2章-『省察的実践とは何か』

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2章 技術的合理性から行為の中の省察へ

1 実践に関する支配的な認識論

■  この節では,〈技術的合理性〉というモデルに関する概要が説明される。大雑把に言えば,体系的で標準化・一般化された知識を,問題に「適用する」という考え方である。

 だから,専門的知識に階層を見たり,専門的職業の間に優劣を見たり,大学世界にも「知識」と「技能」に序列の考え方が垣間見られたりする。

 こうした〈技術的合理性〉というモデルに対しては,疑いも発生するが,すでにこのモデルはプロフェッショナル自身が依拠する制度に組み込まれてしまっているため,覆すことが難しくもなっている。


○〈技術的合理性 (Technical Rationality)〉のモデルは,プロフェッショナをめぐる考え方や,研究,教育,実践と制度との結びつきに関する考え方を,力強く推し進めてきた。(21頁)

○プロフェッショナルの活動
 →科学の理論や技術を厳密に適用する,道具的な問題解決という考え方で成り立つ。


○メジャーな専門的職業とマイナーな専門的職業(ネイザン・グレイザー)

 メジャーな専門的職業:科学的知識が典型的にもっている体系的で基本的な知を基礎としている
 マイナーな専門的職業:変わりやすいあいまいな目的や,実践にかかわる制度の不安定な状況に苦しみ,体系的で科学的なプロフェッショナルの知の基礎を発展させることができない

  →グレイザーは,マイナーな専門的職業に対して失望感を抱いているらしい


○専門的職業の人びとが身につけている体系的な知の基礎の特性
 「専門分化していること」
 「境界がはっきりしていること」
 「科学的であること」
 「標準化されていること」

 →ウィルバート・ムーアは,標準化されているという特性を重視して次のように書いている。
  「プロフェッショナルは具体的な問題に,きわめて一般的な原則,〈標準化された〉原則を適用するのである。」(26頁)

○適用(application)という概念から,専門的知識は階層をなすものとしてとらえる見方が導かれる。

 →「一般的諸原理」が最高レベル,「具体的な問題解決」が最低レベルに位置するようになる(24頁)


○〈技術的合理性〉のモデルは,プロフェッショナル教育の序列のついたカリキュラムの中に組み込まれる。

 →専門的知識の階層モデルから類推すると,研究は実践から制度的に分離しており,研究が実践と結びつくのは,注意深く定義された交換関係によってであるということになる。(27頁)

  研究と実践のとの階層分化は,プロフェッショナルスクールのカリキュラムが序列化されている点にも現れている。

○〈技術的合理性〉モデルの見地からすれば,実質的な知が存在するのは,基礎科学および応用科学の理論と技術の中ということになる。したがって,基礎科学と応用科学こそが最初に来るべきなのである。「技能」は,具体的な問題を解決する理論と技術を用いることの中にあり,それゆえ,学生が関連する科学を学んだあとに提供されるべきものとなる。(28頁)


 【実践に関する支配的なモデルとは,〈技術的合理性〉によって導き出される序列化の考え方】


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2 技術的合理性の起源

■  この節では,専門的知識に関する支配的なモデルである〈技術的合理性〉が,どうして大学にまでも浸透してしまったのかについて,その起源を歴史的に扱っている。

 十六世紀の宗教改革以降,「科学と技術」の台頭に始まり,次第に科学的世界観が支配的になっていく中で,十九世紀後半の実証主義の浸透が起こり,それが〈技術的合理性〉による序列化,研究と実践の分離をもたらしたという。


○〈技術的合理性〉は,実証主義の遺産である。(31頁)
○〈技術的合理性〉は,実証主義の基礎となる実践の認識論である。(32頁)

○十九世紀になると実証主義は,科学と技術の勃興を支えるものとして発展し,また科学と技術の成果をウェルビーイングに用いることをめざす社会運動として発展した,強力な哲学的教義である。

○実証主義の三つの主要教義(オーギュスト・コント)
 第一,経験科学を世界に関する実証的知識の唯一の源泉であるとする信念
 第二,神秘主義や迷信,その他の擬似知識を人間の心から追放する意図
 第三,科学的知識と技術的コントロールを人間社会へと拡張するプログラム

○実証主義者たちが科学的知識の排他性を説明し正当化する努力を洗練させるにつれて,観察に基づく説明が一定の理論をともなうものであることに気づくようになった。感覚的経験の要素には分解できないような経験的知識があり,それを意味づける必要性にも気づくようになった。彼らは自然の法則を,自然に内在している事実としてではなく,観察した現象を説明するために創り出された構成物ととらえ始めるようになった。科学はこうして,実証主義者たちにとっては仮説−演繹的な体系となったのである。(33-34頁)

○実証主義の教義に照らしてみると,実践は謎めいた特異なものとして現れた。実践的な知は存在するが,それは実証主義のカテゴリーにぴったりあてはまるものではない。

 →実践的な知は,目的と手段いう関係をめぐる知として構成されるようになった。目的に対し「どのように行動したらよいか」という問いを,目的を達成するのに最適な手段といった道具的な問いとして。


○アメリカの大学の現在のような構造とスタイルの誕生は,十九世紀後半から二十世紀初頭,実証主義の知的支配が確立され始めた時期に,ドイツの伝統に由来する形で入ってきた。

○新しい大学モデルの誕生にともない,実証主義の認識論も大学内に登場するようになったが,そこには上位の大学とそうでない専門的職業との間で,労働を適切に配分するという序列化された考え方が見られた。(36頁)

 →大学とプロフェッショナルスクールの関係や違い。高次元の学校と低次元の学校の適切な関係とは,分離と交換の関係であるという考え方。これはまた,プロフェッショナルスクールにいる技術者が,大学に職を得るのを許さないという現れ方をした。


○しかし,専門的職業を大学内部に受け入れようとする一般的な風潮などもあり,専門的職業は新しい大学に地位を占め,その数を増やしていく。

 →逆にそのことが,知の階層構造を大学内の地位に繁栄させることにもなり,「新しい理論を創造する人びとは,それを実践に適用する人びとよりも高い地位にあり,「高次元の学習」を担う学部は,「低次元の学部」を担当する学部よりも優位にあると考えられた」(37頁)


 【実証主義のカリキュラムの種がまかれ,研究と実践の分離が誕生した。】


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3 技術的合理性の限界に気づき始める

■  この節では,専門的知識の適用を前提とする〈技術的合理性〉のモデルの限界について述べている。科学技術信奉の強いときには見過ごされていたものの,次第に実践の複雑性や不確実性,不安感や独自性や価値観の衝突といった問題がクローズアップされてきたことを論じている。

 こうした問題を認識しながらも,当時の研究者は依然として〈技術的合理性〉を維持する形で解決しようと試みるが,そのような実証主義の実践的認識へのこだわり自体,本家の科学哲学ではよい評判を得ていない。

 実践の拡散的な状況を説明するための,別の実践の認識論を探究しなければならないことが示される。


○「第二次世界大戦」と「スプートニクショック」

 →科学的研究の発展,国家が科学や技術に投資する動きを加速させる
  専門職主義の勝利のお膳立て〜『ディーダラス』誌の特集

○副次的には,科学的研究をプロフェッショナルの実践の基礎と見なす考え方が強まる効果をもたらすことにもなった。(38頁)

 →しかし,1963年から1982年まで二十年間に,一般のひともプロフェッショナルも,次第に専門的職業の欠点や限界に気づくようになった。


○プロフェッショナルの実践は問題の〈解決〉(problem solving)のプロセスである。:定められた目的に一番ふさわしい手段を選びとることによりおこなわれる。

 →しかし,問題の解決ばかり強調すると,どんな目的を達成すべきであるかを定義し,選ぶべき手段は何かを決めるプロセスを無視することになる。


○実践者は,「問題状況」を「問題」へと移し変えるために,そのままでは意味をなさない不確かな状況に,一定の意味を与えていかなければならないのである。:実践の中核にある作業

 →問題の設定とは,注意を向ける事項に〈名前をつけ〉,注意を払おうとする状況に〈枠組み(フレーム)を与える〉相互的なプロセスなのである。(41頁)
  問題の設定それ自体は,技術的な問題ではない。つまり,〈技術的合理性〉のモデルとは異なった探究作業である。


○実証主義の認識論のしばりを受けている実践者は「厳密性か適切性か(rigor or relevance)」というジレンマに陥る。これは実践の領域においていっそうはっきりと生じる。

 →「フォーマルモデリング(formal modeling)」という分野は,実践者が示すふたつの反応を観察するのに興味深い状況を提供してくれる。フォーマルで量的な,コンピュータ化されたモデルに対する幅広い関心によって盛り上がったが,その後,この楽観的な期待は,膨らみすぎたものであったという意見も出る。複雑で,あま明確に定義できないような問題では,一般的に有効な成果をもたらさなかったのである。


●多くの実践者が厳密性か適切性かをめぐるジレンマに対してとった対応は,専門的知識に合わせて実践状況を切り取ってしまうことであった。(44頁)

 →このような戦略は,「状況を見誤り,状況を操作して,標準のモデルや技術に対する信頼感を維持したいという実践者の関心に貢献してしまう危険を産み出している。」(45頁)


技術的熟達がもつ限界について考察した専門的職業の研究者

エドガー・シャイン
基礎科学や応用科学が「収斂的(convergent)」であるのに対し,実践は「拡散的(divergent)」であるという事実にギャップをみた。

ネイザン・グレイザー
メジャーな専門的職業とマイナーな専門的職業(前出)

ハーバートサイモン
プロフェッショナルの実践が本質的にかかわるのは「デザイン」と呼ぶものであり,デザインには「現在の状況をより好ましいものに変える」プロセスがともなっている。サイモンは,自然科学とデザインの実践との間にギャップがあるとし,そのギャップを埋めるのがデザインの科学であると提言した。

 →彼らは,専門的知識を科学的に基礎づけることと,現実世界の実践がもつ要求との間にギャップがあり,そのギャップを,〈技術的合理性〉のモデルを維持する方法で埋めようとしているのである。(48頁)


●専門的職業の人びとを悩ませてきたジレンマの原因は,科学それ自体ではなく,科学に対する実証主義者の考え方にあったことは明らかだと思われる。(49頁)


 【直観的なプロセスに暗黙に作用している実践の認識論の探究を深めよう】


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4 行為の中の省察

■  この節では,これまでみてきた〈技術的合理性〉のモデルの起源や限界を踏まえ,行為の中,実践の中における省察によって,拾いきれなかった問題をとらえることを提言している。

 「行為における知の生成(knowing)」であるとか,実践者の振り返りで起こる「行為についての省察(reflection-on-action)」だけでなく,行為している最中の「行為の中の省察(reflection-in-action)」に関して事例を示していく中で,〈技術的合理性〉の制約を受けない,実践の文脈に引付けた新しい理論の構築に関する可能性を指摘する。

 まだこの節の時点では,その概要を示したに過ぎず,以下続く章の事例の探究によって,「行為の中の省察」がどのようなものであるかが模索されると思われる。


○日常生活での行為は,意識しないまま自然に生じる,直観的な行動である。(50頁)
○私たちの知の形成は,行為のパターンや取り扱う素材に対する触感の中に,暗黙のうちにそれとなく存在している。私たちの知の形成はまさに,行為の〈中(in)〉にあると言ってよい。(50頁)

 →行為の中の省察(reflection-in-action)というプロセス全体が,実践者が状況のもつ不確実性や不安定さ,独自性,状況における価値観の葛藤に対する際に用いる〈わざ〉の中心部分を占めている。(51頁)


(1) 行為の中の知の生成


○行為の中の知の生成:知的な行為の中にもある種の知が備わっているという考え方


○熟練した行為は,「私たちが表現できる以上の知」を明らかにする。この種の知について論じている人びと。

チェスター・バーナード
「思考プロセス」と「非論理的なプロセス」を区別し,非論理的なプロセスは,言葉や推論では表現できないものであり,その存在がわかるのは,判断や決定のときか行為のときのみであるという。

マイケル・ポランニー
「暗黙知」人の顔を見分けることができても,どのようにして自分が知っている顔を見分けるのか説明することはできない。

クリス・アレキサンダー
工芸品などのデザインにおける知の生成について考察。ある作品の形が文脈に「ぴったりこない」と認識し,修正をする中でぴったりきたと認識するときの規則についてうまく説明できない。

ジェフリー・ヴィッカーズ
アレキサンダーの事例について,十分に表現できない形の感覚に頼る行為は,何も芸術的な判断の場合に限られないと指摘。私たちは皆,このような暗黙の規範を用いて,自分たちの実践的能力に依存しながら判断し,状況についての質的理解を進めている。

アルフレッド・シュッツとその後継者たち
暗黙のうちにおこなわれている日常生活でのノウハウについて分析した。

バードウィステル
暗黙知が動作やしぐさを認識するときに具体化されることを説明するのに貢献した。


○知の生成(knowing)の特性:通常の実践知を特徴を示すモデル

・意識しないままに実施の仕方がわるような行為,認知,判断がある。私たちは自分の行為に先立って,あるいは行為の最中にその行為,認知,判断について考える必要はない。
・私たちは,こうした行為,認知,判断を学んでいるのに気づかないことが多い。私たちはただ,そうしたことをおこなっているという事実に気づくだけなのである。
・行為の本質(staff)に対する自分たちの感覚の中には,あとから(subsequently)取り入れられることになる了解事項について,あらかじめ気づいていた場合もあるだろう。また,これまでまったく気づかなかったという場合もあるだろう。どちらの場合でも,私たちの行為が指し示す知の生成を記述することは,通常できない。


(2) 行為の中の省察


○「行為の中の知の生成」が認められるならば,行為していることがらについて考えることも認められてよい。

 →「歩きながら考える」「分別を持ち続ける」「為すことによって学ぶ」といった言い回しが示すのは,私たちのできることは,行為について考えることだけでなく,行動の最中におこなっていることそれ自体についても考えることである。(55頁)


○直観的な行為から驚き,喜び,希望が生まれ,予期しなかったことが発生すると,私たちは行為の中の省察によってその事態に対応するだろう。(略)このようなプロセスでの省察の対象となるのは,行為の結果であり,行為それ自体であり,行為の中にある暗黙的で直観的な知であり,それらが相互に作用しあったものである。(57-58頁)

○ブロックのバランス実験に取り組む子ども達の行為:ブロックのバランスをとる際に〈幾何学的中心〉から〈重心〉へと子ども自身の理論を変化させていく様子が観察される。また子ども達は「成功を志向すること」から「理論を志向すること」へと理論を変化させた。

 →観察者は,このような子ども達による〈知の生成(knowing)〉を,(他に表現のしようがなく)行為の中での〈知識(knowledge)〉と置き換えて表現している。
  「このような置き換えは,行為の中の省察について話を進めるときに避けて通れないと思われる。ある種の知の生成とその変化について説明するためには,ある言葉を用いなければならないが,知の生成や知の生成の変化というのはおそらく,言葉では表現されてこなかったものである。」(61頁)


(3) 実践の中の省察


○「実践(practice)」という単語は意味が両義的である。:一定の範囲におけるプロフェッショナル的な状況における活動。また,活動への準備。プロフェッショナルの実践には,繰り返しの要素も含まれている。(62頁)


●実践が繰り返され決まりきったものとなるにつれて,また〈実践の中の知の生成〉が暗黙的で無意識的になっていくにつれて,実践者は現在おこなっていることについて考える大事な機会を見失ってしまうようになるだろう。(63頁)

 →このような事態は,実践者の「過剰学習」と呼ばれる。


○実践者の省察は,こうした過剰学習を修正するものとなりうる。実践者は省察によって,専門分化した実践の反復経験の中で発生した暗黙の経験があることを明らかにし,それを批判することができる。

 →メタ認知の上で起こることだろうか?(りん)


○問題が発生し,対応可能な問題にすぐには置き換えられない状況に陥ったときは,実践者は新しい問題の設定方法を生みだし,新たなフレームを作って状況にあてはめようとする。

 →「フレーム実験」と名づけたい。(65頁)


○実践者は目の前の現象を省察し,さらには現象をとらえる際の理解について,つまり,自分の行動の中に暗黙のままになっている理解についても省察を重ねる。(70頁)

 →行為の中で省察するとき,そのひとは実践の文脈における研究者となる。すでに確立している理論や技術のカテゴリーに頼るのではなく,行為の中の省察を通して,独自の事例についての新しい理論を構築するのである。


○問題の解決は,省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり,行為の中の省察はそれ自体として厳密なものとなり,実践の〈わざ〉は,不確実性と独自性という点において,科学的な研究技法と結びつくようになる。(71-72頁)


 【行為の中の省察による「実践の認識論」を発展させるべきである】

 
 


【メモ】
 翻訳文を一通り読んでも,いざ要約するとなるとかなり難儀だった。ただ,たぶん書いてあることはかなりシンプルなことだと思う。
 私たちは行為をするときに,前もって学んだ知識というものを適用することもあるけれども,それが通用しない事態もあるのだということ。そのようなときに,私たちが行なっていることは,状況との対話であり,行為の中での省察なのだと。繰り返される実践の中で,省察が重ねられていくことにより,より文脈に即した枠組みづくりや理論づくりに繋がっていくのだと,そんな感じなのではないかと思う。

 行為の中の省察を,このような形でとらえることで,これまで言語化されなかった実践家の実践を,より広範に,より深く,より厳密に検討していくことができるようになる,とショーンは考えたのだろう。


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