雑記: 2008年11月アーカイブ

 「ハーバード・ビジネス・レビュー」(Harvard Business Review)という雑誌がある。名前の通り,米国ハーバード・ビジネス・スクールの機関誌で,日本では,ダイヤモンド社が日本語版を発行している。

 先日,東京・新宿に新しくできた「ブックファースト」という書店の洋雑誌コーナーで,本家Harvard Business Review誌を立ち読みした。そこにコンピュータアニメーション映画で有名なピクサー社の経営に関する記事が掲載されていて気になっていたのだが,このほど12月号で日本語翻訳されので,あらためて立ち読みした(ははは,ごめんなさい)。


ヒット・メーカーの知られざる組織文化
ピクサー:創造力のプラットフォーム
エド・キャットムル ピクサー・アニメーション・スタジオ 共同創設者兼社長
http://www.dhbr.net/magazine/article/200812_s04.html
http://www.bookpark.ne.jp/cm/contentdetail.asp?content_id=DHBL-HB200812-006


 本来は皆さんも立ち読みするか,購入して読んでいただくべきだろうが,せっかくなので印象的なポイントだけここでご紹介させていただく。(ちなみに英語の記事は「How Pixar Fosters Collective Creativity」というタイトル)

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 キャットムル氏は「優秀なアイデアと優秀な人材」について,別の会社の社長たちが「優秀なアイデア」を重視することに違和感を覚えていたらしい。そしてピクサー社を運営していく中で,やはり「優秀なアイデアよりも優秀な人材が大事」であることを確信するようになったのだという。

 「二流の人々に一流のアイデアを渡すと台無しにしてしまうことがあるが,一流の人たちに二流のアイデアを渡すと素晴らしいものに変えることが出来る」

(ちょっと文末うろ覚え…)

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 それから,ピクサー社のルールというものも印象的だ。

 1) 誰とでも自由なコミュニケーション
 2) 気兼ねのないアイデア提供
 3) 学術界の最新イノベーションの情報収集

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 ピクサー社をはじめ,アップル社やグーグル社,そしてマイクロソフト社といった企業が,会社の敷地を「大学のキャンパス」に見立てていることはよく知られている。創造性に富んでいると評判の企業は,どこかそうした雰囲気を取り込んでいることが多い。

 ピクサー社の社内ルール3番目に「学術界の動向」に関する情報収集を掲げていることも,日本の企業にとっては,まだまだ新鮮なことではないか。企業内大学の動きは始まったばかりである(まあ,Appleさえ,自身でApple Universityを立ち上げたばかりである。文化やマインドとしては根付いていても,組織・制度しては取り組み始めたばかりということか)。


 ルールのうち,3)は単に優秀なアイデアを探してくるというのではなく,1)と2)とセットで考えたとき,やはり自社の人材が優秀さを維持するために必要なことだと考えていると解した方が自然だろう。

 優秀な人材を獲得するのか,育成するのかは,企業の体力にも拠るだろう。しかし,優秀な人材を留め維持することにエネルギーを注がないとすれば,優位を維持することは難しい。今回のハーバード・ビジネス・レビューの特集テーマに照らして言えば,そういうことになりそうだ。 

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 さて,これを教育現場に当てはめると「どんな事柄でも上手に目標に即した教育内容として扱える教師」ということかも知れない。ただ,このような表現は,少し理解を狭めてしまうかも知れない。もっと漠然と表現してしまえば,「授業の腕の立つ教師」という事になるだろうが,教師の専門性に関しては様々な議論があるし,多様性の確保を考えれば,単純一律の「優秀教師」像を描くことは,むしろ弊害にもなるやも知れない。


 そして,これとは別に言いたいのは,本来的に学校教育機関こそ「キャンパス」のイメージで満たされるべき場所なのではないのかということ。

 そう考えたとき,小中高校(あるいは当の大学さえ)いずれもクリエイティブなイメージに満たされた(物理的にだけでなく,文化や風土の環境としての)キャンパスを実現し得ていないところが多いのではないか。

 たとえば学校現場にピクサー社の1)〜3)のルールを当てはめたとき,印象としては,むしろ時代とともにそれらが満たされなくなってきていることに気づく。


 どうやら,また海外から(過去に日本が持っていたものを)再輸入する必要が出てきたのかも知れない。本当にお恥ずかしい話である。


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 書店に立ち寄ったら,苅谷剛彦先生の新刊本『教育再生の迷走』が平積みされていた。これは数年前に「webちくま」のWeb連載記事として書かれた各回の原稿に,今日の状況を加味した振り返りの文章を書き下ろして書籍化したもの。毎回読んでいたので,これまた立ち読みで書き下ろし部分だけ読ませていただいた(すいませんねぇ,貧乏で)。

 教育再生会議や教育基本法の改正といった,あの打ち上げ花火・安倍政権の時代の「美しき」騒ぎの中で,冷静に実証的データを下敷きとした議論の必要性と,それを踏まえた問題提起や考察を展開してきた筆者の,数年後のため息を読んでいるような気がしてきた。なんか,立ち読みしてどっと疲れてしまった。

 苅谷氏の結論も,地道な努力を続けて教育への信頼を回復するしかないということだった。「優秀な人材」は降ってこないのである。地道に育成したり,手厚く支援して,優秀さを担保しなければならない。

 ところが,困難な事態にある社会情勢と複雑な教育制度と行政の絡まり合い,そして人々の学校教育に対する「マイナス意識」が,その実行を難しくする。とはいえ,誰かが具体的な処方箋を提示すべきではないのか。


 FACTA誌12月号の巻頭コラムに「今こそ「信じられること」の意義を問え」という論考が掲載されている。いまこそ社会学が復活して,その役目を果たすべきだと発破をかけている。

 正直なところ,教育社会学者たる苅谷氏の今回の著書は,そうした未来への地図というよりは,あの酷く「美しかった」時期のことを記録に留め,次なる研究の仕込みをするための準備でしかなかったが,きっと1680円の寄付をすれば,次回作で読めるんじゃないかなと思う。

 休止宣言したのに,逆に更新が多いなといぶかしがっている皆様こんばんは。

 なにゆえ更新が頻繁なのかというと,現実逃避が頻繁だからである。何をしているのかというと,議論の文字起こしをしているのである。論文書くのもしないといけないが,分析対象のデータの文字起こしが終わっていないため,ずっと家にこもって文字起こしをしているのである。

 ところが,この文字起こしがやっかいな仕事なのである。

 現場にいたはずなのに,皆さんが何をしゃべっているのか判別するのがとても難しく,ちっとも前進しない。いくら繰り返し聞いてみても,当てはまる言葉が思いつかない部分に,幾度となくはまるのである。

 その場合は,一旦寝かしておくしかない。後で戻ってくるつもりで先に進むパターンもあれば,休憩を入れて時間をおいてから聞き直す場合もある。そんなことばっかりなので,駄文書きが頻発する。ああ…。


 それにしても面白いことに,時間をおいてから,再度聞き直すと,あれほど何度繰り返し聞いても分からなかった言葉が,パッと明瞭に分かるようになるときがある。

 これは何だろう。本当に人の聴覚というか,言語認識は文脈依存というか,体調依存というか,気まぐれというか。分かるんなら最初から分かりたかったよという,さらなるストレスが…。

 はあ…,一人家にこもると,精神的にも身体的にも大変不健康だなと思う。

 明日は久しぶりに大学に出かける。とにかく,今月中には文字起こしを片付けないと…。

 「ブックファースト」という書店チェーンがある。東京・新宿に新しく店舗をオープンしたというので,用事のついでに訪れた。分断されているとはいえ,広いフロアに90万冊の雑誌や本が揃う。

 紀伊国屋や三省堂,ジュンク堂にリブロなど,東京には大型書店がいくつもある。やれ80万冊だ,こっちは100万冊だ,90万冊だ,いやいや150万冊だと,夢みたいな冊数で競い合う。だいぶ慣れてしまって,本の冊数では驚かなくなったし,それだけの冊数があっても,無い本は探しても無いということも分かってきた。

 それでも新しい書店がオープンしたと聞けば,それなりに心は躍るものである。足を踏み入れて,真新しい書棚とフロアにわくわくしながら,広いフロアを眺め歩いた。ただし,様子が分かってくると「ふーん,なるほどね」という感じになる。そもそも売っている本自体は,他の書店と違うわけじゃないから,当然か。

 ただビックリしたのは洋雑誌コーナーだった。そこで積み上げられた新刊雑誌の量が圧巻。他の書店でも洋雑誌は扱われているが,同じ号でも2,3冊あれば多い方だというのが普通。ところが,ここは日本の雑誌と同じくらいの部数がドカッと陳列されているのである。まるで海外の空港内にある書店のようだ。それが新鮮だった。

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 新しい書店に刺激を受けてか,貧乏なのを忘れて,久し振りに本を買い漁った。ブックファースト以外でもあちこち。どうして本を買い漁ったのか。それはもちろん,担当している大学の授業のためでもあったし,修士論文のためでもあったし,私自身のためでもあった。じっくり読む時間はあまりないが,斜め読みしながら大事なポイントをいくつか吸収してみる。


 内田樹氏の新刊『街場の教育論』(ミシマ社2008/1600円+税)を買った。どっちかというと『下流志向』の方がより教育本っぽいのかも知れないが,そっちは買ってなかったりする,ははは。

 内田氏の書く思考過程はとてもクリアだと思う。フランスの現代思想がご専門だからか,どうしてこんなにシンプルな哲学が実践できるのか,いつも感心してしまう(それでいて扱われている内容は東洋思想も豊富)。日本中の人が最低限この『街場の教育論』を読んだうえで教育を議論したら,もうちょっとマシになるんじゃないかと思うんだけれども,内田氏の「放っておいて欲しい」という至極まっとうな指摘通り,この本を読んでみんなが冷静になるべきかも知れない。それから,226頁あたりで展開するキャリア教育に関するくだりは,膝打ちたくなるほど。そういう国になっちゃってることを私たちはもっと自覚すべきなのだと思う。

 まあ内田節に誤魔化されているだけという意見もあるので,他の著者の本もいろいろ読む必要はあるけれど,その上で,この本を読んでいくと私自身も反省するところをいろいろ思い出す。また一方で,願わくはもっと信頼をして教育の営みを私たちに引き受けさせてくださいっていう気持ちにもなる。自分のすべきことに向けて,淡々と真面目に毎日を生きることがもっとも大事なのかなと思える。

 教育や先生の秘密を暴かれている感じがして,ちょっと気恥ずかしくなってしまうが,是非とも学生たちにも読んでいろいろなことを考えて欲しい一冊だと思う。

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 徳久恭子氏の『日本型教育システムの誕生』(木鐸社2008/4500円+税)は,徳久氏の博士論文をもとにした力作。教育史ではなく,政治学の立場から描き出した過去と諸アクターに「国家−社会」「伝統−近代」という二軸で区分された座標面を重ねたところにゾクッときた(174頁)。

 昨今「教育委員会」をめぐる問題がいくつか報道され,日本の教育行政に関して注目が集まっている。大分県の教員採用汚職,大阪府での学力テスト調査結果開示に関する知事と市町村教委の確執,神奈川県教委の委託業者から個人情報流出など。

 教育委員会の廃止,あるいは教育委員会制度の抜本的な改革が主張されるものの,何故このような自体になったかについて,私たちが知っている知識は乏しい。以前の駄文で「教育改革関係図2007」というものを書いた。すでに内閣も変わって状況が一変し,関係図を新しく描き直さないといけないが,それでもこうした構図を私たち全員が共通認識していたかといえば,それはいまでも心許ないはずである。

 さらに地方分権改革に対する関心から芋づる式に地方自治というものがそもそもどのような歴史を辿って成立したかを紐解くと,当時の自治省と文部省(現在の総務省と文科省)の対立構図がくっきりと浮かび上がる。大阪府の橋本知事と市町村教育委員会のバトルは,歴史的な視野で見るとその代理戦争をしているといってもいい。なんてことだろう…。

 (文部省は一方で,日教組とのバトルを展開していたわけだが,現場レベルでは教育委員会と教員組合との蜜月関係の構築によって,なんとか地方教育行政を回そうとしていた地域もあったわけである。それが今日まで残っていたために汚職問題を生むことになってしまった。かなり粗雑に描けばそういうことになると思う。)


 たぶん,そろそろ教育社会学者の先生だけでなく教育行政学の先生達も,もっと世間一般に向けて議論を始める状況がこないといけない。特に地方自治と地方分権改革の歴史の中で教育行政がどのように捉えられてきたのかを分かりやすく語る論客が期待されている。その上で,それぞれの土地に住む私たちが,その土地でどのような行動(アクション)をとればよいのかを示唆してくれることが必要だ。

 大分だとか,その他の土地で起こっている教育委員会の問題も,結局はその土地に住む人びとが自分の土地の現状について知る術を使うことなく,また行動する術を知らなかったために取り残されてきたことが今さら出てきてしまったのだから。

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 最後に,爽やかな本もご紹介しておこう。翻訳書であるが,中田麗子 訳『新しく先生になる人へ ―ノルウェーの教師からのメッセージ』(新評論2008/1800円+税)である。

 ノルウェーで教員養成課程を卒業し,いざ新任教師として一歩を踏み出す人びとに宛てた先輩からのメッセージ本といったものである。ノルウェーの教師が,どんな心構えで仕事をしているのかをうかがい知ることが出来る。

 日本にもその手の本はいくつもある。ただ,日本のその手の本はどこか老年教師が書いた若い人たちへの遺言的な空気があったし,最近出てくる比較的明るめ軽めの本でさえ,開放感に満ちているというよりは,ストイックな世界でどう肩の力を抜いて生きていけるかという暗い影からの逃走という雰囲気を払拭できていない。

 それに比べると,この本の語り口は「〜してはいけません」「〜なければなりません」という文言も少なくないのだが,それは場を開いていくためのものとして納得に包まれているのである。そして,多様性に対応するためのいくつもの提案や問いかけを提供してくれている。

 やはりお国柄が教師文化にも反映されているのだろうか。まあ,先に紹介した本を読んだ私たちからすれば,日本の教員文化がどこかどろどろしたいるのも仕方ないなぁとは思う。ノルウェーとか,フィンランドとか,北欧の国のような教師文化はどこか優雅である。それは写真を見ていてもそう思う。この本もそうだし,ナントカ波書店のフィンランドの教師の育て方とかナントカという本に掲載されている写真も,教師たちはゆったりとしたソファーやチェアのある部屋でくつろいで談話する様子が見られる。ところが日本の学校にはそういう環境がない。あるのはパイプ椅子である。ストイックな私たちにはお似合いかも知れないが…。


 さて実は,訳者の中田さんとはお友達(のつもりなのだが,ろくにご一緒する機会も持てぬまま…ご無沙汰してます)で,この本を翻訳されたという話を聞いて,ご紹介と相成った。彼女が北欧に縁が深いというのは,研究などで知っていたが,5カ国語もしゃべれるほどの語学堪能だったとは知らなかった。とにかく,そんな中田さんの充実した「訳者あとがき」も読み応えがあるので,興味のある方は是非。

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 いやはや,それ以外にも,あれやこれやと興味深い本はあるのだが,ここまで。

年内更新について

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 ま,あらためて書くことでもないと思うのだが,年内の更新についてお知らせをしておきたい。従来からお読みになっているみなさまは,私が大学院生で,修士論文を書く身になっていることをご承知だと思う。とにかくそうなのだ。

 本来であれば,ブログの駄文を書き綴っている場合ではない。書くなら論文というわけである。


 というわけで,これから年内のブログ更新については,お休みモードへと移行させていただくことにする。もちろんそうは言いつつも,【講義後記】は書くだろうし,来週はちょっとした報告を書くことになるだろうから,完全停止というわけではない。気持ちそうさせていただくというだけの話である。そうするだけでも「書かなきゃ」という心理を休ませることが出来るのだ。

 その代わりと言ってはなんだが,「教育らくがきWeblog」を「教育らくがきArchive」として再公開することにした。果てしなく遠回りして自滅した,珠玉(?)の教育駄文を「暇があったら」お楽しみいただければと思う。もちろん,私は皆さんがそんな暇人でないことを祈るばかりだ。

CS4日本語版登場

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 アドビ社といえば,フォトショップなどのグラフィック/デザインのアプリケーション会社として有名だが,この度,同社の主力製品群の新バージョンであるCS4シリーズの日本語版が12月に登場することが明らかになった。

 CS3ユーザーとしては,特に慌ててアップグレードする必要もない感じで受け止めている。新機能もプロならいざ知らず,私たち程度のユーザーにはあまり縁がない。それにアップグレード料金は,相変わらず高い。

 ところが,関連記事を斜め読みすると,ビデオ映像編集ソフトであるプレミアに興味深い新機能が付いているらしい。「スピーチ検索」と呼ばれる機能である。

 膨大な映像素材を効率的に整理し扱うために,人間がスピーチしている映像に対して「文字起こし」を行ない,そのテキストデータをもとに映像のポイントを検索できるというものらしい。

 そして,興味深いのは「スピーチの文字起こし」機能である。いやはや,確かに昨今のテレビ映像には画面に字幕テロップが踊っているし,そうでなくても海外のスピーチ場面には翻訳字幕が付くのが普通。なるほどそのデータ起こしを自動化できれば,楽なことこの上ない。

 日本語に対応し,複数の話者にも対応しているとのこと。まだ実際に動いているところは見られていないが,昨今の音声認識技術は確実に進歩しているとはいえ,スピーチの音声やしゃべりがクリアでない場合が多いことを考えると,まあ,普通の映像に対しては難しいと考えた方がいいが,きっとNHKの番組ぐらいの日本語クォリティなら90%ぐらいいくのだろう。

 授業研究などでビデオ映像を扱う関係者の皆さんにとっては,たまりゆく映像資料を整理する悩ましい状況を「スピーチ検索」機能が少しは役立ってくれるかも知れず,そういう意味では,ちょっと知っておいて良い情報である。

 すでに大統領選挙は結果が出たわけであるが,教育の文脈において両候補が何を語っていたのかを知っておくのも悪くない。アメリカの教育関連サイトには,選挙のためにまとめられたページがある。

 EDUCATION WEEKのVoter's Guideには,マケイン氏とオバマ氏の教育分野に関する発言がまとめて引用されている。

 「NO CHILD LEFT BEHIND (NCLB)」に対する態度の違いもそうだが,教育予算についてオバマ氏は出していく方向で考えていることがわかる。民主党らしいといえばらしい。まあ,教師教育を手厚くすることが魔法の杖というわけではないのだが。
 少なくともアメリカの教育関係者にとって,NCLBを何とかしてくれる大統領が期待されていたのだから,それについて何かしら手を打ってくれる大統領が決まって,ほっと胸をなで下ろしているのだろう。

 同ページからのリンクで,バラク・オバマ氏の教育政策に関するページを見ることもできる。

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 各国の反応に関する報道で気になったのは,マスコミが取り上げた部分の恣意性の問題もあるが,日本のコメントが「日米関係の維持」というものであったのに対し,世界各国のコメントは「より発展的な」とか「新しい関係を」といった言葉やニュアンスを発信していたこと。なんでこんなにやる気ない雰囲気の国になっちゃったのかいな。

 今日は小学校のお手伝いの日だったが,先生達が英語活動の本格開始に向けて研究会を行ない,様々なアイデアや授業を議論していた。ここに至るまでの道筋にはいろいろ論じるべきこともあるが,現場では変化に向けての努力が日々続けられているのだということを,今一度確認しておきたい。

 アメリカという国が変わろうとして新たな大統領を迎えた。日本の小学校現場も外国語活動への取り組みの中で,英語や様々な国の語学活動を取り入れ変わろうとしている。

 もちろん,人生において変化の時期はたくさんあれど,世界がある重要な転機を迎えているという歴史的な意味合いを持った時期というのは,おそらく人生でこれを逃せば立ち会うことができないだろう。そして否応なく,世界的な視野で行動することを求められていく。

 地方分権化によって地域に根ざした国づくりが進められてきた。それが日本の国の仕組みとして変わることは当分無いだろう。しかし,だからこそ,今一度,私たちが構成する日本という国の未来のビジョンをすり合わせる努力を,新しい回路を作って,その上で展開していかなければならないと思う。そこで解決可能な小さな問題からきちんと対処し積み上げていくことをしないと,47以上ものお山の大将が好き勝手に戯れている烏合の国にしかならない。

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 これもテレビで取り上げられていた言葉だが,オバマ氏は自伝の中で「empathy(共感,思いやり,感情移入)」というキーワードを取り上げていたのだという。彼がこの言葉によってグローバルな世界を歩もうとする時代において,私たち日本に暮らす者はムラ社会を越えたところで共感や思いやりを発揮できるのか。

 これは単に「優しく接する」とか「情けをかける」ということではない。empathyとなれば,立場の置き換えにも似た意味合いが入り込み,相手の状況に対する深い理解に基づいて,厳しい対応を取ることもあり得るということである。相手を想うからこその厳しさのようなものである。

 そういう意味で,今後,オバマ時代のアメリカが日本に対してどのような態度をとってくるのかは,むしろ,私たちがオバマ時代のアメリカ(や世界)に対してどういう態度をとっていくのかに関わっているのだろうと思う。場合によっては,ブッシュ時代よりもさらに手厳しい対応をされることにもなるだろうし,そうなったとき,私たちの国がちゃんと自立してものを考えられるのかどうなのかが試されることにもなると思う。

 日本にとって,変化のための材料は(幸いなことに)過去の蓄積の中にたくさんある。月並みな逆説だけれども,新しい未来のために,過去の財産との対話がこの日本という国に求められているのだろうと思う。

Yes, we can.

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 長きにわたって行なわれていたアメリカ大統領選挙に決着がついた。民主党候補バラク・オバマ上院議員が勝利宣言を行なった。今回はひっくり返ることも無い,圧倒的な強さである。

 たまたまインターネットでニュースを追いかけて,彼の勝利宣言演説をライブで見ることになった。初のアフリカ系大統領になるという彼の姿を見ると,その変化の大きさに危うさもまだ感じるが,しかし,明らかにアメリカ国民は変化を選択したのだということをあらためて確認した。

 日本だとどこかのCMの文句になってしまいそうだが,彼は後半,聴衆とともに「Yes, we can.」と繰り返し唱えた。どこか自信を喪失しかけていたアメリカとその国民に対して,これは変化のための一里塚に過ぎない,これから変化のために共に歩んでいこう,私たちにはできると強く鼓舞した演説のように思う。

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 アメリカという国が輝くためには,強いリーダーシップを持った大統領が必要である。それは単純素朴にそうなのだと思う。もちろんグローバル社会のもとでは,アメリカ単独で好き勝手にやって上手くいくような単純な世界ではなくなっているが,それでもアメリカ以外に夢や希望を語って強い影響力を発揮できる国はない。

 日本という国とアメリカという国は,国の成り立ち方や仕組みが違うので,日本では単純にリーダーが強ければいいという問題でもない。その辺の違いを踏まえつつ,私たちも良い影響を受けながら変化していければと願う。