内と外

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 とある会話で「内と外」の話になった。ある集団に所属していたときに見えていた風景と,その集団から出た場所から見える風景とが違う,というような類の話である。

 それに当てはまる話はいろいろ出てくる。僕自身の例では,ある職場を辞めて内から外へ出たこととか,研究分野を越境して内から外へ出たこととかの経験がある。ある人は,卒業して就職したこととか。大学から大学院へ進学するのに,学校が変わったという人もいるだろう。

 内にいたときには見えなかったことが外に出るとよく見えてよりわかることがある,のだそうだ。確かに個人的にもそういうことがあるように思う。内にいては,なかなか気がつかないこと,本当にたくさんあるように思う。

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 とあるグループにいたとき,そのグループの今後を話し合う機会があった。僕はそのとき,その話の内容について流れに乗っ取って賛同していたように思うのだけど,同時にグループがどんどん閉じていく,もしくは何かを囲い込もうとしているようにも見えていた。これは望ましい話なのだろうか。頭の片隅で違和感が残る。ただ,僕はまだ内側にいて,内側の風景しか見えていなかった。

 残った違和感やら,いろいろな出来事が重なって,僕はそのグループから離れることにした。そうやって外側に出てみて初めて,違和感を具体的に実感するようになった。閉じたグループが互恵的な関係を掲げながらも,実のところ特定成員のモチベーションによって水準が高くもなれば,容易に低くもなってしまうという危うさを。そのことが,実はグループの内外に,あまりよい影響を与えていないことについても。


 少なくとも,内側にいたときには,そのことについてほとんど意識化できなかったが,外側へ出てみて,なにゆえ摩擦が起こるのかが,だいぶ見えてきた。結局,良かれと思ってつくったグループは,全体コミュニティを分断する方へ機能してしまうときが出てきたのである。
 たとえれば,会社組織内にたくさんの事業部や部署をつくってしまって組織全体を分断してしまいパフォーマンスを低下させるような感じである。

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 ただ,それは立場によって,良いと思うのか,悪いと思うのか,異なってくるという話になった。

 グループの内側に留まっている限りは,外側からの自分たちは見えない。グループの外側から眺めている限りでは,内側の風景は壁に遮られて見えるはずもない。内側に留まるのが良いのか,外側に飛び出すのか良いのか,それを判断することは,後々になってみても,きっと難しいのではないか。


 その会話はそこで終わってしまった。けれども,たぶん内と外の問題はいつまでも続くのだと思う。

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