【Disconnectedな時代-01】呼び出し

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 「201号室の加藤くん,201号室の加藤くん,お電話です。至急事務室まで来てください。201号室の加藤くん,お電話です。事務室まで来てください。」

 15年ほど前まで,寮に住む大学生に電話連絡すると,こんな風に放送で呼ばれる風景があった。まだ携帯電話が業務用でしかなかった時代である。ひとり暮らしの学生にとっては「固定電話」を契約することがまだステイタスになっていたのである。


 ちなみに,冒頭呼び出された加藤くんに電話をかけたのは女性である。もしも男性がかけてくるとこうなる。

 「201号室の加藤くん,201号室の加藤くん,電話です。至急事務室まで来てください。201号室の加藤くん,電話です。事務室まで来てください。」

 僕らは,そんな細かいニュアンスを,電話の呼出しという付随したやりとりの中に込めて,コミュニケーションをしていた。ある意味では,勝手に場に巻き込まれて,みんなで楽しんでいたのである。

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 「安藤さん,外部からお電話です!」

 声の届く大きさのオフィスなら,受話器の口を手でふさいで,同僚の名前を呼ぶ。

 今なら当たり前の内線交換機のようなシステムが普及していない時代は,全部が同じ回線に繋がった電話を先に取った人が出て取り次ぎ,相手の希望する人物が別の電話の受話器を取るのを確認してから,自分のとった受話器を置く(タイミングがずれると電話が切れてしまうから)。

 そうやって,同じ空間にいる人間の様子を確認するのは自然なことだったし,電話が終わると「○○さん,ありがと!」と取り次いでくれたことに礼を言うのも当たり前だった。そこから「どうお昼食べに行かない」とか,コミュニケーションが展開することもある。また,「誰からの電話だよ」という詮索に対しても,誤解を受けないように電話を受ける術を工夫したりする術を磨くことにもなった。

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 「え,あの,えと,まり,さん…いらっしゃいますか…」

 「君は誰で,まりに何か用かね」

 好きな人の家に電話をかけることが,どれほどの緊張を強いるものなのか,説明はいらないだろう。そうでなくても,本人にたどり着くには,大きなリスクが待ちかまえている。

 「あ〜,あの同じくクラスの○○です。学校のことで…」

 「明日じゃダメなのかね」

 大人の考えていることはわからない。なんで素直にまりちゃんが出てこないのか?あなたと話したい訳じゃないのに。

 それでも,障壁が大きければ大きいほど,相手への思いは増すばかり。僕らの時代は,本人にアクセスするのが困難なのは当然だったし,伝えたい想いが伝わらないことは日常茶飯事だった。

 リスクを冒して電話する本人も,様々な障壁の向こう側にいるまりちゃんも,想いを察してからかうクラスメートも,みんなある意味,正直だった。そしてそれぞれ,不器用だった。

 「用がないなら,切るぞ」

 「はい,すみません…」

 「(ガチャ)…プー,プー,プー」

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 同じ空間にいる人への配慮は日常的だった。けれどもそれは,裏を返せば,息苦しくて窮屈な気遣いと言えなくもない。だから,みんなが適当な距離感を欲していたのだろうし,そして一方でコミュニケーションの煩わしさから解放されたいとも思っていたのだろう。

 ポケベルに始まり,やがて携帯電話とメールが,人びとの隙間に入り込み,物理的距離の縛りをバッと緩めた。それは同じ空間に居ながら適度な距離をつくることにも貢献したけれど,やがて,同じ空間に居ることの重要性やその場のコミュニケーションを忘れ始めることにもなっていった。

 携帯電話は,同じ空間に居る人びとのコミュニケーションに,好き勝手に割り込んでくることにもなった。言葉によるコミュニケーションが行なわれていないからと,携帯電話を確認したり,メールを打つ行動をとることは,当たり前になってしまった。けれども,それがどの程度許容されることなのか,いまだにコンセンサスが形成されたとは言い難い。


 「情報モラル」というものを考えるとき,私たちはどの時代の意識までを踏まえるべきだろうか。インターネットも携帯電話も当たり前になり,今後も消えゆくことはないことがハッキリとしているからといって,かつての時代性や世界観を閑却してしまってよいものなのだろうか。

 少しだけ,昔話を思い出すことにしよう。

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