「たけしの日本教育白書2008」観覧記-0

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 フジテレビがここ数年,毎年放送している秋の教育スペシャル番組が「たけしの日本教育白書」である。今年2008年で第4回目を迎える。なぜフジテレビがそういう番組をつくるのかは分からないが,学校や学問をモチーフにした番組をいくつか放送しているということもあって,レパートリーの一つといったところのようである。

 僕が初回を見たのは,短大教員として仕事をしていた最後の年に,いよいよ辞める覚悟を決めた頃,職員の人たちと仕事帰りに寄った飲み屋のテレビでだった。本当は家で見たいと思っていたが,結局仕事に忙殺されて,そういう展開になったことを覚えている。まさか3年後にスタジオで観覧することになろうとは思わなかった。

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 2008年度後期から,とある大学で教職の授業を担当することになり,久しぶりに毎週教壇に立つことになった。僕は,知識を伝達したいとき,どうしてもある程度の文脈共有が必要なのではないかと考えてしまう質なので,自分が世の中をどう見ていて,何を考えていて,担当している科目についてどういう風に捉えているのか,他の人たちはどんな捉え方をしているのかについて,ざっくばらんに話すことにしている。

 僕はそのことによって,自分の狭い理解に学生が閉じ込められないための手がかりを作ろうとしているのだけれども,まあ場合によっては,僕が広げすぎる大風呂敷を鵜呑みにしてしまう学生も出てくるのかも知れない。ただ,その場合でも,いずれは不整合を見つけ出して,僕の浅はかさを乗り越えてくれるだろう,そんな風に信じている。

 というわけで,教育界隈の時事ネタも学術ネタも現場ネタも,あれこれ混ぜ合わせておしゃべりをする。そのためのリサーチもあれこれするようになる。興味深い本や雑誌とか,教育問題を扱ったテレビ番組とか…。そんな情報収集の一環で引っかかったのが「たけしの日本教育白書」だった。

 ただ,この番組は出演者の組み合わせや発言によって,かなり出来のぶれる番組である。正直,素材として扱うに値するものなのかどうか,放送されてみないことには分からなかった。

 そういう番組を「ぜひ見てみなさい」というのも,少々後ろめたい。事前に発表された番組内容は,「親子関係」「社会と子ども」「学校教育」「有識者による討論会」といったもので,ある意味では基本に立ち返った感じだったので,気にはなるが…,さてどうしたものやら。

 それで,ホームページを見たら「スタジオ参加者募集」と書いてあるから,それじゃ,そういう「民放の教育関連番組の制作舞台裏をみんなで見に行って,その可能性と限界を考えよう!」という提案をしてみようと考えたのが始まりだった。全員が行けないとしても,行って現場で見た人と,テレビ画面で見た人との受け止め方の違いが比較できれば,どうしてメディアから受ける教育言説の印象がこうなっているのかを身近に考えることができる。


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 まあ,たぶん多くの皆さんは,「屁理屈を付け足してるが,要するにテレビ局に遊びに行きたかったんでしょ」と思われるかも知れない。確かに,2割くらいはその通りなのだが(あれれ),残り8割は大真面目である。

 
 インターネットが普及して,テレビの視聴時間がどんどん減っていく時代といわれるけれども,依然としてテレビは強い影響力を持っていると思う。あるいはインターネットと結託して,どんどん話題の流れを加速させてしまったりする。そのテレビが教育の問題を扱い,非行,いじめ,学級崩壊,不登校,麻薬・性犯罪,児童虐待,家庭内暴力,家庭崩壊,過保護,給食費未納,教師バッシング,公教育の廃退などの問題を実態として印象づけてきた。

 どの問題も現実に起こっていたことではあったが,テレビの俎上に載ってしまうことで,そもそも問題が持つ影響の大小に関係なく,同じように全国レベルの問題へと押し広げられて,問題が固定化されてしまうことは不幸なことであった。

 こうしたプロセスは,いずれ打破されると信じたいが,それでもまだしばらくはテレビの影響力によって教育やその現場が振り回されることが続くだろう。そんな時代に教師をする人々にとって,テレビというメディアが一体全体どうしてそんなことをしているのか,別の言い方をすれば,どうしてそうせざるを得なくなっているのかについて知ることは,大変有用だと思われる。

 それを知ることによって,私たちは不当な言説に対処する術を得られるかも知れない。あるいは,仮に正当な言説であった場合でも,適切なメディア対応ができるかも知れない。昨今,学校の危機管理も重要視され,メディア対応に関しても『教育関係者が知っておきたいメディア対応―学校の「万が一」に備えて』といった本が出ていることを考えても,このようなことに関心を持たない理由は無い。

 さらにいえば,「番組にはスポンサーがいて,それから系列新聞社の思想・主義の縛りがあるから云々」なんて,知った振りした解説で納得するだけでは,まだまだすくい取れない現実がそこで展開しているはずなのである。


 僕たちは,ものごとに対する「理解の解像度」をもっと上げていく必要がある。


 そのためには,やっぱり現場へ出かけなければならない。幸いここは東京だ。フジテレビには少し電車に揺られていけば着ける。いざテレビ局の裏側へフィールドワークへ出かけよう。最初は,そんな腹づもりだった。

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 授業としての提案ではなく僕個人の提案として授業前に告知をしようと,あれこれ考えていたのだが,告知をする前に参加の募集を締め切ったという連絡を受けたので,結局は誘えず仕舞い。

 また一人きりで行動することになって(いつもこのパターンである。毎度周りを誘いたいと思って計画は立てるのだが,どうも状況とかタイミングが周囲と合わないらしい…),とりあえず参加することだけ学生たちに伝えて,次回お土産話をする約束をした。


 こういう授業ってのは,本当に有りなのか?って,それでもあなたは思うかも知れない。もっと学校現場で使える教育方法・技術やICTの使い方とか,授業の作り方みたいな力量形成に役立つことを教えるべきじゃないのかって思うでしょ。

 確かにそれも大事だから,十分じゃないとしてもそれを扱う部分だって用意している。でも,そんなの将来現場に出てからも,さんざん研修などで継続的に学ぶのであって,この時期に極めてハイ終わりというものでもない。


 僕は,世界の中に凹凸を見つけるまなざしを,若いうちに養って欲しいと思っている。インターネットなどで情報収集がしやすくなり,目の前に羅列されたことによる情報関係の等間隔化や平板化が起こっている。情報に対する値踏みや判断が,情報に触れることによってではなく,どこからともなく出てくる「好き嫌い」とかで行なわれるようになってしまうことを危惧する。

 だから,大学の講義ってのは,教職の講義であっても,社会に開かれてなければならないと思う。社会との関係の中で教育の方法や技術を学ばなければならないと思う。そこからでしか,ものごとへの凹凸,教育そのものに対する凹凸のまなざしをつかむことは出来ないと考える。

 それができていなかったから,IT機器の教育現場導入が遅れてきたんじゃないか?それが出来ていなかったから,学力低下批判に対する毅然とした対応が出来なかったんじゃないか?それが出来なかったからどこかの誰かは旧態依然の殻の中に閉じこもろうと必死なのではないか?


 僕自身は,権威も十分な学識も持ち合わせていないから,このことを目指そうとしたときに,どうしても「自分で動いてみせる」という風にしか示せない。これはあくまでも僕のスタイルでしかない。

 だから,他の大学の講義が違うスタイルで展開していることが問題だとは思わない。僕は,どんなスタイルの授業でも,本質的には「社会文脈の中で…,社会に開かれた…」というスタンスを持っていると思っている。

 問題なのは,そのことが,学生にも,また外部の世間一般にも,残念ながら十分に伝わっていない。唯一そのことだけなのだ。どんな授業にも社会との接点があって,その接点を活かすためには,受講者の協力(理解の解像度を上げること)も必要なのである。そして,受講者の理解の幅を広げるために,私たちは個別に異なるスタイルの講義や演習を行ない,その振り幅を広げる訓練をしているのである。その前提が伝わっていないのだから困った話なのだ。

 振り幅を広げるために,教師は好かれもするが,嫌われもする仕事でなければならない。むしろ僕は教師は嫌われてナンボだとさえ思っている(誤解ないよう補足すれば,嫌われることを厭わない教師でありたいということである)。教師がそのように振る舞えるための条件整備をするのが国や自治体の役目である。そのことをすっかり忘れている人たちが多すぎる。

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 おっと,観覧記の前振りでいきなりヒートアップしてしまいました。まあ,幸いこうやってピエロ的に授業をさせてもらえているのだから,むしろ感謝しなくてはならない。

 というわけで,8割の部分の真面目なお話は,とりあえずこの辺までにして,また後日ぼちぼち番組放送当日の感想を(余裕があったら)書き綴ってみたい。

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