2008年12月アーカイブ

年越し執筆?

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久し振りの更新が大晦日の朝で,実はこれから眠ろうというところである。

今朝まで,最も苦手な作業に掛かり切りで,やっと終わったところ。本当にストレスフルな日々だった。

やっと得意な作業に移れるのはうれしいが,どうも眠らないとやばいらしい。

除夜の鐘までには間に合いそうにない。先生,ごめんなさい。少しだけ寝かしてください。

おやすみなさい。

束の間の休息

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 無茶な夜更かしやら不摂生がたたって,この数日,頭痛と腹痛を併発させてしまった。風邪というよりも,どうやら体力的な限界を年甲斐もなく無視しているツケがたまってしまったように思う。

 というわけで,恐れていた事態を迎えて,ほとんど研究に手が付かない。仕方ないので開き直って,年内最後の休息期間とすることにした。

 部屋に積み上がった文献を整理したり,たまっていた洗濯物を洗ったり,無理しない程度に書店に出かけて好きなだけ書物を漁った。要するにストレス発散をしてみたわけである。

 まだしなければならない作業は山積みだが,調子が戻るのでは頭使う作業は難しい。図版の取り込みとか数値の単純入力とか,そういう事でもして過ごすしかない。

 いやぁ,困った困った。

【講義後記】20081215

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 非常勤先での授業も,最初の盛り上がり時期を過ぎて,ある種の安定期というか,倦怠期というかを迎えている。学生からのコメントにようやく「授業らしい授業でした」と書かれた今回の授業は,どちらかというと,なるべく教科書に沿っていこうという抑制の成果なのだが,結局最後はいつもの通り自由奔放に教育雑話に花を咲かせた。

 教育雑話といっても,ちょうど話題になった国際学力調査の話や,Anna Sfard女史の学習メタファーに関しての解説であるから,そりゃ教育関係者にとって贅沢な酒の肴…じゃなかった話題である。

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 ちょうどIEA-TIMSSの2007年調査の結果公表の直前にIEA-TIMSSとOECD-PISAについて名前だけ軽く触れていたので,今回は実施主体の紹介も含めてちゃんと紹介をした。残念ながら具体的な調査内容を吟味するまでは,私の能力的にも,授業時間的にも難しかったが,授業で扱ったことがリアルタイムの時事ニュースとして流れるという絶好のタイミングを掴んだ「チャンス講義」を展開した。

 たとえば,先日のIEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSS(国際数学・理科教育調査)の報告ページを見ていただきたい。ビデオ映像で報告をしてくれているので分かりやすいはずである。もちろん英語のページだが,私たちの国も参加している機関が実施した調査なのだから,あなたには当然見る権利があるし,権利を行使すべきだと私は思う。さて,その上で,国際学力調査とは何なのか,そして対する国内学力調査とは何なのかを考えてもらえるだろうか。


 私たちは学力調査を,どこぞの塾や教育企業の全国模試とイメージを重ねるが(そりゃ下請けしているのはそういうところだが),重ねるべき本来のイメージは国際学力調査の方である。


 そして,学力調査というのは,誤解を恐れずに言えば,直接的に子どもに向けられたものではないし,個々の教師や学校に向けられたものでもない。これは教育を司る国や行政に向けたものであり,それを監視する国民のためのものである。だから,調査結果データに対して「特定の子どもや学校の成績ではない」という大人の解釈ができなければ,その人はそもそも調査データを使う利用者のイメージに合わないのである。

 ところが,日本という国が政治家を遊ばせるような国になったため,学力調査結果を使う機会がなくなり,必要性も薄らいでしまった。あるいは,最初からそういう風に使うことを知らなかったともいえる。歴史的に学力テストを捨てて,長らく何も問題なかったのは,経済が豊かなおかげで不自由なく生きていける幸せな国だったからである。

 学力調査結果の使い方を知らないまま,そして使う機会も失った状態で,結果データだけあれば,あとは(多くの人々が受けたことのある)「模試」のイメージを重ねるしかない。学力調査データによる序列化懸念議論は,そういう「模試メタファ」しかない私たちの悲しいピーチクパーチクなのである。

  
 でも,IEA-TIMSSやOECD-PISAの国際学力調査は,別に世界レベルの模試をしているわけではない。確かに人々はどうしても順位を気にするから,報告ビデオを見ても上位順位をクローズアップして見せてしまい,少々誤解を招きかねない。しかし,この調査が教育をより良くするための指標として提供されているのだということも強調している。


 世界的な視野に立てば,もっと基本的な教育を充実させなければならない国々がたくさんある。だから,その国々は,調査データに基づいて,教育基盤を充実させなければならない。一方で,順位が上位の国々には,また別の役割があるということを理解しなければならない。

 私たちは,世界との「関わり」を考えるために国際学力調査に参加していると言い換えてもよい。そのことがほとんど実践されていないことを除けば…。

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 それから,教育方法を勉強するために,学習についての話をした。特に,これは教育や学習を考える者全員が基礎知識として知っておくべき知見であるアンナ・スファード女史の「学習メタファー」に関する議論を押さえとして紹介した。「学習メタファー」って言い方が難しいと感じたら「学習観」とか「学習のたとえ」とでも置き換えよう。


 学習もしくは教育に関する2大潮流については,本質主義と進歩主義という言葉の対で象徴されるものがあることはご存知だと思う。その2大潮流もしくは原理は,場面によってさまざまな形や呼び名で現われる。たとえば,系統主義と経験主義だとか,教科中心と子ども中心とか,まあいろいろである。

 ただ,こうした用語たちは,「主義」だの「中心」だの,大きな話になりがちで,自分たちの学びについて語るには,少々手に余るものだった。結局,自分自身のまなざしにならない。

 ちょうどよい感じの知見がある。10年前の1998年に,スファード女史が書いた論文 "On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one."で,「エデュケーショナル・リサーチャー」という教育研究雑誌に掲載されたものである。10年一昔だが,学術世界の時間では,まだまだ新しい知見ということになる。


 スファードさんは,学習を二つのメタファーで捉えられるとして,これを対比した。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の二つである。

 そして,この二つを5つの観点から対比してみるのである。つまり,それぞれの立場を代表する人がいるとして,その二人に次のような5つの質問をするのである。「あなたの学習観にとって"学習の目標"って何?」「"学習"って何?」「"生徒"ってどんな存在?」「"教師"ってどんな人?」「"知識とか概念"って何?」「"知ること"っていったい何なの?」

 獲得メタファーの人は「そうだね,僕の場合,"学習の目標"は個人の知識を豊かにすることかな。だから"学習"って,あることを獲得することだし,"生徒"ってのは,知識の受け手だと思うな。だから"教師"は,知識の提供者としてだけでなくて,促進者,媒介者であって欲しい。"知識"って大事な資産だからね,所有物でもあり商品だとも言える。僕にとって"知ること"っていうのは,所有することなんだ。」と答える。

 参加メタファーの人は「うーん,僕の場合,"学習の目標"は共同体を構築して仲間と過ごすことかな。共同体は何だっていいんだ。職場でも,近所でも,学校のクラスでもサークルでも,彼女との関係でも。だから"学習"って,そうした仲間のいる共同体に参加することそのもので,"生徒"っていうのはその参加者のことだよ。"教師"といえる人は,何かに熟達している参加者なら誰でもそうだし,先輩とかそんな感じに近い。"知識や概念"っていうと,そんな仲間と何かを語り合ったり,実践して活動していくことそのもののことなんだ。要するに"知ること"っていうのは,その共同体に属したり,参加して仲間とやり取りをしていくことを通して実現していくものだと思うよ。」 

 まあ,本当は表になっていて,それを見たほうがもっと分かりやすいのだけれど…。ちなみにスファードさんを扱っている教育学の教科書は,まだ見当たらない。学習科学に造詣の深い書物には,ちらほら紹介されている『「未来の学び」をデザインする』とか『企業内人材育成入門』とか…。

 現場の先生たちは,「学習メタファー」とは呼ばないが,それに関する知識は事例を含めて大変豊富なはず。単に名前を付けてないというだけなのであるが,スファード女史が指摘するように,こうした二つの見方のどちらかに陥ってしまうことは危険なのだと言うことを改めて(名前付けして)意識することが大事というわけである。


 最近,「メタ認知」ばやりだが,この「学習メタファー」もぼちぼち一般的に浸透し始めて欲しいと思う。

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 もう一つの授業の方も,淡々と中間発表が進行中。考えてみるともう年末で,来年の計画も考えないといけないが,えっと,とりあえず,来年最初は「休講」から始まります。いやぁ,舞台裏は火事です。ははは。

林向達『わたしの情報活用』(カラーPDF版:約122MB)
http://homepage.mac.com/rin/.Public/rin_watashino2003.pdf

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 必要があって過去の記録を見返していたついでに自分の書いた本のことを思い出す。2000年,まだ短大教員として働いていた時に,東京の出版社の人が訪ねに来てくれた。「教科書つくりませんか」って。

 パソコンの演習を担当していたので,その受講生が利用するためのテキストをつくるというわけである。その短大や大学の全体で同様な授業を受ける学生の数はそれなりになるから,小規模とはいえテキスト販売が出版社にとって商売になるというわけである。出来が良ければ一般販売でも売れるだろう。

 ただ,教科書をつくることと,教科書を採用することとは,まったく違う力学が働いていて,当時の僕には,そのどちらに対しても十分な準備がなかった。だから,出版社の方とお会いしてから2年ぐらいは,何も進展しなかった。それでも,出版社の方は中部地区への出張シーズンがくると,毎回訪問してくれた。

 そのことが何より申し訳なかったので,僕はいい加減,授業のためにつくったハンドアウトをまとめる形で教科書執筆に取りかかることにした。だから教科書というよりは,見開きをコピーすればすぐ配布できるようなプリント集みたいにしようと方針を決めた。
 そして,出版社の方の手を煩わせないように,全部自分で編集して,完全原稿(PDF)を渡すことにした。

 結局,時間が無くて尻つぼみ気味の内容になってしまったけれど,出版社の人に原稿を渡して,2003年3月に『わたしの情報活用』という教科書が出来た。価格を抑えるために装丁は極めてシンプルだった。担当していただいた出版社の女性にお任せをして,表紙はクリーム色の地にピンク色の文字という意外と可愛らしいものになった。


 初めて教科書を使った授業は,気恥ずかしかった。しばらくして,出版社の女性が訪ねに来てくれて,会社でも結構評判がいいですとお世辞を言ってくれたことは嬉しかった。全部自分で編集したことに「ここまでやるか」という声もあったと聞いて苦笑いをした。

 それからしばらくして彼女は,その出版社を都合で辞めることになって,その後会うこともなかった。刊行後,僕の担当する授業数が少なくなって,当初の販売予定数を消化できなくなった。もしや,その引責で彼女は辞めることになったんではないかと,本当かどうか分からないまま勝手に心の片隅で気にし続けていたりする。


 あるとき学生が,授業のコメント用紙に「家でお母さんが先生のテキストを見つけて,これ分かりやすいと言ってパソコンの勉強してましたよ」と書いてくれた。それから短大を辞めるまで,自分が使うテキストの最後のページに,僕はずっとそのコメント用紙を挟んで持ち歩いていた。


 たくさんは売れなかったし,担当の人は出版社を辞めちゃったし,僕も短大を辞めちゃったけれど,その教科書を「分かりやすい」って言ってくれた人が一人でもいたことは確かで,そのことに僕は感謝したい。

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 その教科書をつくるにあたって,事前に「いずれインターネット上に公開したいのですが…」と聞いた時,「大丈夫です」とお返事いただいた口約束が,いまでも有効であることを信じて,ここにPDF版を公開します。しかもカラーで(教科書はモノクロ印刷だった)。

 もう時間も経過して,基本ソフトもアプリケーションソフトも大変化していますから,役には立たないかも知れませんが,こんな教科書もありましたということで…。興味のある方は,検索して,出版社に注文してください。

デジタルネイティブ時代のICT教育 (マイコミジャーナル)
http://journal.mycom.co.jp/column/icteducation/001/index.html

 いよいよ年末が近づいて,駄文を書く余裕が無くなってきたのだが,この記事を見つけて(見つけてる時間はあるのかい!という細かいツッコミは,ちょっとご勘弁を。たまには息抜きしたいのさ。),紹介せずにはいられなかった。

 インテルと内田洋行の共同研究。なにやら公立学校にパソコンを配布という報道は誤報だとか,いろいろ誤解はあったようだが,まぁ,とにかく実証実験が始まっていて,その経過報告のようである。


 この記事の後半に,このような紹介がある,失礼ながら引用させていただく。


そして、この学習システムを使ったメリットは、大きく分けて以下の2点が挙げられる。

1. 従来の手書きの書き取り練習では、教員が児童を個別に細かく指導することは難しかったが、システム上で"その場で指摘や評価を受ける"ことは、児童の意欲向上に繋がる。

2.覚えきれていない漢字を着実にクリアしてから次に進むといった、個人差に応じたペースでの学習が可能となる。


 これを読んで,ベタに,スキナーのティーチングマシンの再来というか,その現代版を忠実に実証実験しているように思えたのである。スキナーは,その徹底した行動主義的心理学による研究によって,多くを参照され,また多く批判を受けた大心理学者である。そして一応,時代遅れというレッテルとともに隅っこへと追いやられた存在でもある。

 ただ,その極めてシンプルで一貫した学問的成果ゆえに,現在でも学習心理学の分野の教科書を開けば,スキナーの「オペラント条件付け」を見つけることが出来る。結局は,無視できない存在なのだ。


 スキナー自身がティーチングマシンを考えていた時代よりも,技術的には進んでいるはずの現代において実証実験されているものの中身は,実のところスキナーの時代に人々が考えたティーチングマシンの本質と何一つ変わっていない。むしろ技術進歩のおかげで,スキナーたちが考えた理想をより忠実に具現化できているのかも知れない。

 (後日追記:僕はこれを皮肉のつもりで書いたのだが,そう読まなかった人もいたようである。もうちょっと丁寧に皮肉ると,2大企業がそんな前時代的な発想のものをやっていてよろしいんですか?と。あなた達はフロンティアで活躍する企業なんだから,もっと未来を志向してくださいよ,と言いたいのだが,そう書くと今度は2社を批判していると勘違いされる人もいるので困る。僕はどちらかというと,お互いが批判的関係でいることでお互い前進しようねと本当に思っている人である。とここまで説明してもわかってもらえない人もいるかも知れない…。だとしたらちょっと悲しい。本当のことを書くと,この駄文の真の批判対象者は,このどうしようもない記事を書いた記者の人である。申し訳ないが,こんな単純化した理解の枠組みで教育関係の記事を書こうというのは,記事の分かりやすさを理由に逃げているだけで,そろそろ弊害になりつつあると思う。)


 そのことを思うと,この実証実験を,どれだけ政治的な効果としてプラスになるようにデザインされていくのか,実はそのことが今大きな問題になっていることが分かる。記事のように「ソフトウェアが少なかった」なんてのは,ちょっと安易な分析というか,わかり易い解説で済ましてしまってるなぁという感じである。


 人間の学力を向上させるための道具は,もう何十年も前から考案され,そしてその時々の技術を使えば,いくらも実現化できるし,効果を上げるように使うことが出来る。

 しかし,この道具が使われる率を上げるためには,かなりの政治力の向上が必要になったりする。


 学力を上げるためには,政治力を上げる必要があるが,政治力が上がるためには学力が上がってないといけないし,果たして,鶏が先か卵が先か。まあ,こんな考え方も偏見めいているが,まあ,なんかそう思ったので書いてみた。ああ。


 (田中角栄に学力があったのか,政治力は学力と関係ないんじゃないかとか,そりゃまぁ,もっと丁寧に駄文を書くべきなのだと思うのだが,だから,いま丁寧に駄文を書く余裕がないので,とりあえず記事の紹介と思っていただきたい。研究者の仕事はよりよい選択肢を作り出して並べていくことなのだけれども,並べすぎて選びようもなくしてしまっているとしたら,それはまた,俺の仕事じゃないから知らないでは済まないような気がしないでもないと,心の中では思ってみたりしているのである。でも,辞めさせられた元軍服の方のように,私たちの立場は,そうは思いつつも,そうは行動しちゃいけないのであるかも知れず,そうありたいと思うなら,白衣を脱ぐみたいな,そういうことなのだろうかと,珍しく,思考のナマ状態を,ここにつらつらと書き綴ってみているのだが,あんまりしっくり来ていないのも事実だったりする。。本来ならば,こういう状態の思考を調理する必要があるのだが,繰り返すように,そういう心の余裕がないので,はい失礼します。)

【講義後記】20081208

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 今月は月曜日休みがないので毎週授業に出かけるペース。修士論文を書いている身としては(そして,まだほとんど書いていない現状においては),ちょっと焦るシチュエーションではあるが,よい刺激になっていることも事実なので,うまく両立していきたい。

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 さて,なかなか本題に入らずに教育の周辺話が展開していた「初等教育の内容と方法」も,本日の授業でエイヤッと大技を掛けて軌道修正し,テキストを使いながら教育内容(教育課程)の話を展開していった。

 学習指導要領の変遷について,先週の続きで解説を加え,平成20年改訂の特徴について紹介した。教育内容配置の出戻りや復活について紹介すると,幾人かのコメントに平成10年改訂への懐疑が記されたりしている。あるいは,学習指導要領が時代背景と強く結びついており,その時々で最善と考えられたことをしてきた結果なのだなと読み解く学生もいた。

 平成元年改訂における「新しい学力観」への転換とその後の平成10年改訂における教育内容3割減,続く平成12年前後の学級崩壊と学力低下に関する議論へ経ながらも,今日のPISA型学力への注目など。相変わらずサイドストーリーてんこ盛りで講義をするものだから,90分があっという間である。

 そうした学習指導要領というレベルの話から,次回以降は学校のレベルあるいは教師個人のレベルにおける教育の内容と方法に関して講義を進めていく。教育方法や教育技術に入ることで,ある意味,学校教育的な色合いが濃くなって,学生たちにとっても核心に近づいてきたと感じるのかも知れない。まあ,その辺のアンバランスさは,適度に中和しつつ,めくるめく教育内容と方法の世界をご案内するとしよう。


 「教材論」の方は,それぞれの学生の調査経過を引き続き発表中。今日は,マンガ教材と電子辞書とデジタル教材とNHK教育について。まだまだこれから対象を絞っていきなきゃいけないという人もいれば,すでに学科内でアンケートをとって,調査の指針にしようと意気込んでいるところもある。

 さて,こちらもそれぞれの学生のモチベーションを上げるような働きかけをしていかなければならない。果たして,どうなりますやら。担当者の私もハラハラドキドキである。

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 そうやって授業を終え,学生が次の授業のためにいなくなってから後片付けをすると,辺りはもう真っ暗になっている。よくよく考えてみれば12月,年の暮れである。そういう感覚が全くなかったので,改めて,自分に言い聞かせる。

 生協書籍部に寄り,参考になる本はないかと物色していたら,なぜだか論文を書かねばならないという気持ちが強くなってきた。実のところ,長いことずーっと論文を書く気力が湧かずに悶々とした時間を過ごしていたので,ようやくその気持ちが出てきて,いよいよ本腰入れられる。さて,頑張って書くかな。

電子辞書のカタチ

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 皆さんは辞典や辞書をお持ちだろうか。

 家にある国語辞書を探してみると,古くなったものが一冊二冊出てくるか,あるいは人によっては「一冊もないです」なんてあるかも知れない。ただ,紙の辞書はないけど「電子辞書」ならありますという人は多いかも知れない。

 私はさすがに教育業界にいるので,パッと見えるところに「新明解・国語事典(小型版)」がある。気になる言葉があれば,なるべくこの辞書を引くようにしているが,最近はご無沙汰である。そのほか,紙の辞書としては,「ジーニアス和英辞典」「ロングマン英英辞典」があるくらい。あとは「カスタム英和・和英辞典」という携帯サイズの紙辞書とこれも携帯サイズの「英会話ビジネスひとこと事典」がある程度だが,やはり,今はほとんど使っていない。
 ちなみに実家に戻ると「広辞苑」はもちろん「岩波国語辞典」「リーダーズ英和辞典」「ランダムハウス英和大辞典」といった紙の辞典・辞書が残してある。

 紙の辞書を使わなくなったというならば,もう調べていないのかというとそうではない。いまや「電子辞書」で調べることが多くなっている。


 いまだと電子辞書といえば,コンパクトな端末にキーボードと小型ディスプレイが付いたもので,国語辞典から英和和英はもちろん,様々な言語やジャンルの事典データが同時収録されているものを思い浮かべる。
 紙の辞書だと数十冊になるものがすべて一つの小型端末の中に入っているというわけである。便利というか,なんというか,とにかく紙の辞書を使っていた世代にとっては,驚くべき進歩あるいは変化である。

 昨今の電子辞書端末は,ペン入力が出来るようになっているので,漢字を直接書いて調べることも出来るようになっている。今まで漢字の読みを調べるために部首やら画数やらで入力する手間があったものの,これなら漢和辞典機能も実用的だ。

 センター試験でリスニングテストが導入されることが決まった時には,電子辞書が一斉に音声機能を売り文句にしたのはご記憶の方も多いだろう。今時の電子辞書は,単語の読み方も音声で聞けるし,ものによっては写真や動画も見られる。電子辞書端末はどんどん高性能化している。


 しかし普段パソコンを使っている場合,皆さんもそうだと思うが,もはや端末タイプの電子辞書も使わなくなっているのではないだろうか。実は,電子辞書のもう一つのカタチは,パソコンの辞書ソフトである。

 Macというパソコンを買うと最初から「大辞泉」「類語例解辞典」「プログレッシブ英和・和英辞典」「オックスフォード英語辞典」が付属していて,辞書ソフトを使って語を調べたり,あちこちのソフトで右クリックをすることで自由に意味を表示できる。海外のWebサイトで英語を読む時にも,分からない単語があれば右クリックして,その場で意味を表示できるので便利である。

 また,日本語入力ソフトにATOKを使っているパソコンユーザーの皆さんの中には,ATOKと連動する電子辞典を使っている人もいるだろう。たとえば私は広辞苑と連動させているので,同音異義語があれば,変換中に意味が表示されて,語の使い分けを確認することが出来る。

 少し前までは,CD-ROMで電子辞書や百科事典が販売されていた時期もあったが,大容量ハードディスクを安く買える時代がやってきて,辞書はハードディスクにインストールするのが当たり前になった。いまパソコンソフトコーナーには,いろんな電子辞書が売られているのが分かる。この分野ではロゴヴィスタという翻訳ソフトも手がける会社が大手で,いろんな出版社の辞典を電子化して販売している。

 ちなみにボランティアベースで辞書データをつくるという試みもあって,その試みで有名なのが「英辞郎」という英語日本語辞書データである。これは翻訳実務家の人たちがボランティアベースで構築した辞書で,翻訳の仕事で培ったノウハウでつくられている点がとても素晴らしい。それ故,この辞書データは書店で販売されるまでになっていることはよく知られている。


 さて,ネットに繋げるのが当たり前になった時代には,電子辞書もハードディスクからネットへと置き場を移して,分からないものはネット検索するというカタチにもなっている。

 いろんな辞典・辞書が,有料無料などいろんな方法で提供されるようになっている。ネットから生まれたWikipediaはもちろんのこと,Yahoo!などのポータルサイトでは百科事典などの辞書コンテンツを無料で提供している。有料サービスとしては「Japan Knowledge」にもよく知られた辞典・辞書が用意されている。

 パソコンか携帯電話を使うことで,電子データというカタチだが,居ながらにして様々な辞典・辞書を参照できる時代になったのは,本当に有り難いことである。


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 しかしである。辞典や辞書を楽しむという場合,紙の辞典・辞書の味わい深さを,そう簡単に捨て去るわけにはいかない。学校教育で,紙の辞典・辞書を捨てないのは,単に時代に追いついていないというわけではなくて,やはり紙の辞典・辞書に良さがあるからである。

 電子辞書は,いかにも便利に思える。確かにキーボードから英単語を入力して調べるのであれば,紙の頁をめくるよりも遥かに検索が早い。さらに,関連語をボタン一つで拾い出すことも出来る。読み方も聞けたりもする。

 けれども,紙の辞書のように頁に折り目をつけて置くことは出来ないし,メモを書き込むことも難しい。二つ以上の単語の意味を比べたい時に,紙の辞書なら各頁に指を挟んで頁を保持し,さっさっさっと頁を開き直して同時に眺めることが可能だが,電子辞書にはそんな芸当は出来ない。しおり機能はそんなに素早く動作しない。

 さらに,英語ならともかく,日本語も何もかも,全部横書き表示である。パソコンも横書きなのだから,特に違和感がないのかも知れないが,紙の国語辞典・辞書は,どれも普通は縦書きである。そういう細かい部分にも紙の辞書の良さがある。

 電子辞書はもっと進化をしなければならない。

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 実は,電子辞書の世界では,ちょっと賑やかな出来事が起こっている。Yahoo!百科事典のサービス開始も,確かに電子辞書界に一石を投じたが,ネットのカタチではなく,ソフトのカタチの方にも新しい動きがある。

 iPhoneやiPod Touchにいろんなアプリケーションが提供されているのはCMやいろんな情報源でご存じかも知れないが,そのアプリの中に,「辞書アプリ」のジャンルがあって,これがいま熱い(ホットな)のである。

 これまでも「ウィズダム英和・和英辞典」アプリを始めとして,「ロングマン英英辞典」「ジーニアス英和和英辞典」「範例六法」「大辞泉」「広辞苑」「プチ・ロワイヤル仏和和仏辞典」などの有名辞書がiPhone辞書アプリとして登場している。あのタッチスクリーン操作で検索項目のリストを滑らせて選んで読むことが出来るわけだ。「広辞苑」なんかは音声や映像データも完全収録している充実ぶり。

 とはいえ,いままでリリースされたiPhone辞書アプリは,わりと素直というか,まあiPhoneで辞書を作ったら普通こうなるだろうなという範囲にとどまっていた。

 ところが今回,新しく登場した辞書アプリは,今までのものとは一線を画する。


 今回登場したのは,打倒「広辞苑」を目指してつくられた国語辞典界のもう一方の雄,「大辞林」の辞書アプリである。それをつくったのは物書堂というソフト会社さん。辞書アプリを中心に開発をしている会社だ。けれども今回の「大辞林」は物書堂さんがつくってきた辞書アプリとはまったく異なる新しいカタチでつくられた。

 明朝体フォントによる美しい縦書き表示なのである。検索項目もすべて縦書き表示。リストは横方向に滑らせる事が出来る。しかも,ジャンル毎に単語がマトリクスに並んだインデックス画面も用意されていて,広大なマトリクスの表を自由自在に滑らせていきながら,好きな単語を選んで字義を読むことが出来る。

 その上,この辞書アプリがすごいのは,字義の中の任意の場所を指でなぞって選択してあげると,その選択した言葉の字義にジャンプしてくれるという操作が実現されている。これは感動ものである。


 25万語もの言葉の一覧表を自由にスクロールして(滑らせて)言葉と戯れるなんて経験は,初めてである。いままでの電子辞書が実現し得なかったカタチをiPhoneやiPod Touchの辞書アプリが提案している。

 こういう新しいカタチの辞書は,きっとまだまだ出てくるだろう。これこそ紙の辞書にはできない,電子辞書なりの楽しさと言えないだろうか。

 学習にパソコンやIT機器が役立つかどうかという議論は,案外,こういう素敵なアプリケーションの登場と普及推進で,乗り越えられるかも知れない。もちろん,持続的活用を促す学習のデザインも合わせての話だけれど。

【講義後記】20081201

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 珍しく授業直後に書いている。今日の授業は先週の振替休日のせいで2週間ぶり。そして,とうとう師走に入った。本当に時間というのはあっという間に過ぎる。
 今日はテレビ生放送のスタジオ観覧のお土産話と,受講生の調査活動の中間発表を行なった。

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 「初等教育の内容と方法」という授業なのだが,どうも授業の筋が教育改革や教育行政の現状など時事的な方へと寄り道しがちになっている。最初は,初等教育現場にも影響を与える昨今の動向を解説するつもりで始めたが(学習指導要領改訂もあったし…),教育に絡む興味深いニュースや今回のテレビスタジオ観覧といった外的要因がいろいろ働いて,結構そちらに全体の雰囲気もシフトしていた。

 私がテレビの生放送番組を観覧して得た感触については,別にまた詳細を書くとして,それ自体はのお土産話には学生たちも大変興味を示してくれた。番組作りというものが,特に生番組ということもあって,授業実践のリアルタイム性にも通ずること。放送された部分以外の出演者や番組制作者の様々な立場や思惑について,見た来たことを伝えて,考えたことを語った。

 私がなぜ,教育内容(私はこれを「カリキュラム」だと前提して担当しているが)の話に,こうした教育行政やメディアの教育言説の雑談をことさら取り上げるのかといえば,目下,それが現代の重要な問題だからである。カリキュラム・ポリティックス(教育内容・課程の政治学とでも理解しようか)に関する研究は,立派な学術領域だし,そのことを身近に意識することは,無知であるよりも望まれていると思う。

 問題は,そのことを「初等教育」段階の教育内容に結びつけて考えることの難しさと,どちらかといえば「教育方法」との関連に於いて「教育内容」を捉えようとする性格の授業であることを考えると,さて,今後どのように話を接続していくべきなのかということが,授業の醍醐味となってくると思う。

 結果的には,だいぶ長引いてしまったが,前座のお話はテレビ番組観覧を踏まえたメディアの特性の共有で十分満たされたと思うので,あとは,テキスト内容を進められればいいかなと思っている。

 残る教科書的な知識の伝達において,それを面白い部分とどう融合させるか。これは結構,難題ではある。学生たちは,まだ社会人経験のない人たちばかりだし,教育歴があっても家庭教師か塾講師を少し程度であろう。そうした実経験のない段階で,知識ばかりが先行しても,実感を伴わないかも知れない。


 あと,これはある人に言われて少し反省をしているのだが,ものごとの事実を批判的に見るまなざしや思考(クリティカル・シンキング)を持つべきだという主張は,ともすると批判のための批判,実行の伴わない批判,抵抗のための批判に陥りやすい。私が期待しているのは「省察的な実践」という言葉にも込められたような,実践のための批判もしくはそのための批判的解釈であって,手足を動かさないための批判ではなかったはずである。

 ところが,教育改革や教育行政の話は,八方ふさがりな雰囲気が強く,意欲的な実践に対して冷や水を浴びせている感も強い。学生が,様々な批判的まなざしを獲得することは大事なことだが,そのことによって,だから実践をあきらめるとか,だから実践する意味がないのだとかいう理由立てにまなざしを使うようになるなら,これは逆効果だなと思った。

 今の学生たちは,批判のための批判や実行の伴わない批判や抵抗のための批判について,むしろ敏感に察知して嫌悪している世代ではないかと私は思っていて,だから批判的なまなざしを持たせることは,彼らの前向きな姿勢を後ろだてするために依然として大事だと信じている。だとしても,それは逆の意味で学生を買いかぶって,配慮に欠けていたのかも知れない。

 個人が自己に対して配慮して,完全にコントロールすることは難しい。いや,不可能なことかも知れない。だとしたら,私はもっと,具体的な事柄に即して,批判的まなざしを踏まえた実践がどうあるべきかを,丁寧に示す必要があるのではないか。もちろん,それは実務家教員の方々のテリトリーであり,私がどんなに背伸びしたって太刀打ちは出来ないが,少なくとも,そのテリトリーとの接続性については,責任を持って何かしらのことを示す必要があるのかなと思う。

 修行には終わりがないものだが,私はまだまだ修行が足りないのだなと思う。

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 「教材論」の授業は,4週にわたる中間発表会に入り,担当した教材に関する調査の進捗や,その時点までで分かったことを発表してもらう。トップバッターの学生さんはとても緊張していたが,さすが他の授業で鍛えられているだけに,ちゃんとパワーポイントを使いこなして,発表をこなしていた。

 まだ十分な時間をかけられていないので,前半発表組はインターネットや図書館の文献などを探索した成果が中心となっていたが,これからもっと現実世界に切り込んでいくことになると思うので,中間報告はとても興味深く聴いた。

 他の学生たちには,コメントシートを渡して,発表内容や調査内容に対するコメントやアドバイスや質問,もっとこういうところが知りたいという要望を書いてもらいながら,発表を聴いてもらった。
 コメントシートは,振り分けてもらって,今日の発表者に渡す。こうして相互に影響を与え合ったり刺激し合ったりしていくことで,見えてくるものがあると思う。

 対象は違えど,他者の発表を実際に聴くことで自分の対象にどう迫ればよいのかヒントを得られた学生もいたようだし,調査や発表へのよい意味での切迫感を感じた学生さんもいた。発表者も,実際に発表の形にすることで,今後何をすべきか見えてきたとコメントしてくれている。

 たぶん,発表後の私とのやりとりが,少しは役に立っていると思いたいが,思っているのは本人だけだったりするので,そういう自意識はとりあえず置いといて,とにかく場が活性化するように雰囲気作りに徹する事にしよう。


 まったく異なる展開の授業を連続したコマでやるのは,面白いといえば面白いが,いろんなプレッシャーにも耐えねばならず,それはそれで大変である。

 正解がない以上,自分がベストと思うことを信じてやりきるしかない。修行は足りんわ,自己ベストを信じなきゃならんわ,今年も終わるわで,私本当にどうなるんでしょうか。人生明るい方だけ見て生きられればねぇ…。