教育の最近のブログ記事

 毎週月曜日に担当していた「初等教育の内容と方法」「教材論」という授業が最終日を迎えた。舞台で言えば千秋楽である。といっても,一方は試験,一方はゲスト講義だったので,私の歌と踊りはなかった(冗談)。

 自己満悦を許していただけるならば,東京学芸大学という日本の教員養成を代表する大学で,好きなように授業をさせてもらえたことは,望外の出来事であった。教員養成系学部の出身者として,大学は違えど同じ志を持った後輩達の学びを手伝えるということは,私の天職だと思っているし,(日本の教員養成の代表はウチだ!という他大学のご意見もあるとは思うけども)東京学芸大学という伝統のある教員養成大学で授業を受け持てたことは貴重な経験となって嬉しかった。コメントにもご登場いただき,私にそんな機会を与えてくださったNさんに感謝である。

 ただ今期は,私自身が大学院に通って修士論文準備をしていたことや毎週小学校現場でお手伝いをするなどしていたため,授業準備に十分なエネルギーを注げなかったことは悔やまれるし,受講生の皆さんにはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。本当は,もっともっといろんな情報資源を紹介して考えを深めたかったし,たくさんゲストを呼んだりしてダイナミックに対話しながら授業をつくりたかったし,課題もたくさん出して受講生の活躍の場をつくりたかった。


 教育について考え,悩み,論じ,演じ,聞き,返し,拾い,そしてまた考え悩み…,そのようなプロセスをみんなで「楽しむ」という時間と空間をつくりたいし,それが本当に楽しいんだということを伝えたかった。

 いや,もちろん日本の教育は厳しい状況下にあり,あんまり明るいニュースは聞こえてこない。これから教育現場に出ていこうとする人間にとっては,不安に充ち満ちている。そんな話を「楽しむ」なんて,どれほど不謹慎なことだろう。あなたはそういう風に思うのかも知れない。

 ただ,私が考えている「楽しむ」は,どちらかといえば願望を先取りして実践しようという意識にもとづいたものである。なんだか自己啓発的な空気が漂って怪しいかも知れないが,もう少し説明すると,社会風刺やコメディ・パロディがもつ余裕ある批判精神といったところを真似て,ジーンと考えつつも活路を見出そうという感覚に近い。

 繰り返しになるが,私の授業は,そういう意味合いにおいて,あまりにジャーナリスティックであり,あまりにロマンチックであり,あまりに高尚で,あまりに下世話な授業なのであった。


 でも,それはまさに「人生」と同じなのである。それを苦渋に充ち満ちた修行と捉えて息苦しく生きるか,なんと賑やかで多彩なショウと捉えて華々しく生きるか,あるいはまた他のメタファで捉えて生きるかは,すべて自分の選択次第である。パチンと指を鳴らした瞬間に,同じ現実はあらゆる解釈に切りかえることができる。

 私は,その中で,教育の世界に志を持つ者がそれぞれの立場で力を出し合うことで,学ぶ喜びに開かれた教育環境や教育活動を実現できるというシナリオを信じている。そのためには誰もがその過程を楽しまなければならない,そうでなければ力を出し合うことも続かないと思っている。ただそれだけのことなのである。


 私が教員養成の現場でやりたいことは,「楽しむ」スタンスを理解して自らを楽しませたり,周りを「楽しむ」ことに巻き込める力を学生達が身に付けるのを手伝うことである。それを,教育学や教育関連研究の新旧の知識を縦横無尽に紹介しつつ,または実際にやってみせたりする。これはとても楽しいことなのである。私たちは,それが楽しいことなのだということを,ちゃんと世間に伝えないといけないのである。特に教育に携わる人たちを育成する現場においてはそれはとても重要なことなのだけれども,実は,それが最も遅れていて不得手なのが教員養成現場なのである。

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 ならば,大口を叩く私はそれを達成できているのか,と問われると確かに返答に窮する。私は他の先生方の授業を受講したわけではなく,学生時代の受講の記憶しかない。もしかしたら,他の先生の授業の方がよっぽど学術的に最新で高度なことを体系的に扱って意味のある授業をしているかも知れない。そう考え始めると,自分の授業に懐疑心を持たないわけがない。

 隣りの花は赤く見えるのは人の心理というものだが,正直なところ,全体の中で私の授業がどんな風に役立っているのかを確かめる術が乏しい。考えられる方法は,学生による授業評価とFD活動による教員の相互評価だ。後者は非常勤講師に適用される機会が少ないので,残るは前者。学生による評価にもとづいて,自分の授業を評価することはできるのだろうか。


 授業としての楽しさや受ける印象の評価を知るためには使えると思うし,その限りにおいて,私の授業に対する評価はそれほど悪くない。早口であるとか,黒板の字が汚いときがあるとか,内容が多岐にわたっていて何が重要か分かりにくいという指摘もあるし,大変興味深い,いろいろ知らない話が聞けてよかった,楽しい授業だったという好意的評価もある。授業の直接的な評価ではないが,先生の授業が終わると思うと寂しいとか,先生の笑顔に癒されましたとか,嘘か誠か先生のお嫁さんになりたいですと書いてくれる人もいる(それくらい親しみを持ってくれたということの意味だと思う)。

 私は素朴に嬉しいし,有り難いとも思う。でも結局,私の授業に意味があるのかどうかを推し量るのは,学生達の評価だけでは難しいことにも気付く。
 大きくは間違っていないのかも知れない。教育について深く考えるきっかけが出来たと反応してくれる学生は多い。でも本当に自分の授業は受講するに値しているのかどうか。それはどこまでも分からないのである。


 だからこう言おう。相対評価のもとでなら,授業の評価は上位なのかも知れない。けれども,絶対評価のもとでは,目標の設定が難しく,上位なのか下位なのかを定め難い,と。

 講義については,様々な話題を提供して,受講生の理解を促すための最大限の努力を図っている。そうした目標に照らすなら,自分の授業に自信はある。しかし,もっと他に教えるべきことがあるとか,10年後の受講生達にとって価値ある授業であるのかどうかという目標に照らしたとき,私の授業にはまだまだ見直すべき点が多いかも知れない。

 だから,大学の授業実践もそれなりに難しいのである。FDの必要性の一部は,こういうところに宿っているわけなのだが,昨今の大学では,FDの取り組みが増えているにも関わらず,それを考える余裕の方はどんどん減っているという悲しい反比例があって,全国のFD関係者を悩ませている。

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 さて,「初等教育の内容と方法」は試験を実施した。まあ,試験自体は儀式みたいなものなので,ここまでの授業で得た知識や思考を存分に発揮していただければ,それで十分である。そのために毎回の授業があったのだし,私が試験で評価するのは,各自が重要だと考えた事柄を適切に表現できたり説明できるのかという点なのである。
 穴埋め問題とか,成績をつけるための建前的な出題もあるが,そのような知識について記憶再生できることが大事なのではない(だからノート持ち込み可である)。今後教育の世界に関わる者として,いま何を考え,この授業を通して得た思索のもとで何を語ることができるのか。

 だから,本音を書けば(あんまり書いちゃいけないかも知れないが),試験そのものも,さほど重要ではないのである。今後自分自身が生きる道を,学んだ事柄を踏まえて,どのように責任を持って歩いていけるのか。そのことの方が,もっと大事なのである(まあ,こういうことを考えるから授業の目標がぶれるというわけなのだが…)。


 講義が終り,担当を外れれば,私は受講生達を見ることが出来なくなってしまう。それはそれでもよいと思う。ただ,担当した者の責任として,彼・彼女達を見られない代わりに,私は駄文を書き続けているのだと思う。あなた達が受講した授業を担当した男は,まだここで元気に格闘してますよと。あのとき語った言葉について,いまでもこんな風に考えていますよとか,いまではこんな風に考えていますよと。

 そして,それを乗り越え先へ進むのは君たちだ。決して私ではない。

 そのことをどこまでも伝え続けなければならない。駄文が続いているのは,そういう思いにもとづいている。もちろん,駄文が届くことはほとんど無いけれども。


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 「教材論」では,ゲストをお呼びした。以前,お仕事をご一緒した通信教育会社のMさんとKさんの女性2人。多くの小学生達が利用している通信教材の制作過程や通信教育と学校教育の関係,そして教育関連企業の様子などをお話しいただいた。


 世間には,教育関連企業に対する様々な評判や評価が広まっている。社会貢献をしているという点について好意的な意見がある一方で,教育を利用して商売していることを批判する意見や嫌悪を抱く人もいる。

 ただ,どちらの場合でも,意外と私たちは当の教育関連企業のことについて,よく知らない。いまの日本の教育を考えたとき,教育関連企業の存在を無視したり消すことは出来ない。すでに重要なパートナーなのである。だとすれば,パートナーについてよく知り,お互いが協調して教育の活性化に取り組むことは,大事なことである。その中で,批判すべきところは批判し,協力すべきところはさらに協力すべきなのだ。

 というわけで,教員養成大学の学生達と教育関連企業の社会人が出会う場をセッティングすることは,是非やってみたいことだった。


 東京に出てきて,企業の方々と一緒に仕事をしたり,教員養成大学で非常勤を担当する機会をいただいた。どうしてこの出会いを結びつけないでいられようか。千載一遇の好機である。


 ゲストのお二人には,年度末の近い慌ただしい時期の平日にも関わらず,大学までお越しいただいたこと。豊富な資料と柔らかい雰囲気で学生達にいろいろなことをお話しいただいたこと。興奮してマナーをすっかり忘れちゃった学生達の態度にも文句言わず楽しまれながらお付き合いいただけたこと。心から感謝である。(それから,内緒でゲスト呼んでも怒らなかった大学の皆さんにも感謝,っていうか,申請してないから誰も知らない…,ははは)

 学生達は,とても嬉しかったようだ。そりゃ外部からゲストを呼ぶ授業は,それほど多くないだろうから当然か。でも,それ以上に,お馴染の通信教育会社のお二人からいろんなお話を聞けたことが嬉しかったようである。

 もともと持っていた企業に対する考えも深まったようだ。実際の現場の苦労や努力を知り好意を抱いた人。批判的なまなざしを向けていた人は,今回の話で企業の取り組みの可能性にも気付いた上で,批判的な問いを深めた。教育を利用したビジネスという短絡的な理解の水準から,そこで展開している努力について新たに知ることができた人も多かった。


 私自身は,教育関連企業とご一緒に仕事をしたり,仕事を依頼される機会があるという関係を持っている。目的を一にしている限り,私は教育関連企業の存在を重視するし,また必要があればその存在を批判もするスタンスである。そうした緊張感の上に,一緒になって教育に貢献したいと思っている。だから,相手をよく知る必要がある。


 学生達にも,是非そういうスタンスを持って欲しいと考えている。だから,この教材論の授業では,各自に課題を与える形で,積極的に外の世界と接触しなさいと指導したのである。まずは自分が行動して相手を知ること。大事である。

 そして,何よりここは東京だ。その気があれば,名だたる企業に直接接触できる。地域に根ざした教育を実践するのが大事というならば,大学の授業でもやっちゃおう!責任は授業担当者がとればいいのである。学生時代に,授業の課題を理由に,普段は接触しない相手と接触をするチャンス。こんなワクワクすることはない(担当者はドキドキですか?)。


 私たちの教材論の授業は,様々な教材をテーマにして,各自が調べたことをまとめて発表するものとなった。今月中には提出が完了するはずだから,春には公開できるだろう。拙い成果かも知れないが,これもまた今後の効果を期待しているのであるから,第一歩としては十分だ。


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 というわけで,成績づけを済ませたら,私の授業担当は一通り終わりとなる。本当に夢のような非常勤担当だった。たぶんあちこち迷惑をかけたままなのかも知れないし,冒頭に書いたように私の努力が足りない部分も多かったと思う。いまも学生から出された宿題が出来ていないので,きっと憤慨されているに違いない(ははは,ごめんごめん,もうちょっと待ってね)。こんな頼りない担当者に,様々な賛辞をくれた受講生達に感謝。そして授業に関わってお世話になった皆さんに最大限の感謝を。


 破天荒な授業は終わりを迎えたけれど,私たちの学びは終わらない。

 さぁ,続きは自分で。

集中講義を終えて

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 滋賀大学で3日間の集中講義「メディアとコミュニケーション」を終えたところ。あっという間であったし,コレ!という段取りを決めかねていたので,少々腰の引けた感じだったかも知れないと反省している。もちろん,ひとつひとつの事柄は責任を持って語っているつもり。

 1年生から4年生の混ざった少数混合クラスということもあってか,あるいは,ここの学生さんのもともとに気質なのか,授業中の雰囲気は静かな感じ。あんまりウケなかったかなと思っても,コメントなどの感想では興味を示していたりするので,反応からニーズを読み解くのは一筋縄ではいかない。

 春休みの集中講義という,ゆる〜い感じを活かしつつ,メディアとコミュニケーションという何でもありなテーマを学生の関心に添わせながら展開した。短い時間だったがグループ作業による発表もこなしてくれて,受講生も協力的だった。新しいチャレンジだったが,よい授業が出来たのではないかと思う。もう少し段取りなどを改善して,学べる知識を増やすことも出来るとは思うが,まあ,少人数だったので,ゆる〜く展開した方がよいのかも知れない。

 授業が始まってしまうと頭痛もどこかへ吹っ飛んで,いつものようにエネルギー全開。一通り終わって,いまやっと息をついたところである。とにかく任務完了。あとは帰るとしますか。詳細はまた後ほど。

明日から滋賀へ

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 咽風邪は,寒気と頭痛を連れてきて,本日ぐったりである。それでも明日から滋賀へ移動。3日間の集中講義が待っている。滋賀大学で行なわれる「メディアとコミュニケーション」という授業をお引き受けすることになった。

 あれこれ材料は集めてあるのだが,料理する時間がなくなってしまい,しかも出発前日に頭痛である。さらに頭痛が重なっていく。まあ,とにかく頑張って取り組むしかない。

 今回も事前の手続き段階から先方にはご迷惑をかけつづけ,当日もあれこれと対応にお手数をかけてしまいそうだ。ふらっと寄って,ドタバタと授業をして,ふらっと帰るみたいな気楽な調子で考えているので,本当に申し訳なく思う。

 宿題がいくつもあるので,それもやらないと…。う〜ん,頭が痛い。でも,お腹減ったから,ラーメン食べに行くか…。あったかいもの,それくらいしか思いつかない…。

よい提案

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 これはよい提案じゃなかろうか。こういう形で学校教育にお金を出す方法を提案して,給付金を教育バウチャーみたいに使ってみるのも悪くない。とりあえず思いつきレベルでは,とってもいいと思う。

「給付金を寄付して」橋下知事、小中学校にPC導入構想
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090115-OYT1T00043.htm?from=nwlb

【講義後記】20081215

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 非常勤先での授業も,最初の盛り上がり時期を過ぎて,ある種の安定期というか,倦怠期というかを迎えている。学生からのコメントにようやく「授業らしい授業でした」と書かれた今回の授業は,どちらかというと,なるべく教科書に沿っていこうという抑制の成果なのだが,結局最後はいつもの通り自由奔放に教育雑話に花を咲かせた。

 教育雑話といっても,ちょうど話題になった国際学力調査の話や,Anna Sfard女史の学習メタファーに関しての解説であるから,そりゃ教育関係者にとって贅沢な酒の肴…じゃなかった話題である。

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 ちょうどIEA-TIMSSの2007年調査の結果公表の直前にIEA-TIMSSとOECD-PISAについて名前だけ軽く触れていたので,今回は実施主体の紹介も含めてちゃんと紹介をした。残念ながら具体的な調査内容を吟味するまでは,私の能力的にも,授業時間的にも難しかったが,授業で扱ったことがリアルタイムの時事ニュースとして流れるという絶好のタイミングを掴んだ「チャンス講義」を展開した。

 たとえば,先日のIEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSS(国際数学・理科教育調査)の報告ページを見ていただきたい。ビデオ映像で報告をしてくれているので分かりやすいはずである。もちろん英語のページだが,私たちの国も参加している機関が実施した調査なのだから,あなたには当然見る権利があるし,権利を行使すべきだと私は思う。さて,その上で,国際学力調査とは何なのか,そして対する国内学力調査とは何なのかを考えてもらえるだろうか。


 私たちは学力調査を,どこぞの塾や教育企業の全国模試とイメージを重ねるが(そりゃ下請けしているのはそういうところだが),重ねるべき本来のイメージは国際学力調査の方である。


 そして,学力調査というのは,誤解を恐れずに言えば,直接的に子どもに向けられたものではないし,個々の教師や学校に向けられたものでもない。これは教育を司る国や行政に向けたものであり,それを監視する国民のためのものである。だから,調査結果データに対して「特定の子どもや学校の成績ではない」という大人の解釈ができなければ,その人はそもそも調査データを使う利用者のイメージに合わないのである。

 ところが,日本という国が政治家を遊ばせるような国になったため,学力調査結果を使う機会がなくなり,必要性も薄らいでしまった。あるいは,最初からそういう風に使うことを知らなかったともいえる。歴史的に学力テストを捨てて,長らく何も問題なかったのは,経済が豊かなおかげで不自由なく生きていける幸せな国だったからである。

 学力調査結果の使い方を知らないまま,そして使う機会も失った状態で,結果データだけあれば,あとは(多くの人々が受けたことのある)「模試」のイメージを重ねるしかない。学力調査データによる序列化懸念議論は,そういう「模試メタファ」しかない私たちの悲しいピーチクパーチクなのである。

  
 でも,IEA-TIMSSやOECD-PISAの国際学力調査は,別に世界レベルの模試をしているわけではない。確かに人々はどうしても順位を気にするから,報告ビデオを見ても上位順位をクローズアップして見せてしまい,少々誤解を招きかねない。しかし,この調査が教育をより良くするための指標として提供されているのだということも強調している。


 世界的な視野に立てば,もっと基本的な教育を充実させなければならない国々がたくさんある。だから,その国々は,調査データに基づいて,教育基盤を充実させなければならない。一方で,順位が上位の国々には,また別の役割があるということを理解しなければならない。

 私たちは,世界との「関わり」を考えるために国際学力調査に参加していると言い換えてもよい。そのことがほとんど実践されていないことを除けば…。

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 それから,教育方法を勉強するために,学習についての話をした。特に,これは教育や学習を考える者全員が基礎知識として知っておくべき知見であるアンナ・スファード女史の「学習メタファー」に関する議論を押さえとして紹介した。「学習メタファー」って言い方が難しいと感じたら「学習観」とか「学習のたとえ」とでも置き換えよう。


 学習もしくは教育に関する2大潮流については,本質主義と進歩主義という言葉の対で象徴されるものがあることはご存知だと思う。その2大潮流もしくは原理は,場面によってさまざまな形や呼び名で現われる。たとえば,系統主義と経験主義だとか,教科中心と子ども中心とか,まあいろいろである。

 ただ,こうした用語たちは,「主義」だの「中心」だの,大きな話になりがちで,自分たちの学びについて語るには,少々手に余るものだった。結局,自分自身のまなざしにならない。

 ちょうどよい感じの知見がある。10年前の1998年に,スファード女史が書いた論文 "On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one."で,「エデュケーショナル・リサーチャー」という教育研究雑誌に掲載されたものである。10年一昔だが,学術世界の時間では,まだまだ新しい知見ということになる。


 スファードさんは,学習を二つのメタファーで捉えられるとして,これを対比した。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の二つである。

 そして,この二つを5つの観点から対比してみるのである。つまり,それぞれの立場を代表する人がいるとして,その二人に次のような5つの質問をするのである。「あなたの学習観にとって"学習の目標"って何?」「"学習"って何?」「"生徒"ってどんな存在?」「"教師"ってどんな人?」「"知識とか概念"って何?」「"知ること"っていったい何なの?」

 獲得メタファーの人は「そうだね,僕の場合,"学習の目標"は個人の知識を豊かにすることかな。だから"学習"って,あることを獲得することだし,"生徒"ってのは,知識の受け手だと思うな。だから"教師"は,知識の提供者としてだけでなくて,促進者,媒介者であって欲しい。"知識"って大事な資産だからね,所有物でもあり商品だとも言える。僕にとって"知ること"っていうのは,所有することなんだ。」と答える。

 参加メタファーの人は「うーん,僕の場合,"学習の目標"は共同体を構築して仲間と過ごすことかな。共同体は何だっていいんだ。職場でも,近所でも,学校のクラスでもサークルでも,彼女との関係でも。だから"学習"って,そうした仲間のいる共同体に参加することそのもので,"生徒"っていうのはその参加者のことだよ。"教師"といえる人は,何かに熟達している参加者なら誰でもそうだし,先輩とかそんな感じに近い。"知識や概念"っていうと,そんな仲間と何かを語り合ったり,実践して活動していくことそのもののことなんだ。要するに"知ること"っていうのは,その共同体に属したり,参加して仲間とやり取りをしていくことを通して実現していくものだと思うよ。」 

 まあ,本当は表になっていて,それを見たほうがもっと分かりやすいのだけれど…。ちなみにスファードさんを扱っている教育学の教科書は,まだ見当たらない。学習科学に造詣の深い書物には,ちらほら紹介されている『「未来の学び」をデザインする』とか『企業内人材育成入門』とか…。

 現場の先生たちは,「学習メタファー」とは呼ばないが,それに関する知識は事例を含めて大変豊富なはず。単に名前を付けてないというだけなのであるが,スファード女史が指摘するように,こうした二つの見方のどちらかに陥ってしまうことは危険なのだと言うことを改めて(名前付けして)意識することが大事というわけである。


 最近,「メタ認知」ばやりだが,この「学習メタファー」もぼちぼち一般的に浸透し始めて欲しいと思う。

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 もう一つの授業の方も,淡々と中間発表が進行中。考えてみるともう年末で,来年の計画も考えないといけないが,えっと,とりあえず,来年最初は「休講」から始まります。いやぁ,舞台裏は火事です。ははは。

デジタルネイティブ時代のICT教育 (マイコミジャーナル)
http://journal.mycom.co.jp/column/icteducation/001/index.html

 いよいよ年末が近づいて,駄文を書く余裕が無くなってきたのだが,この記事を見つけて(見つけてる時間はあるのかい!という細かいツッコミは,ちょっとご勘弁を。たまには息抜きしたいのさ。),紹介せずにはいられなかった。

 インテルと内田洋行の共同研究。なにやら公立学校にパソコンを配布という報道は誤報だとか,いろいろ誤解はあったようだが,まぁ,とにかく実証実験が始まっていて,その経過報告のようである。


 この記事の後半に,このような紹介がある,失礼ながら引用させていただく。


そして、この学習システムを使ったメリットは、大きく分けて以下の2点が挙げられる。

1. 従来の手書きの書き取り練習では、教員が児童を個別に細かく指導することは難しかったが、システム上で"その場で指摘や評価を受ける"ことは、児童の意欲向上に繋がる。

2.覚えきれていない漢字を着実にクリアしてから次に進むといった、個人差に応じたペースでの学習が可能となる。


 これを読んで,ベタに,スキナーのティーチングマシンの再来というか,その現代版を忠実に実証実験しているように思えたのである。スキナーは,その徹底した行動主義的心理学による研究によって,多くを参照され,また多く批判を受けた大心理学者である。そして一応,時代遅れというレッテルとともに隅っこへと追いやられた存在でもある。

 ただ,その極めてシンプルで一貫した学問的成果ゆえに,現在でも学習心理学の分野の教科書を開けば,スキナーの「オペラント条件付け」を見つけることが出来る。結局は,無視できない存在なのだ。


 スキナー自身がティーチングマシンを考えていた時代よりも,技術的には進んでいるはずの現代において実証実験されているものの中身は,実のところスキナーの時代に人々が考えたティーチングマシンの本質と何一つ変わっていない。むしろ技術進歩のおかげで,スキナーたちが考えた理想をより忠実に具現化できているのかも知れない。

 (後日追記:僕はこれを皮肉のつもりで書いたのだが,そう読まなかった人もいたようである。もうちょっと丁寧に皮肉ると,2大企業がそんな前時代的な発想のものをやっていてよろしいんですか?と。あなた達はフロンティアで活躍する企業なんだから,もっと未来を志向してくださいよ,と言いたいのだが,そう書くと今度は2社を批判していると勘違いされる人もいるので困る。僕はどちらかというと,お互いが批判的関係でいることでお互い前進しようねと本当に思っている人である。とここまで説明してもわかってもらえない人もいるかも知れない…。だとしたらちょっと悲しい。本当のことを書くと,この駄文の真の批判対象者は,このどうしようもない記事を書いた記者の人である。申し訳ないが,こんな単純化した理解の枠組みで教育関係の記事を書こうというのは,記事の分かりやすさを理由に逃げているだけで,そろそろ弊害になりつつあると思う。)


 そのことを思うと,この実証実験を,どれだけ政治的な効果としてプラスになるようにデザインされていくのか,実はそのことが今大きな問題になっていることが分かる。記事のように「ソフトウェアが少なかった」なんてのは,ちょっと安易な分析というか,わかり易い解説で済ましてしまってるなぁという感じである。


 人間の学力を向上させるための道具は,もう何十年も前から考案され,そしてその時々の技術を使えば,いくらも実現化できるし,効果を上げるように使うことが出来る。

 しかし,この道具が使われる率を上げるためには,かなりの政治力の向上が必要になったりする。


 学力を上げるためには,政治力を上げる必要があるが,政治力が上がるためには学力が上がってないといけないし,果たして,鶏が先か卵が先か。まあ,こんな考え方も偏見めいているが,まあ,なんかそう思ったので書いてみた。ああ。


 (田中角栄に学力があったのか,政治力は学力と関係ないんじゃないかとか,そりゃまぁ,もっと丁寧に駄文を書くべきなのだと思うのだが,だから,いま丁寧に駄文を書く余裕がないので,とりあえず記事の紹介と思っていただきたい。研究者の仕事はよりよい選択肢を作り出して並べていくことなのだけれども,並べすぎて選びようもなくしてしまっているとしたら,それはまた,俺の仕事じゃないから知らないでは済まないような気がしないでもないと,心の中では思ってみたりしているのである。でも,辞めさせられた元軍服の方のように,私たちの立場は,そうは思いつつも,そうは行動しちゃいけないのであるかも知れず,そうありたいと思うなら,白衣を脱ぐみたいな,そういうことなのだろうかと,珍しく,思考のナマ状態を,ここにつらつらと書き綴ってみているのだが,あんまりしっくり来ていないのも事実だったりする。。本来ならば,こういう状態の思考を調理する必要があるのだが,繰り返すように,そういう心の余裕がないので,はい失礼します。)

【講義後記】20081201

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 珍しく授業直後に書いている。今日の授業は先週の振替休日のせいで2週間ぶり。そして,とうとう師走に入った。本当に時間というのはあっという間に過ぎる。
 今日はテレビ生放送のスタジオ観覧のお土産話と,受講生の調査活動の中間発表を行なった。

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 「初等教育の内容と方法」という授業なのだが,どうも授業の筋が教育改革や教育行政の現状など時事的な方へと寄り道しがちになっている。最初は,初等教育現場にも影響を与える昨今の動向を解説するつもりで始めたが(学習指導要領改訂もあったし…),教育に絡む興味深いニュースや今回のテレビスタジオ観覧といった外的要因がいろいろ働いて,結構そちらに全体の雰囲気もシフトしていた。

 私がテレビの生放送番組を観覧して得た感触については,別にまた詳細を書くとして,それ自体はのお土産話には学生たちも大変興味を示してくれた。番組作りというものが,特に生番組ということもあって,授業実践のリアルタイム性にも通ずること。放送された部分以外の出演者や番組制作者の様々な立場や思惑について,見た来たことを伝えて,考えたことを語った。

 私がなぜ,教育内容(私はこれを「カリキュラム」だと前提して担当しているが)の話に,こうした教育行政やメディアの教育言説の雑談をことさら取り上げるのかといえば,目下,それが現代の重要な問題だからである。カリキュラム・ポリティックス(教育内容・課程の政治学とでも理解しようか)に関する研究は,立派な学術領域だし,そのことを身近に意識することは,無知であるよりも望まれていると思う。

 問題は,そのことを「初等教育」段階の教育内容に結びつけて考えることの難しさと,どちらかといえば「教育方法」との関連に於いて「教育内容」を捉えようとする性格の授業であることを考えると,さて,今後どのように話を接続していくべきなのかということが,授業の醍醐味となってくると思う。

 結果的には,だいぶ長引いてしまったが,前座のお話はテレビ番組観覧を踏まえたメディアの特性の共有で十分満たされたと思うので,あとは,テキスト内容を進められればいいかなと思っている。

 残る教科書的な知識の伝達において,それを面白い部分とどう融合させるか。これは結構,難題ではある。学生たちは,まだ社会人経験のない人たちばかりだし,教育歴があっても家庭教師か塾講師を少し程度であろう。そうした実経験のない段階で,知識ばかりが先行しても,実感を伴わないかも知れない。


 あと,これはある人に言われて少し反省をしているのだが,ものごとの事実を批判的に見るまなざしや思考(クリティカル・シンキング)を持つべきだという主張は,ともすると批判のための批判,実行の伴わない批判,抵抗のための批判に陥りやすい。私が期待しているのは「省察的な実践」という言葉にも込められたような,実践のための批判もしくはそのための批判的解釈であって,手足を動かさないための批判ではなかったはずである。

 ところが,教育改革や教育行政の話は,八方ふさがりな雰囲気が強く,意欲的な実践に対して冷や水を浴びせている感も強い。学生が,様々な批判的まなざしを獲得することは大事なことだが,そのことによって,だから実践をあきらめるとか,だから実践する意味がないのだとかいう理由立てにまなざしを使うようになるなら,これは逆効果だなと思った。

 今の学生たちは,批判のための批判や実行の伴わない批判や抵抗のための批判について,むしろ敏感に察知して嫌悪している世代ではないかと私は思っていて,だから批判的なまなざしを持たせることは,彼らの前向きな姿勢を後ろだてするために依然として大事だと信じている。だとしても,それは逆の意味で学生を買いかぶって,配慮に欠けていたのかも知れない。

 個人が自己に対して配慮して,完全にコントロールすることは難しい。いや,不可能なことかも知れない。だとしたら,私はもっと,具体的な事柄に即して,批判的まなざしを踏まえた実践がどうあるべきかを,丁寧に示す必要があるのではないか。もちろん,それは実務家教員の方々のテリトリーであり,私がどんなに背伸びしたって太刀打ちは出来ないが,少なくとも,そのテリトリーとの接続性については,責任を持って何かしらのことを示す必要があるのかなと思う。

 修行には終わりがないものだが,私はまだまだ修行が足りないのだなと思う。

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 「教材論」の授業は,4週にわたる中間発表会に入り,担当した教材に関する調査の進捗や,その時点までで分かったことを発表してもらう。トップバッターの学生さんはとても緊張していたが,さすが他の授業で鍛えられているだけに,ちゃんとパワーポイントを使いこなして,発表をこなしていた。

 まだ十分な時間をかけられていないので,前半発表組はインターネットや図書館の文献などを探索した成果が中心となっていたが,これからもっと現実世界に切り込んでいくことになると思うので,中間報告はとても興味深く聴いた。

 他の学生たちには,コメントシートを渡して,発表内容や調査内容に対するコメントやアドバイスや質問,もっとこういうところが知りたいという要望を書いてもらいながら,発表を聴いてもらった。
 コメントシートは,振り分けてもらって,今日の発表者に渡す。こうして相互に影響を与え合ったり刺激し合ったりしていくことで,見えてくるものがあると思う。

 対象は違えど,他者の発表を実際に聴くことで自分の対象にどう迫ればよいのかヒントを得られた学生もいたようだし,調査や発表へのよい意味での切迫感を感じた学生さんもいた。発表者も,実際に発表の形にすることで,今後何をすべきか見えてきたとコメントしてくれている。

 たぶん,発表後の私とのやりとりが,少しは役に立っていると思いたいが,思っているのは本人だけだったりするので,そういう自意識はとりあえず置いといて,とにかく場が活性化するように雰囲気作りに徹する事にしよう。


 まったく異なる展開の授業を連続したコマでやるのは,面白いといえば面白いが,いろんなプレッシャーにも耐えねばならず,それはそれで大変である。

 正解がない以上,自分がベストと思うことを信じてやりきるしかない。修行は足りんわ,自己ベストを信じなきゃならんわ,今年も終わるわで,私本当にどうなるんでしょうか。人生明るい方だけ見て生きられればねぇ…。

 映画「未来を写した子どもたち

 文部科学省特別選定作品だからってわけじゃない。ワークショップとは何なのか,考えさせられる作品。

 彼の国の子たちにとってのカメラは,私たちの国の子たちにとっての何になるのだろう。

 次期アメリカ合衆国大統領であるオバマ氏が政権のチーム作りに励んでいることは報道などでも知られている。その政権における教育政策ワーキンググループの正式スタッフとして,スタンフォード大学のリンダ・ダーリンハモンド(Linda Darling-Hammond)女史を起用したらしい。(サンフランシスコ・クロニクル記事

 ところでダーリンハモンドって誰?という皆さんもいらっしゃるかも知れない。

 ダーリンハモンド女史は,教育研究者であり,スタンフォード大学に在籍している。教師や学校研究の分野では第一線の人である。そのような教育学者が,選挙中のオバマ氏の教育関係政策ブレーンとして活躍していた。

 そして今回,来年からの新政権におけるワーキンググループでの起用も確定したようだ。ただ,どうやらダーリンハモンド女史については,教育長官への推薦が各方面から強く出ており,彼女の登用如何が今後のアメリカの公教育を大きく左右すると考えられている。


 記事にも書かれているように彼女は「a teacher-friendly」な教育研究者である。それゆえに教師研究や教師教育・学習研究における様々な知見を積み上げて,世界的な影響力を持っているわけだ。

 ところが日本の文脈だとティーチャー・フレンドリーってだけで,構えてしまう人が多い。おまえは教師寄りなのか,組合の味方なのかと,すぐさま勝手な筋書きをつくって,敵視や排他的態度をとる人たちがいる。

 そういう誤解は,丁寧に議論をして解くべきだと思うが(某政治家の発言とか,あれやこれやの議論は,すべて丁寧さが足りないことから誤解が生まれている分,余計な労力を使っているのである),いずれにしても,教育を支えていく主体の一方である「教師」にとって,その専門性を支えるための「思慮深い支援」が必要なのである。


 アメリカは,世界が認めている教育研究者を教育政策の中枢に据えることで,その「思慮深い支援」に向けて動き出す準備をしているのである。

 とはいえ,教育政策や行政に関わるということは,政治ゲームを戦うということでもある。とにもかくにも,ダーリンハモンド女史のお手並み拝見といった感じだ。

【講義後記】20081115

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 非常勤講師先での講義も4回目となり,気がつくと日付も11月半ばとなっていた。授業の展開としては,ぼちぼち深みにはまるところに誘わなければならないが,相変わらず回り道をしているので,展開が強引になっているかもしない。

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 「初等教育の内容と方法」では,先週の番組鑑賞についてフォローした。非正規雇用教員の問題は,悲観的な側面が大きい。しかし,非正規雇用教員と括った中には,時間単位で勤務する非常勤講師だけでなく,年間契約の専任講師も含まれている。それぞれの立場において苦しい面と,あるいは,妥協できる面があったりもする。
 要するに,構造的な問題として解決しなければならないという問題の捉え方と,現実的にはその役目を引き受けなければならない立場に立った場合の捉え方を,単純に一緒にしてしまうのは,それも少し乱暴というわけである。もちろん,一方の問題が他方の問題への認識を曇らせてしまうことがあってはならないのだけれど。

 それから,ようやくテキストを使った授業に入った。テキストを使うというのは難しい。基本それに準じるとはいえ,その通りなぞるだけなら予習か復習で淡々と読んでくれればいい話であって,生身の講師が90分の時間,多くの学生を拘束する意味がない。とはいえ,実際にはテキストを熟読して授業に臨んでくれる人は少ないし,読んできても理解が十分でないのが前提だから,どうしても授業中にテキストをある程度なぞることになる。

 「なぞる」なんて書くと簡単そうだが,実のところ,なぞることほど難しいことはない。下手になぞれば,単なる棒読みになりがちで,お昼ご飯を食べた私たちには,子守歌以外になりようがない。
 そこで,一生懸命,単調にならないように抑揚をつけたり,話を脱線させたり,突然読むところを飛ばしてみたりと試してみるのだが,あれ何だろうね,眠たい時ってのは,つねられても眠気が消えないものである。

 ただ,考えてみると,この日はテキストを使うぞとばかり張り切っていたものだから,教室の温度がかなりポカポカであることに気がつけなかった。最後に書いてもらったコメントによれば「今日は教室が暖かすぎました」とか「エアコンの温度下げて欲しかったです」という意見が多数。ははは,それは授業中に言って欲しいなぁ…。

 とにかく,テキストを駆け足で眺めながら,必要な箇所について指摘したり,ポイント解説したりして,あっという間に授業時間が過ぎてしまった。次回は学生たちもテキストを少しは意識してやってきてくれるだろうから,ビュンビュン飛ばしていきましょう。

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 「教材論」の授業は,各学生が調査する教材や教具などの対象を決定し,似たような調査対象がある者同士でグルーピングを行なった。基本的には個人による調査課題なのだが,協力できるところは複数で取り組んだ方がいいし,他者の進捗や取り組み具合を知ることはよい刺激にもなるはずなので,そのような活動形態にした。


 調査対象は,電子辞書から始まって環境デザインまで様々。ちょっとちょっと,教材論なのにとお思いかもしれないが,まあ,世の中何でも教材になりますよってことで,かなり幅広く扱っている。

 オーソドックスに教科書について調べたいと考えている人もいるし,教材マンガと少年マンガの比較や,競合通信教材同士の比較,市販の参考書の傾向調査,NHK教育テレビの番組や組織について,福祉機器の現状,学校の教室の机などの配置や,掲示物の構成について,あるいはゲーム教材や廃材などを教材化する方法といったことまで,本当に多岐にわたる。

 やり始めてわかったが,卒業論文指導みたいな感じになっきた。もちろん,現時点では問題設定がおおざっぱだから,卒業論文テーマにするには,いくらもダイエットが必要だが,もしかしたら,何人かの人にとっては今回の課題が卒論に役立つかもしれない。そういう想像をすると,だいぶ楽しくなる。


 学生という身分は,学ぶことを正式に許されているわけなので,実際の企業や外部の人にコンタクトをとって教えを請うたり,協力していただくことも,やりやすい立場である。さらに「授業の課題なのです」という口実が付け加えれば,なおのこと外部の人に協力を要請しやすいだろうということで,積極的にコンタクトをとりなさいとけしかけている。

 もちろんご迷惑をおかけしてはならないが,何かあったときには私が責任をとる覚悟なので,是非とも学生のうちに,いろんな社会人と接触して欲しいと考えている。僕らは世界の騒がしさや賑やかさに対して,圧倒的に経験不足だと思う。まして,最近は学生もバイトやサークルやらで忙しく,世界に向けて出かけられていない。あくまでも教材論という切り口でしかないが,授業の中で社会と接触してみることは,結構意味のあることじゃないかなと思っている。


 「教材論」に関する教科書(テキスト)というのは,実は(教育学の分野では)あんまり無い。原理について語っている論文や文献が無くはないものの,教員養成課程における教材論の素材としては,すべてを埋め合わせるものにはなり得ない。だから,世間一般の教材論の授業は大概,教科との関連において具体的な教材づくりや教材分析に関する議論を行なう。

 あるいは,コースデザインとかインストラクショナルデザインといった知見を援用して,学習内容(コンテンツ)がどのような機能や構造を持っているのかを見通し,デザイン原理に基づいて開発する様を学んだり実践する授業もある。
 こちらは,教育工学の様々な知見も豊かで,確かに学習プロセス(教育システムまでも)を見通した上でコンテンツ開発について学べるので,大変賑やかではある。
 ただ,どうしても僕には,理論的な議論としては(教材論なのだから)わかるとしても,実際に論を動かそうとするときに使う筋肉が違ってきちゃう気がして,中核としては扱えないでいる。担当しているのが,教材開発者養成講座とか,人材育成担当者養成講座だとかならわかる。でも初等中等教育教員養成なので,使う筋肉は違うはずなのだ。

 というわけで,教科にも紐つかず,教育工学からも逃れて,初等中等教育段階に関係する教材論を語ろうとするとき,そんなものがあるのかどうなのか,実のところ,誰も示してくれてはいない。
 そういう,未開拓みたいなところに,コソコソ出かけていくのが好きなので,任された学生たちを連れ立って,旅に出ているというわけである。

 今回,学生たちが頑張って調査してまとめてくれる内容が,なかなかのものだったとしたら,きっと生きた「教材論」のテキストになるんじゃないかなとひそかに期待を寄せている。こんなに多彩な教材教具を一遍に扱った教材論のテキストは,そうはないでしょ。
 取材先がある場合は,先方の許可も必要だし,学生たちの賛同も必要だが,みんなの成果をWebなどで公開できたらと思う。それこそ教材を作った「教材論」というユニークな授業になるな。

 どうかそのときまで,体力と気力が残っていますように…。