追いつけない合理さは必要か

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 「組織学習システム論」という大学院の授業を受けている。今回のテーマはずばり「組織学習論」であった。取り上げられた文献をご紹介した方がイメージしやすいだろうか。

 1. 安藤史江(2001)『組織学習と組織内地図』
 2. ピーター・センゲ(1995)『最強組織の法則−新時代チームワークとは何か』
 3. デヴィッド=ボーム(2007)『ダイアローグ 対立から共生へ 議論から対話へ』
 4. ジョセフ・ジャウォースキー(2007)『シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ』
 5. ピーター・センゲ,オットー・シャーマン(2007)『出現する未来』

 これらは書店でいえばビジネスコーナーに置かれている書籍ばかりである。要するに企業における教育や学習についてフォーカスしたもの。学校教育畑の人間には,少々縁遠かったりもする。ただし,縁遠かったにしても,いまや無視できなくなっているのは確かで,今後は概念の対応や連携の仕方などについても課題が発見されて,研究が盛んになる分野である。

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 秋葉原で起こった事件について,何も考えないわけにはいかない。そろそろ明確に認識され始めているように,これは社会的な不平等(格差と呼ばれる問題)と深く関係し,諸々の表面的な対応(刃物の販売制限やネット書き込みの監視強化)などは本質的な解決策ではない,ある「現況の断片」だということである。

 そして,おそらくは肥大化した個人の学習に比して,組織や社会の学習が相応に発展していないことによる歪みもしくは葛藤が,解消されずに行き場をなくして所々で爆発していると表現できるかもしれない。

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 残念ながら今回の発表担当ではなかったため,直接文献を読んだわけではない。しかし『出現する未来』という書物の記述が興味深く思えた。最初私は,この書が対話におけるU型プロセスというものを提示して,そのU字底辺部分を「プレゼンシング」という過程であると説明しているのが,よくわからなかった。何かを提示するという過程なのかと想像した。

 ところが,これは「提示」ではなく「出現」なのだという。なるほどタイトルはそう書いてある。そして原書の名前もシンプルに「PRESENCE」である。

 対話において一度自分の認識を括弧に入れ,固定化した認識の変化に前向きである対話を継続することで,対話する者同士に大局的な視野や世界観が「出現」するというのである。そこで発生しているのは,学び直しに近い。あとは,それを実際に行動へと結びつけていくプロセスに移り,組織としての学習が達成されていくというわけである。

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 皆さんも容易に想像されると思うが,こうした学習が発生する組織に所属する個人は,個人レベルでの発展と組織レベルでの発展に有意義な連関を見出すことから,その職業人生に満足感を得やすいと推測される。

 ところが現実には,そのような学習を満足行く形で達成している組織は少ない。志はあっても,なかなか十分に取り組めなかったり,第三者の力を借りる必要があったりと,実現への道のりは険しい。それが普通である。

 むしろ問題なのは,悪いほうへ悪いほうへと組織が突き進んでしまっている現実があることだ。「出現」させるどころか,「隠ぺい」もしくは「偽装」させるプロセスを躊躇なく展開しているといってもいい。

 そしておそらくは,秋葉原の事件を起こした張本人も,そうした世界に身を置いていた一人なのではないか。これとて安易なステレオタイプかもしれないが,少なくとも理不尽さを抱えた日常を生きて,私たちと同様にそれに強い不満を抱いていたことは確かである。本人にとっての,その具体的な理不尽さや不満を推し量ることは,私たちにはできないとはいえ…。

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 今回の授業で扱った文献やその著者たちの考えを聞きながら,そして秋葉原の事件のことを重ね合わせてみたりしていると,ちょっとだけ「エヴァンゲリオン」のことが思い出されてしまう。

 テレビ版のラストは,あらゆる人物事の境が取り払われて,地続きな「私」になるといったモチーフの映像が展開していたように思う。まさにそういったものが「出現」したのであるが…,あらためて,あれこれ解釈できるあのアニメの謎ぶりが面白く思えてしまった。


 それにしても私たちに出現する未来とは何だろうか。対話の必要性がますます高まっているのかもしれない。

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