東京という場所で-5

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 人生には何度か卒業がある。達成感に満ちた人もいれば,別れの寂しさを感じる人もいる。新しい門出や新しい出会いに胸躍らす人もいる。

 送り出す立場で毎年のように卒業式を迎えていると,ルーチン・ワークにも思えて,ある程度の距離を持って受け止めるようになる。一人ひとりに対する想いは募れど,未練を残させぬように離れていく習性が身に付いていく。

 「教育の成果を教育の現場で求めない」という言葉を聞くと,そうとも思う。

 もちろん教え子が教育現場や学問世界にとどまるパターンもあるが,多くは社会を構成する名もない市民として活躍する。その後の消息を知ることはない。だから,元気で日々を過ごしてくれていることだけを願う。そういう緩やかな想いだけ記憶の片隅に残しておく。

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 いざ,自分が卒業するとなると,自分の中で気まずい雰囲気になる。

 卒業慣れして擦れた自分が,感慨深さを持ってこの卒業を迎えようとしている自分を邪魔したりなんかする。

 達成感を満足としてでなく謙遜のような形に表現し,別れの寂しさを素直に出さず隠すように距離をとり,新しい門出や出会いに対する胸の高まりは自嘲や不安で縛ったりする。そんなことを明け透けに書いてる自分もいたりする。


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 段ボールを作り,荷物を詰め込み始めて,この季節がやって来たことを思う。

 この歳でバーンと仕事辞めて上京したのは,結構無謀だった。たくさんの方々に迷惑をかけたことも心苦しかった。それでも,自分自身の知識を見直したり,新しい知識を得ることもできたことは有り難かった。

 根がのんびり屋さんなので,とっても心配をかけたり,迷惑をかけたりしている。それを続けるのは申し訳ないので,ここで一旦,さようなら。もう一度,自分なりに得たものを整理して出直したいと思う。


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 昔,学会投稿論文を自分で没にしたことがあった。

 論文を修正して,再投稿すれば,掲載の可能性もあったが,それをしなかった。

 実は,修正の段になって,論文を執筆していたノートパソコンを車上荒らしで盗まれてしまったのである。その時のモチベーションの落ち方といったら半端ではなく,最新文書データも失って,投稿に結びつかなかったという苦い経験がある(盗難には後日談があり,奇跡的にデータだけは返ってくるのであるが,結局投稿タイミングを逸してしまった)。

 残念なことだが,そんな出来事が,学会というものとの距離を遠ざける結果に働いたのかも知れない。学問の世界で,私はそんな程度の青二才だったということである。


 その論文を書き直して,再度投稿してみようかと考えている。たぶん,その経験を乗り越えない限り,いくら新しいことに着手しても,満足いくものにはならないと思う。

 幸い,破天荒な論文を補強してくれる知見が増えてきているし,違う分野の論文執筆方法も見えてきたから,ちょっとはマシに書けるんじゃないかなと思う。


 そう思えば,車上荒らしに端を発した投稿断念の経験さえ,東京に導いた要素の一つだったのだと思う。

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