【講義後記】20081215

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 非常勤先での授業も,最初の盛り上がり時期を過ぎて,ある種の安定期というか,倦怠期というかを迎えている。学生からのコメントにようやく「授業らしい授業でした」と書かれた今回の授業は,どちらかというと,なるべく教科書に沿っていこうという抑制の成果なのだが,結局最後はいつもの通り自由奔放に教育雑話に花を咲かせた。

 教育雑話といっても,ちょうど話題になった国際学力調査の話や,Anna Sfard女史の学習メタファーに関しての解説であるから,そりゃ教育関係者にとって贅沢な酒の肴…じゃなかった話題である。

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 ちょうどIEA-TIMSSの2007年調査の結果公表の直前にIEA-TIMSSとOECD-PISAについて名前だけ軽く触れていたので,今回は実施主体の紹介も含めてちゃんと紹介をした。残念ながら具体的な調査内容を吟味するまでは,私の能力的にも,授業時間的にも難しかったが,授業で扱ったことがリアルタイムの時事ニュースとして流れるという絶好のタイミングを掴んだ「チャンス講義」を展開した。

 たとえば,先日のIEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSS(国際数学・理科教育調査)の報告ページを見ていただきたい。ビデオ映像で報告をしてくれているので分かりやすいはずである。もちろん英語のページだが,私たちの国も参加している機関が実施した調査なのだから,あなたには当然見る権利があるし,権利を行使すべきだと私は思う。さて,その上で,国際学力調査とは何なのか,そして対する国内学力調査とは何なのかを考えてもらえるだろうか。


 私たちは学力調査を,どこぞの塾や教育企業の全国模試とイメージを重ねるが(そりゃ下請けしているのはそういうところだが),重ねるべき本来のイメージは国際学力調査の方である。


 そして,学力調査というのは,誤解を恐れずに言えば,直接的に子どもに向けられたものではないし,個々の教師や学校に向けられたものでもない。これは教育を司る国や行政に向けたものであり,それを監視する国民のためのものである。だから,調査結果データに対して「特定の子どもや学校の成績ではない」という大人の解釈ができなければ,その人はそもそも調査データを使う利用者のイメージに合わないのである。

 ところが,日本という国が政治家を遊ばせるような国になったため,学力調査結果を使う機会がなくなり,必要性も薄らいでしまった。あるいは,最初からそういう風に使うことを知らなかったともいえる。歴史的に学力テストを捨てて,長らく何も問題なかったのは,経済が豊かなおかげで不自由なく生きていける幸せな国だったからである。

 学力調査結果の使い方を知らないまま,そして使う機会も失った状態で,結果データだけあれば,あとは(多くの人々が受けたことのある)「模試」のイメージを重ねるしかない。学力調査データによる序列化懸念議論は,そういう「模試メタファ」しかない私たちの悲しいピーチクパーチクなのである。

  
 でも,IEA-TIMSSやOECD-PISAの国際学力調査は,別に世界レベルの模試をしているわけではない。確かに人々はどうしても順位を気にするから,報告ビデオを見ても上位順位をクローズアップして見せてしまい,少々誤解を招きかねない。しかし,この調査が教育をより良くするための指標として提供されているのだということも強調している。


 世界的な視野に立てば,もっと基本的な教育を充実させなければならない国々がたくさんある。だから,その国々は,調査データに基づいて,教育基盤を充実させなければならない。一方で,順位が上位の国々には,また別の役割があるということを理解しなければならない。

 私たちは,世界との「関わり」を考えるために国際学力調査に参加していると言い換えてもよい。そのことがほとんど実践されていないことを除けば…。

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 それから,教育方法を勉強するために,学習についての話をした。特に,これは教育や学習を考える者全員が基礎知識として知っておくべき知見であるアンナ・スファード女史の「学習メタファー」に関する議論を押さえとして紹介した。「学習メタファー」って言い方が難しいと感じたら「学習観」とか「学習のたとえ」とでも置き換えよう。


 学習もしくは教育に関する2大潮流については,本質主義と進歩主義という言葉の対で象徴されるものがあることはご存知だと思う。その2大潮流もしくは原理は,場面によってさまざまな形や呼び名で現われる。たとえば,系統主義と経験主義だとか,教科中心と子ども中心とか,まあいろいろである。

 ただ,こうした用語たちは,「主義」だの「中心」だの,大きな話になりがちで,自分たちの学びについて語るには,少々手に余るものだった。結局,自分自身のまなざしにならない。

 ちょうどよい感じの知見がある。10年前の1998年に,スファード女史が書いた論文 "On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one."で,「エデュケーショナル・リサーチャー」という教育研究雑誌に掲載されたものである。10年一昔だが,学術世界の時間では,まだまだ新しい知見ということになる。


 スファードさんは,学習を二つのメタファーで捉えられるとして,これを対比した。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の二つである。

 そして,この二つを5つの観点から対比してみるのである。つまり,それぞれの立場を代表する人がいるとして,その二人に次のような5つの質問をするのである。「あなたの学習観にとって"学習の目標"って何?」「"学習"って何?」「"生徒"ってどんな存在?」「"教師"ってどんな人?」「"知識とか概念"って何?」「"知ること"っていったい何なの?」

 獲得メタファーの人は「そうだね,僕の場合,"学習の目標"は個人の知識を豊かにすることかな。だから"学習"って,あることを獲得することだし,"生徒"ってのは,知識の受け手だと思うな。だから"教師"は,知識の提供者としてだけでなくて,促進者,媒介者であって欲しい。"知識"って大事な資産だからね,所有物でもあり商品だとも言える。僕にとって"知ること"っていうのは,所有することなんだ。」と答える。

 参加メタファーの人は「うーん,僕の場合,"学習の目標"は共同体を構築して仲間と過ごすことかな。共同体は何だっていいんだ。職場でも,近所でも,学校のクラスでもサークルでも,彼女との関係でも。だから"学習"って,そうした仲間のいる共同体に参加することそのもので,"生徒"っていうのはその参加者のことだよ。"教師"といえる人は,何かに熟達している参加者なら誰でもそうだし,先輩とかそんな感じに近い。"知識や概念"っていうと,そんな仲間と何かを語り合ったり,実践して活動していくことそのもののことなんだ。要するに"知ること"っていうのは,その共同体に属したり,参加して仲間とやり取りをしていくことを通して実現していくものだと思うよ。」 

 まあ,本当は表になっていて,それを見たほうがもっと分かりやすいのだけれど…。ちなみにスファードさんを扱っている教育学の教科書は,まだ見当たらない。学習科学に造詣の深い書物には,ちらほら紹介されている『「未来の学び」をデザインする』とか『企業内人材育成入門』とか…。

 現場の先生たちは,「学習メタファー」とは呼ばないが,それに関する知識は事例を含めて大変豊富なはず。単に名前を付けてないというだけなのであるが,スファード女史が指摘するように,こうした二つの見方のどちらかに陥ってしまうことは危険なのだと言うことを改めて(名前付けして)意識することが大事というわけである。


 最近,「メタ認知」ばやりだが,この「学習メタファー」もぼちぼち一般的に浸透し始めて欲しいと思う。

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 もう一つの授業の方も,淡々と中間発表が進行中。考えてみるともう年末で,来年の計画も考えないといけないが,えっと,とりあえず,来年最初は「休講」から始まります。いやぁ,舞台裏は火事です。ははは。

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