思索: 2008年10月アーカイブ

 「♪私のどこがいけないの それともあの人が変わったの」と唄ったのは,いしだあゆみさんだったが(最近,旧い曲の名前や歌詞をネタにしても通じないのが寂しいが…),私たちは,みんながみんな自分や他人に対して変わっていっているのかも知れない。

 中原先生が並々ならぬ覚悟でワークプレイス・ラーニングのシンポジウムに臨もうとしている。勢い余って,挿絵が「2009」になっているのは,う〜ん,来年にも使い回すつもりなのかも知れないが,冗談はさておき,中原先生はたぶん本気なのだと思う。


 私の場合は,本気が間違って,血迷ったので,仕事を辞めてしまうという選択へと突き進んでしまったけれども,そこまでいくと,中原先生がどうして「腹をくくる」と書くのかも,よくわかるような気がするのである。

--

 もちろん,ここにも「内と外」の問題が横たわる。大人の学びに限らず,何かを変える覚悟には「内に留まって」するものと,「外に飛び出して」するものの2つがある。

 私は中原先生の関心が,基本的には前者にあって,なんとか外部の知恵も取り入れながら持続した変革を実現しようという考えているのだと思う。ワークプレイス・ラーニングなのだから,その場所から離れるのは,本意ではないだろう。
 あるいは外側に飛び出すものの,周辺に留まりながら,外部の働きかけとして内部の変革を促そうとする立場があるかも知れない。その場合もその場所を捨てないという点では内部に留まるのに似ている。


 さて,問題は,「♪悲しみの眼の中を あの人が逃げる」場合である。これも流動性の高い社会においては,かなり多い選択肢である。私たちは,変わる気配のない場所で,いつまでもその内部やその周縁にとどまっていられない気持ちも持ち合わせる。

 もちろん,もしかしたら働きかけるこちらの努力や覚悟が足りないのかも知れない。自分の言葉を「ブーメラン」の如く自分に戻して問いかけたりする。ところが,いつまで経ってもブーメラン。切り刻まれるのは自分ばかりの日々が続く。


 職場に生きるということは,どういうことなのだろう。


 私は結局,「文化」と闘おうとして,結果的には職場を離れた。今もまた,いろんな文化と闘おうとする悪い癖を繰り返しているが,それはあんまり心穏やかな生き方じゃないことは確かである。


 まあ,私自身は,皆さんが血迷わない程度に本気になっていただくための反面教師になれればいいなと思っている。^_^;