20190327_Wed

大阪府が「小中学校における携帯電話の取扱いに関するガイドライン」を公表しました。

かなり冷静に注意深く作成されたように読めます。

地震等の災害緊急時に,安全情報取得のためや,GPSによる位置情報の利用で携帯電話(モバイルデバイス)が役に立つ。そのための一部解除というのがガイドラインの端緒です。

そのうえで,携帯電話を持たせる持たせないや情報機器の取り扱いについて,家庭や学校がちゃんと向き合い取り組んでいくことを基調としています。

とはいえ,この持ち込み禁止「解禁」という方向性が示されたときは,物議を醸しました。

これに関する報道が取り上げられた時期には,文部科学省の方でも「学校における携帯電話の取扱い等について(通知)」の見直しを検討するという大臣発言があり,これはエライこっちゃと考えた人たちも多いようです。

10年前に決められたことを,このタイミングで見直そうかどうしようか検討する…と発言しただけで「持ち込み解禁,持ち込みOK」になると恐れ不安に陥るのは,それだけ余裕のない日々を送っている人たちがいるという現実だし,その現実に何も配慮してもらえてないと人々が考えていることの裏返しかも知れません。

結局のところ,この問題は,携帯電話の問題ではなく,児童生徒たちを学びという世界に引き込めていない,引き込むだけの場づくりをするのに至っていない問題なのでしょう。

そうした世界へ,「携帯電話を持たせるか持たせないか」のルール作りという活動を通して誘うというトリッキーな手法を用いなければならないというのが「今日の日本の特殊事情」ではあるのですが,もっと先に,私たちが暮らす世界の中の私たちにとって生き甲斐となるものに対するアプローチ自体が学びという活動になる,そういう地平があるように思います。

現実的な問題を解決する必要はあるものの,「持ち込み禁止」見直しの動きは,次の世代が自分たちの世界を考えて模索する機会を提供するという点で前向きに受け止めるべきでしょう。

20190326_Tue 教科書検定

平成29年学習指導要領に合わせた教科書の検定結果が発表された。

各紙が「主体的・対話的で深い学び」に対応したことや,「脱ゆとり」の踏襲による増ページ,2度目の「道徳」,小学校の「外国語」と「プログラミング体験」に関して報道。いつものように社会科の領土記述も話題になった。

知識偏重から学び方や資質・能力にも軸足を置く大きな転換を遂げた学習指導要領を受けて教科書が作られたことから,これに戸惑う教師を想像する論調も多い。曰く「問われる指導力」だとか,「使いこなす指導力を磨きたい」とか。

朝日新聞は「「先生に親切」競う教科書 手取り足取りでいいのか」(朝日新聞)という記事を配信して,若手教員の割合が増した学校現場の現状に即して記述が至れり尽くせりになった点について触れている。

今回の検定教科書を生かすも殺すも教員の指導力と言いたげだ。

実際,全体的な雰囲気としてお尻に火がついたように,教員養成や教員研修を変革させなければならないという動きが加速している。

一方で,「働き方改革」の取り組みで教職員の勤務時間を短縮する傾向が強まっている。校務はもちろんのこと,授業準備にかける時間も可能な限り効率化することが求められる。

私たちはますます「うまくやること」を強要されるというか,そう言われるわけではなくとも,自己内規範としてより理想的な教師を目指すよう仕向けられているようにも思う。

もちろん,うまくやれた方がいい。でもそれだけでは息苦しいような気もするのだ。

これほど大掛かりな転換を踏まえた教科書検定の結果だというのに,検定結果の公開に関しては従来規模を踏襲してしまっている。

本来なら,もっと期間を長くしたり,全国的に行脚して,広く国民に見てもらうべきであろう。

家族にでも児童生徒がいない限り,国民が教科書を直接見る機会は多くない。今回のような報道だけで検定教科書の内容を把握するのは誤解も多い。

もっと教科書検定結果を広く知ってもらうということにも力を入れるべきだ。

20190325_Mon

Appleが連日のごとく新製品を発表した。

iPadの製品ラインが完全リフレッシュとなり,miniが最新CPUで再登場。すべてのモデルでApple Pencilが使えるようになった。

また,iMacの新モデルや,AorPodsの第2世代も登場した。その他にも細々としたアクセサリーやソフトウェアのアップデートが行われ,25日夜(26日2時頃)にはサブスクリプションサービス関係の発表が行なわれることになっている。

私も筋金入りのAppleユーザーなのだが,手持ちのハードウェアはすべて世代遅れとなって,現行世代のものは何も持っていない。

ああ,興味半分で買った第2世代Apple Pencilと,インターネットラジオ専用サーバーとして購入したMac miniがあるが,これは普段遣い用ではない。

とにかく,道具としてのAppleデバイスは前世代で完成していたということであり,どうしても新しいマシンが必要ということでもない。前世代のものでも十分役立ってくれている。

ただ,基本ソフトや様々なサービスが充実していくと,裏側でパワーを必要とすることが増えていくため,動作が鈍く感じられるときにはマシンパワーの高い新モデルが欲しくなることはある。もう一回,OSのアップデートがあったら,すべて買い替え時かも知れない。

すっかり崩れた生活リズムを新年度に向けて修正しなければ。

-20190323_Sat 年度末のあれこれ

とっちらかった日々が続いている。

今日は自宅の用事を済ませて出勤。雑務を細切れに取り組んだり,ふらっと訪ねに来た学生の対応をしたり。ようやくブログを書こうという気分になる。

2月末から3月初めにかけて東京滞在をしていた。

毎年恒例で,東京周辺であれこれしたいことをまとめてやってしまおうという出張期間である。半ばプライベートなので,基本的には年休消化扱いだ。

今年もいろんな人とご一緒できた。行ってみたかった催事や場所,調べておきたかった事柄,聞きたかったお話,いつもの古巣の大学図書図書室,美味しい食事も楽しんだ。

積み上がっている宿題がさらに増えたけれど,コツコツ続けていくしかない。

とにかく今年の東京滞在もユニークなものになった。

その後,徳島に戻ってから,福井で研究発表。

アブダクション習得としてのプログラミング教育についてアイデアを披露してきた。

着想としては好意的な受け留めが多く,「帰納」「演繹と帰納」「アブダクション」という論理的思考の習得段階を,具体的に掘り下げていくのも悪くなさそうに思えた。

「プログラミング的思考」なる言葉に関して書き留めておきたいことは論稿に書けたので,あとは様々な実践や活動を前向きにとらえていこうという感じである。

東京滞在中にも,「オーセンティック」とか,「セルフ・ドリブン」とか,「自己コントロール感」といったキーワードに接することが多く,学習者である子供たちにとって「真性」なものとして社会やその中のコンピュータというものを掴まえて,学習課題として引き合わせてあげることが大事なのだろうなと考える。

そこから後片づけや実習訪問等でドタバタしながら卒業式を迎えた。

巣立つ最後のひとときを惜しむというような感じではなかったものの,それはある意味で手離れがうまくできたという良い結果なのだろう。あとはそれぞれの人生。元気にやってくれれば,それでいいのだと思う。

調達してきた面白そうな文献資料や,秋の学会年次大会に向けた準備,インターネットラジオ配信のプロモーション,いつものアルバイトなど,取り組むべきことはたくさんだ。

明日は職場のオープンキャンパス。頑張っていこう。

20190221_Thu ACMは米国計算機学会じゃない

ACMという団体の会員更新。

そろそろ更新(renew)期限が来るので,メールとか郵送物でのお知らせが賑やかになっていた。「ACM Digital Library」という電子文献データベースサービスを使い続けたかったので更新。

更新画面を眺めながら,あらためて「ACM」って何の略だっけと確認すると,トレードマークの横に「Association for Computing Machinery」と書いてある。

日本語名称は「機械計算学会」とでもなりそうなのだが,Wikipediaに面白いことが書いてあった。

日本語に訳して「計算機械学会」とされることもあるが、こんにちこの訳語が用いられることはほとんどなく、通常は単に”ACM”という略称で呼ばれるのがもっぱらである。ACMの「A」は Association (学会、団体) の頭文字であるが、アメリカ数学会 (AMS) と混同して「米国計算機学会」と誤訳されることがある。

ああ,確かに自分も「米国計算機学会」って思っていた節がある。全然違ってたんだ。

でもこの勘違いって,わりと根深いのかも知れない。

検索してみると,あの東工大のプレスリリースで「米国計算機学会(ACM)」という表記をしてしまっているものがあるくらいだから,もしかしたらかつてはAmericaで通していた時期があったとか,そういう刷り込み要因があったのではないかとさえ思える。

それと,大問題は「Computing」である。

辞書的な日本語訳は

「コンピュータの使用」「計算」(小学館ランダムハウス英和大辞典)
「コンピュータの使用」「コンピューティング」「計算」「演算」(英辞郎)

とされている。

Computing Machineryになると,機械仕掛け(machinery)の計算(computing)ということで,それは「機械計算」とか「計算機」という日本語訳になるが,これが単独のcomputingとなった場合のよい日本語訳が,いまだ登場していない。ここでは「コンピューティング」とカタカナ語にして逃げておこう。

しかし,上の2語の組み合わせ(computing machinery)で,わざわざ機械仕掛けと修飾して「機械計算」という表現を持ち出していることから逆算すると,単なるコンピューティング(computing)は機械仕掛けじゃないものもあるって話にもなりそうだ。

さて…「コンピューティング」とは何なのか?

この問いはとても奥が深い。

実は,コンピューティングを科学研究分野として成立させるために,専門家の人々が「コンピューティングとは何か」を真剣に探究してきた歴史がある。その代表的な研究者がピーター・デニング氏であり,その成果は『Great Principles of Computing』という著作としてまとめられている。

それによると,たとえばコンピューティングの大原則は6つのカテゴリー「Communication」「Computation」「Recollection」「Coordination」「Evaluation」「Designe」に分かれていく。

それぞれのカテゴリーが焦点としているのは…

「Communication」は,地点間の確実な情報移動,

「Computation」は,計算の可不可について,

「Recollection」は,情報の表現や記号化とメディアからの取得,

「Coordination」は,いくつもの自律計算エージェントの効果的な利用,

「Evaluation」は,意図された計算を産出するシステムかどうかの計測,

「Designe」は,確実性と信頼性に向けたソフトウェアシステムの構造化,

とされていて,これらをまるまる一冊かけて記述している。専門分野として捉えようとすると,それだけ幅広く複雑な荒野を見渡さなくてはならないというわけである。

こういう構成要素を分析したアプローチだと深みにハマるしかないが,使途から考えるアプローチであればもう少し緩やかであってもよいのではないか。

所詮「コンピューティング」というカタカナ語で逃げざるを得ないなら,「コンピュータ技術が関わる」というくらいの括りで考えた方が,むしろスッキリするということだ。

「コンピューティング」とは「コンピュータ技術が関わるあれこれ」である。

だから,教科コンピューティングは,コンピュータが関わるあれこれを扱う教科くらいな捉え方になる。

昔の人は「計量的」とか「計算的」とかの語を苦労してあてはめようとしてきたけれど,そろそろ観念して「コンピューティング」という言葉を受け入れる方向に持っていった方がいいのかも知れない。