優秀なアイデアよりも優秀な人材

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 「ハーバード・ビジネス・レビュー」(Harvard Business Review)という雑誌がある。名前の通り,米国ハーバード・ビジネス・スクールの機関誌で,日本では,ダイヤモンド社が日本語版を発行している。

 先日,東京・新宿に新しくできた「ブックファースト」という書店の洋雑誌コーナーで,本家Harvard Business Review誌を立ち読みした。そこにコンピュータアニメーション映画で有名なピクサー社の経営に関する記事が掲載されていて気になっていたのだが,このほど12月号で日本語翻訳されので,あらためて立ち読みした(ははは,ごめんなさい)。


ヒット・メーカーの知られざる組織文化
ピクサー:創造力のプラットフォーム
エド・キャットムル ピクサー・アニメーション・スタジオ 共同創設者兼社長
http://www.dhbr.net/magazine/article/200812_s04.html
http://www.bookpark.ne.jp/cm/contentdetail.asp?content_id=DHBL-HB200812-006


 本来は皆さんも立ち読みするか,購入して読んでいただくべきだろうが,せっかくなので印象的なポイントだけここでご紹介させていただく。(ちなみに英語の記事は「How Pixar Fosters Collective Creativity」というタイトル)

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 キャットムル氏は「優秀なアイデアと優秀な人材」について,別の会社の社長たちが「優秀なアイデア」を重視することに違和感を覚えていたらしい。そしてピクサー社を運営していく中で,やはり「優秀なアイデアよりも優秀な人材が大事」であることを確信するようになったのだという。

 「二流の人々に一流のアイデアを渡すと台無しにしてしまうことがあるが,一流の人たちに二流のアイデアを渡すと素晴らしいものに変えることが出来る」

(ちょっと文末うろ覚え…)

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 それから,ピクサー社のルールというものも印象的だ。

 1) 誰とでも自由なコミュニケーション
 2) 気兼ねのないアイデア提供
 3) 学術界の最新イノベーションの情報収集

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 ピクサー社をはじめ,アップル社やグーグル社,そしてマイクロソフト社といった企業が,会社の敷地を「大学のキャンパス」に見立てていることはよく知られている。創造性に富んでいると評判の企業は,どこかそうした雰囲気を取り込んでいることが多い。

 ピクサー社の社内ルール3番目に「学術界の動向」に関する情報収集を掲げていることも,日本の企業にとっては,まだまだ新鮮なことではないか。企業内大学の動きは始まったばかりである(まあ,Appleさえ,自身でApple Universityを立ち上げたばかりである。文化やマインドとしては根付いていても,組織・制度しては取り組み始めたばかりということか)。


 ルールのうち,3)は単に優秀なアイデアを探してくるというのではなく,1)と2)とセットで考えたとき,やはり自社の人材が優秀さを維持するために必要なことだと考えていると解した方が自然だろう。

 優秀な人材を獲得するのか,育成するのかは,企業の体力にも拠るだろう。しかし,優秀な人材を留め維持することにエネルギーを注がないとすれば,優位を維持することは難しい。今回のハーバード・ビジネス・レビューの特集テーマに照らして言えば,そういうことになりそうだ。 

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 さて,これを教育現場に当てはめると「どんな事柄でも上手に目標に即した教育内容として扱える教師」ということかも知れない。ただ,このような表現は,少し理解を狭めてしまうかも知れない。もっと漠然と表現してしまえば,「授業の腕の立つ教師」という事になるだろうが,教師の専門性に関しては様々な議論があるし,多様性の確保を考えれば,単純一律の「優秀教師」像を描くことは,むしろ弊害にもなるやも知れない。


 そして,これとは別に言いたいのは,本来的に学校教育機関こそ「キャンパス」のイメージで満たされるべき場所なのではないのかということ。

 そう考えたとき,小中高校(あるいは当の大学さえ)いずれもクリエイティブなイメージに満たされた(物理的にだけでなく,文化や風土の環境としての)キャンパスを実現し得ていないところが多いのではないか。

 たとえば学校現場にピクサー社の1)〜3)のルールを当てはめたとき,印象としては,むしろ時代とともにそれらが満たされなくなってきていることに気づく。


 どうやら,また海外から(過去に日本が持っていたものを)再輸入する必要が出てきたのかも知れない。本当にお恥ずかしい話である。


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 書店に立ち寄ったら,苅谷剛彦先生の新刊本『教育再生の迷走』が平積みされていた。これは数年前に「webちくま」のWeb連載記事として書かれた各回の原稿に,今日の状況を加味した振り返りの文章を書き下ろして書籍化したもの。毎回読んでいたので,これまた立ち読みで書き下ろし部分だけ読ませていただいた(すいませんねぇ,貧乏で)。

 教育再生会議や教育基本法の改正といった,あの打ち上げ花火・安倍政権の時代の「美しき」騒ぎの中で,冷静に実証的データを下敷きとした議論の必要性と,それを踏まえた問題提起や考察を展開してきた筆者の,数年後のため息を読んでいるような気がしてきた。なんか,立ち読みしてどっと疲れてしまった。

 苅谷氏の結論も,地道な努力を続けて教育への信頼を回復するしかないということだった。「優秀な人材」は降ってこないのである。地道に育成したり,手厚く支援して,優秀さを担保しなければならない。

 ところが,困難な事態にある社会情勢と複雑な教育制度と行政の絡まり合い,そして人々の学校教育に対する「マイナス意識」が,その実行を難しくする。とはいえ,誰かが具体的な処方箋を提示すべきではないのか。


 FACTA誌12月号の巻頭コラムに「今こそ「信じられること」の意義を問え」という論考が掲載されている。いまこそ社会学が復活して,その役目を果たすべきだと発破をかけている。

 正直なところ,教育社会学者たる苅谷氏の今回の著書は,そうした未来への地図というよりは,あの酷く「美しかった」時期のことを記録に留め,次なる研究の仕込みをするための準備でしかなかったが,きっと1680円の寄付をすれば,次回作で読めるんじゃないかなと思う。

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