情報: 2008年7月アーカイブ

iPhone発売開始

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 とうとうアップルのiPhoneがソフトバンクから発売された。昨日からマスコミ各社による報道が許可されて,あちこちのWebサイトでは紹介記事やレビュー記事が掲載されている。

 発売日の朝には,各チャネルのニュース番組が東京・表参道のソフトバンク販売店に並んだ行列を中継していた。ちなみに実機によるデモンストレーションをアナウンサーたちが披露するのだが,使い慣れてないせいなのか,緊張して汗かいているのか,あまり上手に操作できていなかった(一番上手だったのはNHKのアナウンサーで,普段からiPod Touchを使っているのではないかと思われるほど手慣れていた)。

 ラジオでも同じように話題を取り上げている。TOKYO FMの番組でも専門家のコメントで機能を詳解しているが,日本語入力の新しいアイデアについて,ちゃんと紹介し評価しているなど,言葉だけの説明ながら掘り下げて報道していた。

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 iPhoneの発売は歓迎すべきことだし,本体価格が2万数千円からであることも嬉しいが,月々の基本使用料が七千円程度かかる。家計に占める通信経費をまとめれば,それくらいになる場合もあるかも知れないが,それをiPhoneだけで置き換えるというわけにはいかないだろう。料金に関しては課題も多い。

 というわけで,当然のことながら私自身は入手することはできそうにない。しばらくはiPod Touchを愛用するつもり。

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 それにしても,今回のニュース報道で,他社の対応を紹介する件があったのだが,他社はiPhoneに対して「日本文化になじまない」というイメージをつけようと躍起になっているのが分かる。

 たとえば「日本はメール文化である」とか「絵文字がない」とか「ワンセグがない」とか「電子マネーがない」とか…。日本がメール文化であるというのは,絵文字メールを使う若いユーザーが多いということで絵文字機能がないのは問題だという文脈のことだと思われるが,とにかく,iPhoneに搭載していない機能について言及する形で差別化を強調していた。


 このような発言を聞くと,日本のケータイ・ユーザーは,確かに絵文字やワンセグ,電子マネーを使っているのだけれども,それは能動的に欲して利用しているのか,受動的に(機能があるから)利用しているのか,いつも考えてしまう。

 あれば便利で,もはや無くてはならないという風になっているのだが,無いと生活できないというわけでもない。少しアンチな考え方をすれば,私たちはメールやワンセグに時間をとられるようになってしまったし,電子マネーで細々とした消費が増えて家計を圧迫し始めたりと,デメリットがないとは言えない。

 iPhoneもまた,メールやインターネット,iPodやYouTubeを扱える多機能さが受けているが,それはそれで,そこに自分のリソースやエネルギーを注ぐことになるわけで,同じようにデメリットを抱えたりする。


 結果的には,道具を使う側の「物の見方」や「リテラシー」や「作法」やら次第だと思う。そうした次元の育成をどこが専門家として見守るのかについては議論が必要だろう。
 学校教育における情報教育や情報モラルに何かを期待するのは簡単なのだが,その学校にはPCがやっと入り始めたばかりでPC環境も十分でない。まして携帯電話やモバイル端末の持ち込みに関しては,ほとんど足並みがそろっていないのである。そうした環境や状況の条件不揃いが起こっている中で,教育することだけ期待されても困るというのが普通である。

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 iPhoneの発売は,携帯電話・モバイル端末市場に一石を投ずる出来事なのは確かだが,携帯電話やモバイル端末というデバイスそのものの存在意義などを考える契機としても捉えられる。

 この機会に,小さなボタンと小さな画面が配された小さな端末に向かう自分たちの姿を見直してみるのも悪くない。iPhoneは,ある私企業が提示した一つの提案でしかなく,形としては商業製品であるから,人々に見過ごされてしまうかも知れない。しかし,そこには,私たちの現在ある姿を肯定的に捉えた上で,どうすれば見えない窮屈さを解消して,あるべき姿へと変えていけるかに関するチャレンジが垣間見える。

 それは,日本の情報教育に欠けていると思われる「哲学的な問い掛け」の具体的な実践姿勢のようにも思う。

 日本だと,例えばNTTのdocomoモバイル社会研究所のように,商業的な部分と学究的な部分の両方が存在するにも関わらず,逆にこうした分離した形でしか扱えていないという問題がなかなか解決されない。

 それはちょうど「基礎」と「探究」の間を橋渡ししようとする「活用」の考え方が学習指導要領に取り込まれたように,商業性と学究性を橋渡しする努力を取り込むことが必要なのではないかと思う。

 教員研修の夏がやってくる。一般の皆さんの頭の中には,牧歌的な時代の学校風景が残っているかも知れないが,あの少年時代の夏休みといった世界に住む先生は居ても少数で,目まぐるしい校務や研修に勤しむのが,今日の先生たちの姿である。

 上手く機能しているかどうかの問題はさておき,この国の教員研修は手厚い,あるいは手厚くなってきた。それが何を意味しているかは,察しのよい皆様ならおわかりと思うが,実施主体が国,都道府県,市町村,学校という単位で並列し,教員に期待される自己研修を取り囲むように,法定研修,基本研修,専門研修,経験年数別研修などなど様々な呼び方の研修が用意され,いろんな意味で大変である。

 これに教員免許更新制導入に伴う研修が加わるわけで,まさにメニューだけ見れば研修花盛りな時代。問題は,こうした研修を充実化させたり,一つ一つを丁寧に深めるための環境(あるいは文化)整備について,あまり世間の関心が向いていないということである。
 本来,教育振興基本計画に盛り込まれるべきは,教員の増員といった人件費より,教員の専門性を高めるための整備費であるべきだったのだが,結局のところ「それは(研修を受けやすくするために)教員増員するってことでしょ?」という短絡的な理解で議論が終わって続かない,いつもの嘆き節である。

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 私は研修事業の取り組みが充実化することに異論はない。ただし,どのように充実化させるかについて,もっと新しいアイデアを取り込んでいくべきだと考える。

 教育関連リソース(資源)とその伝搬環境は,コンピュータとネットのおかげで激変している。そうした変化のメリット部分をもっと活かしていくべきである。そう考えると,「TRAIN」とか「ADAPT」とか教員研修を支援する取り組みを精力的に生み出してきた某センターが来年廃止という理不尽な展開は大変残念なことである。

 民間の力を,今以上に活用することも求められるのだろう。学習塾と学校との連携は,まだ心的な垣根が解消されていない関係ではあるが,手を取りあって教育を支えていくべき重要なパートナーには違いない。特定分野に関しては,民間企業の専門家が講師となる研修もあり得るだろう。あるいは研修という形態を見直しながら関係していく必要もあるかも知れない。

 そう考えたとき,新しい「研修」とは何かについても考えなければならない。賑やかになってきた「ワークショップ」という手法がもっと主軸に据えられるかも知れない。あるいはもっとイノベーティブな研究を推進する活動形態が生み出されるやも知れない。

 果たして,そうした新しい活動形態を活かせる環境設備・道具が,教育センターや学校施設にあるのかどうか。もう一度問い掛けてみる必要があるだろう。私たちは何にお金をかけるべきなのか。それが延いては子どもたちの学びにも影響していくのだということに,もっと想像力を働かせるべきなのである。

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 とある仕事で関わって以来,付かず離れずで眺めていた「インテル教育支援プログラム」という取り組みが,新しいプログラムをリリースしたようである。

 インテル社が全世界に向けて提供している教育支援プログラムは,思考支援型の授業をつくるための学習指導や教科指導に関する研修といえるもの。授業設計手法として諸外国で注目されている「逆向き設計」を取り入れ,実際の単元計画を作る過程を演習する研修プログラムとなっている。意外かも知れないが,これはICT活用が目的の研修ではなく,純然たる学習指導あるいは教職関係の研修なのである。

 教育研究機関に依頼してつくったプログラムだけに,かなり中身が濃い。おかげで36時間を確保しなければならないため,従来のような研修と同列に扱えないのが玉に瑕だった。さすがに,いきなり36時間(6日間)の研修プログラムを企画したり,申し込むのはハードルが高い。


 今回,そうした本体の研修プログラムへと誘うための前座メニューとして「ワークショップメニュー」が登場した次第である。インテルが提供する(ICTをメインとしない)教育支援プログラムとはいったい何なのか?そのような素朴な疑問を解消してもらうためにも,大変よいメニューではないかと思う。

 世界の先生たちが取り組んでいる教育プログラムがどんなものかを体験するという意味でも,あらためて触れていただければと思う。たまに関西風のときあるけどね^_^;。