『省察的実践とは何か』1〜5章の感想

user-pic
0

 美味しそうな後半に触らずして,前半だけで感想を書くのももったいない気がするが,2章と5章でおおよそ粗描されている「行為の中の省察」から,いくらか感想めいたことを書いてみたい。

 まず〈技術的合理性〉モデルと「行為の中の省察」の対置である。

 〈技術的合理性〉のモデルとは,かなり単純化すれば,予め一般化され習得された専門的知識を,問題に対して「適用する」ような実践の考え方(実践の認識論)ということだと思う。
 一方,「行為の中の省察」は,そのようなモデルでは拾いきれない,複雑性や不確実性や独自性,あるいは価値観の衝突に起因する問題に対処するために,問題を設定し,知を生成していく過程を実践と考える認識論といえる。

 言ってしまえば,持ち込んだ既成の知識に解決策を求めるか,あるいは問題の中に沈み込みながら解決の知を編み出していくのか,という違いとも表現できる。

--

 ショーンは,「じゃ,問題の中で解決の知を編み出していくような人って,どうやっているの?」と問うて,その行為の過程を追いかけた。


 で,わかったことは,「行為の中の省察」みたいなことをしている人ってのは「探究者」で,結構,実践の状況の中で試行錯誤して解決の糸口や知を見つけ出そうとしているってことだった。

 なんだ,あんまり特別なことしてないな,と思うのだが,熟練者の試行錯誤は,単なる試行錯誤ではないという点がポイント。そしてまた,実践者が陥りやすい点についても上手に回避する術をもっているという点が違うようだ。


 どうやら「行為の中の省察」を行なえる探究者(省察的実践家)は,自分の頭の中に問題状況を再現し,いろいろなことが試せる「仮想世界」をもっており,そこでいろんなレパートリーをサッサッサッと試行錯誤しちゃって,「んじゃ,これどうかな」と現実世界に向けて手立てを差し出していくらしい。

 さらに,こうした探究者は,繰り返される実践によって自分自身の生成する知が暗黙的で無意識になって,マンネリ化する危険(過剰学習)を,これまた省察によって,うまく回避することができる人のようである。

--

 どうしてそのようなことが可能なのかというと,要するに常に問題の一つひとつに対して,固有性をみて,問題の捉え方を設定し直すことができるからだ。

 つまり,一つひとつの問題を常に「新鮮に」捉えることができるので,気持ちを切り替える感じで,新たな捉え方ができるというわけである。

 私たちは,一旦問題にはまると,なかなかそこから抜け出せなかったりする。それは直面してしまった問題の難しさに起因する場合もあるし,あるいは自分自身のもっている信念や価値観に捕らわれてしまっている場合も少なくない。(厳密性か適切性かのジレンマにはまる場合もあるだろう。)

 おそらく,熟練した探究者(省察的実践家)は,このようながんじがらめになりそうな状況においても,自分自身の問題設定方法をやり直すことができて,新しいフレームをつくっては状況にあてはめ,問題を把握し直すことで,問題を乗り切ろうとすることができる人だと考えられる。

 こうした「状況の枠組みの転換」ができるためにも,探究者(省察的実践家)は,問題の状況との省察的な対話を心掛ける。つまり,直面している固有の問題に素直に耳を傾け,また自分自身を捕らえようとしているあらゆる既存の枠組みを(仮想世界なんかを使って)退けようとする努力を惜しまない。

--

 省察的実践者というのは,もう少し感覚的な言葉で書くと,「しなやかで柔軟性のある」人であり,また同時に「真摯な態度で鋭い」人であると表現できそうだ。

 ま,言ったり書いたりするのは簡単なのだが,これらの側面をバランスよく持つ人になるのは,なかなか難しい。あるいはだからこそ,時間がかかるのかも知れない。

 ただ,個人的には,必ずしも時間をかけなくても,人には誰しもそういう側面が備わっているものだし,上手に状況と接することができれば(あるいはそういう風にコーディネートできれば),省察的実践を行なうことができるのではないかと思う。そういう意味では,あらためて自分は環境・状況デザイン派なのかも知れないと思った。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://con3.com/mt/cgi-bin/mt-tb.cgi/500

コメントする