雑記: 2008年6月アーカイブ

消せるボールペン

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 今月のゼミでの研究発表が終わり,ちょっとだけ一息つく。教育実践の記録様式に対して一つの提案をして,それを実際に実験してみようという研究。その提案部分がぼちぼちプレ実験してみようか(してみないと分からんなぁ)くらいになったので,次は実験協力者探しのフェイズに入る。慌ただしい夏になりそうだ。

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 お手伝いしている小学校のパソコン準備室に,パソコン教室での授業を終えた子どもたち何人かが,寄り道で遊びに来た。「何やっているのか?」という素朴な問いから始まり,パソコン覗いたり,カバンや筆記用具を漁ったり,チェックを受ける。子どもたちなりに何者なのか気になっていたようである。

 最近,愛用している筆記具を見て「これ僕も使ってるよ」「わたしも使ってる」と声を聞かされた。さすが文具に気を使う小学生,商品チェックもかかさないらしい。周りであんまり話題になっていないから人気ないのかなと思っていたが,意外に小学生の愛用者が多いことにびっくりした。

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 私が愛用しているのは,消えるボールペン「フリクションボール」である。

 資料なんかに書き込みをする機会が多いのだが,普通のボールペーンだと修正が難しい。修正が頻繁になったときに,取り消し線や塗り潰しが大きく場所をとってしまい,新たな修正書き込みが難しくなることが難点だったわけである。
 とはいえ,消しゴムで消せる鉛筆やシャープペンで記入すると,視認性という面でボールペンに劣ってしまう。そのトレードオフは悩ましい。修正ペンや修正テープを活用する人もいると思うが,それはそれで資料の書き込みという場面で使うのには面倒なことが多い。

 というわけで,単純に考えれば「消せるボールペーン」という商品にはニーズがあるし,欲しかったというわけだ。

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 消せるボールペーンなんて本当にあるのか? インク研究開発者のチャレンジのおかげで,いままでのボールペンのインクとは異なる,新たなインクの開発によって消せるボールペンは実現した。

 たとえば,三菱鉛筆社の「uniball Signo イレイサブル」は,典型的な消せるボールペンである。そもそも「uniball Signo」シリーズは水性顔料ゲルインクを採用した書き味の良いボールペーンシリーズで,消せないバージョンは100円ショップでも定番となっているくらいポピュラーな商品であり,私も消せないボールペーンとして愛用している。その消せるバージョンとして登場したのが「イレイサブル」という商品である。

 この商品がなぜ消せるのかは,商品ホームページにも解説がある。要するに,紙の上での定着具合をインクの特性でコントロールして,鉛筆と同じように消しゴムで擦れば紙から剥がれるようにしたわけだ。これは発想としては単純素朴で,それを実現するための新しいインクを開発する苦労が実った結果,実現した商品である。

 ただ,インクの定着具合はインクの工夫だけで完全にコントロールできるわけではない。書き込む紙の特性にも大きく影響されるし,実は書き味にも少なからず影響を与えてしまっている。肝心の「消せる」という機能も,いつでもきれいに消せるというわけではない難しいもあったわけである。

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 「消せるボールペン」は,「かろうじて消せる」という程度のもの。そんな認識が定着しつつあるところに,次なる刺客として登場したのがパイロット社の「フリクションボール」である。この消せるボールペンは,これまでの消せるボールペンとは異なる発想で消すことに挑戦した意欲作である。

 これまで,ボールペンの字を消すためには,鉛筆と同じで,インクを紙から取り去ればよいと考えられてきた。インクが無くなれば字も無くなり,新たに紙に書くことができる。
 しかし,この方法の問題は,キレイに取り去るのが難しいということだった。鉛筆の文字を消しゴムで消していたら,紙が汚れたり,シワシワになってしまったという苦い経験をした人もいると思う。ボールペンでもその問題は根本的に同じだった。

 そこで,他に文字を消す方法は無いかと考えたとき,私たちが使うもう一つのアイテムが「修正液」である。あの白い液体を上から塗りたくって,新たな書き込みスペースをつくってしまうという発想である。
 要するに,文字を消すというのは見えなくなれば良いのであって,インクを剥がす手間をかける必要は無い。インクはそのまま放っておいて,新たに書けるようにスペースをつくりましょうというのが修正液の発想である。

 この発想を修正液なしで実現できないだろうか。パイロット社の開発者たちは,そう考えたに違いない。そして古い書類のインク文字が薄く消えかかっていることなど,いろいろな物事から発想を得て,何かの方法でインクが透明になってしまえば,文字を消したと同じことになる!という考えに至ったのだろう。

 消しゴムで消すときに起こるのは,ゴムと紙が擦れて温度が上がるということ。だったらある温度になったらインクが透明になってしまうインクを開発すればいい。そうやってでき上がったのが「フリクションボール」という消せるボールペンである。

 実際,このボールペンの消え方は,別の方法と比べてとてもキレイである。そして消えたところに新たな別の書き込みができる。その上この方法なら,蛍光ペンにも適用が容易である。資料の書き込みには蛍光ペンタイプも重宝する。

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 というわけで,消せるボールペンには二つの方式があり,それぞれに特徴がある。

 いずれの方式でも,消せるボールペンは「消せる」という特性があるため重要な書類の記入に使用することは避けなければならない。この点は気をつけないといけない。
 それを注意すれば,筆記具として,とても使い勝手の良いものなので,愛用しているというわけである。それが小学生にも受け入れられているというのは,なるほどなぁとも思う。

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 最近は,使い勝手の良さから「フリクションボール」をノートを書くときにも使用してしまっている。実は,これについては,私自身ちょっと反省をしていて,なるべく早いうちに「uniball Signo イレイサブル」に切り替えるか,普通の顔料インクボールペンに戻したいと考えている。

 インクの開発努力によって,使い勝手の良い筆記具が登場したのはありがたいが,こうした消せるインクの耐久性は,まだ十分検証されていない。特に特定温度によってインクそのものが透明になってしまうフリクションボールの場合,意図せざる環境変化によってインクが透明になる可能性がある。これは「記録を残す」という観点から考えると,危険な可能性である。

 30年後,いまの子どもたちが小学生時代のノートを見返す機会があったとき,フリクションボールで書かれた部分だけがそっくりそのまま消え去っていたという笑えない事態が起こらないとは限らない。

 資料に書き込む程度のことであれば,インクが消えても資料本体が残るという意味で,まだ許容できる部分もある。けれども,ノートなどの記録が丸ごとインクの透明化で見えなくなってしまったら,これはこれで大変な話である。

 そう考えて,そろそろ普通のボーペーンに戻ろうか,それともせめて違う方式の消せるボールペンに戻ろうかと考えている次第である。
 自分のノートが残るのは恥ずかしいとは思うし,死んだあと他人に見られるなんて,それはそれで逃げ出したくなる話だ。けれども,そう生きちゃったものは仕方ないし,未来の歴史研究者や考古学者たちが過去を知る術を得なければならないことを考えたとき,記録を残すということ(記録の内容という意味じゃない)に最大限の配慮をすることは私たち一人一人の義務のようにも思えるのである。

 それは,未熟ながらも現在の私の研究にも通底する思いなのである。

 「組織学習システム論」という大学院の授業を受けている。今回のテーマはずばり「組織学習論」であった。取り上げられた文献をご紹介した方がイメージしやすいだろうか。

 1. 安藤史江(2001)『組織学習と組織内地図』
 2. ピーター・センゲ(1995)『最強組織の法則−新時代チームワークとは何か』
 3. デヴィッド=ボーム(2007)『ダイアローグ 対立から共生へ 議論から対話へ』
 4. ジョセフ・ジャウォースキー(2007)『シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ』
 5. ピーター・センゲ,オットー・シャーマン(2007)『出現する未来』

 これらは書店でいえばビジネスコーナーに置かれている書籍ばかりである。要するに企業における教育や学習についてフォーカスしたもの。学校教育畑の人間には,少々縁遠かったりもする。ただし,縁遠かったにしても,いまや無視できなくなっているのは確かで,今後は概念の対応や連携の仕方などについても課題が発見されて,研究が盛んになる分野である。

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 秋葉原で起こった事件について,何も考えないわけにはいかない。そろそろ明確に認識され始めているように,これは社会的な不平等(格差と呼ばれる問題)と深く関係し,諸々の表面的な対応(刃物の販売制限やネット書き込みの監視強化)などは本質的な解決策ではない,ある「現況の断片」だということである。

 そして,おそらくは肥大化した個人の学習に比して,組織や社会の学習が相応に発展していないことによる歪みもしくは葛藤が,解消されずに行き場をなくして所々で爆発していると表現できるかもしれない。

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 残念ながら今回の発表担当ではなかったため,直接文献を読んだわけではない。しかし『出現する未来』という書物の記述が興味深く思えた。最初私は,この書が対話におけるU型プロセスというものを提示して,そのU字底辺部分を「プレゼンシング」という過程であると説明しているのが,よくわからなかった。何かを提示するという過程なのかと想像した。

 ところが,これは「提示」ではなく「出現」なのだという。なるほどタイトルはそう書いてある。そして原書の名前もシンプルに「PRESENCE」である。

 対話において一度自分の認識を括弧に入れ,固定化した認識の変化に前向きである対話を継続することで,対話する者同士に大局的な視野や世界観が「出現」するというのである。そこで発生しているのは,学び直しに近い。あとは,それを実際に行動へと結びつけていくプロセスに移り,組織としての学習が達成されていくというわけである。

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 皆さんも容易に想像されると思うが,こうした学習が発生する組織に所属する個人は,個人レベルでの発展と組織レベルでの発展に有意義な連関を見出すことから,その職業人生に満足感を得やすいと推測される。

 ところが現実には,そのような学習を満足行く形で達成している組織は少ない。志はあっても,なかなか十分に取り組めなかったり,第三者の力を借りる必要があったりと,実現への道のりは険しい。それが普通である。

 むしろ問題なのは,悪いほうへ悪いほうへと組織が突き進んでしまっている現実があることだ。「出現」させるどころか,「隠ぺい」もしくは「偽装」させるプロセスを躊躇なく展開しているといってもいい。

 そしておそらくは,秋葉原の事件を起こした張本人も,そうした世界に身を置いていた一人なのではないか。これとて安易なステレオタイプかもしれないが,少なくとも理不尽さを抱えた日常を生きて,私たちと同様にそれに強い不満を抱いていたことは確かである。本人にとっての,その具体的な理不尽さや不満を推し量ることは,私たちにはできないとはいえ…。

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 今回の授業で扱った文献やその著者たちの考えを聞きながら,そして秋葉原の事件のことを重ね合わせてみたりしていると,ちょっとだけ「エヴァンゲリオン」のことが思い出されてしまう。

 テレビ版のラストは,あらゆる人物事の境が取り払われて,地続きな「私」になるといったモチーフの映像が展開していたように思う。まさにそういったものが「出現」したのであるが…,あらためて,あれこれ解釈できるあのアニメの謎ぶりが面白く思えてしまった。


 それにしても私たちに出現する未来とは何だろうか。対話の必要性がますます高まっているのかもしれない。

 日曜日,いろいろ事情あってApple Storeに技術サポートをお願いしにいくことになった。私は根っからのApple好きであることはよく知られた話なのだが,Apple Storeを始めとしたAppleの商売下手は大嫌いなので,頼りにしつつも何があっても驚かない気持ちで出向いた。

 案の定,今回他社製品が絡んだ技術サポートは対象外で受けられないと返答してきた。こういう場合,「そんな理不尽なルールがあるか!対応しろよ」と粘るのが普通の消費者なのかもしれないが,この会社の営業方針と付き合いが長くなると,そうした抗議のエネルギー自体が無駄であることも承知しているので,むしろ現実的な方策を打つことにした。


 「受け付けられないということはわかりました。それで,この技術サポートを受けるための別に可能な選択肢は何ですか,教えてください」とお願いしたのである。

 自分のところでサービスできないということは,事実上,他へたらい回しするということである。だとすれば当然ながら,より良いたらい回し先を紹介するくらいのサービスは十分に提供してもらいたいじゃないか。


 「いま,近辺のリストを印刷してお渡しします」といったところは,先方の定石のようである。問題は,リストを客に渡してからのことである。それで店員はすっかり満足だ。仕事は終わったような気持ちでいる。

 私はリストを眺めて,わざとつぶやいてみた。「えっと,株式会社のサービスが多いですね。日曜日はやってないかなぁ…」店員は,一緒にリストを見つめて,なんの反応もない。

 まったく…,ナントカ・ジーニアスとかコンシェルジェとか聞いて呆れるわ。私がApple Storeに日曜日に駆け込んできた理由とか,できればいまから別の店に出向きたいという気持ちを察して,サービスを生み出そうという気概も空気も感じられない。早くにたらし回しモードに移ったなら,移ったなりに,たらい回し先まで案内し届け終わるまで面倒見るのがApple Storeの本来の哲学じゃないのか?

 他社製品が絡む技術サポートを受け付けないことによる自分たちのサービスの効率化や合理化を推し進めているにもかかわらず,合理化の先,消費者の満足までサービスが届いていないんじゃ,話にならない。こういう中途半端な精神でAppleブランドを背負っている人間が多いから困ってしまう。

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 結局,日曜日に技術サポートを引き受けてくれたのは,多摩に店舗を構える老舗のマック販売店。マック愛好家の間でも昔から知られたお店であった。結局,Appleという会社と長く付き合い,振り回されて苦労した者同士で助け合ったという感じ。


 サービスとは何か。商売人にとっては永遠の問いであり,問い続けることで生み出し続けるしかない。そうした本質に向かう真摯な問い掛けをせず,上っ面だけの目新しさを追いかけるのに終始しているとしたら,そのうちハリボテみたいな全体が崩れ落ちるに違いない。それは何事においてもそうだと思う。

凡ミス

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 今日は凡ミス。16:00からの用事を午後6:00からと思い込み,スカッと吹っ飛ばしてしまった。思い込み時刻通りに現場に着いたら,(当然ながら)跡形もなく事が済んで誰もいなかった。ああ…。

 結局,かち合って出られないと思っていた大学院の行事に参加することになった。同じコースに所属している人たちとの交流の機会で,普段慌ただしくてなかなか話ができない人たちと少しだけ近況報告を交わした感じである。

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 久し振りの晴天。洗濯と少々のアイロンがけをした。秋冬物をうまく洗濯して収納したいが,セーターなどは洗い方が難しそうで,まだ手が出せない。

 情報教育教員をしていた経験も評価されてか,学習ソフトウェア情報研究センター(学情研)が主催する「学習ソフトウェアコンクール」の審査員をさせていただいた。(第23回のお知らせ:募集終了済)

 先日,予備審査会に出席して,いろんなソフトやコンテンツを見せていただいた。審査過程にあるから,具体的なことを書くわけにはいかないが,いろいろ創意工夫したソフトや作品が並び,評価するのもなかなか大変である。とはいえ,審査員側もそれぞれの経験に基づき作品を審査し,総合的な観点から作品が絞られていく。最終審査はこれから。どんな作品が選ばれるのか楽しみである。

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 こうやってコンクールやコンテストが開催されることで,作品づくりへの動機を生んだり,作品を作った人に対して労をねぎらったり,広く作品を知ってもらうきっかけになることが目指されている。

 営利的ビジネス的なものとはまた異なるが,こういう教育現場や教育にかかわる人たち同士の互恵的な動きも上手く持続するように全体がデザインされるよう期待したい。

軽量軽快化

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 教育ト書きの更新頻度がなかなか上がらないのは、書き手の忙しさもあるが、何より駄文を書いてから公開する段になって躊躇うようになってしまったことが大きい。

 以前継続していたブログに対して、応援の声がある一方で、心配や懸念の声も聞かされて、それはそれで周りに迷惑をかけているのだろうと思えていた。その上、私自身が大きな環境の変化を経験し、意図せざる出来事をいくつか味わい、自信喪失もある中で、その流れを断ち切る必要性に駆られて、続けていたブログを終わらせることにしたのは確かである。

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 "Scientific American Mind"誌の2008年4-5月号は「The Social Psychology of Success」という巻頭記事で「Stereotype on the barin」(脳におけるステレオタイプ)をテーマとした特集である。

 これはちょっとだけピグマリオン効果にも似たお話で、ピグマリオンが教師の「期待」が教え子に影響するというものであったのに対して、こちらは「ステレオタイプ」が悪影響を及ぼすというものである。つまり、ある種のステレオタイプについて自覚してしまうことが、パフォーマンスを下げたり(あるいは逆に上げたり)するという現象である。

 記事によると、こうした現象が起こるのは、自分がどの特定グループに属しているかという認識、自己の所属アイデンティティが関与しているのだということらしい。特定グループに対する評価(のステレオタイプ)が、自分のパフォーマンスの正否にも影響するというわけである。

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 果たして、ある程度安定していた組織や所属から飛び出して先行きわからぬ状態に移ったのだと考えることが、私自身のパフォーマンスを上下させたのかどうかはハッキリしない。それでもメンタルな部分を経由して、だいぶ縮こまってたようにも感ずるし、そう思って逆に虚勢を張れば、逆効果を生むことにもなる。その均衡点を探す作業すら、あっちこっちぶつかりながらなので大変である。

 春に新たなブログを始めることにしたのは、新しいペースを形作りたいという思いからであった。とはいえ、過去の駄文との差別化を意識しながら、自分が今いる立場や環境、周りに人々への配慮など、結果的にはパフォーマンスを抑制する結果となっている。これはあんまり嬉しいことではない。

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 そうか、根本的な原因は、このブログの重厚長大を目指しがちな駄文にあるのだ。初心に帰りきれていない甘さ。私にとってのこの場所は、軽快に物事を横断しようという実験空間であったはずなのだ。だからこそ、読む皆さんには「こっそりお楽しみ」いただくことをお願いしてきた。私が楽しくなくてどうするのか。


 ここで仕切り直し。軽量軽快を目指して、更新頻度を上げていこう。