教科書的なシンポジウム

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 日本教育工学会が上越教育大学で催されている。初日は一般発表とシンポジウムが2本行なわれた。今日は午前中に一般発表と,午後に全体会やシンポジウムがある。

 昨日のシンポジウムについて,関係者の方々の感想などが,いくつかブログにアップされ始めている。私は,昨年から継続のテーマである「実践研究をどのようにデザインし,論文にまとめるか」の方を見に行った。

 今年はお口チャックを誓って参加したので,ひたすら議論を聞き入る。

 コンビは呆けと突っ込みが入れ替わった方が適切な場合があるが,それをシンポジウムにあてはめれば,今回はその典型だったかも知れない。適切な人選と役割分担が功を奏した。そして,大変教科書的な学会シンポジウムが展開した。
 もちろん,この「教科書的な」という言葉は,(ここは教育ト書きなので)何重の意味があるが,本当に文字通りそんなシンポジウムになっていたので,多くの人びとにとっては満足のいくものだったと思う。

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 実践研究に限らず,研究のデザインをどのように取り組み,どう作品としての論文に仕上げていくのかは,研究を生業にする人びとにとって関心の高いテーマである。

 だから僕らは大学院の授業で「研究法」を履修する。ただ,この手の授業は,実際のところその内実が千差万別である。分野領域によって異なることは当然としても,同じ領域にもかかわらず,力の入れようは授業ごとバラバラだったりする。

 僕は教育学の分野を学んだこともあって,宗像誠也の『教育研究法』を少しだけ読んだことがある。本当に少しだけで,そのうえ長い時間が記憶を消し去っているのだけれど,先達は,研究のデザインについても論文のまとめ方についても,ちゃんと(その人なりの言い方ではあるけれども)語っていたりする。

 知っていても,出来るわけではない。けれども,「知っている」状態になることは,本を読めば比較的容易である。ならば,「知っている」状態くらいは,みんな教科書を読んで知っておこうよ。僕はそう思う。

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 シンポジウムは,学会においても注目された論文や研究を事例として,その裏側を語ってもらいながら,どのように実践研究をデザインしていくべきか,そして論文として落としていくときの流れが概観された。

 それ自体は,大変教科書的な話だった。

 そのような過程で,査読に耐えうる研究論文として落とし込む際に直面する困難とは何か。それを実際の研究事例とそのご本人に登壇してもらって明らかにしていったという意味では,大変興味深いケーススタディであった。

 そういう意味では,学会というシステムの中で研究成果を出す,ということの教科書的な話だった。

 今回のシンポジウムは,会の進行もスムーズだった。学会のシンポジウムが,報告者とコメンテーターとの緊張関係を上手に素材としてフロアに見せながら進行させるものであることを「やってみせて」いた。フロアからの発言を求めたら,誰も手を挙げず,結局,大御所の先生方にお願いをするところも,ある意味ではオーソドックスな展開だった。

 シンポジウムの進行という意味でも,とても教科書的な会だった。


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 研究上で追究する「モデル」とは何か。それは誰のためのものであって,どのようなものとして形作るべきか。そのような問いかけも,今回のシンポジウムで出たもう一つの大きな問いであった。

 ただ,これも研究を生業にする人間なら,誰しもある種の立場を決定しなければならない基本問題である。そのことをシンポジウムの場で問題として扱っていたのだということに,僕は正直驚きを憶えた。そんな問題,昨年の段階で何かしら前提があったことじゃないのか?もしかして,原点回帰?根本問題は,やはりいつまでも根本問題?いままさにそれをみんなで論じる時期や機運がやってきたのだということ?

 21世紀に入って,それが問題なのだと,ようやくみんなが意識しだしたというなら,僕は,正直,昔からそういうことばっかり考えていて疲れちゃったので,苦笑いするしかない。

 たとえば,省察的な実践を唱えたショーンが,関連書を書いたのは1983年頃である。すでにその当時から,実証主義についてはいろいろ議論されていたし,あれこれ反省のもと模索が試みられていたはずである。
 複雑系に関するお話しも90年代に盛り上がった時期があった。そうした,従来までの問題枠組みの限界と,今後どうすべきかを議論すべきであるという問題意識は,とっくの昔に持たれていてよいはずであった。

 残念ながら,最新のトピックスが全体に広まるにはタイムラグがある。5年で広まれば早いほうだ。10年20年かかっても,何も広まらないかも知れない。問題共有が大事と方々の発表で語っていても(そして私自身の研究でも語っているが),当の学会が問題を共有するには時間がかかる。だから,そのことについては,諦めるほか無いのかも知れない。


 だから,今回のシンポジウムは,私たちの学会が直面している問題はこれなんじゃないの?ということを示すという意味でも,なんだか教科書的なシンポジウムだと思えた。


 これは世代間の認識落差の補完?異なる領域の人びとが集うがゆえの共通認識の形成?日々の仕事や研究で忙しくて,かつて「教育法」で学んだか学ばなかったかで忘れてしまった知識の復習?


 僕はお口チャックする必要はなかった。チャックしなくても,僕はポカンと口を開けて状況に驚くだけだった。

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