誰も見ようとしなかった

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 ネット上に教育に関する駄文を書いて長い時間を経てきた。思考をめぐらせること,考え続けることが大事だと思ってきたし,斜に構えて行儀良いとはいえないが物事を批判的に見続ける必要も感じていた。けれども,だんだん教育関連の話題は,話題にすること自体が重苦しく,一筋の光を探り出すことがますます困難になってきたようにも思える。


 過去の教員採用に関して不正があったとの報道は,汚職事件としての構図は分かりやすく,マスコミ好みなのは確かだが,その問題を真面目に扱えば扱うほど,教育現場を苦しめる(ひいては子ども達を苦しめる)事態を生み出しかねず,話題にすることを躊躇せざるを得ない。


 時代と社会が大きく変わっていく中で,取り残されている学校教育のことを誰も見ていなかった,誰も本気で見ようとしなかったことが,すべての元凶ではないか。
 もっと正確に言えば,それぞれの人たちが,それぞれの見たいようにしか見ておらず,本当になすべきことを見ようとしなかったのだと思う。不正を起こさせないようにするための契機は,実は幾度もあったはずなのだ。


 重要書類や記録が改ざんされる。たとえば,2005年度までに本気で教育の情報化やって,情報セキュリティにも取り組んで情報利用の手順ができていたら,不正を続けられないようにできたかも知れない。絶対ではないとしても,契機の一つではあったはずである。

 学校に新しいパソコンが増えるという中途半端な見方でいるから,教育の情報化は真面目に取り組まれなかった。あれほど整備の必要性が唱えられていたにもかかわらず,見たいように見て,本当にすべきことを見なかった。


 そういうことに想像力を及ばせないで,今回の不正報道だけ見て,やれ「公教育行政の失墜」だと言わないでいただきたい。一つ一つ,国民として目を光らせていなかったにもかかわらず,そのツケが積み上がった部分だけ見て,どこかの誰かのせいだと考えるのはやめていただきたい。

 そういうマスコミ報道を見たら,そんな報道の在り方自体に違和感を感じ,自分の周りにいる人たちや先生たちとの信頼関係を,どうやって再確認し,必要あらば再構築し,維持していくことができるのか,第三者(教師・保護者以外の立場。たとえば大学の研究者,大学院生など)を巻き込んで考えたり行動に移すべきである。


 もしも「公教育制度の失墜」なる言い方を許すなら,それはその周辺にいる国民一人ひとりが無責任だったことを言うに等しい。それを報じているマスコミがまともな監視機能を有していなかったことを言うに等しい。だとすれば,まともな監視機能の無かったマスコミが言うその言葉をどうして信ずることができようか。


 もしそういう事態を望んでいないのだというなら,保護者は自分自身を信じ,それと同様に教師を信じなければならない。自分だけを信じて教師を信じないのも,自分自身を信じずに教師だけを信ずるのもおかしい。同じことは教育に関わる教師を始めとした関係者にも必要である。そして,互いを信じて関係を紡ぐことから,初めて子ども達に胸を張れるのではなかったか。そのバランスを欠けば,誰かが負荷を背負い,全体が歪む。


 相手を縛る方法ばかりを考えるよりも,互いのフリーハンドが守られるために最低限何が必要なのかを考える互恵的な発想から問題を捉えない限り,日本の教育はますます縮こまり,日本自体も縮むか,末は雲散霧消してしまう。それじゃダメなのである。
 

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