職場: 2009年1月アーカイブ

 しばらく慌ただしさのために記録が滞ってしまった。非常勤先の担当講義も残すところ3回となり,そろそろ授業の締めにかからなければならない。

 「初等教育の内容と方法」は,最後に試験,その前に復習とゲストを迎えることになるため,自由に講義できる最後の日ということになった。教科書の内容はすでに先週のうちに片づけたので,その中の教育評価に関する復習とリクエストのあった指導案の書き方や在り方について論じ,十八番である就学前教育から高等教育までの各学校段階を通して見る話をして,初等教育の位置づけを確認して講義を終えた。

 3年ぶりの週一講義と修士論文研究を同時並行させるという無茶ぶりな担当であったが,なんとか一通り授業を終えられそうである。しかも,初等教育の内容と方法に関して学校教育の内部だけでなく外部のまなざしも強く意識した授業内容となり,他の授業が描く教育の姿と比べて,より現実的なものを描けたのではないかと考えている。

 概して,教員養成の授業で膨らまされている学校教育に対するイメージは,伝統的な教師文化の再生産といったものや,マスコミベースで展開する表層的情報が,教員養成現場に流布する素朴な誤解とともにないまぜになってしまっている。

 こうした混線状態を解きほぐしたり整理する機会は意外と少ない。このまま次代の教育現場を担う人たちが誤解を持って現場に入ってしまうと,想像と現実の齟齬でストレスや精神的負担を感じ,教員生活がより苦しく感ぜられてしまいかねない。まして,困難な時代に入ったこのご時世では,そうした状況に耐えられず教職を辞してしまう人も出てきてしまいがちある。だからこそ地方自治体の一部で,教師塾のようなものが作られ,少しでも現実に即した知識と技能を伝授しようとする動きがあるのだと考えられる。

 「大学という高等教育の現場で教員養成を行なうことの意義とは何か」

 教員養成に携わる人間全てが,真摯に考えなければならない問いだと思う。それは,少し変化球ではあるが,教員免許更新制度の講習の場において,どのような研修内容を扱うべきなのかという問いとして,投げ掛けられているところもある。しかし,現実的には,この問いに応える余裕が高等教育からも失われている実態があることも理解されなければならない。

 職場を捨てて自分のための勉学に精を出し始めた無責任な男に,なぜだか神様は,教員養成の現場を手伝うようにと運命の糸をたぐり寄せた。「まだ問いの答えを出したわけじゃないだろう?」そう言う神様に,私は「僕でいいんでしょうか」と聞いてみたりする。神様は「本当は誰よりもやりたいくせに」と言いたげな雰囲気で2つの授業を任せてくれた。

 高等教育の講義としては,あまりにジャーナリスティックであり,あまりにロマンチックであり,あまりに高尚で,あまりに下世話な授業であった。開始は時間通りで,終了は時間オーバー。同じ教室を使う次の時間の先生も,最初のうちはにこやかだったが,次第に呆れ始めていく。そういう授業を,たぶん他で見つけるのは難しいだろう。

 それが答え? そうは思わない。でも,そんな授業が一つあることも大事だと思う。

 一つ一つの授業によって教員養成が営まれているのではない。一つ一つの授業が集まり連携を通して教員養成を営んでいくのである。多くの授業が指導案を書く課題を相次いで出す。ならば,指導案というものの存在を思惟する授業があっていいはずだ。学生が疑問に思ったことに対して,考える術を提示するのも教員養成の仕事である。しかし,単なる批判に終わらぬようしっかりと手綱を取りながら。

 さて,初等教育の内容と方法も一段落。今日は授業アンケートも書いてもらった。かなり手厳しい評価も返ってくるだろうけれど,また次の機会に活かせるように精進したい。来週は試験のための復習とお楽しみゲストコーナーである。


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 「教材論」は,各自の調査の中間発表を終えて,ようやく私が講義をする授業らしい授業が先週から始まった。アン・スファードの「学習のメタファー」について学生達は学んでいないというので,今日はそのお話から始めた。

 「獲得メタファー」という学習観とともに「参加メタファー」といった状況論的な学習観が重要視されており,これらを目的や状況に応じて使い分けることが大事と紹介した。その上で,私たちが各自で調査している「教材」というものが,どのような意味で重要なのかを,活動理論の変遷をみることで確認した。そう「三角形」の登場である。

 ヴィゴツキーの三角形モデル(三項図式)は,AからBの間が直接つながるのではなく,Xという媒介項を介してつながるリだという,ただそれだけのことを言っている理論である。その大事さを伝えるのは,なかなか難しい。手を替え品を替え言葉を替えて,媒介することの意義を語る。そしてXを道具であると考えるとき,教材の存在価値が見出されるように仕向けてみる。
 さらには,エンゲストロームの活動理論に発展させて,授業で行なってきた活動が三角三角のあの図の上で,どういう風に説明できるのかを線引きして見せた。悔しいながらも,これまた活動理論の三角形は,授業をうまいこと説明してくれるのである。ずるいくらいに。

 そして,後半はグループに分かれて発表の進捗報告や相談。私も各グループを呼び出して,集団面接状態で進捗確認をする。面白そうな進捗ばかりで,話を聞き込んでいたら,「先生!時間過ぎました!」「あ!」また時間オーバーである。

 次回も少しばかりまとめをして,各グループの作業時間。そして最後の日には,外部ゲストをお招きして,いろいろと教材製作の裏話もお聞きしたいと思っている。

 教材論における各自の成果は,Web上で公開予定である。やっぱり本人達の最初の希望通りには調べは進まず,あれこれを諦めながらまとめているようだが,まあ,卒論じゃないから当然だし,それでいいと思う。最初からテーマは小さくて絞り込んで良いと言ってあったし。

 この「教材論」の授業は,先の「初等教育の内容と方法」に比べると小さい規模で,わりとみんなで和気あいあいと活動をしてきた。授業という大義名分を利用して,実際の現場に出かけたり,情報を集める計画を実行したり,学生時代だからこそ挑戦できることをやるようにけしかけてみた。若者の経験不足を嘆くならば,若者に経験の機会を与えよう。単純な発想である。

 以前にもここで紹介したことがあるが,ある大学生からこんな話を聞いた。教員養成に通うその学生さんが小学校の児童と関わったとき,自分の紹介として「先生を目指している」と語ったら,「もう夢がないんだね」と言われたという。小学生からそんなことを言われるとは…,それはそれはショッキングなエピソードである。というよりも,その小学生にそんなことを思い至らせた周りの大人を取っ捉まえてやりたい。

 とにかく,いつもと違う試みや出会いをすることで,今後の人生に少しでも花を添えることができれば,それだけでも十分価値があると思う。私が東京にやってきて,いろいろな方からいただいたご縁をちょこちょことつなぎ合わせたり,学生の背中を押してみたりすることで,そういうものが生み出せたなら成功かなと思う。


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 いつものように授業を終えて帰ろうかと思ったが,今日はたまたま学内で研究会が催されているというので,興味本位で飛び入り参加することにした。「PISA / TIMSSと教師教育 -日本とドイツの教師教育に何をもたらしているか-」(PDFチラシ)という公開研究会。こちらも大変興味深い内容だった。そして,いつもの質問癖が顔を出して,あれこれ口出ししてしまった。ああ…ごめんなさい。

 日本の文脈とドイツの文脈について,それぞれPISAショックを受けたといっても,その程度はかなり異なるというのが本当のところだろう。曖昧になりがちな両国の差異と,取り組みに対する受け止め方の違いなど,もう少し丁寧に議論しないと,難しいなと思った。たとえば他の人の質問にあったのだが,ドイツの「母語による教育」がドイツ文化を背景に持たない家庭の子たちに対する配慮や重視を教師に促しているのを受けて,日本も外国人をより多く受け入れる時代を迎え,それを見据えた日本語の教育の変化があったとして,それはいかがなものだろうかという懸念も,もう少し丁寧に議論することで答えを見出していくことはできるのではないかと思う。


 そうそう,今日の授業のコメントに「学内でPISAとか,TIMSSと書いた看板があって,授業のことを思い出しました」と書いてくれた学生が何人かいた。ええ,うちの授業は大学院レベルのこともしておりますからね,受講生には胸を張っていただきたいものです。