りん: 2008年11月アーカイブ

 教育現場でご活躍の先生方,教育関係者の皆様を主な対象として参加しいただけるICT活用授業力ゼミという勉強会があります。ご関心のある方は,どうぞ気兼ねなく,この機会をスタートとして,是非ご参加ください。

 このゼミは,ポイントを押さえてシンプルに,かつ楽しく参加しようという思いでやっていますので,時間も短め,サクッと,でも面白かったぁ,とお互い言えるように運営していきます。年末,ちょっと楽しみながら勉強もしてみたい方,お待ちしております。もちろん無料です。
 

 「ハーバード・ビジネス・レビュー」(Harvard Business Review)という雑誌がある。名前の通り,米国ハーバード・ビジネス・スクールの機関誌で,日本では,ダイヤモンド社が日本語版を発行している。

 先日,東京・新宿に新しくできた「ブックファースト」という書店の洋雑誌コーナーで,本家Harvard Business Review誌を立ち読みした。そこにコンピュータアニメーション映画で有名なピクサー社の経営に関する記事が掲載されていて気になっていたのだが,このほど12月号で日本語翻訳されので,あらためて立ち読みした(ははは,ごめんなさい)。


ヒット・メーカーの知られざる組織文化
ピクサー:創造力のプラットフォーム
エド・キャットムル ピクサー・アニメーション・スタジオ 共同創設者兼社長
http://www.dhbr.net/magazine/article/200812_s04.html
http://www.bookpark.ne.jp/cm/contentdetail.asp?content_id=DHBL-HB200812-006


 本来は皆さんも立ち読みするか,購入して読んでいただくべきだろうが,せっかくなので印象的なポイントだけここでご紹介させていただく。(ちなみに英語の記事は「How Pixar Fosters Collective Creativity」というタイトル)

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 キャットムル氏は「優秀なアイデアと優秀な人材」について,別の会社の社長たちが「優秀なアイデア」を重視することに違和感を覚えていたらしい。そしてピクサー社を運営していく中で,やはり「優秀なアイデアよりも優秀な人材が大事」であることを確信するようになったのだという。

 「二流の人々に一流のアイデアを渡すと台無しにしてしまうことがあるが,一流の人たちに二流のアイデアを渡すと素晴らしいものに変えることが出来る」

(ちょっと文末うろ覚え…)

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 それから,ピクサー社のルールというものも印象的だ。

 1) 誰とでも自由なコミュニケーション
 2) 気兼ねのないアイデア提供
 3) 学術界の最新イノベーションの情報収集

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 ピクサー社をはじめ,アップル社やグーグル社,そしてマイクロソフト社といった企業が,会社の敷地を「大学のキャンパス」に見立てていることはよく知られている。創造性に富んでいると評判の企業は,どこかそうした雰囲気を取り込んでいることが多い。

 ピクサー社の社内ルール3番目に「学術界の動向」に関する情報収集を掲げていることも,日本の企業にとっては,まだまだ新鮮なことではないか。企業内大学の動きは始まったばかりである(まあ,Appleさえ,自身でApple Universityを立ち上げたばかりである。文化やマインドとしては根付いていても,組織・制度しては取り組み始めたばかりということか)。


 ルールのうち,3)は単に優秀なアイデアを探してくるというのではなく,1)と2)とセットで考えたとき,やはり自社の人材が優秀さを維持するために必要なことだと考えていると解した方が自然だろう。

 優秀な人材を獲得するのか,育成するのかは,企業の体力にも拠るだろう。しかし,優秀な人材を留め維持することにエネルギーを注がないとすれば,優位を維持することは難しい。今回のハーバード・ビジネス・レビューの特集テーマに照らして言えば,そういうことになりそうだ。 

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 さて,これを教育現場に当てはめると「どんな事柄でも上手に目標に即した教育内容として扱える教師」ということかも知れない。ただ,このような表現は,少し理解を狭めてしまうかも知れない。もっと漠然と表現してしまえば,「授業の腕の立つ教師」という事になるだろうが,教師の専門性に関しては様々な議論があるし,多様性の確保を考えれば,単純一律の「優秀教師」像を描くことは,むしろ弊害にもなるやも知れない。


 そして,これとは別に言いたいのは,本来的に学校教育機関こそ「キャンパス」のイメージで満たされるべき場所なのではないのかということ。

 そう考えたとき,小中高校(あるいは当の大学さえ)いずれもクリエイティブなイメージに満たされた(物理的にだけでなく,文化や風土の環境としての)キャンパスを実現し得ていないところが多いのではないか。

 たとえば学校現場にピクサー社の1)〜3)のルールを当てはめたとき,印象としては,むしろ時代とともにそれらが満たされなくなってきていることに気づく。


 どうやら,また海外から(過去に日本が持っていたものを)再輸入する必要が出てきたのかも知れない。本当にお恥ずかしい話である。


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 書店に立ち寄ったら,苅谷剛彦先生の新刊本『教育再生の迷走』が平積みされていた。これは数年前に「webちくま」のWeb連載記事として書かれた各回の原稿に,今日の状況を加味した振り返りの文章を書き下ろして書籍化したもの。毎回読んでいたので,これまた立ち読みで書き下ろし部分だけ読ませていただいた(すいませんねぇ,貧乏で)。

 教育再生会議や教育基本法の改正といった,あの打ち上げ花火・安倍政権の時代の「美しき」騒ぎの中で,冷静に実証的データを下敷きとした議論の必要性と,それを踏まえた問題提起や考察を展開してきた筆者の,数年後のため息を読んでいるような気がしてきた。なんか,立ち読みしてどっと疲れてしまった。

 苅谷氏の結論も,地道な努力を続けて教育への信頼を回復するしかないということだった。「優秀な人材」は降ってこないのである。地道に育成したり,手厚く支援して,優秀さを担保しなければならない。

 ところが,困難な事態にある社会情勢と複雑な教育制度と行政の絡まり合い,そして人々の学校教育に対する「マイナス意識」が,その実行を難しくする。とはいえ,誰かが具体的な処方箋を提示すべきではないのか。


 FACTA誌12月号の巻頭コラムに「今こそ「信じられること」の意義を問え」という論考が掲載されている。いまこそ社会学が復活して,その役目を果たすべきだと発破をかけている。

 正直なところ,教育社会学者たる苅谷氏の今回の著書は,そうした未来への地図というよりは,あの酷く「美しかった」時期のことを記録に留め,次なる研究の仕込みをするための準備でしかなかったが,きっと1680円の寄付をすれば,次回作で読めるんじゃないかなと思う。

 毎日新聞によると「教育委員会と議会の間における報道機関取材内容に関する通知問題」が発生していたのだという。報道の自由が侵害される類の問題とされる。

 私は最初,今朝(29日付)の記事「取材内容通知問題:和歌山市教委でも取材内容、市議に提供 掲載予定日や印象も」を目にして,頭の中に,はてなマークが踊ったのである。

 「この言葉足らずなWeb記事は,何が言いたいのだろうか?」

 幸い,キーワード検索をして,岡山の問題の記事が読めたからよかったものの,もしもこの記事単独でコピーが提示されても,この記者が何を問題にしているのか,素人にはさっぱり分からない。

 うちみたいに,読者のこと考えない駄文を書くのを前提とするなら,前提を解説する必要もない。けれども,一応全国紙なんだし,物書きのプロなんだから,こういう新聞(Web)記事を書いてはいけません。


 この記事が書くべきだったことは
・「報道の自由を侵害する可能性」が発生したこと

 なぜ侵害する可能性があるのかについて
・「事前に」市議へ取材内容を通知したこと
・よって事前に報道へ「圧力が加えられる」余地が生まれること

 そもそも
・市議からの「通知要請はなかった」こと
・その場合に「通知する義務」もないこと
・記者個人が特定できる「個人情報の扱い」に配慮がなかったこと


 くらいは,要素として盛り込んで,記事を書いてくれないと,新聞報道の信頼性低下にもつながってしまう。高校生や大学生の新聞じゃないんだから,もうちょっとプロとしての仕事してよね。

 それとも研修が足りませんか。報道関係者研修の機会でも増やしてもらいましょうか。そうすれば,我が国の報道・言論の質の向上と高度化にもつながってよいかも知れません。教育機関はいいですよ。報道関係の皆さんの主張のおかげで,研修だらけですからね。必ずや日本の教育の質は上がります。ここは是非見習っていただいて,報道機関の研修も充実させましょう。ははは(乾いた笑い…)。

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 冗談はさておき,この記事は,私たちに様々なことを考えさせる材料となりそうだ。

 ・そもそも教育委員会と議会の関係はどうなっているのだろうか。
 ・首長やそのほかの部局との関係はどうなっているのだろうか。
 ・住民の代表たる議会に取材内容の通知をすることの是非は結局どうなんだろうか
 ・住民の情報源たる報道と,住民の代表たる議員と,どちらに価値を置くべきだろう
 ・個々の組織の独立性と住民から見た場合の連携性のバランスはどうすべきか

 ・取材記録の情報公開で記事を作成した記者と,取材記録の廃棄を求めた記者の矛盾


 私たちは,実のところ教育法規も行政法についても,ほとんど知識がない。教育に関わる人間でさえ,そうした事柄への関心が薄いというのに,世間一般の人たちはどうだろう。そもそも記事を書いた新聞記者たちは?

 つまり,この記事からは日本の教育報道に関わる不幸な状況が浮かび上がる。

 全国紙のそれぞれの地方で修行を積んでいる(たぶん若手の)記者たちが,それぞればらばらに地域の現状を見て,何の共通見解もないまま「問題の構図」だけ引き写すかのような記事を書く。
 昔だったら,それぞれの地方版に掲載されて終わり。こうやってへそ曲がりな教育関連サイトの人間にからかわれることはなかった。でもいまではWeb記事として記録され,地方地方の記事が検索結果で比較されてしまう。そのいつの間にか起こってしまったメディアの地殻変動に,記者たちの頭は追いついているのかも知れないが,身体は追いつけてないようだ。もしかして全く逆で,どうせWeb記事になるから,検索してもらえれば過去の経緯が分かるだろう,と甘えてやしないだろうな。


 一方,私たち受け手自身も「理解の解像度」をあげなければならない。

 これを他山の石として,自らの駄文にも向けなければならない。自分の見解を書くのは「言論の自由」として保証されているのかも知れない。けれども,そのことによって何をもたらしたいのか,何がもたらされるのかについて,今まで以上に考えを巡らす必要も出てくる。そうした事柄への理解を丁寧にきめ細かく展開するよう配慮しなければならない。


 ボールは投げ続けるだけではすまない。いつか投げ返されることを覚悟していなければならないということである。そのことへの配慮が私たち言葉を操る者には,今まで以上に必要だというのに,今回のこの不幸な記事には,その配慮の欠片もない。そのことがすごく残念なのである。

「Alway look on the bright side of life」 ("いつも人生の明るい面を見ていよう")
 作詞作曲・Eric Idle

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元気出しなよ,ブライアン。こう言うだろう

何かしら人生には嫌なことがあるし
そのせいで本気でキレそうになることもある
他にも罵りたくなることばっかりだ
たとえ人生の困難にぶち当たっても
文句言うんじゃなくて,口笛を吹こうよ
やがて何もかも良くなっていくんだから
だから…


人生明るい方だけ見ていよう

人生明るい方だけ見ていよう


人生腐って見えても
何か忘れてるはずさ
笑い微笑み,踊り歌うこと 
憂鬱なときでも
愚かになっちゃだめ 
口をすぼめ,口笛吹けばいいってこと


だから,人生明るい方だけ見ていよう
(さぁ!)
人生明るい方だけ見ていよう


人生ばかげてるし
最後は死んじゃうし
幕引きしてはお辞儀しなくちゃいけないし
過ちなんか忘れて,ニッコリしてみせて
楽しもう!最後なんだしさ


そう,「死」の明るい方だけ見ていよう
最期の息が絶えちゃうまではね
糞みたいな人生
見ようによっては
人生は笑いで死は冗談さ,ホント
すべてショウだとわかるさ
みんなを笑わせ続けるのさ

でも忘れないこと,最後は自分が笑うんだって事をね
だから,人生明るい方だけ見ていよう


人生明るい方だけ見ていよう
(さぁみんな!,元気出して!)
人生明るい方だけ見ていよう

人生明るい方だけ見ていよう


途方もなく最悪なことが起こってもだよ,分かる?

人生明るい方だけ見ていよう

つまり,なんか失うものがあるか?ってこと
分かってる?なんもないところから来て
なんもないところへ帰るんだから
なんか失うっての?なんもなし!
 
人生明るい方だけ見ていよう

 
 

 
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Cheer up, Brian. You know what they say.

Some things in life are bad
They can really make you mad
Other things just make you swear and cause
When you're chewing on life's gristle
Don't grumble, give a whistle
And this'll help things turn out for the best...
And...


... alway look on the bright side of life

Alway look on the bright side of life


If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing 
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps 
Just purse your lips and whistle -- that's the thing


And...always look on the bright side of life
Come on

Always look on the bright side of life


For life is quite absurd
And death's the final word
You must always face the curtain with a bow
Forget about your sin -- give the audiences a grin
Enjoy it -- it's your last chance anyhow


So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath
Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true
You'll see it's all a show
Keep'em laughing as you go

Just remember that the last laugh is on you
And always look on the bright side of life


Always look on the bright side of life

Come on guys, cheer up

Always look on the bright side of life

Always look on the bright side of life


Worse things happen at sea, you know

Always look on the bright side of life

I mean - what have you got to lose?
You know, you come from nothing
- you're going back to nothing
What have you lost? Nothing!

Always look on the bright side of life

 小学館の百科事典「日本大百科全書」(ニッポニカ)が「Yahoo!百科事典」として無料で提供されるようになるという。これでいよいよプロの編集した事典データが自由にネット検索できるようになる。

 この恩威を受ける人は多いが,特に小中高校の教育機関では,調べ学習の際の情報ソースとして,ようやく信頼できる出典元を児童生徒に使わせることが出来ようになり,Wikipedia寡占状態を脱することが出来そうだ。

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 Wikipediaは,ユーザーによって項目追加や執筆が行なわれる点で,項目や解説に対する柔軟性がある。通常の百科事典では取り上げられない事柄についても項目が立ち,かなり重厚な解説がなされることもある。また,各種言語に対応していることから,それぞれの言語毎(その言語を使う圏内毎)にどのような解説がなされているのかを知ることも出来る。

 その反面,すべての項目が平等に解説されるわけではない。人々の関心が向かないところの項目は存在しないこともあるだろうし,あっても解説が手薄になることもある。項目に対する解釈や具体的な解説方法に関して衝突もある。場合によっては誤解や虚偽の内容が掲載される可能性もある。そのような場合にも複数ユーザーによる相互チェック機能が働くことで訂正がなされたり,あるいは解釈や解説の困難さそのものが情報として伝わるというメリットがないわけではなかった。

 混沌とした現実を直接反映する生きた百科事典としてのWikipediaは,確かにネット検索の際に大変重宝がられてきた。家や職場や大学でも調べたい項目があればネット検索,そしてWikipediaを参照するのはベーシックな調べスタイルになっている。

 そして,同じようなことが小中高校の現場でも起こっていた。果たして,Wikipediaは小中高校の学習活動,調べ活動の情報リソースして望ましいかと問われると,これはいくらか検討を要する問題である。まさに教材論だし,教育情報学として考えてもよい問題である。

 義務教育段階を知識に対する助走期間と考える立場であるならば,むき出しの生の情報ともいえるWikipediaの使用は,教材として扱うハードルが高い。これを使いこなせるほどに児童生徒は知識を扱うスキルを身につけていない(そもそも小学生だと読めなかったりする)し,不必要な内容に学習が振り回されることも考えられる。他にはもちろん,情報の正確性に関する懸念もあるが,それ自体はどのような情報リソースも同じく抱える問題なのであって,むしろ編集責任主体の曖昧さが問題ともいえる。

 そういう意味では,Wikipediaとは別に,プロの編集者によって編まれた百科事典の公開が待たれていたのも事実である。すでに英和/和英辞書や国語辞書などは三省堂や小学館のものがgooやYahoo!で提供されていたが,百科事典はなかった。

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 そこでようやく吉報である。

「Yahoo!百科事典」公開、小学館の百科事典データを無料で閲覧
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/11/27/21673.html

ヤフーと小学館、プロ編纂の知識の泉「Yahoo!百科事典」を無料公開!
http://journal.mycom.co.jp/news/2008/11/28/007/index.html


 プロが編集した日本語の百科事典がついにネット検索できるようになる。やはりコンテンツをもっている人たちがその気になると,いろんな事が出来るのだなぁ。

 小中学校の現場でも,小学館という信頼できるところから提供された内容のものを利用できるという点で,安心感があるはずである。もちろん一般向けの百科事典なので,小学生が読むのに苦労する場合も少なくないとは思うが,ベースになる情報リソースとしては申し分ないはずだ。

 今後,Yahoo!百科事典とWikipediaという組み合わせで,活用するスタイルが普及しそうだ。

 休止宣言したのに,逆に更新が多いなといぶかしがっている皆様こんばんは。

 なにゆえ更新が頻繁なのかというと,現実逃避が頻繁だからである。何をしているのかというと,議論の文字起こしをしているのである。論文書くのもしないといけないが,分析対象のデータの文字起こしが終わっていないため,ずっと家にこもって文字起こしをしているのである。

 ところが,この文字起こしがやっかいな仕事なのである。

 現場にいたはずなのに,皆さんが何をしゃべっているのか判別するのがとても難しく,ちっとも前進しない。いくら繰り返し聞いてみても,当てはまる言葉が思いつかない部分に,幾度となくはまるのである。

 その場合は,一旦寝かしておくしかない。後で戻ってくるつもりで先に進むパターンもあれば,休憩を入れて時間をおいてから聞き直す場合もある。そんなことばっかりなので,駄文書きが頻発する。ああ…。


 それにしても面白いことに,時間をおいてから,再度聞き直すと,あれほど何度繰り返し聞いても分からなかった言葉が,パッと明瞭に分かるようになるときがある。

 これは何だろう。本当に人の聴覚というか,言語認識は文脈依存というか,体調依存というか,気まぐれというか。分かるんなら最初から分かりたかったよという,さらなるストレスが…。

 はあ…,一人家にこもると,精神的にも身体的にも大変不健康だなと思う。

 明日は久しぶりに大学に出かける。とにかく,今月中には文字起こしを片付けないと…。

ユーモアの古典

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 どんなユーモアやお笑いを好むかは人それぞれだし,地域や時代によって笑えるものと笑えないものがあったりもする。それでも多くの人々を魅了する笑いのパフォーマンスというものが時々にあったりするわけである。

 Comedy(コメディ)というと,日本語では「喜劇」になる。日本だとNHKの「コメディーお江戸でござる」がコメディという言葉をタイトルに使って耳馴染みが強いが,吉本新喜劇とかが日本のコメディ(喜劇)集団としては有名だし,テレビの世界では1960年代に放送されたいくつかの番組は,バラエティと言うよりはコメディの番組と言った方がよりしっくりくる。

 英英辞書には,たとえばOxfordだと「professional entertainment」と表現するものもあり,「作り込まれた喜劇」というニュアンスがある。日本では,Conte(コント)つまり「寸劇」が好まれる傾向があるが,コメディといえるものもあれば,バラエティとしかいえないものもあり,どこを基準に線引きするのか,よく分からないのが正直なところである。結果的にはあれこれ混ざった「お笑い」という括りで発展しているのが日本の現状である。

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 日本のコメディ番組(バラエティ番組)を紐解けば,やはりNHKの「お笑い三人組」という番組,クレージーキャッツの「おとなの漫画」,ドリフターズの「8時だョ!全員集合」,ラジオで展開していた「スネークマンショー」,漫才ブームの中での「オレたちひょうきん族」,もちろん吉本新喜劇などが歴史を作り,今日のバラエティ番組やコメディ番組に強い影響を与えた。

 海外のコメディ番組については,日本で紹介されたり,放送されたものが少ないため,私たちにあまり馴染みがないものの,たとえばアメリカであれば「サタデー・ナイト・ライブ」であるとか,深夜のトークショーなどが知られている。

 イギリスにも,ご当地の文化を反映した個性的なコメディ番組がある。それが「モンティ・パイソン」。日本でも一時期放送されたことがあると聞くが,英国のユーモア・センスは,高度のものからドタバタまで非常に独特で,好きな人は好きだし,わかんない人にはわかんないままらしい。もっともいまの日本では「Mr.ビーン」の方がイギリスのコメディとしては有名だろうけれど…。

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 世界的にも様々なコメディ番組に強い影響を与え,今なお多くのファンを獲得している「モンティ・パイソン」が,自ら過去の映像をYouTubeに公開するため新しいチャネルをつくったというのが,ここ最近話題になっている。(モンティパイソン・チャネル

 なんでも,YouTubeが出来てから3年間に,いろんな輩が自分たちのビデオ映像を無断でアップし続けてきたが,これに対抗すべく策を講じることにしたのだという。

 どいつが映像をアップしたのか分かっているし,懲らしめることも出来るが,むしろ自分たちで直接映像を配信することで,いままで劣悪な画質で中途半端にアップされてきた映像を,自分たちの臨む高画質の完全な形で公開することが出来る。しかも,タダで。え?課金なし?そうらしい。

 コンテンツを持っている人たちが腹をくくると,こういう動きになっていくんだなぁ。iTunesで映像販売する選択肢もあるはずだが(「サタデー・ナイト・ライブ」はその路線である),そうせずに,現状を皮肉りながら乗り越えてしまうあたりが,いかにも英国のユーモア精神なのかなと思ったりもする。


 僕は「Always look on the bright side of life」のクリップが気になる。というか,この曲はモンティ・パイソンがオリジナルだったのか。「いつも人生の輝かしい面を見ていよう」という口笛ソングだが,昔の時代の張付け刑という希望のないシチュエーションで歌われるというギャップを表現するあたりがモンティ・パイソンらしい。時代を経て,ある意味では,今日の社会の風刺みたいなところもある。

 この時期にこういう風に面白いものを公開されると,困っちゃうんだよな,見たくなっちゃうから。ああ,研究が…。

 スタジオ観覧を申し込むと,先方から電話やメールがやってくる。たぶん,申し込んだ時点で「教育関係者」したので,食いつきが良かったんだと思う。何度かやりとりして,観覧させてもらうことになった。

 それが決まると,当日の受付のための通知が郵送されてくる。封書にはフジテレビではなく,別のイベント会社の住所があった。なるほど,こういうエキストラの仕切りは委託された業者が担当するらしい。興味本位で会社をネット検索すると,フジテレビ関連のイベントをいろいろと請け負っている(フジテレビにとっては)馴染みの下請け会社のようだった。

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Img_5345 番組自体は19:00からスタートするが,私たちはお台場のフジテレビに16:10集合だった。のんびりと出かけたら,ちょうどぎりぎりに到着することになってしまったのだが,指定された場所には受付が設けられていて,ずらっと行列。200名ほどの参加者がいると聞いていたから,特に驚きはしなかったが,こんな風に受け付けているんだぁ…と素朴な感想を持った。ただ,教育関係者の受付はなかなか始まらず,30〜40分くらいそのまま待たされた。

Img_5346 フジテレビには,フジテレビクラブという会員組織がある。そのままずばりフジテレビファンクラブというわけだが,番組の情報やいろいろな特典,そしてこんな風に番組観覧やエキストラの募集などが行なわれる。今回も多くの人たちがフジテレビクラブ経由で募集と応募をしたようである。だから皆さん慣れた様子。

 さらに教育関係者の行列を眺めていても,どうも何度か番組に出演した経験がありそうな教育関係者が並んでいて,グループで楽しそうに話したり,テレビ局の人とよく知った者同士の会話をしたり,なんだか独特な雰囲気も感じられた。こうした企画に協力的な現場の人というのは,どうしても限られるから,常連さんが生まれるのは当然だと思うけれど,新鮮さがどの程度担保されるかは少し疑問に思えた。


 受付では,通知の提出と,ネームタグや書類の受け取り,そして交通費の受領のための手続きをする。そして,いよいよフジテレビ局内に案内される。

 やはり放送局なので,入構に関しては警備が厳しい。といっても案内係の人に連れられて,とことこ歩けば,控え室となっているスタジオに到着する。すでにほとんどの人たちが席について,説明待ちをしていた。

 ずらっと並んだパイプ椅子には,メッセージ用フリップと○×プレート,そしてサンドイッチとお茶が置いてある。長丁場なので,事前に食事するように指示があったが,軽食は有り難い。

 番組進行に協力する誓約書を書き,本日のテーマ「変わらなきゃ」に沿って,あなたは何を変えるかという質問の答えをフリップに書くことになった。そして全員が揃ったところで全体説明。番組進行に関する説明と,フリップやプレートの使い方,そして人による退場時間の違い(小学生や高校生や帰りの都合がある人はCM中に退場するのである)と退場の仕方の説明があった。とりあえず僕は最後まで居残り組である。

 しばらくトイレ休憩。本番40〜50分前だったか,本番のスタジオへの移動が始まった。僕は最後の方だったので,あとからスタジオに入る。テレビスタジオとしては大きなセットだったが,皆さんがテレビ画面から感じるほどには大きくはないセットに,200名の観客がずらっと座る。僕は向かって左端に座った。ゲスト席の真後ろ。

 スタッフは50人程度があちこち動いたりしている。出演者として,佐々木アナが入り,西山アナが入り,伊藤アナが入り,大島アナや後から高島アナも入る。本番15分前ぐらいには,いよいよ慌ただしくなり,スタジオの照明も全開になってくる。セットと向かい合わせに巨大なスクリーンが設置されていて,私たちは映像をそれでモニターする。なので,時々出演者や観客が上を見上げていたり,別の方向向いていたりするのは,その画面を見ているせいである。

 やがて爆笑問題が入ってきて,スタジオが沸く。前番組の最後に次の番組の告知が入るが,そのための撮影があっという間に始まって,「このあとは!たけしの日本教育白書!」というコールで生放送された。いやぁ,なに,このあっさり感。あれで,日本全国に流れちゃったわけだ。恐ろしい…。

 いよいよ本番直前,照明が落ち,ビートたけしがスタジオに登場。やはりスタジオが沸くが,たけしはクレーンに乗り込んで,オープニング撮影のために宙に浮いた。「大丈夫だろうな,これ!」とか言ってみんなを笑わせていた。

 そして,本番の秒読み。みんなスクリーンを見つめて,緊張の瞬間である。そしてCMが明けて,私たちのスタジオが映し出された。

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 生放送の進行は,見た目淡々と続いていた。しかし,どうやら,(当たり前であるが)様々な展開を想定して動いていたらしく,放送が始まるまでにあちこちでチラチラ見えていたリハーサル映像や台本や準備の内容を照らし合わせてみても,かなり放送過程で進行を臨機応変に変更していたことが伺われる。もちろん,確認したことではないので,あくまでも憶測だが,本来はもっと違う番組進行を予定していたように推察されるのである。

 ビートたけしも爆笑問題も,今回はかなり抑え気味。でも番組としてどうやって面白くするか,バランスに気を遣っていたようだ。そのせいなのか,意外や意外,テレビ生放送中の議論としては議論が盛り上がり,それもあって全体進行に変更が加わったと思う。どのコーナーの議論もそれなりに盛り上がっていたと言っていい。

 興味深いのはCM中,出演者がお互い議論の続きやフォローや確認をしあったり,「なんか方向が違うんだよなぁ」とつぶやいていたりと,テレビの議論の難しさをそれぞれで調整している様だった。短い時間のやりとりや言動なのだが,それがすごく面白いし,大事な部分にも思えた。「ああ,この人たちはやはりテレビ的エンターテイメントのプロなんだ」と感心した。


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 「たけしの日本教育白書2008」の評価をインターネット上で検索すると,その内容は実に様々であった。ちなみに視聴率は11.2%ということらしい。この数字の読み方は専門家ではないので分からないが,素人知識で12%が平均的だと聞いているから,少し残念な数字なのだろう。あの夜は殺人事件の容疑者自首というニュースもあったし。

 とにかく,人によって番組について触れる箇所が違うしその評価も違う。それゆえに,様々なテーマを詰め込みすぎて,どれも中途半端だったから面白くないという評価も少なくなかった。

 僕は,逆に現場に立ち会ってしまったので,放送されたものを評価することは出来ない。確かにたくさんのテーマを詰め込んでいたということと,時間制限ゆえに十分議論が尽くされなかったのだろう事は認める。

 その上で,僕は,今回の放送は,大変出来が良かったのではないかと思っている。民放の情報バラエティ系の教育関連番組がなしえる限界の中で,かなり高い水準だったと評価している。

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 まず,いろいろなものを詰め込みすぎたという点については,これはおそらく,生放送であることと,テレビ番組構成上,どうしても避けられない。

 というのも,今回はたまたま議論が盛り上がって,時間の足りない事態が生じてしまったが,場合によっては,あまり議論が盛り上がらず,ネタを早く消化しすぎて,時間が余るパターンもあり得た。
 そのため,観客席には,○×プレートを持った200名や,それぞれのフリップにメッセージを書いて,いつでもインタビューできるように準備していた人たちがもっといたのである。なのに今回,数人のインタビューと1回だけの○×質問で終わってしまうくらい,時間が足りなかった。トロッコ問題に関するFAXの扱いが小さかったのも,同じ理由だと思う。

 では,盛り上がった議論は,良いものだったかという点については,僕も議論が尽くされたとはいえないと思う。けれども,これも腹八分だったと思えば,すべてのテーマについて実にちょうどいい具合の飢餓感を残して終われたと思う。逆説的にはいろいろ考えてもらうのによい効果を生み出しているのではないか。各テーマについてあれ以上の議論を続けていたら,議論が煮詰まって,ダラダラした印象を増幅させてしまう。

 親子問題については,「気絶するまで褒める」という提案について,まあ,少々突っ込みづらさもあったためぼんやりとしたやりとりが続いたが,事件の犯人の親子関係についての映像は,結果的にはその夜に別の事件の犯人が自首したニュースが流れて,翌日からその犯人の父親のインタビューが報道されるあたりで,すごく考えるきっかけを提示したと思う。

 2chやネット関係のコーナーは,特にネット界隈の関心が高かっただけに,事前に伝えられた内容とも違ってしまったため,かなり評価が低かったりした。けれども,この部分は,おそらく先方の事情が変わってしまって,制作者側も当初の予定と変わってしまい,かなりトーンダウンせざるを得なくなってしまったように見受けられる。もちろん,そんなことはスタジオで一言も説明はなかったけれども,なんかそんな痕跡が見え隠れしていた。
 ただ,おかげで,かなり落ち着いた議論の場にもなったと思う。目新しさはなかったし,埋め合わせた部分の議論は少し強引だったかなとも思うけれど,匿名だと思っていても,ログデータが残っていることから,書き込み主は特定されるのだという事実を番組で再度確認できたのは,よかったと思う。

 学校教育,特に教育委員会に関するコーナーも,現職知事の話を交え,教育委員会と教育長と教育委員会事務局の関係を改めて確認してみせたことは,最低限のレベルを達成して好感が持てる。
 そして,知事や実際の教育委員,そして現場の先生たちの発言によって,地方分権改革との関係,責任所在が曖昧化してしまう複雑な仕組み,それを今後どうしていくべきなのかについて,現状の形の理由も踏まえながら,ゆれながら議論できていたのは,素晴らしい出来だと思う。

 確かに,あの議論を,背景知識なしで聞くと,結論の見えない中途半端な議論にしか聞こえないが,背景事情を知った上で改めて議論を聞くと,限られた時間と全国放送という条件の中で,如何に問題をバランスよく議論すべきかを全員が配慮しながら議論していたこと,そしてそこそこ良い議論が出来たことに,感嘆するはずである。

 僕は東国原知事も橋本知事も,実に上手な人だなと思った。タレント活動を通じて,テレビで出来ることの限界を肌で感じ知った上で,現在の職務で経験し直面している事態や制度,そしてその歴史的な事情についても,ちゃんと理解した上で,うまい具合の均衡点を探ろうとしていた。それを他の出演者やゲストが,非常にうまい具合にサポートしていたと思う。今回は人選の勝利だったと思う。

 最後に石原知事わ交えた議論については,退場後だったため,十分聞くことは出来なかったが,教育における地域の重要性について東国原知事が言及したと聞いている。それは今後,この国が今以上の地方分権を推し進めることになったときに鍵となる考え方だと思う。地方分権と地方自治のあり方と一緒に教育を考えるという入り口に誘う,とても良い方向性だと思う。


 繰り返すように放送されてものを見たわけではないので,内容のバランスが良かったのか悪かったか視聴者的には分からないし,見る人によって関心を持つポイントが異なる以上,複数のテーマを扱った今回の番組に対する評価が千差万別になるのは当然だと思う。
 けれども,僕自身は,番組裏側の動きも含めて見たとき,番組制作の諸条件の中で「よくぞ頑張りました,しかも出来はなかなか良かったです」といえるんじゃないかと思う。それがテレビ的に良かったかどうかは,実は全然関係ないので,番組関係者はしっくりこないかも知れないが,教育を扱った民放情報番組としては,花丸あげても良いと思う。

 映画「未来を写した子どもたち

 文部科学省特別選定作品だからってわけじゃない。ワークショップとは何なのか,考えさせられる作品。

 彼の国の子たちにとってのカメラは,私たちの国の子たちにとっての何になるのだろう。

 次期アメリカ合衆国大統領であるオバマ氏が政権のチーム作りに励んでいることは報道などでも知られている。その政権における教育政策ワーキンググループの正式スタッフとして,スタンフォード大学のリンダ・ダーリンハモンド(Linda Darling-Hammond)女史を起用したらしい。(サンフランシスコ・クロニクル記事

 ところでダーリンハモンドって誰?という皆さんもいらっしゃるかも知れない。

 ダーリンハモンド女史は,教育研究者であり,スタンフォード大学に在籍している。教師や学校研究の分野では第一線の人である。そのような教育学者が,選挙中のオバマ氏の教育関係政策ブレーンとして活躍していた。

 そして今回,来年からの新政権におけるワーキンググループでの起用も確定したようだ。ただ,どうやらダーリンハモンド女史については,教育長官への推薦が各方面から強く出ており,彼女の登用如何が今後のアメリカの公教育を大きく左右すると考えられている。


 記事にも書かれているように彼女は「a teacher-friendly」な教育研究者である。それゆえに教師研究や教師教育・学習研究における様々な知見を積み上げて,世界的な影響力を持っているわけだ。

 ところが日本の文脈だとティーチャー・フレンドリーってだけで,構えてしまう人が多い。おまえは教師寄りなのか,組合の味方なのかと,すぐさま勝手な筋書きをつくって,敵視や排他的態度をとる人たちがいる。

 そういう誤解は,丁寧に議論をして解くべきだと思うが(某政治家の発言とか,あれやこれやの議論は,すべて丁寧さが足りないことから誤解が生まれている分,余計な労力を使っているのである),いずれにしても,教育を支えていく主体の一方である「教師」にとって,その専門性を支えるための「思慮深い支援」が必要なのである。


 アメリカは,世界が認めている教育研究者を教育政策の中枢に据えることで,その「思慮深い支援」に向けて動き出す準備をしているのである。

 とはいえ,教育政策や行政に関わるということは,政治ゲームを戦うということでもある。とにもかくにも,ダーリンハモンド女史のお手並み拝見といった感じだ。

 フジテレビがここ数年,毎年放送している秋の教育スペシャル番組が「たけしの日本教育白書」である。今年2008年で第4回目を迎える。なぜフジテレビがそういう番組をつくるのかは分からないが,学校や学問をモチーフにした番組をいくつか放送しているということもあって,レパートリーの一つといったところのようである。

 僕が初回を見たのは,短大教員として仕事をしていた最後の年に,いよいよ辞める覚悟を決めた頃,職員の人たちと仕事帰りに寄った飲み屋のテレビでだった。本当は家で見たいと思っていたが,結局仕事に忙殺されて,そういう展開になったことを覚えている。まさか3年後にスタジオで観覧することになろうとは思わなかった。

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 2008年度後期から,とある大学で教職の授業を担当することになり,久しぶりに毎週教壇に立つことになった。僕は,知識を伝達したいとき,どうしてもある程度の文脈共有が必要なのではないかと考えてしまう質なので,自分が世の中をどう見ていて,何を考えていて,担当している科目についてどういう風に捉えているのか,他の人たちはどんな捉え方をしているのかについて,ざっくばらんに話すことにしている。

 僕はそのことによって,自分の狭い理解に学生が閉じ込められないための手がかりを作ろうとしているのだけれども,まあ場合によっては,僕が広げすぎる大風呂敷を鵜呑みにしてしまう学生も出てくるのかも知れない。ただ,その場合でも,いずれは不整合を見つけ出して,僕の浅はかさを乗り越えてくれるだろう,そんな風に信じている。

 というわけで,教育界隈の時事ネタも学術ネタも現場ネタも,あれこれ混ぜ合わせておしゃべりをする。そのためのリサーチもあれこれするようになる。興味深い本や雑誌とか,教育問題を扱ったテレビ番組とか…。そんな情報収集の一環で引っかかったのが「たけしの日本教育白書」だった。

 ただ,この番組は出演者の組み合わせや発言によって,かなり出来のぶれる番組である。正直,素材として扱うに値するものなのかどうか,放送されてみないことには分からなかった。

 そういう番組を「ぜひ見てみなさい」というのも,少々後ろめたい。事前に発表された番組内容は,「親子関係」「社会と子ども」「学校教育」「有識者による討論会」といったもので,ある意味では基本に立ち返った感じだったので,気にはなるが…,さてどうしたものやら。

 それで,ホームページを見たら「スタジオ参加者募集」と書いてあるから,それじゃ,そういう「民放の教育関連番組の制作舞台裏をみんなで見に行って,その可能性と限界を考えよう!」という提案をしてみようと考えたのが始まりだった。全員が行けないとしても,行って現場で見た人と,テレビ画面で見た人との受け止め方の違いが比較できれば,どうしてメディアから受ける教育言説の印象がこうなっているのかを身近に考えることができる。


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 まあ,たぶん多くの皆さんは,「屁理屈を付け足してるが,要するにテレビ局に遊びに行きたかったんでしょ」と思われるかも知れない。確かに,2割くらいはその通りなのだが(あれれ),残り8割は大真面目である。

 
 インターネットが普及して,テレビの視聴時間がどんどん減っていく時代といわれるけれども,依然としてテレビは強い影響力を持っていると思う。あるいはインターネットと結託して,どんどん話題の流れを加速させてしまったりする。そのテレビが教育の問題を扱い,非行,いじめ,学級崩壊,不登校,麻薬・性犯罪,児童虐待,家庭内暴力,家庭崩壊,過保護,給食費未納,教師バッシング,公教育の廃退などの問題を実態として印象づけてきた。

 どの問題も現実に起こっていたことではあったが,テレビの俎上に載ってしまうことで,そもそも問題が持つ影響の大小に関係なく,同じように全国レベルの問題へと押し広げられて,問題が固定化されてしまうことは不幸なことであった。

 こうしたプロセスは,いずれ打破されると信じたいが,それでもまだしばらくはテレビの影響力によって教育やその現場が振り回されることが続くだろう。そんな時代に教師をする人々にとって,テレビというメディアが一体全体どうしてそんなことをしているのか,別の言い方をすれば,どうしてそうせざるを得なくなっているのかについて知ることは,大変有用だと思われる。

 それを知ることによって,私たちは不当な言説に対処する術を得られるかも知れない。あるいは,仮に正当な言説であった場合でも,適切なメディア対応ができるかも知れない。昨今,学校の危機管理も重要視され,メディア対応に関しても『教育関係者が知っておきたいメディア対応―学校の「万が一」に備えて』といった本が出ていることを考えても,このようなことに関心を持たない理由は無い。

 さらにいえば,「番組にはスポンサーがいて,それから系列新聞社の思想・主義の縛りがあるから云々」なんて,知った振りした解説で納得するだけでは,まだまだすくい取れない現実がそこで展開しているはずなのである。


 僕たちは,ものごとに対する「理解の解像度」をもっと上げていく必要がある。


 そのためには,やっぱり現場へ出かけなければならない。幸いここは東京だ。フジテレビには少し電車に揺られていけば着ける。いざテレビ局の裏側へフィールドワークへ出かけよう。最初は,そんな腹づもりだった。

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 授業としての提案ではなく僕個人の提案として授業前に告知をしようと,あれこれ考えていたのだが,告知をする前に参加の募集を締め切ったという連絡を受けたので,結局は誘えず仕舞い。

 また一人きりで行動することになって(いつもこのパターンである。毎度周りを誘いたいと思って計画は立てるのだが,どうも状況とかタイミングが周囲と合わないらしい…),とりあえず参加することだけ学生たちに伝えて,次回お土産話をする約束をした。


 こういう授業ってのは,本当に有りなのか?って,それでもあなたは思うかも知れない。もっと学校現場で使える教育方法・技術やICTの使い方とか,授業の作り方みたいな力量形成に役立つことを教えるべきじゃないのかって思うでしょ。

 確かにそれも大事だから,十分じゃないとしてもそれを扱う部分だって用意している。でも,そんなの将来現場に出てからも,さんざん研修などで継続的に学ぶのであって,この時期に極めてハイ終わりというものでもない。


 僕は,世界の中に凹凸を見つけるまなざしを,若いうちに養って欲しいと思っている。インターネットなどで情報収集がしやすくなり,目の前に羅列されたことによる情報関係の等間隔化や平板化が起こっている。情報に対する値踏みや判断が,情報に触れることによってではなく,どこからともなく出てくる「好き嫌い」とかで行なわれるようになってしまうことを危惧する。

 だから,大学の講義ってのは,教職の講義であっても,社会に開かれてなければならないと思う。社会との関係の中で教育の方法や技術を学ばなければならないと思う。そこからでしか,ものごとへの凹凸,教育そのものに対する凹凸のまなざしをつかむことは出来ないと考える。

 それができていなかったから,IT機器の教育現場導入が遅れてきたんじゃないか?それが出来ていなかったから,学力低下批判に対する毅然とした対応が出来なかったんじゃないか?それが出来なかったからどこかの誰かは旧態依然の殻の中に閉じこもろうと必死なのではないか?


 僕自身は,権威も十分な学識も持ち合わせていないから,このことを目指そうとしたときに,どうしても「自分で動いてみせる」という風にしか示せない。これはあくまでも僕のスタイルでしかない。

 だから,他の大学の講義が違うスタイルで展開していることが問題だとは思わない。僕は,どんなスタイルの授業でも,本質的には「社会文脈の中で…,社会に開かれた…」というスタンスを持っていると思っている。

 問題なのは,そのことが,学生にも,また外部の世間一般にも,残念ながら十分に伝わっていない。唯一そのことだけなのだ。どんな授業にも社会との接点があって,その接点を活かすためには,受講者の協力(理解の解像度を上げること)も必要なのである。そして,受講者の理解の幅を広げるために,私たちは個別に異なるスタイルの講義や演習を行ない,その振り幅を広げる訓練をしているのである。その前提が伝わっていないのだから困った話なのだ。

 振り幅を広げるために,教師は好かれもするが,嫌われもする仕事でなければならない。むしろ僕は教師は嫌われてナンボだとさえ思っている(誤解ないよう補足すれば,嫌われることを厭わない教師でありたいということである)。教師がそのように振る舞えるための条件整備をするのが国や自治体の役目である。そのことをすっかり忘れている人たちが多すぎる。

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 おっと,観覧記の前振りでいきなりヒートアップしてしまいました。まあ,幸いこうやってピエロ的に授業をさせてもらえているのだから,むしろ感謝しなくてはならない。

 というわけで,8割の部分の真面目なお話は,とりあえずこの辺までにして,また後日ぼちぼち番組放送当日の感想を(余裕があったら)書き綴ってみたい。

テレビの生放送

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 東京・お台場にあるフジテレビに出かけた。「たけしの日本教育白書2008」のスタジオ観覧するためである。出演者ではなくて,単なるエキストラなのだが,まあ,とにかく民放の番組の裏側も見てみたかったのである。

 いやはや,楽しかった。番組内容に関しては改めて書くとして,生放送のスタジオ観覧というのは,実に面白い体験だった。画面越しに番組を見ていた皆さんには申し訳ないが,臨場感とかCM中のやりとりも含めて楽しめる点で,あの議論は直接その場で聞いた方が面白い。

 それから,これも生放送の醍醐味なのかも知れないが,当初の構成内容からかなり変更されたと思われる。これは視聴者の皆さんにもお分かりになったはずである。論点の足りない部分がたくさんあったことは確かだが,一つ一つのテーマで意外と議論が盛り上がってしまったので,時間が足りなくなってしまったようだ。

 最後の部分は,終電で帰宅しなければならないため,放送を見ることができていないのだが(しかも留守録できなかった…残念),どうやらたくさんのネタを盛り込みすぎたというのは共通の反省点だったようである。

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 とにもかくにも,出演者を間近で見られたのは嬉しい経験となった。ビートたけし,爆笑問題,それから3人の知事たちはもちろんのこと,数々のゲストとフジテレビのアナウンサーの皆さんも。

 いやぁ〜,高島彩アナは素敵でした。もう天使というか,妖精みたいな人でした。

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 僕は「教育関係者」として観覧したのだが,お隣に座った「保護者」のお母さんと仲良くなり,放送中やCM中にいろいろおしゃべりしたので,それも楽しかった。

 そのお母さん,フジテレビクラブの会員で,これまでもヘキサゴンを2回ほど観覧したのだとか。「絶対もと取れるから(フジテレビクラブに)入った方がお得よ」というフジテレビ好き。う〜ん,その一線を越えるべきかどうか,悩ましい誘いだ。

何かを見た方へ

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 もしあなたが,どこかの画面を見て,「え?」っと思って,こちらにやって来たというなら,あなたの頭の中の質問に対する私の答えは「はい,そうです」になる。

 この文面は,事前に書いて自動更新されるように設定したものなので,実のところ私自身,いまどうなっていることやら(これを書いている時点では)わからない。

 とにかく,本日夕方から,ある場所にいて,いつもと違う体験をしていることだけは確かである。それがなんなのかお分かりになったというなら…,いやはやなんともお恥ずかしい限りである。

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 特に深い意味合いを持って出かけているわけではない。どちらかというと終わりゆく東京生活の思い出づくりに,ちょっと湾岸にでも出かけてみようか,という感じであった。たまたまテーマが関心のあることだから腰を上げる口実に使えたし,こちら側からしか体験したことのない世界をあちら側から覗いてみる経験も必要だろうという単純素朴な素人考えで行動している。

 普段,批判の対象としているものに近づくのは,知識を公正に操るべき人間としては,あんまり望ましいことではない。とはいえ,それを言ったら東京にやって来たこと自体,「平均でない日本の街」を実体験したいという誘惑に駆られたのだから,いまさら公正だのどうだのいえる立場じゃないかもしれない。

 とにかく「ものごとはなるべく自分で確かめよう」という基本を踏まえて,私はとある場所へと出かけている。

 そこで,何かしなければならないときにどういう風に応対するかは,限界をがあることを承知の上で割り切って,ある程度方針を考えてある。ただしそこに,場の雰囲気というものがどういう風に作用するのか,半ば実験をする意味も込めて臨んでいる。


 たぶん何のことだか,わからない人にはわからないと思うが,仮に目撃されたのなら,どうか笑ってお忘れいただきたい。とはいえ,少しでも役立つお土産話ができるようにあれこれ頑張ってみたい。それはまた明日以降に…。

【講義後記】20081115

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 非常勤講師先での講義も4回目となり,気がつくと日付も11月半ばとなっていた。授業の展開としては,ぼちぼち深みにはまるところに誘わなければならないが,相変わらず回り道をしているので,展開が強引になっているかもしない。

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 「初等教育の内容と方法」では,先週の番組鑑賞についてフォローした。非正規雇用教員の問題は,悲観的な側面が大きい。しかし,非正規雇用教員と括った中には,時間単位で勤務する非常勤講師だけでなく,年間契約の専任講師も含まれている。それぞれの立場において苦しい面と,あるいは,妥協できる面があったりもする。
 要するに,構造的な問題として解決しなければならないという問題の捉え方と,現実的にはその役目を引き受けなければならない立場に立った場合の捉え方を,単純に一緒にしてしまうのは,それも少し乱暴というわけである。もちろん,一方の問題が他方の問題への認識を曇らせてしまうことがあってはならないのだけれど。

 それから,ようやくテキストを使った授業に入った。テキストを使うというのは難しい。基本それに準じるとはいえ,その通りなぞるだけなら予習か復習で淡々と読んでくれればいい話であって,生身の講師が90分の時間,多くの学生を拘束する意味がない。とはいえ,実際にはテキストを熟読して授業に臨んでくれる人は少ないし,読んできても理解が十分でないのが前提だから,どうしても授業中にテキストをある程度なぞることになる。

 「なぞる」なんて書くと簡単そうだが,実のところ,なぞることほど難しいことはない。下手になぞれば,単なる棒読みになりがちで,お昼ご飯を食べた私たちには,子守歌以外になりようがない。
 そこで,一生懸命,単調にならないように抑揚をつけたり,話を脱線させたり,突然読むところを飛ばしてみたりと試してみるのだが,あれ何だろうね,眠たい時ってのは,つねられても眠気が消えないものである。

 ただ,考えてみると,この日はテキストを使うぞとばかり張り切っていたものだから,教室の温度がかなりポカポカであることに気がつけなかった。最後に書いてもらったコメントによれば「今日は教室が暖かすぎました」とか「エアコンの温度下げて欲しかったです」という意見が多数。ははは,それは授業中に言って欲しいなぁ…。

 とにかく,テキストを駆け足で眺めながら,必要な箇所について指摘したり,ポイント解説したりして,あっという間に授業時間が過ぎてしまった。次回は学生たちもテキストを少しは意識してやってきてくれるだろうから,ビュンビュン飛ばしていきましょう。

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 「教材論」の授業は,各学生が調査する教材や教具などの対象を決定し,似たような調査対象がある者同士でグルーピングを行なった。基本的には個人による調査課題なのだが,協力できるところは複数で取り組んだ方がいいし,他者の進捗や取り組み具合を知ることはよい刺激にもなるはずなので,そのような活動形態にした。


 調査対象は,電子辞書から始まって環境デザインまで様々。ちょっとちょっと,教材論なのにとお思いかもしれないが,まあ,世の中何でも教材になりますよってことで,かなり幅広く扱っている。

 オーソドックスに教科書について調べたいと考えている人もいるし,教材マンガと少年マンガの比較や,競合通信教材同士の比較,市販の参考書の傾向調査,NHK教育テレビの番組や組織について,福祉機器の現状,学校の教室の机などの配置や,掲示物の構成について,あるいはゲーム教材や廃材などを教材化する方法といったことまで,本当に多岐にわたる。

 やり始めてわかったが,卒業論文指導みたいな感じになっきた。もちろん,現時点では問題設定がおおざっぱだから,卒業論文テーマにするには,いくらもダイエットが必要だが,もしかしたら,何人かの人にとっては今回の課題が卒論に役立つかもしれない。そういう想像をすると,だいぶ楽しくなる。


 学生という身分は,学ぶことを正式に許されているわけなので,実際の企業や外部の人にコンタクトをとって教えを請うたり,協力していただくことも,やりやすい立場である。さらに「授業の課題なのです」という口実が付け加えれば,なおのこと外部の人に協力を要請しやすいだろうということで,積極的にコンタクトをとりなさいとけしかけている。

 もちろんご迷惑をおかけしてはならないが,何かあったときには私が責任をとる覚悟なので,是非とも学生のうちに,いろんな社会人と接触して欲しいと考えている。僕らは世界の騒がしさや賑やかさに対して,圧倒的に経験不足だと思う。まして,最近は学生もバイトやサークルやらで忙しく,世界に向けて出かけられていない。あくまでも教材論という切り口でしかないが,授業の中で社会と接触してみることは,結構意味のあることじゃないかなと思っている。


 「教材論」に関する教科書(テキスト)というのは,実は(教育学の分野では)あんまり無い。原理について語っている論文や文献が無くはないものの,教員養成課程における教材論の素材としては,すべてを埋め合わせるものにはなり得ない。だから,世間一般の教材論の授業は大概,教科との関連において具体的な教材づくりや教材分析に関する議論を行なう。

 あるいは,コースデザインとかインストラクショナルデザインといった知見を援用して,学習内容(コンテンツ)がどのような機能や構造を持っているのかを見通し,デザイン原理に基づいて開発する様を学んだり実践する授業もある。
 こちらは,教育工学の様々な知見も豊かで,確かに学習プロセス(教育システムまでも)を見通した上でコンテンツ開発について学べるので,大変賑やかではある。
 ただ,どうしても僕には,理論的な議論としては(教材論なのだから)わかるとしても,実際に論を動かそうとするときに使う筋肉が違ってきちゃう気がして,中核としては扱えないでいる。担当しているのが,教材開発者養成講座とか,人材育成担当者養成講座だとかならわかる。でも初等中等教育教員養成なので,使う筋肉は違うはずなのだ。

 というわけで,教科にも紐つかず,教育工学からも逃れて,初等中等教育段階に関係する教材論を語ろうとするとき,そんなものがあるのかどうなのか,実のところ,誰も示してくれてはいない。
 そういう,未開拓みたいなところに,コソコソ出かけていくのが好きなので,任された学生たちを連れ立って,旅に出ているというわけである。

 今回,学生たちが頑張って調査してまとめてくれる内容が,なかなかのものだったとしたら,きっと生きた「教材論」のテキストになるんじゃないかなとひそかに期待を寄せている。こんなに多彩な教材教具を一遍に扱った教材論のテキストは,そうはないでしょ。
 取材先がある場合は,先方の許可も必要だし,学生たちの賛同も必要だが,みんなの成果をWebなどで公開できたらと思う。それこそ教材を作った「教材論」というユニークな授業になるな。

 どうかそのときまで,体力と気力が残っていますように…。

 「ブックファースト」という書店チェーンがある。東京・新宿に新しく店舗をオープンしたというので,用事のついでに訪れた。分断されているとはいえ,広いフロアに90万冊の雑誌や本が揃う。

 紀伊国屋や三省堂,ジュンク堂にリブロなど,東京には大型書店がいくつもある。やれ80万冊だ,こっちは100万冊だ,90万冊だ,いやいや150万冊だと,夢みたいな冊数で競い合う。だいぶ慣れてしまって,本の冊数では驚かなくなったし,それだけの冊数があっても,無い本は探しても無いということも分かってきた。

 それでも新しい書店がオープンしたと聞けば,それなりに心は躍るものである。足を踏み入れて,真新しい書棚とフロアにわくわくしながら,広いフロアを眺め歩いた。ただし,様子が分かってくると「ふーん,なるほどね」という感じになる。そもそも売っている本自体は,他の書店と違うわけじゃないから,当然か。

 ただビックリしたのは洋雑誌コーナーだった。そこで積み上げられた新刊雑誌の量が圧巻。他の書店でも洋雑誌は扱われているが,同じ号でも2,3冊あれば多い方だというのが普通。ところが,ここは日本の雑誌と同じくらいの部数がドカッと陳列されているのである。まるで海外の空港内にある書店のようだ。それが新鮮だった。

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 新しい書店に刺激を受けてか,貧乏なのを忘れて,久し振りに本を買い漁った。ブックファースト以外でもあちこち。どうして本を買い漁ったのか。それはもちろん,担当している大学の授業のためでもあったし,修士論文のためでもあったし,私自身のためでもあった。じっくり読む時間はあまりないが,斜め読みしながら大事なポイントをいくつか吸収してみる。


 内田樹氏の新刊『街場の教育論』(ミシマ社2008/1600円+税)を買った。どっちかというと『下流志向』の方がより教育本っぽいのかも知れないが,そっちは買ってなかったりする,ははは。

 内田氏の書く思考過程はとてもクリアだと思う。フランスの現代思想がご専門だからか,どうしてこんなにシンプルな哲学が実践できるのか,いつも感心してしまう(それでいて扱われている内容は東洋思想も豊富)。日本中の人が最低限この『街場の教育論』を読んだうえで教育を議論したら,もうちょっとマシになるんじゃないかと思うんだけれども,内田氏の「放っておいて欲しい」という至極まっとうな指摘通り,この本を読んでみんなが冷静になるべきかも知れない。それから,226頁あたりで展開するキャリア教育に関するくだりは,膝打ちたくなるほど。そういう国になっちゃってることを私たちはもっと自覚すべきなのだと思う。

 まあ内田節に誤魔化されているだけという意見もあるので,他の著者の本もいろいろ読む必要はあるけれど,その上で,この本を読んでいくと私自身も反省するところをいろいろ思い出す。また一方で,願わくはもっと信頼をして教育の営みを私たちに引き受けさせてくださいっていう気持ちにもなる。自分のすべきことに向けて,淡々と真面目に毎日を生きることがもっとも大事なのかなと思える。

 教育や先生の秘密を暴かれている感じがして,ちょっと気恥ずかしくなってしまうが,是非とも学生たちにも読んでいろいろなことを考えて欲しい一冊だと思う。

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 徳久恭子氏の『日本型教育システムの誕生』(木鐸社2008/4500円+税)は,徳久氏の博士論文をもとにした力作。教育史ではなく,政治学の立場から描き出した過去と諸アクターに「国家−社会」「伝統−近代」という二軸で区分された座標面を重ねたところにゾクッときた(174頁)。

 昨今「教育委員会」をめぐる問題がいくつか報道され,日本の教育行政に関して注目が集まっている。大分県の教員採用汚職,大阪府での学力テスト調査結果開示に関する知事と市町村教委の確執,神奈川県教委の委託業者から個人情報流出など。

 教育委員会の廃止,あるいは教育委員会制度の抜本的な改革が主張されるものの,何故このような自体になったかについて,私たちが知っている知識は乏しい。以前の駄文で「教育改革関係図2007」というものを書いた。すでに内閣も変わって状況が一変し,関係図を新しく描き直さないといけないが,それでもこうした構図を私たち全員が共通認識していたかといえば,それはいまでも心許ないはずである。

 さらに地方分権改革に対する関心から芋づる式に地方自治というものがそもそもどのような歴史を辿って成立したかを紐解くと,当時の自治省と文部省(現在の総務省と文科省)の対立構図がくっきりと浮かび上がる。大阪府の橋本知事と市町村教育委員会のバトルは,歴史的な視野で見るとその代理戦争をしているといってもいい。なんてことだろう…。

 (文部省は一方で,日教組とのバトルを展開していたわけだが,現場レベルでは教育委員会と教員組合との蜜月関係の構築によって,なんとか地方教育行政を回そうとしていた地域もあったわけである。それが今日まで残っていたために汚職問題を生むことになってしまった。かなり粗雑に描けばそういうことになると思う。)


 たぶん,そろそろ教育社会学者の先生だけでなく教育行政学の先生達も,もっと世間一般に向けて議論を始める状況がこないといけない。特に地方自治と地方分権改革の歴史の中で教育行政がどのように捉えられてきたのかを分かりやすく語る論客が期待されている。その上で,それぞれの土地に住む私たちが,その土地でどのような行動(アクション)をとればよいのかを示唆してくれることが必要だ。

 大分だとか,その他の土地で起こっている教育委員会の問題も,結局はその土地に住む人びとが自分の土地の現状について知る術を使うことなく,また行動する術を知らなかったために取り残されてきたことが今さら出てきてしまったのだから。

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 最後に,爽やかな本もご紹介しておこう。翻訳書であるが,中田麗子 訳『新しく先生になる人へ ―ノルウェーの教師からのメッセージ』(新評論2008/1800円+税)である。

 ノルウェーで教員養成課程を卒業し,いざ新任教師として一歩を踏み出す人びとに宛てた先輩からのメッセージ本といったものである。ノルウェーの教師が,どんな心構えで仕事をしているのかをうかがい知ることが出来る。

 日本にもその手の本はいくつもある。ただ,日本のその手の本はどこか老年教師が書いた若い人たちへの遺言的な空気があったし,最近出てくる比較的明るめ軽めの本でさえ,開放感に満ちているというよりは,ストイックな世界でどう肩の力を抜いて生きていけるかという暗い影からの逃走という雰囲気を払拭できていない。

 それに比べると,この本の語り口は「〜してはいけません」「〜なければなりません」という文言も少なくないのだが,それは場を開いていくためのものとして納得に包まれているのである。そして,多様性に対応するためのいくつもの提案や問いかけを提供してくれている。

 やはりお国柄が教師文化にも反映されているのだろうか。まあ,先に紹介した本を読んだ私たちからすれば,日本の教員文化がどこかどろどろしたいるのも仕方ないなぁとは思う。ノルウェーとか,フィンランドとか,北欧の国のような教師文化はどこか優雅である。それは写真を見ていてもそう思う。この本もそうだし,ナントカ波書店のフィンランドの教師の育て方とかナントカという本に掲載されている写真も,教師たちはゆったりとしたソファーやチェアのある部屋でくつろいで談話する様子が見られる。ところが日本の学校にはそういう環境がない。あるのはパイプ椅子である。ストイックな私たちにはお似合いかも知れないが…。


 さて実は,訳者の中田さんとはお友達(のつもりなのだが,ろくにご一緒する機会も持てぬまま…ご無沙汰してます)で,この本を翻訳されたという話を聞いて,ご紹介と相成った。彼女が北欧に縁が深いというのは,研究などで知っていたが,5カ国語もしゃべれるほどの語学堪能だったとは知らなかった。とにかく,そんな中田さんの充実した「訳者あとがき」も読み応えがあるので,興味のある方は是非。

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 いやはや,それ以外にも,あれやこれやと興味深い本はあるのだが,ここまで。

年内更新について

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 ま,あらためて書くことでもないと思うのだが,年内の更新についてお知らせをしておきたい。従来からお読みになっているみなさまは,私が大学院生で,修士論文を書く身になっていることをご承知だと思う。とにかくそうなのだ。

 本来であれば,ブログの駄文を書き綴っている場合ではない。書くなら論文というわけである。


 というわけで,これから年内のブログ更新については,お休みモードへと移行させていただくことにする。もちろんそうは言いつつも,【講義後記】は書くだろうし,来週はちょっとした報告を書くことになるだろうから,完全停止というわけではない。気持ちそうさせていただくというだけの話である。そうするだけでも「書かなきゃ」という心理を休ませることが出来るのだ。

 その代わりと言ってはなんだが,「教育らくがきWeblog」を「教育らくがきArchive」として再公開することにした。果てしなく遠回りして自滅した,珠玉(?)の教育駄文を「暇があったら」お楽しみいただければと思う。もちろん,私は皆さんがそんな暇人でないことを祈るばかりだ。

CS4日本語版登場

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 アドビ社といえば,フォトショップなどのグラフィック/デザインのアプリケーション会社として有名だが,この度,同社の主力製品群の新バージョンであるCS4シリーズの日本語版が12月に登場することが明らかになった。

 CS3ユーザーとしては,特に慌ててアップグレードする必要もない感じで受け止めている。新機能もプロならいざ知らず,私たち程度のユーザーにはあまり縁がない。それにアップグレード料金は,相変わらず高い。

 ところが,関連記事を斜め読みすると,ビデオ映像編集ソフトであるプレミアに興味深い新機能が付いているらしい。「スピーチ検索」と呼ばれる機能である。

 膨大な映像素材を効率的に整理し扱うために,人間がスピーチしている映像に対して「文字起こし」を行ない,そのテキストデータをもとに映像のポイントを検索できるというものらしい。

 そして,興味深いのは「スピーチの文字起こし」機能である。いやはや,確かに昨今のテレビ映像には画面に字幕テロップが踊っているし,そうでなくても海外のスピーチ場面には翻訳字幕が付くのが普通。なるほどそのデータ起こしを自動化できれば,楽なことこの上ない。

 日本語に対応し,複数の話者にも対応しているとのこと。まだ実際に動いているところは見られていないが,昨今の音声認識技術は確実に進歩しているとはいえ,スピーチの音声やしゃべりがクリアでない場合が多いことを考えると,まあ,普通の映像に対しては難しいと考えた方がいいが,きっとNHKの番組ぐらいの日本語クォリティなら90%ぐらいいくのだろう。

 授業研究などでビデオ映像を扱う関係者の皆さんにとっては,たまりゆく映像資料を整理する悩ましい状況を「スピーチ検索」機能が少しは役立ってくれるかも知れず,そういう意味では,ちょっと知っておいて良い情報である。

【講義後記】20081110

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 名古屋へ寄ったり,静岡に研究調査へ出かけたり,慌ただしい週末を経て,本日も非常勤先で教育関連の講義。せっかく指定したテキストを使って,淡々と授業をしようかと思っていたが,まあ,どうしても先日のNHK「クローズアップ現代」を活きが良いうちに皆で見たいと思い,ビデオ観賞会と相成った。

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 自治体の厳しい財源事情を背景とした非正規教員への依存の強まり。しかし地方によっては,非正規教員の確保にも難儀することで,授業に穴を開けてしまう事態が発生している。番組は,とある中学校現場等を取材し,非正規教員の実態の一例を紹介している。収入や雇用の不安定。そのような非正規教員の増加が,非正規教員本人はもちろんのこと教師集団や正規教員への負担増加をもたらし,学校教育自体のポテンシャルを削いでいる現実。深刻な問題である。ゲストは,教育社会学者である藤田英典先生。


 正直,このような内容の番組を教員志望やそこで迷っている学生に見せることに,いくらか不安はある。現場の厳しい現実を見てしまうと,考え込んでしまうんじゃないか。教育に関わる意欲を失わせてしまうのではないか。あるいは,こういう泥臭い側面を扱うことは望ましいのかどうか。
 むしろ,いかに教師という仕事が誇り高いもので,子どもたちの可能性と進歩成長は大きな喜びであるか。そのための困難に立ち向かえる教師力量を形成するために自己研鑽していくことに意欲的であること。そこにフォーカスし,教育内容や教育方法の知識を講義すれば,それで私の役目は十分なはずである。

 けれども,そんな風に笛を吹いて教育の世界に誘っておいて,「あとは自分で現実を知ってね」ということが後ろめたく思える。少なくとも私自身が非常勤で働いている手前,見えているものを見えていないふりをすることが難しい。
 だったら,むしろ現実の一側面をしっかりと認識してもらって,その上で悩んでもらい(最近「悩む力」もブームだし…),乗り越えてもらった上で,教育に携わって欲しい。そういう気持ちで,こういう問題を扱うのが私の流儀である。

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 前回の授業で,カリキュラムが,国レベル,地方自治体レベル(都道府県/市町村),学校レベル(学校長/教師)において具体的な形で決められていくことを説明した。少々乱暴だが,今回の番組が扱っている主題も,実はそれぞれのレベルで展開した政治的・財政的な問題の絡み合いによって起こっていることを解説してみた。
 学習指導要領や教育課程を作り教育を運営・実践していくという動きの土台のところで,資金や権限に関する影響力の及ぼし合いみたいなものが激しく動いている。そのことに無知でいることよりも,自覚的であるべきだと思う。

 多くの学生たちが,自分たちの身近なあるいは,進み行く先で起こっている問題として,強い関心を持って番組を見ていた。ビデオ上映は大いに眠気を誘う手段だが,ほとんどの学生が食い入るように見たり,メモを取りながら見ていた。私も番組進行中の横で,必要な事柄を板書していた。


 少なからぬ学生たちが「ショックであった」とか「知らなかった」など,危機意識を持ったとコメントしてくれていた。特にもともと地方から出てきた学生たちは,自分たちの地元の実態がどうなのかを気にしていた。また,実際に自分たちが通っていた中学高校の先生に非常勤講師がいたり,自分のサークルの先輩が非常勤講師だという人もいて,番組の内容と自分の現実とを繋げて考えている人も多かった。


 国や地方自治体がやっていることにやるせなさを感じるのは確かである。一方で,それを無視して教育に情熱を注ぐという生き方もできるとは思う。いまは,問題があることを認識した上で,それでも自分たちを励まして,教育に意欲を持って関わっていくことを励まそう。でも,その現実は必ず何かの機会に変えていくことができるはずだ。第44代アメリカ大統領にオバマ氏が選ばれて,世界も変化に前向きだ。私たちもそうした世界の流れから学ぶべきことがある。


 タイムリーな話題や番組を使って,そんなような話を展開した。さて,これからがいよいよ専門知識の出番だ。厳しい現実の中で,頼りにできるのは,自分自身の知識だけである。そのような知識を得て,はじめて知識を媒介とした人々との連携も可能になる。そして教師という仕事は,そのことに関して常に誠実であることによって喜びを得ることができる。もちろん具体的には子どもたちとのかかわり合いという形に落とし込まれていくわけだが,それも教師自身の学びによって支えられているのである。そんな先生の育成に少しでも役立つ授業になればと思う。

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 もう一つの授業の方も,個人個人の課題決めをして,いよいよ具体的な行動に移すよう仕向けていく。調べたい教材教具を決めて,調べる項目についてラフに考えたもらった。次回は,予備調査報告として,この一週間で対象をざっくりと探ってもらって,その報告をしてもらう。面白そうなら,より深く調べていくことになる。

 題材決めから調査の内容,調査対象へのコンタクトまで,ほとんど学生たちに自前で頑張っていただくことになる。その成果をうまく発表などで披露してもらい,全体で共有していく中から次のステップや行動に結びつけていくように授業の場をコーディネートしてくのが私の仕事。どちらの努力も欠けてしまうと上手くいかない。頑張らねば。

 すでに大統領選挙は結果が出たわけであるが,教育の文脈において両候補が何を語っていたのかを知っておくのも悪くない。アメリカの教育関連サイトには,選挙のためにまとめられたページがある。

 EDUCATION WEEKのVoter's Guideには,マケイン氏とオバマ氏の教育分野に関する発言がまとめて引用されている。

 「NO CHILD LEFT BEHIND (NCLB)」に対する態度の違いもそうだが,教育予算についてオバマ氏は出していく方向で考えていることがわかる。民主党らしいといえばらしい。まあ,教師教育を手厚くすることが魔法の杖というわけではないのだが。
 少なくともアメリカの教育関係者にとって,NCLBを何とかしてくれる大統領が期待されていたのだから,それについて何かしら手を打ってくれる大統領が決まって,ほっと胸をなで下ろしているのだろう。

 同ページからのリンクで,バラク・オバマ氏の教育政策に関するページを見ることもできる。

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 各国の反応に関する報道で気になったのは,マスコミが取り上げた部分の恣意性の問題もあるが,日本のコメントが「日米関係の維持」というものであったのに対し,世界各国のコメントは「より発展的な」とか「新しい関係を」といった言葉やニュアンスを発信していたこと。なんでこんなにやる気ない雰囲気の国になっちゃったのかいな。

 今日は小学校のお手伝いの日だったが,先生達が英語活動の本格開始に向けて研究会を行ない,様々なアイデアや授業を議論していた。ここに至るまでの道筋にはいろいろ論じるべきこともあるが,現場では変化に向けての努力が日々続けられているのだということを,今一度確認しておきたい。

 アメリカという国が変わろうとして新たな大統領を迎えた。日本の小学校現場も外国語活動への取り組みの中で,英語や様々な国の語学活動を取り入れ変わろうとしている。

 もちろん,人生において変化の時期はたくさんあれど,世界がある重要な転機を迎えているという歴史的な意味合いを持った時期というのは,おそらく人生でこれを逃せば立ち会うことができないだろう。そして否応なく,世界的な視野で行動することを求められていく。

 地方分権化によって地域に根ざした国づくりが進められてきた。それが日本の国の仕組みとして変わることは当分無いだろう。しかし,だからこそ,今一度,私たちが構成する日本という国の未来のビジョンをすり合わせる努力を,新しい回路を作って,その上で展開していかなければならないと思う。そこで解決可能な小さな問題からきちんと対処し積み上げていくことをしないと,47以上ものお山の大将が好き勝手に戯れている烏合の国にしかならない。

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 これもテレビで取り上げられていた言葉だが,オバマ氏は自伝の中で「empathy(共感,思いやり,感情移入)」というキーワードを取り上げていたのだという。彼がこの言葉によってグローバルな世界を歩もうとする時代において,私たち日本に暮らす者はムラ社会を越えたところで共感や思いやりを発揮できるのか。

 これは単に「優しく接する」とか「情けをかける」ということではない。empathyとなれば,立場の置き換えにも似た意味合いが入り込み,相手の状況に対する深い理解に基づいて,厳しい対応を取ることもあり得るということである。相手を想うからこその厳しさのようなものである。

 そういう意味で,今後,オバマ時代のアメリカが日本に対してどのような態度をとってくるのかは,むしろ,私たちがオバマ時代のアメリカ(や世界)に対してどういう態度をとっていくのかに関わっているのだろうと思う。場合によっては,ブッシュ時代よりもさらに手厳しい対応をされることにもなるだろうし,そうなったとき,私たちの国がちゃんと自立してものを考えられるのかどうなのかが試されることにもなると思う。

 日本にとって,変化のための材料は(幸いなことに)過去の蓄積の中にたくさんある。月並みな逆説だけれども,新しい未来のために,過去の財産との対話がこの日本という国に求められているのだろうと思う。

Yes, we can.

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 長きにわたって行なわれていたアメリカ大統領選挙に決着がついた。民主党候補バラク・オバマ上院議員が勝利宣言を行なった。今回はひっくり返ることも無い,圧倒的な強さである。

 たまたまインターネットでニュースを追いかけて,彼の勝利宣言演説をライブで見ることになった。初のアフリカ系大統領になるという彼の姿を見ると,その変化の大きさに危うさもまだ感じるが,しかし,明らかにアメリカ国民は変化を選択したのだということをあらためて確認した。

 日本だとどこかのCMの文句になってしまいそうだが,彼は後半,聴衆とともに「Yes, we can.」と繰り返し唱えた。どこか自信を喪失しかけていたアメリカとその国民に対して,これは変化のための一里塚に過ぎない,これから変化のために共に歩んでいこう,私たちにはできると強く鼓舞した演説のように思う。

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 アメリカという国が輝くためには,強いリーダーシップを持った大統領が必要である。それは単純素朴にそうなのだと思う。もちろんグローバル社会のもとでは,アメリカ単独で好き勝手にやって上手くいくような単純な世界ではなくなっているが,それでもアメリカ以外に夢や希望を語って強い影響力を発揮できる国はない。

 日本という国とアメリカという国は,国の成り立ち方や仕組みが違うので,日本では単純にリーダーが強ければいいという問題でもない。その辺の違いを踏まえつつ,私たちも良い影響を受けながら変化していければと願う。

 明日(11/6)の木曜日のNHKクローズアップ現代は,「教育に穴が空く」と題して,教員確保問題について取り上げるらしい。久し振りに事前に情報を得たので,是非見て欲しい。

気がつけば富山

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 11月に入り,年末の足音も聞こえ始めた。私は研究協力の先生方を訪ねに研究調査行脚。今日は早朝の飛行機に乗って富山へ向かうため,真夜中3時に起きて身支度という予定である。

 羽田に向かい,手荷物を預け,搭乗し,30〜40分飛んだかと思えば,もう富山空港である。いまどき,そんなことは当たり前なのかも知れないが,私にしてみると良い意味でも悪い意味でもため息が出てしまう。でも帰りは鉄道のつもり。電車に揺られながら考え事する人生の方が私の性に合ってるのだと思う。

 空港に着き手荷物を受け取ると,出口でお世話になる学生さんが待っていた。休日の朝も早くから見知らぬおじさん大学院生を迎えに行くなんて仕事は,私だったらあんまり嬉しくないと思う。けれども,2人の学生さんは大変丁寧に迎えてくださり,会場としてお借りする富山大学まで送ってくださった。

 いまは,待ち時間にブログを更新中。ぼちぼち準備をしないと…。