計を圧迫し始めたりと,デメリットがないとは言えない。

 iPhoneもまた,メールやインターネット,iPodやYouTubeを扱える多機能さが受けているが,それはそれで,そこに自分のリソースやエネルギーを注ぐことになるわけで,同じようにデメリットを抱えたりする。


 結果的には,道具を使う側の「物の見方」や「リテラシー」や「作法」やら次第だと思う。そうした次元の育成をどこが専門家として見守るのかについては議論が必要だろう。
 学校教育における情報教育や情報モラルに何かを期待するのは簡単なのだが,その学校にはPCがやっと入り始めたばかりでPC環境も十分でない。まして携帯電話やモバイル端末の持ち込みに関しては,ほとんど足並みがそろっていないのである。そうした環境や状況の条件不揃いが起こっている中で,教育することだけ期待されても困るというのが普通である。

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 iPhoneの発売は,携帯電話・モバイル端末市場に一石を投ずる出来事なのは確かだが,携帯電話やモバイル端末というデバイスそのものの存在意義などを考える契機としても捉えられる。

 この機会に,小さなボタンと小さな画面が配された小さな端末に向かう自分たちの姿を見直してみるのも悪くない。iPhoneは,ある私企業が提示した一つの提案でしかなく,形としては商業製品であるから,人々に見過ごされてしまうかも知れない。しかし,そこには,私たちの現在ある姿を肯定的に捉えた上で,どうすれば見えない窮屈さを解消して,あるべき姿へと変えていけるかに関するチャレンジが垣間見える。

 それは,日本の情報教育に欠けていると思われる「哲学的な問い掛け」の具体的な実践姿勢のようにも思う。

 日本だと,例えばNTTのdocomoモバイル社会研究所のように,商業的な部分と学究的な部分の両方が存在するにも関わらず,逆にこうした分離した形でしか扱えていないという問題がなかなか解決されない。

 それはちょうど「基礎」と「探究」の間を橋渡ししようとする「活用」の考え方が学習指導要領に取り込まれたように,商業性と学究性を橋渡しする努力を取り込むことが必要なのではないかと思う。

 教員研修の夏がやってくる。一般の皆さんの頭の中には,牧歌的な時代の学校風景が残っているかも知れないが,あの少年時代の夏休みといった世界に住む先生は居ても少数で,目まぐるしい校務や研修に勤しむのが,今日の先生たちの姿である。

 上手く機能しているかどうかの問題はさておき,この国の教員研修は手厚い,あるいは手厚くなってきた。それが何を意味しているかは,察しのよい皆様ならおわかりと思うが,実施主体が国,都道府県,市町村,学校という単位で並列し,教員に期待される自己研修を取り囲むように,法定研修,基本研修,専門研修,経験年数別研修などなど様々な呼び方の研修が用意され,いろんな意味で大変である。

 これに教員免許更新制導入に伴う研修が加わるわけで,まさにメニューだけ見れば研修花盛りな時代。問題は,こうした研修を充実化させたり,一つ一つを丁寧に深めるための環境(あるいは文化)整備について,あまり世間の関心が向いていないということである。
 本来,教育振興基本計画に盛り込まれるべきは,教員の増員といった人件費より,教員の専門性を高めるための整備費であるべきだったのだが,結局のところ「それは(研修を受けやすくするために)教員増員するってことでしょ?」という短絡的な理解で議論が終わって続かない,いつもの嘆き節である。

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 私は研修事業の取り組みが充実化することに異論はない。ただし,どのように充実化させるかについて,もっと新しいアイデアを取り込んでいくべきだと考える。

 教育関連リソース(資源)とその伝搬環境は,コンピュータとネットのおかげで激変している。そうした変化のメリット部分をもっと活かしていくべきである。そう考えると,「TRAIN」とか「ADAPT」とか教員研修を支援する取り組みを精力的に生み出してきた某センターが来年廃止という理不尽な展開は大変残念なことである。

 民間の力を,今以上に活用することも求められるのだろう。学習塾と学校との連携は,まだ心的な垣根が解消されていない関係ではあるが,手を取りあって教育を支えていくべき重要なパートナーには違いない。特定分野に関しては,民間企業の専門家が講師となる研修もあり得るだろう。あるいは研修という形態を見直しながら関係していく必要もあるかも知れない。

 そう考えたとき,新しい「研修」とは何かについても考えなければならない。賑やかになってきた「ワークショップ」という手法がもっと主軸に据えられるかも知れない。あるいはもっとイノベーティブな研究を推進する活動形態が生み出されるやも知れない。

 果たして,そうした新しい活動形態を活かせる環境設備・道具が,教育センターや学校施設にあるのかどうか。もう一度問い掛けてみる必要があるだろう。私たちは何にお金をかけるべきなのか。それが延いては子どもたちの学びにも影響していくのだということに,もっと想像力を働かせるべきなのである。

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 とある仕事で関わって以来,付かず離れずで眺めていた「インテル教育支援プログラム」という取り組みが,新しいプログラムをリリースしたようである。

 インテル社が全世界に向けて提供している教育支援プログラムは,思考支援型の授業をつくるための学習指導や教科指導に関する研修といえるもの。授業設計手法として諸外国で注目されている「逆向き設計」を取り入れ,実際の単元計画を作る過程を演習する研修プログラムとなっている。意外かも知れないが,これはICT活用が目的の研修ではなく,純然たる学習指導あるいは教職関係の研修なのである。

 教育研究機関に依頼してつくったプログラムだけに,かなり中身が濃い。おかげで36時間を確保しなければならないため,従来のような研修と同列に扱えないのが玉に瑕だった。さすがに,いきなり36時間(6日間)の研修プログラムを企画したり,申し込むのはハードルが高い。


 今回,そうした本体の研修プログラムへと誘うための前座メニューとして「ワークショップメニュー」が登場した次第である。インテルが提供する(ICTをメインとしない)教育支援プログラムとはいったい何なのか?そのような素朴な疑問を解消してもらうためにも,大変よいメニューではないかと思う。

 世界の先生たちが取り組んでいる教育プログラムがどんなものかを体験するという意味でも,あらためて触れていただければと思う。たまに関西風のときあるけどね^_^;。

 蒸し暑くなってきた。七月になって,諸々の値段があがって,貧乏人にはきつい世の中になったものである。スーパーに出かけて,そうめんとひやむぎ,それからめんつゆを買う。しばらくはこれで食いつなぐことにしよう。暑いしちょうどいい。

東京観光

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 憧れだった東京も,住んでしまうと家の近所になって,あらためて観光しようという対象にならなくなってしまう。だから,お客さんにいざ東京を案内するとなると観光選択は難しい課題だ。

 妹家族が米国からやってきて,東京に遊びにきた。こういう機会でないと自分も東京観光しないから,平日にも関わらず完全休日モードで一緒に行動した。それに姪っ子甥っ子たちとは数年ぶりの直接対面。次回もまた数年後となれば,この機会に伯父さんの印象を焼き付けなくてはならない。

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 まずは私が通う東京大学を案内。姪っ子甥っ子は,福武ホールを案内すれば走り回ったり階段を上り下りしたり,安田講堂のドアをガンガン蹴ったり,工学部2号館で奇声を上げたり,三四郎池で魚や亀を見て騒いだりと,そこそこ楽しそうに過ごしてくれた。大人たちの方が早速ぐったりである。

 その後も,皇居へ行ったり,池袋のサンシャインシティで買い物したり,翌日には東京タワーと豊洲ららぽーと,ゆりかもめで夜景を楽しんだりした。小さい子どもが3人もいると,観光もこれくらいが限界。案内すべきところはもっとあったのかも知れないが,賑やかに楽しい時間を過ごせたのだからよしとしよう。

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 さてと,ちょこまか動く子どもたちを相手にしながらの東京観光。すっかり疲れてしまった。明日はいつものように朝から小学校へ。ここで頭を切り替えて研究モードへ。