大学院の合宿があった。基本的には学習プログラムを中心とした内容なので,歴史上の人物を取り上げて発表するという課題に取り組んだ。温故知新という言葉は侮れないなと思った。
そんなこんなでいろいろな事が立て込んだり,自分の研究の調査実験を進めなければならないプレッシャーがあったり,けれどもこの頃は気分の停滞感があったりと,また諸々の事柄で微睡んでいる自分が居たりする。
最近は朝型に切り替えたおかげで,午前中にいろいろ取り組める時間的余裕が生まれたが,斯様な心的状態で,どうも有効活用しているように思えない。どうすりゃいいのか,自分でもほとほと困りながら,日々を過ごしていた。
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遙洋子のコラムを見かけた。「"好き"と"楽しむ"の違い」というテーマの回であった。遙氏については,上野千鶴子のもとで学んだ経験を書いた本を興味深く読んでから,どんな風に進んでいくのかなと気になっている人の1人。その人が,ストレスによる病気になったことを書いて,"好き"と"楽しむ"の違いについて考えていることがスッと入ってきた。
さて,自分は好きなことを楽しんでいたか。
あるいは,何かを楽しむ人生を送っているだろうか。
そう問いかけると,「楽しむ」という感覚をとんと忘れていたことに気づく。ああ,こりゃダメなのは当たり前である。楽しむ喜びを実感していないとしたら,道に迷うのと同じ。隣の庭や芝生を観察ばっかりしているうちに,自分の庭や芝の手入れを楽しむことから遠ざかっていたわけだ。
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僕はずっと文系畑でものを考えていたので,研究者のロールモデルもどこか「啓蒙・啓発」を規準にして考えていたところがある。現代社会において文字通りの「啓蒙」を行なうことは難しくなっているが,それでも人々が「ある種の枠組み」について啓発を受けるというレベルなら,研究者ができることはまだあるのではないかと考えていた。
だから僕は「あんなのはどう?こんなのはどう?」ということを考えるのが好きだし楽しい。
人はそれを浮気性と呼ぶけれども…^_^;
二度目の大学院生生活を過ごしながら,僕は初めて理系的な学術世界観の中で物事を考える必要に迫られた。基本的に理系も嫌いではないはずなのだが,何事も不慣れだとストレスが溜まるのだろうか,楽しさがなかなか味わえない。ピントがぼけていることは自覚しているのだが,どうすれば焦点を合わせられるのか,手探りの日々がまたさらにストレスに繋がって,楽しむことから遠ざかっていたことは明らかである。
なんとなく見えてきた頃には,だいぶ時間超過していて,いまは残りの余裕がないことを内心焦っている。
けれども時間がないながらも,楽しむポイントを探さないとまずいなとも思ったのである。
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ちょっとの気の持ちようで世界はがらんと変わることもある。これは実際にある。そのための条件は,きっと人それぞれで,普段から自分の気分や意識の変化を観察して,その諸条件を拾って揃える努力が必要だと思う。
そんなことを書いていたら,なるほど自分の考え方は行動分析学を創始したB.F.スキナーに似ているのかなとも思う。彼もまた環境条件を変えることによって人の行動に影響を与えることができると考えていた人である。別の機会に掘り下げてみるのも面白いかなと思う。
ま,とにかく楽しんでいこう。
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