教育: 2008年12月アーカイブ

【講義後記】20081215

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 非常勤先での授業も,最初の盛り上がり時期を過ぎて,ある種の安定期というか,倦怠期というかを迎えている。学生からのコメントにようやく「授業らしい授業でした」と書かれた今回の授業は,どちらかというと,なるべく教科書に沿っていこうという抑制の成果なのだが,結局最後はいつもの通り自由奔放に教育雑話に花を咲かせた。

 教育雑話といっても,ちょうど話題になった国際学力調査の話や,Anna Sfard女史の学習メタファーに関しての解説であるから,そりゃ教育関係者にとって贅沢な酒の肴…じゃなかった話題である。

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 ちょうどIEA-TIMSSの2007年調査の結果公表の直前にIEA-TIMSSとOECD-PISAについて名前だけ軽く触れていたので,今回は実施主体の紹介も含めてちゃんと紹介をした。残念ながら具体的な調査内容を吟味するまでは,私の能力的にも,授業時間的にも難しかったが,授業で扱ったことがリアルタイムの時事ニュースとして流れるという絶好のタイミングを掴んだ「チャンス講義」を展開した。

 たとえば,先日のIEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSS(国際数学・理科教育調査)の報告ページを見ていただきたい。ビデオ映像で報告をしてくれているので分かりやすいはずである。もちろん英語のページだが,私たちの国も参加している機関が実施した調査なのだから,あなたには当然見る権利があるし,権利を行使すべきだと私は思う。さて,その上で,国際学力調査とは何なのか,そして対する国内学力調査とは何なのかを考えてもらえるだろうか。


 私たちは学力調査を,どこぞの塾や教育企業の全国模試とイメージを重ねるが(そりゃ下請けしているのはそういうところだが),重ねるべき本来のイメージは国際学力調査の方である。


 そして,学力調査というのは,誤解を恐れずに言えば,直接的に子どもに向けられたものではないし,個々の教師や学校に向けられたものでもない。これは教育を司る国や行政に向けたものであり,それを監視する国民のためのものである。だから,調査結果データに対して「特定の子どもや学校の成績ではない」という大人の解釈ができなければ,その人はそもそも調査データを使う利用者のイメージに合わないのである。

 ところが,日本という国が政治家を遊ばせるような国になったため,学力調査結果を使う機会がなくなり,必要性も薄らいでしまった。あるいは,最初からそういう風に使うことを知らなかったともいえる。歴史的に学力テストを捨てて,長らく何も問題なかったのは,経済が豊かなおかげで不自由なく生きていける幸せな国だったからである。

 学力調査結果の使い方を知らないまま,そして使う機会も失った状態で,結果データだけあれば,あとは(多くの人々が受けたことのある)「模試」のイメージを重ねるしかない。学力調査データによる序列化懸念議論は,そういう「模試メタファ」しかない私たちの悲しいピーチクパーチクなのである。

  
 でも,IEA-TIMSSやOECD-PISAの国際学力調査は,別に世界レベルの模試をしているわけではない。確かに人々はどうしても順位を気にするから,報告ビデオを見ても上位順位をクローズアップして見せてしまい,少々誤解を招きかねない。しかし,この調査が教育をより良くするための指標として提供されているのだということも強調している。


 世界的な視野に立てば,もっと基本的な教育を充実させなければならない国々がたくさんある。だから,その国々は,調査データに基づいて,教育基盤を充実させなければならない。一方で,順位が上位の国々には,また別の役割があるということを理解しなければならない。

 私たちは,世界との「関わり」を考えるために国際学力調査に参加していると言い換えてもよい。そのことがほとんど実践されていないことを除けば…。

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 それから,教育方法を勉強するために,学習についての話をした。特に,これは教育や学習を考える者全員が基礎知識として知っておくべき知見であるアンナ・スファード女史の「学習メタファー」に関する議論を押さえとして紹介した。「学習メタファー」って言い方が難しいと感じたら「学習観」とか「学習のたとえ」とでも置き換えよう。


 学習もしくは教育に関する2大潮流については,本質主義と進歩主義という言葉の対で象徴されるものがあることはご存知だと思う。その2大潮流もしくは原理は,場面によってさまざまな形や呼び名で現われる。たとえば,系統主義と経験主義だとか,教科中心と子ども中心とか,まあいろいろである。

 ただ,こうした用語たちは,「主義」だの「中心」だの,大きな話になりがちで,自分たちの学びについて語るには,少々手に余るものだった。結局,自分自身のまなざしにならない。

 ちょうどよい感じの知見がある。10年前の1998年に,スファード女史が書いた論文 "On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one."で,「エデュケーショナル・リサーチャー」という教育研究雑誌に掲載されたものである。10年一昔だが,学術世界の時間では,まだまだ新しい知見ということになる。


 スファードさんは,学習を二つのメタファーで捉えられるとして,これを対比した。「獲得メタファー」と「参加メタファー」の二つである。

 そして,この二つを5つの観点から対比してみるのである。つまり,それぞれの立場を代表する人がいるとして,その二人に次のような5つの質問をするのである。「あなたの学習観にとって"学習の目標"って何?」「"学習"って何?」「"生徒"ってどんな存在?」「"教師"ってどんな人?」「"知識とか概念"って何?」「"知ること"っていったい何なの?」

 獲得メタファーの人は「そうだね,僕の場合,"学習の目標"は個人の知識を豊かにすることかな。だから"学習"って,あることを獲得することだし,"生徒"ってのは,知識の受け手だと思うな。だから"教師"は,知識の提供者としてだけでなくて,促進者,媒介者であって欲しい。"知識"って大事な資産だからね,所有物でもあり商品だとも言える。僕にとって"知ること"っていうのは,所有することなんだ。」と答える。

 参加メタファーの人は「うーん,僕の場合,"学習の目標"は共同体を構築して仲間と過ごすことかな。共同体は何だっていいんだ。職場でも,近所でも,学校のクラスでもサークルでも,彼女との関係でも。だから"学習"って,そうした仲間のいる共同体に参加することそのもので,"生徒"っていうのはその参加者のことだよ。"教師"といえる人は,何かに熟達している参加者なら誰でもそうだし,先輩とかそんな感じに近い。"知識や概念"っていうと,そんな仲間と何かを語り合ったり,実践して活動していくことそのもののことなんだ。要するに"知ること"っていうのは,その共同体に属したり,参加して仲間とやり取りをしていくことを通して実現していくものだと思うよ。」 

 まあ,本当は表になっていて,それを見たほうがもっと分かりやすいのだけれど…。ちなみにスファードさんを扱っている教育学の教科書は,まだ見当たらない。学習科学に造詣の深い書物には,ちらほら紹介されている『「未来の学び」をデザインする』とか『企業内人材育成入門』とか…。

 現場の先生たちは,「学習メタファー」とは呼ばないが,それに関する知識は事例を含めて大変豊富なはず。単に名前を付けてないというだけなのであるが,スファード女史が指摘するように,こうした二つの見方のどちらかに陥ってしまうことは危険なのだと言うことを改めて(名前付けして)意識することが大事というわけである。


 最近,「メタ認知」ばやりだが,この「学習メタファー」もぼちぼち一般的に浸透し始めて欲しいと思う。

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 もう一つの授業の方も,淡々と中間発表が進行中。考えてみるともう年末で,来年の計画も考えないといけないが,えっと,とりあえず,来年最初は「休講」から始まります。いやぁ,舞台裏は火事です。ははは。

デジタルネイティブ時代のICT教育 (マイコミジャーナル)
http://journal.mycom.co.jp/column/icteducation/001/index.html

 いよいよ年末が近づいて,駄文を書く余裕が無くなってきたのだが,この記事を見つけて(見つけてる時間はあるのかい!という細かいツッコミは,ちょっとご勘弁を。たまには息抜きしたいのさ。),紹介せずにはいられなかった。

 インテルと内田洋行の共同研究。なにやら公立学校にパソコンを配布という報道は誤報だとか,いろいろ誤解はあったようだが,まぁ,とにかく実証実験が始まっていて,その経過報告のようである。


 この記事の後半に,このような紹介がある,失礼ながら引用させていただく。


そして、この学習システムを使ったメリットは、大きく分けて以下の2点が挙げられる。

1. 従来の手書きの書き取り練習では、教員が児童を個別に細かく指導することは難しかったが、システム上で"その場で指摘や評価を受ける"ことは、児童の意欲向上に繋がる。

2.覚えきれていない漢字を着実にクリアしてから次に進むといった、個人差に応じたペースでの学習が可能となる。


 これを読んで,ベタに,スキナーのティーチングマシンの再来というか,その現代版を忠実に実証実験しているように思えたのである。スキナーは,その徹底した行動主義的心理学による研究によって,多くを参照され,また多く批判を受けた大心理学者である。そして一応,時代遅れというレッテルとともに隅っこへと追いやられた存在でもある。

 ただ,その極めてシンプルで一貫した学問的成果ゆえに,現在でも学習心理学の分野の教科書を開けば,スキナーの「オペラント条件付け」を見つけることが出来る。結局は,無視できない存在なのだ。


 スキナー自身がティーチングマシンを考えていた時代よりも,技術的には進んでいるはずの現代において実証実験されているものの中身は,実のところスキナーの時代に人々が考えたティーチングマシンの本質と何一つ変わっていない。むしろ技術進歩のおかげで,スキナーたちが考えた理想をより忠実に具現化できているのかも知れない。

 (後日追記:僕はこれを皮肉のつもりで書いたのだが,そう読まなかった人もいたようである。もうちょっと丁寧に皮肉ると,2大企業がそんな前時代的な発想のものをやっていてよろしいんですか?と。あなた達はフロンティアで活躍する企業なんだから,もっと未来を志向してくださいよ,と言いたいのだが,そう書くと今度は2社を批判していると勘違いされる人もいるので困る。僕はどちらかというと,お互いが批判的関係でいることでお互い前進しようねと本当に思っている人である。とここまで説明してもわかってもらえない人もいるかも知れない…。だとしたらちょっと悲しい。本当のことを書くと,この駄文の真の批判対象者は,このどうしようもない記事を書いた記者の人である。申し訳ないが,こんな単純化した理解の枠組みで教育関係の記事を書こうというのは,記事の分かりやすさを理由に逃げているだけで,そろそろ弊害になりつつあると思う。)


 そのことを思うと,この実証実験を,どれだけ政治的な効果としてプラスになるようにデザインされていくのか,実はそのことが今大きな問題になっていることが分かる。記事のように「ソフトウェアが少なかった」なんてのは,ちょっと安易な分析というか,わかり易い解説で済ましてしまってるなぁという感じである。


 人間の学力を向上させるための道具は,もう何十年も前から考案され,そしてその時々の技術を使えば,いくらも実現化できるし,効果を上げるように使うことが出来る。

 しかし,この道具が使われる率を上げるためには,かなりの政治力の向上が必要になったりする。


 学力を上げるためには,政治力を上げる必要があるが,政治力が上がるためには学力が上がってないといけないし,果たして,鶏が先か卵が先か。まあ,こんな考え方も偏見めいているが,まあ,なんかそう思ったので書いてみた。ああ。


 (田中角栄に学力があったのか,政治力は学力と関係ないんじゃないかとか,そりゃまぁ,もっと丁寧に駄文を書くべきなのだと思うのだが,だから,いま丁寧に駄文を書く余裕がないので,とりあえず記事の紹介と思っていただきたい。研究者の仕事はよりよい選択肢を作り出して並べていくことなのだけれども,並べすぎて選びようもなくしてしまっているとしたら,それはまた,俺の仕事じゃないから知らないでは済まないような気がしないでもないと,心の中では思ってみたりしているのである。でも,辞めさせられた元軍服の方のように,私たちの立場は,そうは思いつつも,そうは行動しちゃいけないのであるかも知れず,そうありたいと思うなら,白衣を脱ぐみたいな,そういうことなのだろうかと,珍しく,思考のナマ状態を,ここにつらつらと書き綴ってみているのだが,あんまりしっくり来ていないのも事実だったりする。。本来ならば,こういう状態の思考を調理する必要があるのだが,繰り返すように,そういう心の余裕がないので,はい失礼します。)

【講義後記】20081201

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 珍しく授業直後に書いている。今日の授業は先週の振替休日のせいで2週間ぶり。そして,とうとう師走に入った。本当に時間というのはあっという間に過ぎる。
 今日はテレビ生放送のスタジオ観覧のお土産話と,受講生の調査活動の中間発表を行なった。

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 「初等教育の内容と方法」という授業なのだが,どうも授業の筋が教育改革や教育行政の現状など時事的な方へと寄り道しがちになっている。最初は,初等教育現場にも影響を与える昨今の動向を解説するつもりで始めたが(学習指導要領改訂もあったし…),教育に絡む興味深いニュースや今回のテレビスタジオ観覧といった外的要因がいろいろ働いて,結構そちらに全体の雰囲気もシフトしていた。

 私がテレビの生放送番組を観覧して得た感触については,別にまた詳細を書くとして,それ自体はのお土産話には学生たちも大変興味を示してくれた。番組作りというものが,特に生番組ということもあって,授業実践のリアルタイム性にも通ずること。放送された部分以外の出演者や番組制作者の様々な立場や思惑について,見た来たことを伝えて,考えたことを語った。

 私がなぜ,教育内容(私はこれを「カリキュラム」だと前提して担当しているが)の話に,こうした教育行政やメディアの教育言説の雑談をことさら取り上げるのかといえば,目下,それが現代の重要な問題だからである。カリキュラム・ポリティックス(教育内容・課程の政治学とでも理解しようか)に関する研究は,立派な学術領域だし,そのことを身近に意識することは,無知であるよりも望まれていると思う。

 問題は,そのことを「初等教育」段階の教育内容に結びつけて考えることの難しさと,どちらかといえば「教育方法」との関連に於いて「教育内容」を捉えようとする性格の授業であることを考えると,さて,今後どのように話を接続していくべきなのかということが,授業の醍醐味となってくると思う。

 結果的には,だいぶ長引いてしまったが,前座のお話はテレビ番組観覧を踏まえたメディアの特性の共有で十分満たされたと思うので,あとは,テキスト内容を進められればいいかなと思っている。

 残る教科書的な知識の伝達において,それを面白い部分とどう融合させるか。これは結構,難題ではある。学生たちは,まだ社会人経験のない人たちばかりだし,教育歴があっても家庭教師か塾講師を少し程度であろう。そうした実経験のない段階で,知識ばかりが先行しても,実感を伴わないかも知れない。


 あと,これはある人に言われて少し反省をしているのだが,ものごとの事実を批判的に見るまなざしや思考(クリティカル・シンキング)を持つべきだという主張は,ともすると批判のための批判,実行の伴わない批判,抵抗のための批判に陥りやすい。私が期待しているのは「省察的な実践」という言葉にも込められたような,実践のための批判もしくはそのための批判的解釈であって,手足を動かさないための批判ではなかったはずである。

 ところが,教育改革や教育行政の話は,八方ふさがりな雰囲気が強く,意欲的な実践に対して冷や水を浴びせている感も強い。学生が,様々な批判的まなざしを獲得することは大事なことだが,そのことによって,だから実践をあきらめるとか,だから実践する意味がないのだとかいう理由立てにまなざしを使うようになるなら,これは逆効果だなと思った。

 今の学生たちは,批判のための批判や実行の伴わない批判や抵抗のための批判について,むしろ敏感に察知して嫌悪している世代ではないかと私は思っていて,だから批判的なまなざしを持たせることは,彼らの前向きな姿勢を後ろだてするために依然として大事だと信じている。だとしても,それは逆の意味で学生を買いかぶって,配慮に欠けていたのかも知れない。

 個人が自己に対して配慮して,完全にコントロールすることは難しい。いや,不可能なことかも知れない。だとしたら,私はもっと,具体的な事柄に即して,批判的まなざしを踏まえた実践がどうあるべきかを,丁寧に示す必要があるのではないか。もちろん,それは実務家教員の方々のテリトリーであり,私がどんなに背伸びしたって太刀打ちは出来ないが,少なくとも,そのテリトリーとの接続性については,責任を持って何かしらのことを示す必要があるのかなと思う。

 修行には終わりがないものだが,私はまだまだ修行が足りないのだなと思う。

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 「教材論」の授業は,4週にわたる中間発表会に入り,担当した教材に関する調査の進捗や,その時点までで分かったことを発表してもらう。トップバッターの学生さんはとても緊張していたが,さすが他の授業で鍛えられているだけに,ちゃんとパワーポイントを使いこなして,発表をこなしていた。

 まだ十分な時間をかけられていないので,前半発表組はインターネットや図書館の文献などを探索した成果が中心となっていたが,これからもっと現実世界に切り込んでいくことになると思うので,中間報告はとても興味深く聴いた。

 他の学生たちには,コメントシートを渡して,発表内容や調査内容に対するコメントやアドバイスや質問,もっとこういうところが知りたいという要望を書いてもらいながら,発表を聴いてもらった。
 コメントシートは,振り分けてもらって,今日の発表者に渡す。こうして相互に影響を与え合ったり刺激し合ったりしていくことで,見えてくるものがあると思う。

 対象は違えど,他者の発表を実際に聴くことで自分の対象にどう迫ればよいのかヒントを得られた学生もいたようだし,調査や発表へのよい意味での切迫感を感じた学生さんもいた。発表者も,実際に発表の形にすることで,今後何をすべきか見えてきたとコメントしてくれている。

 たぶん,発表後の私とのやりとりが,少しは役に立っていると思いたいが,思っているのは本人だけだったりするので,そういう自意識はとりあえず置いといて,とにかく場が活性化するように雰囲気作りに徹する事にしよう。


 まったく異なる展開の授業を連続したコマでやるのは,面白いといえば面白いが,いろんなプレッシャーにも耐えねばならず,それはそれで大変である。

 正解がない以上,自分がベストと思うことを信じてやりきるしかない。修行は足りんわ,自己ベストを信じなきゃならんわ,今年も終わるわで,私本当にどうなるんでしょうか。人生明るい方だけ見て生きられればねぇ…。