【講義後記】20090209

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 毎週月曜日に担当していた「初等教育の内容と方法」「教材論」という授業が最終日を迎えた。舞台で言えば千秋楽である。といっても,一方は試験,一方はゲスト講義だったので,私の歌と踊りはなかった(冗談)。

 自己満悦を許していただけるならば,東京学芸大学という日本の教員養成を代表する大学で,好きなように授業をさせてもらえたことは,望外の出来事であった。教員養成系学部の出身者として,大学は違えど同じ志を持った後輩達の学びを手伝えるということは,私の天職だと思っているし,(日本の教員養成の代表はウチだ!という他大学のご意見もあるとは思うけども)東京学芸大学という伝統のある教員養成大学で授業を受け持てたことは貴重な経験となって嬉しかった。コメントにもご登場いただき,私にそんな機会を与えてくださったNさんに感謝である。

 ただ今期は,私自身が大学院に通って修士論文準備をしていたことや毎週小学校現場でお手伝いをするなどしていたため,授業準備に十分なエネルギーを注げなかったことは悔やまれるし,受講生の皆さんにはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。本当は,もっともっといろんな情報資源を紹介して考えを深めたかったし,たくさんゲストを呼んだりしてダイナミックに対話しながら授業をつくりたかったし,課題もたくさん出して受講生の活躍の場をつくりたかった。


 教育について考え,悩み,論じ,演じ,聞き,返し,拾い,そしてまた考え悩み…,そのようなプロセスをみんなで「楽しむ」という時間と空間をつくりたいし,それが本当に楽しいんだということを伝えたかった。

 いや,もちろん日本の教育は厳しい状況下にあり,あんまり明るいニュースは聞こえてこない。これから教育現場に出ていこうとする人間にとっては,不安に充ち満ちている。そんな話を「楽しむ」なんて,どれほど不謹慎なことだろう。あなたはそういう風に思うのかも知れない。

 ただ,私が考えている「楽しむ」は,どちらかといえば願望を先取りして実践しようという意識にもとづいたものである。なんだか自己啓発的な空気が漂って怪しいかも知れないが,もう少し説明すると,社会風刺やコメディ・パロディがもつ余裕ある批判精神といったところを真似て,ジーンと考えつつも活路を見出そうという感覚に近い。

 繰り返しになるが,私の授業は,そういう意味合いにおいて,あまりにジャーナリスティックであり,あまりにロマンチックであり,あまりに高尚で,あまりに下世話な授業なのであった。


 でも,それはまさに「人生」と同じなのである。それを苦渋に充ち満ちた修行と捉えて息苦しく生きるか,なんと賑やかで多彩なショウと捉えて華々しく生きるか,あるいはまた他のメタファで捉えて生きるかは,すべて自分の選択次第である。パチンと指を鳴らした瞬間に,同じ現実はあらゆる解釈に切りかえることができる。

 私は,その中で,教育の世界に志を持つ者がそれぞれの立場で力を出し合うことで,学ぶ喜びに開かれた教育環境や教育活動を実現できるというシナリオを信じている。そのためには誰もがその過程を楽しまなければならない,そうでなければ力を出し合うことも続かないと思っている。ただそれだけのことなのである。


 私が教員養成の現場でやりたいことは,「楽しむ」スタンスを理解して自らを楽しませたり,周りを「楽しむ」ことに巻き込める力を学生達が身に付けるのを手伝うことである。それを,教育学や教育関連研究の新旧の知識を縦横無尽に紹介しつつ,または実際にやってみせたりする。これはとても楽しいことなのである。私たちは,それが楽しいことなのだということを,ちゃんと世間に伝えないといけないのである。特に教育に携わる人たちを育成する現場においてはそれはとても重要なことなのだけれども,実は,それが最も遅れていて不得手なのが教員養成現場なのである。

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 ならば,大口を叩く私はそれを達成できているのか,と問われると確かに返答に窮する。私は他の先生方の授業を受講したわけではなく,学生時代の受講の記憶しかない。もしかしたら,他の先生の授業の方がよっぽど学術的に最新で高度なことを体系的に扱って意味のある授業をしているかも知れない。そう考え始めると,自分の授業に懐疑心を持たないわけがない。

 隣りの花は赤く見えるのは人の心理というものだが,正直なところ,全体の中で私の授業がどんな風に役立っているのかを確かめる術が乏しい。考えられる方法は,学生による授業評価とFD活動による教員の相互評価だ。後者は非常勤講師に適用される機会が少ないので,残るは前者。学生による評価にもとづいて,自分の授業を評価することはできるのだろうか。


 授業としての楽しさや受ける印象の評価を知るためには使えると思うし,その限りにおいて,私の授業に対する評価はそれほど悪くない。早口であるとか,黒板の字が汚いときがあるとか,内容が多岐にわたっていて何が重要か分かりにくいという指摘もあるし,大変興味深い,いろいろ知らない話が聞けてよかった,楽しい授業だったという好意的評価もある。授業の直接的な評価ではないが,先生の授業が終わると思うと寂しいとか,先生の笑顔に癒されましたとか,嘘か誠か先生のお嫁さんになりたいですと書いてくれる人もいる(それくらい親しみを持ってくれたということの意味だと思う)。

 私は素朴に嬉しいし,有り難いとも思う。でも結局,私の授業に意味があるのかどうかを推し量るのは,学生達の評価だけでは難しいことにも気付く。
 大きくは間違っていないのかも知れない。教育について深く考えるきっかけが出来たと反応してくれる学生は多い。でも本当に自分の授業は受講するに値しているのかどうか。それはどこまでも分からないのである。


 だからこう言おう。相対評価のもとでなら,授業の評価は上位なのかも知れない。けれども,絶対評価のもとでは,目標の設定が難しく,上位なのか下位なのかを定め難い,と。

 講義については,様々な話題を提供して,受講生の理解を促すための最大限の努力を図っている。そうした目標に照らすなら,自分の授業に自信はある。しかし,もっと他に教えるべきことがあるとか,10年後の受講生達にとって価値ある授業であるのかどうかという目標に照らしたとき,私の授業にはまだまだ見直すべき点が多いかも知れない。

 だから,大学の授業実践もそれなりに難しいのである。FDの必要性の一部は,こういうところに宿っているわけなのだが,昨今の大学では,FDの取り組みが増えているにも関わらず,それを考える余裕の方はどんどん減っているという悲しい反比例があって,全国のFD関係者を悩ませている。

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 さて,「初等教育の内容と方法」は試験を実施した。まあ,試験自体は儀式みたいなものなので,ここまでの授業で得た知識や思考を存分に発揮していただければ,それで十分である。そのために毎回の授業があったのだし,私が試験で評価するのは,各自が重要だと考えた事柄を適切に表現できたり説明できるのかという点なのである。
 穴埋め問題とか,成績をつけるための建前的な出題もあるが,そのような知識について記憶再生できることが大事なのではない(だからノート持ち込み可である)。今後教育の世界に関わる者として,いま何を考え,この授業を通して得た思索のもとで何を語ることができるのか。

 だから,本音を書けば(あんまり書いちゃいけないかも知れないが),試験そのものも,さほど重要ではないのである。今後自分自身が生きる道を,学んだ事柄を踏まえて,どのように責任を持って歩いていけるのか。そのことの方が,もっと大事なのである(まあ,こういうことを考えるから授業の目標がぶれるというわけなのだが…)。


 講義が終り,担当を外れれば,私は受講生達を見ることが出来なくなってしまう。それはそれでもよいと思う。ただ,担当した者の責任として,彼・彼女達を見られない代わりに,私は駄文を書き続けているのだと思う。あなた達が受講した授業を担当した男は,まだここで元気に格闘してますよと。あのとき語った言葉について,いまでもこんな風に考えていますよとか,いまではこんな風に考えていますよと。

 そして,それを乗り越え先へ進むのは君たちだ。決して私ではない。

 そのことをどこまでも伝え続けなければならない。駄文が続いているのは,そういう思いにもとづいている。もちろん,駄文が届くことはほとんど無いけれども。


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 「教材論」では,ゲストをお呼びした。以前,お仕事をご一緒した通信教育会社のMさんとKさんの女性2人。多くの小学生達が利用している通信教材の制作過程や通信教育と学校教育の関係,そして教育関連企業の様子などをお話しいただいた。


 世間には,教育関連企業に対する様々な評判や評価が広まっている。社会貢献をしているという点について好意的な意見がある一方で,教育を利用して商売していることを批判する意見や嫌悪を抱く人もいる。

 ただ,どちらの場合でも,意外と私たちは当の教育関連企業のことについて,よく知らない。いまの日本の教育を考えたとき,教育関連企業の存在を無視したり消すことは出来ない。すでに重要なパートナーなのである。だとすれば,パートナーについてよく知り,お互いが協調して教育の活性化に取り組むことは,大事なことである。その中で,批判すべきところは批判し,協力すべきところはさらに協力すべきなのだ。

 というわけで,教員養成大学の学生達と教育関連企業の社会人が出会う場をセッティングすることは,是非やってみたいことだった。


 東京に出てきて,企業の方々と一緒に仕事をしたり,教員養成大学で非常勤を担当する機会をいただいた。どうしてこの出会いを結びつけないでいられようか。千載一遇の好機である。


 ゲストのお二人には,年度末の近い慌ただしい時期の平日にも関わらず,大学までお越しいただいたこと。豊富な資料と柔らかい雰囲気で学生達にいろいろなことをお話しいただいたこと。興奮してマナーをすっかり忘れちゃった学生達の態度にも文句言わず楽しまれながらお付き合いいただけたこと。心から感謝である。(それから,内緒でゲスト呼んでも怒らなかった大学の皆さんにも感謝,っていうか,申請してないから誰も知らない…,ははは)

 学生達は,とても嬉しかったようだ。そりゃ外部からゲストを呼ぶ授業は,それほど多くないだろうから当然か。でも,それ以上に,お馴染の通信教育会社のお二人からいろんなお話を聞けたことが嬉しかったようである。

 もともと持っていた企業に対する考えも深まったようだ。実際の現場の苦労や努力を知り好意を抱いた人。批判的なまなざしを向けていた人は,今回の話で企業の取り組みの可能性にも気付いた上で,批判的な問いを深めた。教育を利用したビジネスという短絡的な理解の水準から,そこで展開している努力について新たに知ることができた人も多かった。


 私自身は,教育関連企業とご一緒に仕事をしたり,仕事を依頼される機会があるという関係を持っている。目的を一にしている限り,私は教育関連企業の存在を重視するし,また必要があればその存在を批判もするスタンスである。そうした緊張感の上に,一緒になって教育に貢献したいと思っている。だから,相手をよく知る必要がある。


 学生達にも,是非そういうスタンスを持って欲しいと考えている。だから,この教材論の授業では,各自に課題を与える形で,積極的に外の世界と接触しなさいと指導したのである。まずは自分が行動して相手を知ること。大事である。

 そして,何よりここは東京だ。その気があれば,名だたる企業に直接接触できる。地域に根ざした教育を実践するのが大事というならば,大学の授業でもやっちゃおう!責任は授業担当者がとればいいのである。学生時代に,授業の課題を理由に,普段は接触しない相手と接触をするチャンス。こんなワクワクすることはない(担当者はドキドキですか?)。


 私たちの教材論の授業は,様々な教材をテーマにして,各自が調べたことをまとめて発表するものとなった。今月中には提出が完了するはずだから,春には公開できるだろう。拙い成果かも知れないが,これもまた今後の効果を期待しているのであるから,第一歩としては十分だ。


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 というわけで,成績づけを済ませたら,私の授業担当は一通り終わりとなる。本当に夢のような非常勤担当だった。たぶんあちこち迷惑をかけたままなのかも知れないし,冒頭に書いたように私の努力が足りない部分も多かったと思う。いまも学生から出された宿題が出来ていないので,きっと憤慨されているに違いない(ははは,ごめんごめん,もうちょっと待ってね)。こんな頼りない担当者に,様々な賛辞をくれた受講生達に感謝。そして授業に関わってお世話になった皆さんに最大限の感謝を。


 破天荒な授業は終わりを迎えたけれど,私たちの学びは終わらない。

 さぁ,続きは自分で。

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