慮る

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 家に閉じこもって研究作業。文章を書きながら考えを練りだしていった方が得意なので,大学行くのも諦めて過ごしていた。さすがに疲れたので,現実逃避モードへ。

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 文系から理系っぽい分野に越境して苦労してますみたいな愚痴を繰り返すのは,みっともないと承知している。けれども,越境につきまとう苦労や乗り越える知恵みたいなものは,もう少し書き出して共有すべきではないのかなとも思う。
 情報学というのは学際的な研究アプローチを取らざるを得ないと言っていたのは西垣通先生だったが,同時にそれはとても大変な作業であるということも指摘されている。私の力不足はすでによく知られたことなのだから,あらためて恥をさらしていく覚悟を固めよう。


 大雑把に言って,私がそれまで考えていた研究思考様式は「あれもあるよね,そうも考えられるよね,だからこうして見通してみたらどうだろう」的なものだった。思考に余白を設けて,適応可能性を広げるとでも言おうか,逆に言えば幅広く通底するものをあぶり出すというか,そういう知的基礎体力を養っていたわけである。

 これを文系的な様式と言うつもりはない。そうでない領域はたくさんあるし,人によってはそもそもそんな思考様式は認められないと考えている人もいるだろう。ただ,物事の本質を考えるときに,様々な可能性を担保し探究していく態度を取らない人はいないと思う。私自身の問題は,そればっかりに長けていて絞り込みが得意でないということだ。まあ,それはとりあえず置いておこう。


 新たに学び直している研究思考様式は「物事にはその必然性を保証するロジックが必要で,さらにそのロジックの必然性を保証するロジックが必要なのだ」というものである。こちらは思考に余白を設けるなんてもってのほかで,適応可能範囲は絞られれば絞られるほど望ましい。そんな感じの思考を要請されるのだ。先に記したように正直,このための知的基礎体力を養ってこなかったから,頭で分かっていても,動かすときに結構しんどいことが分かってきた。

 どちらかといえば理系的な様式なのかも知れないが,もちろん,これもまた領域によって様々だと思うので,確定的なことはいえない。たとえば人文系というイメージの強い心理学では,極めてシステマチックに研究方法が組み立てられている。人の心がうつろいやすいものである分,それを扱う学問様式はかなり厳密に組み立てられている。


 こんな2つの様式を越境して,最初はだいぶ戸惑った。使っていた筋肉が違うのだから,どうしても使い慣れた筋肉を動かすし,そのことが邪魔をすることもある。
 それでも最近は,ようやく周りの人たちが暗黙裏にこなしている思考の働き方が感覚として分かりかけてきたのも確かで,上手くできるのとはまた別だが,自己意識できるようになってきた。あとは体力をつけるしかないか…。

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 Facebook日本語版の提供が始まったそうで,創設者が来日していてインタビューを受けた記事を読んだ。そこにこんな下りがあった。

 (前略)FacebookとGoogleは世界をより透明なものにしていくという1つの目標を持っていると思います。Googleのやっていることは、お互いを補完するような役割なのではないかと僕は思っています。

 ただ僕らが見据えているのは、あくまで「人」です。大切に思っている人と、その人をもっとよく知りたい、そして共有したいと思う気持ちが大事で、まずは人ありきなんです。

 でもGoogleの場合、どちらかというとインデックス化するとか、マシンがどうだとか、情報をいかに整理するか、そういうところに注力しているのではないかと思います。

 今後、より情報化が進んだ社会において、僕らは人を主体として安心でき、信頼できる情報交換の場を提供していきます。Googleはまた違う角度からそれを追求するでしょう。もしかしたら、お互い進もうとしている方向性は一緒なのかもしれません。ただ、その主体が違うだけなのです。


 GoogleとFacebookの方向性の違いを先ほどの話とダブらせてしまうのは相変わらず悪い癖だが,それよりも最後の段落で語っている情報化が進んだ社会において「人」を主体とする考え方に共感を覚えた。

 さてと,どうしましょうかね,ロジック…。

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