東京という場所で-3

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 『エクスファイア』誌4月号の特集は「もう一度,学校へ行こう」。海外の大学の様子を入り口にリベラルアーツ(教養)を身に付けようと呼びかける(ちみなに東京大学・福武ホールも紹介されている)。『日経おとなのOFF』誌も「おとなの教養実践講座」という特集を組んでいる。不況下だからこそ,知識技能を身に付けることが重要ということだろう。

 大人の学びへの関心は徐々に盛り上がっている。テレビではNPO「シブヤ大学」の取り組み(渋谷の町を舞台にした移動講義のようなもの)が再び取り上げられ,企業の中に大学のような学びの場をつくるコーポレイト・ユニバーシティについても取り上げられることが多くなってきた。

 東京大学の中原先生たちによる新著『ダイアローグ:対話する組織』(ダイヤモンド社2009.2)は,こうした学びの場における「対話」の重要性,第三の道としてのオープンなコミュニケーションの必要性を説いている。アン・スファードの「学習メタファ」の議論は直接出てこないが,どちらか一つの学習メタファを選ぶのではないという問題意識と通じていることは明らかである。

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 東京という街を離れるにあたって,もう一度読み返しておきたい本があった。ミヒャエル・エンデの『モモ』である。この有名な児童文学は,現代社会への痛烈な風刺作品としても知られ,教育学を学ぶ人間ならどこかで「読みなさい」と薦められたりする本でもある。

 私もまた皆さんに「読んでみては?」と呼びかけたいが,しかし,たぶん『モモ』という作品が拠って立つ問題意識や社会風刺の構図モデルは,だいぶ時代遅れになってしまい,たとえば『ダイアローグ』などの議論の地平に立つ人たちにとっては「やっぱり子どものお話だね」という風に感じられるかも知れない。

 しかし『モモ』という作品を,少し丁寧に(つまり視覚的に加速して読むのではなく,言葉の持つ実時間に限りなく近づけながら)読んでいったとき,この作品で語られていくことと,自分自身がこの本を読んでいく身体や意識で感じることとが,ねじれてリンクしていることに気がつく。そこから何かに気付いていくこともできるだろう。


 そう考えると,「第三の道」あるいはそれに類似したものを模索する私たちは,四次元の方程式を解こうとする試みに突入していたのだとも言える。集合知やデータの視覚化,Web2.0が魅惑的に見えたのは,あるいはそのような方程式にもとづいて構築されたように見えたからかも知れない。つまり蓄積された知という過去とベイジアンネットワークなどが垣間見せる未来(のようなもの)によって,私たちはその解を得たかのように思うのである。


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 コミュニティという言葉は,少し手垢がつきすぎたと思われているのか,使われてもよさそうな文脈で避けられていることが多い。あるいは,入れ替わりの激しいこの場所では,コミュニティという言葉が持つ硬さがそぐわないと思われているせいかも知れない。

 だから東京では「スペース」とか「カフェ」とか「バー」とか「ワークショップ」とか「プレイス」とかいう言葉によって,その集団や活動を指し示すことが結構ある。


 「共同体」というのは言葉はベタなのかも知れないが,コミュニケーションや対話の問題について,哲学や社会学は「共同体」を鍵語にしてずっと考え続けてきたともいえる。

 岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房2009.2)は,書名の通り,教育や学習にとっての共同体とは何かを整理していく書である。先の『ダイアローグ』にも通ずるであろう「対話共同体」に向かって,様々な論者の共同体論に触れながら論を展開していく。もちろん私たちにはお馴染の「学びの共同体」(by 佐藤学)も登場する。

 もちろん,哲学的な探求が進み終盤に至ると,これは言葉遊びを小難しく書き綴っているだけなのではないかと不満を抱く人々もいるだろう。なんだい,ちっとも役立ちそうにない。精神論じゃ解決しないぞ。導管メタファの悪い事例じゃないか。まどろむように論じていてもどかしい。なんかそんな声が聞こえてきそうである。


 私には,このようなことが東京と地方の間でも起こっているように思える。どちらも同じ問題が存在しているけれども,そのアプローチはとても違う。どちらが良いとか悪いわけではない。これもまた四次元の方程式が織りなす複雑さなのだ。

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