雑記: 2008年9月アーカイブ

都民の日

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 10月1日は,東京都では「都民の日」だそうで,都立学校などが休みになるという。東京都民になって数年経つが,初めて知った。まあ,言われなくてもこのあたりはいつも休んでいたし…。

 いくつかの公園施設などが無料になったり,子ども向けのイベントもあちこちで行なわれるようだ。そんな「都民の日」前日に小学校のお手伝い。先生達は,どちらかというと今度の運動会の準備で大わらわである。今度の週末に運動会がある日本全国の先生達が「台風よ,去れ!去って週末天気にしてくれ」と願っているのは言わずもがなだ。

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 いよいよ10月がやってくる。学会発表も悩ましい課題だが,それよりもこの月に十分な研究調査が実施できないと自動的にクビが言い渡されるので,とてもまずい。とてもまずいのだが,ひとりで焦ってもどうしようもない。というわけで,こういうどうしようもないときは,ボーッと考え事してネタ溜めるしかない。

 あ,誤解の無いように書くけれども,研究協力してくださる心優しい方々はポツポツと集まってくださっている。お手伝いしている小学校でも協力してもらえるかも知れない。問題は後処理するための時間が間に合うのかということである。う〜ん,締切りの魔術師になれるのかどうか。むずかしい〜っ。

 ま,最後の最後まで努力するのが大事である。それからいろいろ考えても遅くない。

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 急に肌寒くなり,寒暖差のせいで体調が崩れやすくなる。私自身もしっかり寒気と頭痛に悩まされた。そうなったら考え事も読書も無駄なので,ひたすら眠って治すだけである。おかげさまで復活。自分の身体との付き合いも長いと,どうすれば早く復活できるかもわかってくる。そもそも病気にならないのが一番だが,緊急時の体調管理ができるかも大事であると思う。

 さてと,泣いても笑っても9月とさよなら。10月も頑張っていこう!まずは映画観るか?(おいおい)

ひとり読書会

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 ゼミ関係でいろいろ必要があって『省察的実践とは何か』を読むことになった。本当なら,研究室とかのメンバーに声をかけて読書会をしたいところだが,みんな他の活動で忙しそうだし,こういうベタで堅い本を読む勉強会は呼んでも集まらなさそうだから,とりあえず,ひとり読書会である。

 『省察的実践とは何か』は,ドナルド・ショーン氏の著書 "The Reflective Practitioner "の翻訳本である。昨年,完訳本として登場したばかり。それまでは,部分訳書である『専門家の知恵』という翻訳本で読まれていた。

 ちなみに,「反省的実践家」というキーワードに関する重要基本文献である。

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 で,第1部あたりを読み始めたのだが,なんというか…,読みにくい。

 最近は,コテコテの人文系文献を読む機会が少なくなって,すっかり自分の理解力が衰えたんじゃないかと,それこそ自己省察しながら読み進めていたが,どうもこりゃ私のせいだけじゃないような気がする。

 翻訳の労をとった先生方には大変申し訳ないが,うーん,もうちょっと文章を「日本語」の順序にしてもよかったんじゃなかろうか。翻訳に関しては人のこと言えないのだが,一夜漬けで翻訳レジュメ作るのとは違って,商業出版物なのだから,もうちょっとこなれていて欲しかった…。私なら,確実に朱ペン入れまくるね,日本語の次元に限って。


 『専門家の知恵』の方は,逆に日本語としてはこなれているけれども,部分訳で一冊の本にするために,活字大きくて,レイアウトの可読性も低くて,読むのが疲れる。

 なんだかどちらも一長一短という感じである。

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 2章では,〈技術的合理性〉と「行為の中の省察」という二つのモデルを立てるところまでで,後ろに続く事例やその考察によって,省察的実践(反省的実践)とは何かを明らかにしていくことになる。

 え?それここに書けって?また全体をまとめられるようになったら,ここにも書いてみたい。それまでは,しばらく内側で少しずつ書き綴っておきます。

秋が来れば

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 秋分の日。暦通りに秋がやってくる。

 季節が変わり,僕の生活スタイルも変わる時期がやってきた。夏は,ひたすら大学の研究室に通った日々だったが,秋は,自宅にこもって過ごす日々になりそうだ。また,文章を練り出さなければならない。

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 ちょうど最後の糸がプツンと切れて,少し漂う感じで週末を過ごした。

 台風一過の日。街中をのんびりと歩く。それはとても休日らしい休日であった。

 そして,いよいよ秋の到来を思わせた。

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 仕事のついでに東京にきた先輩から突然連絡が入った。いつも絶妙なタイミングで現れてくれる。

 学部から今に至る僕の軌跡を知っている人物で,いまも直接会う機会があるのは,この先輩だけ。ところが,この先輩でさえも,学部時代にはほとんど関わったことのない存在だったので,いまこうして毎度声をかけてくれるようになったことは,不思議といえば不思議である。先輩と飲むと,必ずその話題になる。そして更新の少なくなっているブログにも注文が飛ぶ。

 「りん,もっとおまえの思いを書けよ」

 そう言う先輩に僕は苦笑いをする。さらに先輩は,どちらかといえばデータや分析ありきで組み立てられたような,そこに泥臭くもベタな想いが不在であるような研究に対しても,辛辣な檄を飛ばす。

 物事の本質というのは何なのか。そういう議論を交わすことを抜きにして研究は生き残らないのではないか。いまの学会も大学院も,どこかお上品になってしまったというか,その泥臭い部分を避けがちであるというか…。

 「おまえ,そういうのを欲してるんだろうな」

 酔っているというのに,こういう指摘の鋭いところが怖い先輩である。「みんな,おまえによろしくと言ってた」と何人もの人たちの名があがる。そうやって,気にかけてもらっていることに勇気をもらいつつ,すっかり気持ちよくなった先輩をバス乗り場まで届けて,その夜は別れた。


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 「人間は行動した後悔より行動しなかった後悔の方が深く残る」

 どうだろう。

 僕は前者を選びがちであるけれども,それがいつでも正解というわけでもない。

 自己の後悔の最小化は,必ずしも他者にとってのそれではない。

 だとしたら,ときに後悔が深く残る方を選択する場合もあり得るのか。

 そもそも,何をもって「行動」と考え,何をして「後悔」と呼ぶのか。

 もの思いにふける。


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 秋が来れば,また違う,ときの流れ。

 その想いは一緒に連れて行くことにしよう。いくつかの曲がり角を過ぎれば,自ずと答えは見つかるさ。たとえ,どうしようもないゴールでも,最後まで諦めなければ悔いはない。

 

楽しんで!

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 大学院の合宿があった。基本的には学習プログラムを中心とした内容なので,歴史上の人物を取り上げて発表するという課題に取り組んだ。温故知新という言葉は侮れないなと思った。

 そんなこんなでいろいろな事が立て込んだり,自分の研究の調査実験を進めなければならないプレッシャーがあったり,けれどもこの頃は気分の停滞感があったりと,また諸々の事柄で微睡んでいる自分が居たりする。

 最近は朝型に切り替えたおかげで,午前中にいろいろ取り組める時間的余裕が生まれたが,斯様な心的状態で,どうも有効活用しているように思えない。どうすりゃいいのか,自分でもほとほと困りながら,日々を過ごしていた。

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 遙洋子のコラムを見かけた。「"好き"と"楽しむ"の違い」というテーマの回であった。遙氏については,上野千鶴子のもとで学んだ経験を書いた本を興味深く読んでから,どんな風に進んでいくのかなと気になっている人の1人。その人が,ストレスによる病気になったことを書いて,"好き"と"楽しむ"の違いについて考えていることがスッと入ってきた。

 さて,自分は好きなことを楽しんでいたか。

 あるいは,何かを楽しむ人生を送っているだろうか。

 そう問いかけると,「楽しむ」という感覚をとんと忘れていたことに気づく。ああ,こりゃダメなのは当たり前である。楽しむ喜びを実感していないとしたら,道に迷うのと同じ。隣の庭や芝生を観察ばっかりしているうちに,自分の庭や芝の手入れを楽しむことから遠ざかっていたわけだ。

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 僕はずっと文系畑でものを考えていたので,研究者のロールモデルもどこか「啓蒙・啓発」を規準にして考えていたところがある。現代社会において文字通りの「啓蒙」を行なうことは難しくなっているが,それでも人々が「ある種の枠組み」について啓発を受けるというレベルなら,研究者ができることはまだあるのではないかと考えていた。

 だから僕は「あんなのはどう?こんなのはどう?」ということを考えるのが好きだし楽しい。

 人はそれを浮気性と呼ぶけれども…^_^;


 二度目の大学院生生活を過ごしながら,僕は初めて理系的な学術世界観の中で物事を考える必要に迫られた。基本的に理系も嫌いではないはずなのだが,何事も不慣れだとストレスが溜まるのだろうか,楽しさがなかなか味わえない。ピントがぼけていることは自覚しているのだが,どうすれば焦点を合わせられるのか,手探りの日々がまたさらにストレスに繋がって,楽しむことから遠ざかっていたことは明らかである。

 なんとなく見えてきた頃には,だいぶ時間超過していて,いまは残りの余裕がないことを内心焦っている。

 けれども時間がないながらも,楽しむポイントを探さないとまずいなとも思ったのである。

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 ちょっとの気の持ちようで世界はがらんと変わることもある。これは実際にある。そのための条件は,きっと人それぞれで,普段から自分の気分や意識の変化を観察して,その諸条件を拾って揃える努力が必要だと思う。


 そんなことを書いていたら,なるほど自分の考え方は行動分析学を創始したB.F.スキナーに似ているのかなとも思う。彼もまた環境条件を変えることによって人の行動に影響を与えることができると考えていた人である。別の機会に掘り下げてみるのも面白いかなと思う。


 ま,とにかく楽しんでいこう。