雑記: 2009年3月アーカイブ

 大学院の学位記授与式を終えて,いよいよ次年度の準備が本格化する。トラックがやってくるのは数日後。それまでに荷造りを完了しなければならないので大変。

 しかも,ToDoリストはあれこれ並んでいて,街にも出かけなければならない。お誘いやら打ち合わせやら,用事のついでの買い物・散歩やら。この3月中は,池袋,東京丸の内,新宿,六本木,銀座,日本橋,霞ヶ関,秋葉原といった街に足を運ぶ機会を持てた。いわゆる賑やかな東京のいくつかの街を目に焼き付ける機会を持てたことは,有り難かった。

 電気,ガス,水道を止める手続きはインターネットから簡単にできる。一方,徳島での生活をスムーズに開始するために同じように電気,ガス,水道の使用開始を手続きするが,こちらの場合は電話窓口でお願いした。

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 徳島での生活については,特に心配していない。ただ,やはり東京ならではの利点である「人・モノの多さ」は,離れれば諦めざるを得ない。そこで,いまのうちにレアな買い物は済ませておくことにした。

 秋葉原へ行くと,日本最大級をうたうヨドバシカメラ・マルチメディアAkibaという家電百貨店がある。まあ,笑ってしまうくらいに品揃えが多くて,そんなに集めてどうするの?という感じ。でも,これだけ多様な選択肢を実物でじっくりと比較できる場所も貴重である。指名買いが出来るような商品は通販でもよいが,実物のディテールを詳しく見たい買い物をしてみた。

 池袋には,これまた日本最大級と呼ばれるジュンク堂という書店がある。図書館のような蔵書量を誇るこの書店に入ると,私なんかは軽く3時間が経過してしまうので,実に危険な場所である(同様な理由で神田界隈も危険地帯である)。amazonで本を買う人も多いし,きっとこれからは私もamazonを活用することになると思うが,やはり品揃えの多い書店で時間をかけて本を探すというのは重要であるから,いまのうちに。

 Apple Store銀座にも寄った。Macユーザーにとっては日本における聖地みたいなところなので,冷やかしだけでも訪れておきたかった。それにしても10数年前には風前の灯火と言われていたアップル社とMacが,iMacやiPod,そしてOSXによる巻き返しで,ここまで復活を果たしたのだから,感慨深い。先日は,現場の先生たちの研究会で,アップル・ジャパン本社のセミナールームも存分に体験し,あこがれの場所を満喫した。

 まだまだあれこれ行きたい所やしてみたい事がたくさんあるが,時間もなくなってきたので,あとは荷造りと確定済みの予定をこなす事になる。

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 旧友がやってきて,新宿の街で久しぶりに再会。同世代とおしゃべりする機会が少ないので,何を話したらいいのか,ぎこちない感じもしたが,やはり,この歳になると仕事における立場や結婚などの話になってしまうものだ。

 懐かしい名前がいくつも出てきて,ご無沙汰していることを痛感した。そうやって繋がりの中で生きている友人たちから離れて,漂うように生きている自分の,なんと薄っぺらいことよ。


 でも,僕はラスト・ワルツのような生き方にあこがれてるんだろうなと思う。たくさんの人たちとワルツを踊って,それが永遠に続くことを望んでるんだ。だから逆に,ひとところにいられない。

 東京という街と踊ったワルツもまた,思い出深く永遠に続いて欲しいものだった。

ラスト・ワルツ

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The Last Waltz / Engelbert Humperdinck

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出ようか残ろうか迷っていた
バンドは最後の一曲を残すだけ
そして目の片隅に君を見たんだ
一人恥ずかしそうな少女の君を

君との最後のワルツ
寂しい二人で一緒に
君に恋をしたんだ
最後のワルツよ 永遠に

苦楽をともにして
強くなっていった僕らの愛も
君の瞳の中で愛の炎が消えて
君がさよならを告げた時に
僕の想いも壊れてしまった

君との最後のワルツ
寂しい二人で一緒に
君に恋をしたんだ
最後のワルツよ 永遠に

いますべてが終わり
言うことは何もない
ただ僕の涙と
オーケストラ演奏が流れ続ける

君との最後のワルツ
寂しい二人で一緒に
僕は君に恋をしたんだ
最後のワルツよ 永遠に

 


 

難航中

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 いかん,自分の蔵書数をなめていた。分類しながらの箱詰めは結構大変だ。

 人生には何度か卒業がある。達成感に満ちた人もいれば,別れの寂しさを感じる人もいる。新しい門出や新しい出会いに胸躍らす人もいる。

 送り出す立場で毎年のように卒業式を迎えていると,ルーチン・ワークにも思えて,ある程度の距離を持って受け止めるようになる。一人ひとりに対する想いは募れど,未練を残させぬように離れていく習性が身に付いていく。

 「教育の成果を教育の現場で求めない」という言葉を聞くと,そうとも思う。

 もちろん教え子が教育現場や学問世界にとどまるパターンもあるが,多くは社会を構成する名もない市民として活躍する。その後の消息を知ることはない。だから,元気で日々を過ごしてくれていることだけを願う。そういう緩やかな想いだけ記憶の片隅に残しておく。

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 いざ,自分が卒業するとなると,自分の中で気まずい雰囲気になる。

 卒業慣れして擦れた自分が,感慨深さを持ってこの卒業を迎えようとしている自分を邪魔したりなんかする。

 達成感を満足としてでなく謙遜のような形に表現し,別れの寂しさを素直に出さず隠すように距離をとり,新しい門出や出会いに対する胸の高まりは自嘲や不安で縛ったりする。そんなことを明け透けに書いてる自分もいたりする。


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 段ボールを作り,荷物を詰め込み始めて,この季節がやって来たことを思う。

 この歳でバーンと仕事辞めて上京したのは,結構無謀だった。たくさんの方々に迷惑をかけたことも心苦しかった。それでも,自分自身の知識を見直したり,新しい知識を得ることもできたことは有り難かった。

 根がのんびり屋さんなので,とっても心配をかけたり,迷惑をかけたりしている。それを続けるのは申し訳ないので,ここで一旦,さようなら。もう一度,自分なりに得たものを整理して出直したいと思う。


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 昔,学会投稿論文を自分で没にしたことがあった。

 論文を修正して,再投稿すれば,掲載の可能性もあったが,それをしなかった。

 実は,修正の段になって,論文を執筆していたノートパソコンを車上荒らしで盗まれてしまったのである。その時のモチベーションの落ち方といったら半端ではなく,最新文書データも失って,投稿に結びつかなかったという苦い経験がある(盗難には後日談があり,奇跡的にデータだけは返ってくるのであるが,結局投稿タイミングを逸してしまった)。

 残念なことだが,そんな出来事が,学会というものとの距離を遠ざける結果に働いたのかも知れない。学問の世界で,私はそんな程度の青二才だったということである。


 その論文を書き直して,再度投稿してみようかと考えている。たぶん,その経験を乗り越えない限り,いくら新しいことに着手しても,満足いくものにはならないと思う。

 幸い,破天荒な論文を補強してくれる知見が増えてきているし,違う分野の論文執筆方法も見えてきたから,ちょっとはマシに書けるんじゃないかなと思う。


 そう思えば,車上荒らしに端を発した投稿断念の経験さえ,東京に導いた要素の一つだったのだと思う。

結婚式と披露宴

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 妹が結婚式を挙げた。私が日本で結婚式というものに出席したのはこれで3回目。教会で式を挙げるのに出席したのは初めてであった。そして妹を送り出す側として,感慨深いものがあった。

 二人の妹達がそれぞれ素晴らしい伴侶を得て新しい家庭を築くことが適い,兄として嬉しいとともにホッと一安心をした。特別何かを心配していたわけではないが,幸せを育む環境を得るというのは,なかなか難しいことであるから,それが達成できたことを心からお祝いしたいと思うのである。

 結婚式と披露宴に出席するため,米国在住のもう一人の妹と姪っ子もやって来ていた。姪っ子6歳とは仲良しなので一緒に過ごしていると,あちこちから「あらお父さんと一緒なの…」とかなんとか言われるのであるが,まあ,これも幸せの一つだと苦笑して過ごすのであった。

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 披露宴の余興として,花嫁のブーケプレゼントの企画があった。独身女性の出席者が呼ばれて,ブーケからのびるリボンの端を一本ずつ持って引くと,そのうちの一本だけがブーケにつながっているという要領。

 「僕が呼ばれたりなんかして」

 ともう一人の妹と冗談を言っていたら,本当に「今回特別に,新婦のお兄さまも」と司会の人に呼ばれた。まったく,兄妹考えている冗談と本当にやっちゃう辺りが同じで笑ってしまった。

 え〜っと,残念ながらハズレましたが。^_^;

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 我が父と母が,娘を送り出す姿を想像したことが無く,披露宴のよくある光景の中で立っているのを実際に見て,不思議な感覚にとらわれたりした。なるほど,これが儀式なのかと思った。

 儀式や慣習的なことと距離感を保ち続けていた我が実家にとって,こういう場面での振舞いや作法は不慣れで,どうにも浮いた感じになってしまうところが多かったが,そうした細かいことはともかく,妹の新たな門出を祝うという気持ちは強いわけで,そういう意味では,とてもよい結婚式と披露宴だったと思う。

 まあ,今後も私たち実家の家族が,家族であることは変わらない。それぞれの新たな人生の中で,また絆を深めていければよいと思えた。ゆっくりと,しかし確実に時間は前へと進んでいた。

 大学院の所属研究室で春合宿があった。姉妹研究室との合同ということやOG/OBの参加もあって,参加者は三十数名の大所帯である。修了式を除けば,大学院生活最後のイベントである。

 私にとって,こんな大所帯に属して行動するのは人生初めての経験だった。さらに,かつての教え子達と同じような年齢の人たちの集団だから,ある意味で,自分の振舞いを決めるのが大変難しい環境だった。

 自分の実年齢を変えることはできないが,精神年齢ならばいくらでも調節可能である。ものを知らない自分を見せることも,試行錯誤しながら成長している風に見せることも,社会人経験者として一家言持っていそうに見せることも,すべて達観していて仙人のように振る舞うことも,必要ならいくらでも演じ分けることは可能である。

 ただ,場や全体の関係性を考慮した場合に,すでに存在しているキャラクターを重複して演じる必要はないので,そういう場合は,特に何も設定しないで周りと距離を置くことが多い。場が上手くいっている限りにおいて,余計な役割を担ってまで何かをしたいと思わないのである。
 その代わり,場が上手くいってない場合には,そのことがどうしても我慢できずに前にしゃしゃり出ることもあるのだが,最近はだいぶ我慢強くなってきたと思う。


 そうして,最後の合宿は自分なりに静かに過ごせた。新顔の人たちと話してみたい気もしたが,情が増すと別れの寂しさも増すので,それは諦めることにした。居なくなれば忘れ去られる存在である。それよりはこれから一緒になる人たちで対話を増やしてもらうことの方が大事だろう。最後にちゃんとフェーディングするのが先輩の役目でもある。


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 自分のアイデンティティを言い表すならば「放浪教育研究者」なので,人間関係に深入りする機会が少ないのも,そのせいだと思っている。どこかの一派に所属しているという自覚があまりない。(すいません,あちこちに所属しておきながら…)

 呼ばれりゃ行くし,呼ばれなかったら仕方ない。いつ呼ばれてもいいように,自分なりに研鑽や精進をしておくことしかできない。ご縁に対してオープンであるためには,一方で,いろんなことに対してフリーであることも必要だったりする。


 マックス・ウェーバーが学者の世界とは「僥倖(ぎょうこう)」によって支配されているというようなことを書いている。有名な『職業としての学問』には,その他にも大学教員に関しての言及があれこれ書いてある。

 「僥倖」でアカデミックポストが決まる(学者への就職が決まる)なんて曖昧あやふやでは,公平性に欠けると考えて,公募方法や業績評価の仕方,最近では男女雇用の均等に関してルールも定められている。しかし,すべてにおいてそれが徹底されているわけではないし,そもそも,ルールを運用することや厳格に評価することはそう簡単じゃない。そこが悩ましい。

 マックス・ウェーバーの議論は,アメリカとドイツの大学を比較して語っていたと思うが,結局のところ,あまり理想を描くな,目の前のことを頑張りなさいという感じの話だったと思う(忘れちゃったので端折ってます。買って読み直そう…)。

 つまり,同じく僥倖がやって来るとしても,日々の努力をしているかいないかによって,もたらされる機会や地位などの意味が大きく異なるのだということ。それを踏まえて,職業としての学問において僥倖を受け取るにあたり,必要なことは何かを講演したのがマックスウェーバーの議論だったのかなと思っている。

 じゃあ,必要なことをしていれば僥倖がやって来るのかというと,そういうことを論じているわけじゃない。それは,たぶん人それぞれのやり方があるのだと思う。


 私が次なるご縁をいただけたのは,たぶん誰かがそういう風に仕向けてくれたおかげだと思う。実のところ,それが誰なのか,そんな誰かがいるのかも,分からないのだけど。でも,そう考えて恩返しのつもりで努力していれば,いつかまた次のご縁に巡り合うこともできるだろう。そうやって,一つ一つを繋げていきながら放浪していくのである。


 その放浪の旅路に,東京という街があったこと。そこでいろんな人たちと会えたことはとても嬉しいことだった。

 『エクスファイア』誌4月号の特集は「もう一度,学校へ行こう」。海外の大学の様子を入り口にリベラルアーツ(教養)を身に付けようと呼びかける(ちみなに東京大学・福武ホールも紹介されている)。『日経おとなのOFF』誌も「おとなの教養実践講座」という特集を組んでいる。不況下だからこそ,知識技能を身に付けることが重要ということだろう。

 大人の学びへの関心は徐々に盛り上がっている。テレビではNPO「シブヤ大学」の取り組み(渋谷の町を舞台にした移動講義のようなもの)が再び取り上げられ,企業の中に大学のような学びの場をつくるコーポレイト・ユニバーシティについても取り上げられることが多くなってきた。

 東京大学の中原先生たちによる新著『ダイアローグ:対話する組織』(ダイヤモンド社2009.2)は,こうした学びの場における「対話」の重要性,第三の道としてのオープンなコミュニケーションの必要性を説いている。アン・スファードの「学習メタファ」の議論は直接出てこないが,どちらか一つの学習メタファを選ぶのではないという問題意識と通じていることは明らかである。

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 東京という街を離れるにあたって,もう一度読み返しておきたい本があった。ミヒャエル・エンデの『モモ』である。この有名な児童文学は,現代社会への痛烈な風刺作品としても知られ,教育学を学ぶ人間ならどこかで「読みなさい」と薦められたりする本でもある。

 私もまた皆さんに「読んでみては?」と呼びかけたいが,しかし,たぶん『モモ』という作品が拠って立つ問題意識や社会風刺の構図モデルは,だいぶ時代遅れになってしまい,たとえば『ダイアローグ』などの議論の地平に立つ人たちにとっては「やっぱり子どものお話だね」という風に感じられるかも知れない。

 しかし『モモ』という作品を,少し丁寧に(つまり視覚的に加速して読むのではなく,言葉の持つ実時間に限りなく近づけながら)読んでいったとき,この作品で語られていくことと,自分自身がこの本を読んでいく身体や意識で感じることとが,ねじれてリンクしていることに気がつく。そこから何かに気付いていくこともできるだろう。


 そう考えると,「第三の道」あるいはそれに類似したものを模索する私たちは,四次元の方程式を解こうとする試みに突入していたのだとも言える。集合知やデータの視覚化,Web2.0が魅惑的に見えたのは,あるいはそのような方程式にもとづいて構築されたように見えたからかも知れない。つまり蓄積された知という過去とベイジアンネットワークなどが垣間見せる未来(のようなもの)によって,私たちはその解を得たかのように思うのである。


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 コミュニティという言葉は,少し手垢がつきすぎたと思われているのか,使われてもよさそうな文脈で避けられていることが多い。あるいは,入れ替わりの激しいこの場所では,コミュニティという言葉が持つ硬さがそぐわないと思われているせいかも知れない。

 だから東京では「スペース」とか「カフェ」とか「バー」とか「ワークショップ」とか「プレイス」とかいう言葉によって,その集団や活動を指し示すことが結構ある。


 「共同体」というのは言葉はベタなのかも知れないが,コミュニケーションや対話の問題について,哲学や社会学は「共同体」を鍵語にしてずっと考え続けてきたともいえる。

 岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』(ミネルヴァ書房2009.2)は,書名の通り,教育や学習にとっての共同体とは何かを整理していく書である。先の『ダイアローグ』にも通ずるであろう「対話共同体」に向かって,様々な論者の共同体論に触れながら論を展開していく。もちろん私たちにはお馴染の「学びの共同体」(by 佐藤学)も登場する。

 もちろん,哲学的な探求が進み終盤に至ると,これは言葉遊びを小難しく書き綴っているだけなのではないかと不満を抱く人々もいるだろう。なんだい,ちっとも役立ちそうにない。精神論じゃ解決しないぞ。導管メタファの悪い事例じゃないか。まどろむように論じていてもどかしい。なんかそんな声が聞こえてきそうである。


 私には,このようなことが東京と地方の間でも起こっているように思える。どちらも同じ問題が存在しているけれども,そのアプローチはとても違う。どちらが良いとか悪いわけではない。これもまた四次元の方程式が織りなす複雑さなのだ。

 この3年間は,社会的にも様々な出来事があり,私たちの意識も右往左往している。小泉政権後,教育基本法改正につながるてんやわんやを経て,地方分権(道州制等)議論・都道府県知事への注目,米国のサブプライムローン問題とリーマン・ブラザーズ破綻を起因とした急激な経済不況,そして雇用問題。様々なイシューの発生が,国内の分断と島宇宙化をさらに進めた。

 世界ではYouTubeがスタートして,国内ではニコニコ動画が脚光を浴びネット動画視聴が当たり前化する。子どもとの関係では,ネットいじめや学校裏サイトの問題も表面化した。教員はICT指導力求められ,新しい教育指導要領の実施を求められ,学力テストにも対応し,教員免許更新制まで授かった。それでいて,学校教育に割く国家予算は子どもの減少を理由に削減するか,分権を理由に地方へ負担を委譲する方向へと進む。

 文部科学省と財務省と総務省の歴史的確執を,あちこちの審議会や地方自治を舞台に様々な人たちが代理戦争して疲弊する。マスコミの単純化によって,学術的見地さえ同じ土俵に乗せられて無力化を被る。換金可能な理系的知がだけが重視され,人文知は説教の如く受け流される。社会を相手取って政治的(キレイに言えば戦略的)に動くか,世俗とは回路を断ち切って自分たちの島の中に閉じこもるのか,あるいは第三の道を探すのか。そんな岐路に追い込まれたかのようにも思える。

 アカデミアも変わっていく。職階が「助手−講師−助教授−教授」から「助手−助教−講師−准教授−教授」へと変わった。こうした地位(アカデミックポスト)への争いは,ますます激化している。公正な比較を理由に,想定される能力尺度はますます単純化して,それに当てはまらなければ,容赦の無い蔑みがあちらこちらでささやかれる。就職を心から喜ぶこともあり得ない。道具的な関係をどうやってオブラートに包んで日々をこなしていくか。それをコミュニケーション能力だと思い込んでいたりする。私自身の心根にも,そうしたものが忍び込んでいたりする。


 3年という時間に見聞きしたこと,遭遇し直面したこと,肌で感じたことは,まだたくさんあるし,もっと明るい出来事もある。それらを踏まえて,これからどうしていくのか。またじっくり考えなければならないと思う。