教員のメールアドレス

2018年8月29日に「学校における教育の情報化の実態等に関する調査(平成29年度)」の速報値が公表されました。
コンピュータを始めとした機器の設置台数やインターネット接続状況,および,教員のICT活用指導力について悉皆調査したものです。

この実態調査は昭和62年から始まっていますので,調査結果を経年的に追うことは,ほぼ平成30年間の教育情報化の変遷を追うことだと言えます。もっとも実態調査には,質問項目設定や調査実施実態,調査結果処理などに不明点や課題が多く,日本の学校情報化のおおまかな傾向を知ることはできても,細かな数値を検討することにはあまり向かない問題点も残ります。

とはいえ,こうした実態調査の公表内容から,文部科学省といった行政側が教育の情報化について何を着目しているのか知ることはできます。

たとえば,平成29年度調査で「SIM内蔵PC等」についての質問項目が追加されたことが速報値資料からわかります。つまり「SIM内蔵」端末がこれから学校現場に入っていくことを想定していることになります。

また,昨年度の調査結果報告から周辺機器の導入台数が削除されました。プリンタやデジタルカメラといった周辺機器に関しては,重視しなくなったということを読みとることができます。

調査結果の公表方法にも,文部科学省や関係者の意図が働いています。たとえば,なかなか進まないICT環境整備を奨励するために,昨年から都道府県と市町村ごとの整備率を比較できるように資料公表するようになりました。

比較の指標は「教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数」「普通教室の無線LAN整備率」「超高速インターネット接続率(30Mbps以上)」「普通教室の電子黒板整備率」「統合型校務支援システム整備率」「教員のICT活用指導力」が取り上げられています。

これらの指標が指し示す環境整備は確かに重要であり,新しい学習指導要領に基づく学校教育を支える基盤としても求められています。

ただ,あらためて考えてみると,過去ずっとこのようなタイプの環境整備を求め続けてきたように思えますし,内容は「ハコモノ」発想といえなくもない。

かつてコンピュータのハードウェアは予算化され導入してみたものの,ソフトウェアまで手が回らなかったことを反省し,ソフトウェア予算を重視する流れが生まれたことがありました。実態調査もソフトウェアに関する項目が加えられていたのはそういう流れがあったからです。

いまはインターネットの時代となって,私たちは何かしらのアカウントを利用することが当たり前となりました。たとえばメールアドレスについても実態調査には項目が設定され調査結果が公表されています(上図)(経年データ)。

さて,平成も最後となるこの機会,全教員にメールアドレス付与することを採用自治体(主に都道府県レベル)に必須化するよう勧告すべきと考えます。

現在は小中高校等の全教員数でいうと67.8%がメールアドレスを付与されている状況。
学校別では,小学校で57.3%,中学校で57.1%,高校で95.3%,特別支援学校で90.5%という付与率です。

単に付与されればよいというわけではありません。

この調査では「どこから付与されたか」がわかりません。

ご存知の通り,教員異動は市町村をまたいで都道府県内を動くことがあります。これは県費職員として採用され,異動ごとにそれぞれの市町村自治体に所属する場合があるからです(実際の教員採用や雇用形態は様々です)。
市町村レベルでメールアドレス発行すると異動のたびに,アドレス変更手続きが発生することになり負担です。そもそもメールアドレスを発行する余力の無い市町村もあります。

これを都道府県レベルで発行する方針にすれば,市町村の違いなく一元的に都道府県下の全教員がメールアドレスを利用できることになります。すでに大分や埼玉でこうした事例が展開しています。

ある程度の規模の企業なら,入社すればその企業でメールアドレスが発行され付与されるのは当たり前の時代です。情報活用能力を育成することが目指されているご時世でもあるのですから,教員一人一人がメールアドレスを付与されるという状況に置かれて,それをどう扱うべきかを自分たちが校務等の中で経験的に学び蓄積していくことも重要です。

教員がメールアドレスを持って何をするのか,懐疑的に考える人々が多いことは承知しています。

たとえば,教員がメールアドレスを持つと,保護者からの連絡を受け取らなくてはならなくなり,対応に追われてしまうのではないかという想像が膨らむのが一般的に多いようです。

しかし,教員のメールアドレス所有,すなわち,保護者に公開してメール受信という流れを選択する必要性や必然性はありません。

教員メールアドレスは,校務での利用を中心にデザインしつつ,研修や研究関係の対外連絡用,教育・教材サービス利用の登録用などに活用することを奨励していけばよいのです。児童生徒や保護者からの連絡の受け取りは別の方法を用意することで全体のバランスをとるべきです。

ICT環境整備は,ハードウェアを揃えることが目に見えることもあって分かりやすいのかも知れません。しかし,クラウドが当たり前になってきた今日では,端末整備よりもアカウント整備をどうするかが遥かに重要になってきています。

教員のメールアドレス(メールアカウント)をどのように設計して,どのようにインフラとして提供するのか。この問題は遅かれ早かれ直面する問題なのですから,文部科学省・総務省・経済産業省はもっと明確に都道府県レベルでの教育職員へのメールアカウント付与を勧告すべきです。

平成30年間を振り返って,教育情報化が螺旋階段を上りつつも,なかなか上手くいかないのはどうしてなのかを考えると,こうした基本的なステップを避けたままだからだと思わざるを得ないのです。

「プログラミング」を考える

2018年8月11日に行なわれた三重県教育工学研究会の夏季セミナーに参加してきました。

「新時代の教育を切り拓く プログラミング教育を探る」というテーマで企画され,「子どもが主役のプログラミング教育で学びを深める」と題して開催されました。授業実践事例の報告とプログラミング教育に関する講演,パネルディスカッションが行なわれました。

ふらっと参加したのですが,お声掛けしてくださる方々も多くて,思わぬ歓迎を受けたりしてました。

講演では,千葉県柏市の教育研究所にいらっしゃる西田光昭先生が,プログラミング教育に関する最新動向と柏市での長年の取り組みを紹介されました。パネルディスカッションでは,NPO法人みんなのコードの竹谷正明先生と亀山市立能登小学校の谷本康先生が議論を展開しました。

企業ブースも多数参加があり,各社PRで製品に触れる機会もあり盛りだくさんでした。

こうしたセミナーのような場を粘り強く展開することは大事なのだなとあらためて思いました。

さて,プログラミング教育。

最近は,関連ポータルサイト(「小学校を中心としたプログラミング教育ポータル」)もインタビュー記事を掲載するなど情報発信にも力が入ってきたようです。

プログラミング教育について書くと,二文目には否定的なことを書いてるんじゃないかと思われがちですが,それは私の職務上,疑問を投げかけることから思考を発動させるのが定石になっているからです。

実は,夏季セミナーのパネルディスカッションで,発言する機会をいただきました。

登壇者の発言をフムフムと聞いていたものですから,そのタイミングで気の利いた質問を用意するのがとても難しく,また思い付いた言葉を唱え始めてしまいました。

曰く「なぜプログラムではなくプログラミングという言葉なのだろう。あるいはプログラミングという言葉は消えて使われなくなるのではないだろうか」とか。

頭の片隅で「このセミナーは先生たちが集まっていて,これからどうプログラミング教育すればいいかを学びに来ているのだ」と分かっていたというのに,どうしてこうも自分は疑問を呈する思考回路の持ち主なのか,自分でも困ってしまいます。

私がそのとき抱いていたのは,西田先生がお話しされていた「プログラミング教育を普及させるために先進・先導事例を通して多くの人の理解を得る」必要性に対して,多くの人の理解を得る際に提示されるイメージがもっと鮮明でなければならないのでは?という疑問でした。

つまり「プログラミングって何?」という問いで生起するイメージを共有できるかどうかです。

そのとき「プログラミング」という言葉を使っていることの不思議さも感じないわけにはいかない。

たとえば音楽に喩えるなら,私たちは「作曲」に相当する言葉を使っていることになります。「作曲教育」自体は大変興味深い議論対象ではあるけれど,それは普通の感覚で考えたとき,音楽の範疇で最優先に取り組まれるべき事項だろうか。大概は,作曲する前に「鑑賞」することを優先するのではないか。

これをプログラミング教育に引き付けて考えるとき,私たちは「プログラミング」よりもまずプログラムを「観察」することから始めているのではないか。「プログラム観察」を経て,やがて「プログラム作成」を体験するという区分を明確にすることが必要なのではないかとも思えてくるのです。

「プログラミング教育とは,プログラム観察とプログラム作成の体験と学習から構成される」といった暫定的な共通イメージを描く必要があるのではないかという問題提起です。

もちろん,プログラム観察とは何か,プログラム作成とは何かという,さらなる描き込みは必要になりますが,プログラミング的思考なる言葉で煙に巻くよりは潔いのではないかと考えます。

こうして考えていくと「プログラミング」という言葉が代表面して学習指導要領に書き込まれるのは今期改訂の範疇限りで,次期改訂の際には「プログラミング」という言葉は消えて「コンピューティング」という言葉が後継候補に上っているかも知れません。仮にプログラミングという言葉が残ってもコンピューティングの中の一部分として登場する位置付けになると思います。

そんなことを夏季セミナーに参加しながら考えていたわけですが,今一度,現時点で何をすべきかということに頭を切り替えるなら,先生方は,徹底的に「プログラム観察」をすることかなと。私たちの日常生活に潜んでいるたくさんのプログラムを掘り起こして再認識するだけでも,大変な作業です。

そのうえで,プログラム作成に挑戦すると,観察の成果が生きてくるかも知れません。

授業でのICT活用を掴まえる

今年もいくつか講演依頼をいただきました。お声掛けいただきありがとうございました。

ただ,今年の講演は私にとって辛いものでした。ご存知のように次期学習指導要領の告示がなされ,移行期間のための伝言ゲームが始まるタイミングだったからです。

私は国の施策を代弁するような仕事を「大変」不得意とする人間なので,そういうご依頼にはどうやって自分の話をそちらに寄せるべきか悩み続けて苦労するからです。

今年,いろいろ悩んで収束していった話が「つなぐICT」でした。

ただICTの話の前に,少し巻き戻したところの「学習」について話を共有するところから始めたいと思います。私たちが新しい「学習内容」を学ぶ場面をイメージ化するとこんな感じに描けます。

学習の図

この図は,何かしらすでに頭の中に知識「既有知識」を持っている私たちが新しい「学習内容」と出会って学ぶ様を描いているのですが,既有知識と学習内容が結びついて自分の知識になることは,そう容易なことではありません。たとえば今まで縁のなかった世界の事柄を学ぶ難しさを考えると分かると思います。

そこで,既有知識と学習内容を何かしら橋渡しをするものが必要になります。

橋渡しをするものを心理学の世界では「先行オーガナイザー」と呼んでいて,新たな学習内容に関する枠組みとなるもの(ヒントや例え話も含む)を先に示しておくことで,学習内容を既有知識と結びつけた理解が進むとされています。こういうものを「有意味受容学習」と呼びます。

佐伯胖氏が『「わかる」ということの意味』(岩波書店)という本で「「わかる」ということは、実は「わかっていること同士が結びつく」ということにほかならない、ということです。」(新版153頁)と書いているように「知識の関連付け」は学習の重要要素であるといえます。

「授業でどんなICT活用をすればよいか教えてください」

という講演依頼をいただくと,依頼をいただいた側としては,どれぐらいのレベルの話を期待されているのだろうかと悩みます。

タブレット端末機能の操作方法や具体的なアプリの紹介を期待されているとしたら,頼み方としては,ご利用されている環境の詳細情報を教えていただかないと難しいですし,お話する直前にでも実機を用意していただいて触らせていただきたいと思います。

他校の事例を聞きたいというご依頼であれば,これまで訪問したことのある学校のお話を見せられる写真とともにお話しするということになりますが,その場合でも,環境条件を教えていただいたり,どんな授業科目で使いたいのかを教えていただかないと辛いなぁと思います。

それで悩むのが,もう嫌なので(コラコラ),私が先生方と一緒に授業づくりを練らせていただく場合に,どんな枠組みで眺めているのかをお話することにしました。それが「つなぐICT」です。

つなぐICT

「つなぐICT」をあらためてごちゃごちゃと図にしたのがこれです。

ICTは「何かと何かを繋ぐ役割を担えるもの」と考え授業を捉えると,授業の中でICTが活用できそうな箇所が上図のようなところとして浮かび上がってくるというイメージです。

もちろんICTが使えそうだというだけで,授業の目標に応じて使わないことを選択する場合もありますし,このイメージ以外の箇所にハマる可能性もあります。図はあくまでも一つのイメージです。

先行授業は,シンプルな知識習得の授業をイメージしたものです。「有意味受容学習」が起こること前提としたものです。

後継授業は,協働学習なんかが含まれるちょっと賑やかな授業です。つまりアクティブ・ラーニング的な授業ということになるでしょうか。「有意味発見学習」が起こる授業といえそうです。

後継授業の学習課題に取り組む中で,それぞれの既有知識や調べ活動などで持ち込んだ暫定知識を突き合わせたり擦り合わせたりすることをしながら,それらと学習課題を橋渡しする学習内容を発見すること。それが全体を関連付けるという理解に至る学習過程ではないか。そんな仮定を込めた図です。

こうした何かと何かを「つなぐ」ICTによって,最終的には「個に返していく」ことが大事。

お話は,こう締めくくられます。

「つなぐICT」の図に描かれているジェリービーン…じゃなかったICTの活用どころに,どんなICT機器をどんな方法で用いることができるのか。いろんな条件を想定しながら考えて当てはめていく作業をワークショップにするのも面白いかも知れません。

文部科学省「学校におけるICT環境整備の在り方に関する有識者会議」の効果的なICT活用検討チームによる報告資料は,「教育用コンピュータでできること」と題して1人1台端末があったら次のようなことができると項目を挙げています。

「個別のドリル学習」「試行錯誤する」「写真撮影する」「念入りに見る」「録音・録画と再確認」「調べる」「分析する」「考える」「見せる」「共有・協働する」

残念ながら項目の水準や解説文のばらつきが気になる代物で,正直なところ,そのまま参考にするのはお勧めしません。むしろ,この項目群をそれぞの自治体や学校で再構築してみることが,ICT活用を考えるよい練習になると思います。

学校の授業におけるICT活用を掴まえるために,それぞれが自分なりの枠組みを構築し,それを突き合わせて議論していくことが大事になると思います。

プログラマー「を」育てる教育を

小学校にもプログラミング体験を導入することとなった新たな学習指導要領のもと、学校教育でコンピュータを学ぶ体系的な教育実践が求められています。

情報教育という取り組みは、「情報活用能力」の育成を目指すものです。コンピュータを学ぶということは、情報教育の一部「情報の科学的な理解」に位置づく包含関係にあると考えられます。

またプログラミングは、コンピュータについて学んだことを活用するという点で情報教育の「情報活用の実践力」に位置づけることができ、プログラミングによって生み出した成果が社会に影響を与えると考えれば情報教育の「情報社会に参画する態度」を養うこととも無関係ではありません。

そう考えるとプログラマーは、「情報教育」の目標を極めて高度に体現した存在と言えます。

「プログラミング教育」(プログラミング体験・学習)について語るとき、私たちは注意深くあるべきだと思います。暗黙のうちに抱いているステレオタイプ的な見方を排して、フラットに語れるように間口を広げておくことは重要だからです。

だから小学校段階でのプログラミング体験について人々が語るとき、その取り組みは「コーディングを学ぶことではない」「プログラミング言語を学ぶことではない」「現職の先生たちはプログラミングの技術的なことは学んでいないのだから技術的なことは扱えない/扱わない」「コンピュータ機器等の整備格差があるのだからコンピュータ機器等を使わない方法も必要だ」といった注釈を伴うことも少なくありません。

結果的に小学校段階の学習指導要領やその周辺の語り口は、最大公約数的なところに落ち着くように配慮が働きます。プログラミング体験が「論理的思考力の育成」に軸足を置くのはそのためです。その方が間口が広いからです。

中学校・高等学校に進学し、さらにコンピュータの専門性の高い学習へと進むようになれば、そこで将来的な職業と学校での学びを結びつける際、プログラマー(あるいはIT人材)を目指す子供たちも増えるだろうという組み立てになります。

小学校段階のプログラミング体験と中学校・高等学校段階でのプログラミング学習という流れ。組み立てとしては分かりやすい一方、この組み立ては「悠長」としてないか、という指摘は一つの論点かもしれません。

現状、小学校段階で想定されているプログラミング体験は、「すべての人がプログラマーになるわけではない」という理由で、プログラミング言語や技能を学ぶことは目的としない代わりに、論理的思考力を育成することで「情報の科学的な理解」部分を代替し、社会がコンピュータで支えられていることの理解にもとづいて身近な問題に取り組む「情報活用の実践力」と、コンピュータを上手に活用することでよりよい社会を築こうとする「情報社会に参画する態度」の3つが目指された「情報教育」の営みとして描かれています。

ただ、小学校段階のプログラミング体験が論理的思考力の育成色を強めれば、仮にコンピュータを学ぶ機会の確保が十分できなかった場合、中学校・高等学校でのプログラミング学習との結びつきは期待するほど太くならない可能性もあります。そもそも中学校と高等学校のプログラミング学習にもその充実には課題が山積しています。

この話は、「すべての人がプログラマーになるわけではない」という路線を選ぶのか、「すべての人がプログラマーになること」という路線を選ぶのか、という選択の問題とも関わります。

すべての人がプログラマーになる世の中なんてあるはずがないと、鼻で笑われるかもしれません。

ただ、情報教育の目標を高度に体現した人がプログラマーであると考えることができるなら、私たちはプログラマーという意味をもう少し緩やかに捉えた上で目指してよいことになります。

それに「すべての人がプログラマーになるわけではない」という選択肢が、消極的な理由(エクスキューズ)として使われている、どこか後ろ向きな忖度感を抱かせることが残念な気もします。

小学校段階の教育は、特定の職業に結びついた特化した内容を学習することが目的ではありません。とはいえ、情報活用能力が言語能力と並ぶ教科の枠を超えた資質・能力の一つであると位置付けられ、情報教育の取り組みが強く求められていることを考えたとき、その高度な体現者であるプログラマーがこの日本にはもっと必要だと考えることは、決して不自然なことではないと考えます。

その場合の「プログラマー」は、特定の職業ではなく、数理系に偏るものではなく、高度な情報活用能力の体現者であると人々に理解されていくことが必要になります。それを働きかけていくのが社会に開かれた学校の役目となります。

そのことができるのであれば、さらに小学校段階でプログラミング言語や技能を扱ってもよいと考える。それを、直接的には言えない文部科学省の代わりに、いまは総務省や経済産業省が(つまり文部科学省の言外で)そのことを強く発信してくれているのだと考えるべきでしょう。

現状、プログラマーの人たちはそのようなタイプからは程遠いかもしれませんし、日本におけるプログラマーの職業事情は必ずしも幸せでない部分も多く、職業として勧めることが憚れている風潮もあります。

そう考えるとプログラマーと教員というのは、似ている部分もあると思わないではありません。どちらも日本という国での働き方をもっと考え直さなければならないし、社会的な認知や印象も向上さなくてはなりません。

「すべての人がプログラマーになること」を目指すという言葉のもとで、プログラマーという言葉にもっと前向きな意味合いを込めて世の中へと送り出す、そう社会に胸を張って主張していけるような教員へと変身することも含めて、新しい学習指導要領と新しい学校教育に取り掛かりたいものです。

「プログラマーも育てる教育」というよりも「プログラマーを育てる教育」を考えてみることから見えてくるものがあるかもしれません。

人工知能時代に必要な小学校段階の学習事項とは何なのか

平成29年3月告示の学習指導要領が示した、小学校段階におけるプログラミング体験について考えています。

文部科学省「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」は、小学校段階にもプログラミングに関わる教育を持ち込むことを諮るための会議であった以上、その議論の取りまとめから「プログラミング」を取り除くことができない宿命にありました。

組み込むべきパーツが状況的に決められ用意された状態の中、それらを求められている形に組み上げていく作業が大変であったことは、長くなりがちになっている文章を見ても分かります。加えて、私たちのようなしがらみのない部外者から、本来はこうだああだと批判あるいは非難されることも必至である仕事です。そのことを労う文脈が無いことは残念ですが、こればかりは仕方ないことだと思います。

無礼は承知で、部外者は部外者なりの役割を演じさせていただくことにします。(その分野の関係者として、純粋に部外者といえるのか、あるいはお前は足を引っ張る側にまわるべきなのか、という批判もあり得ると思いますが、自由に論じさせていただくことも大事かなと考えています。)

やはり、少し巻き戻したところから出発しましょう。

目指しているものを実現するために、必ずしも「プログラミング」に縛られなくてよいとすれば(とはいえ離れ過ぎないところで)、どんな議論の可能性があったのか。

平成29年3月告示の学習指導要領、そのための中央教育審議会への諮問と出てきた答申には、社会の変化について、何かしらの前提が描かれていました。[記事「何を想い,諮問し答申するのか」]

答申には「第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来」と記され、そうした世の中で生きていく子供たちは、おそらくもっと「知識・情報・技術」について強くならないといけない。そう多くの人々が考えていることが反映されています。

端的にはIT人材の人口を増やしたいという願いになって表れ、先の有識者会議の設置へと繋がったことはご承知の通りです。

しかし、今回の話がIT人材の増強という単純な話でないことは明らかです。

「第4次産業革命」つまり昨今見られるような人工知能技術の前進(ディープラーニング)を踏まえた時代というのは、IT産業やIT人材とは何かの捉えに関しても、明らかにステージが変わっており、その新しいステージで通用するように子供たちを育んでいかなくてはならないということが書かれています。

人工知能技術(ディープラーニング)によって、一体何が変わったのか。

私たちが使う道具の挙動が予測困難になったということに他なりません。

従来、私たちは使う道具の挙動を把握して、道具を利活用します。道具の使い方がわからなければ道具は使えないし、少なくとも使い方を学び把握することで(場合によっては自分で創造して把握することで)道具を使います。

道具が複雑な場合、確かにその挙動は予測が困難ですが、その場合でも私たちは道具の「仕組み」を理解することで、なんとか道具の挙動を把握して利用します。

しかし、人工知能技術が生かされた道具は違います。

人工知能技術を生かした道具は、機械学習を行ない、その成果を踏まえた挙動をします。その挙動は、私たちが想定した範囲に収まる場合もありますが、そうでない場合の可能性についても否定できません。

そのような道具を把握し利用する場合、道具が学習するという「仕組み」を理解するだけでは足りないのです。どのように学習するのかという「学習のさせ方」を汲み取らなくては、道具を想定的にあるいは効果的に利用することができません。しかし実のところ、学習のさせ方が分かっても、もはや「学習の成果」を予測することは困難です。

挙動の予測が困難な道具が、私たちの社会生活にどんどん応用されようとしている。

この事実を踏まえる必要があります。

誤解のないようにあらかじめ断っておきますが、私はシンギラリティが到来して、人工知能が人間の能力を上回って、いろいろ悲劇的なことが起こるということを肯定したいわけではありません。

シンギラリティ云々については、来ようが来まいが、私たちの議論にはあまり大きな影響はないと考えています。扱うものがどんどん大げさになっていくという大変さはあり得ると思いますが。

挙動の予測が困難な道具が私たちの生活を支える社会

こうした社会では、プログラミング技術あるいは能力があるに越したことはないし、そういう道具やシステムで構成された社会を維持する人材としてIT人材のすそ野が広がることには意味があります。

しかし、プログラミングという「データ」や「アルゴリズム」や「コーディング」といった諸々の仕組みを扱う能力が身に付いたところで、道具の挙動を予測することが困難であることには変わりありません。

それはせいぜい「人工知能の学習をデザインできる技術を持っている人」になれるだけで、「挙動の予測が困難な道具を上手に使って社会に役立てる人」になることにはならないのです。

これは良き「作り手」が良き「使い手」とイコールではない、という有りがちな話を踏まえているようでいて、やはりまったく異なるステージの話なのです。

従来の道具は、作り手が道具の挙動を意図して生み出してきました。その意図を使い手が汲み取って、道具を利用します。それは「作り手→使い手」(一方向)という関係で完結します。

しかし、人工知能技術を生かした道具は、作り手が学習のさせ方を意図することはできますが、学習の成果を掌握することは論理的に難しいはずです。使い手は、(作り手によって意図された)道具の挙動を予測して従来の道具のように利用しますが、やがて挙動が変化していく事態に直面し、それがポジティブな範疇に留まっている限り「便利さ」を享受することになりますが、そうでない場合には道具の学習による「困難さ」を被ることになります。とすれば、使い手は作り手のデザインした学習について遡ることを余儀なくされ「作り手←→使い手」(双方向)の関係を織り込まなくてはなりません。

(従来の道具の場合であっても、双方向の関係を想定することができるではないか、という指摘もあり得ると思います。もちろんそうすることは可能ですが、表面上の関係性に違いの根拠があるわけではないので、このお話は、もう少し別の説明の仕方を試みた方がよいかも知れません。)

使い手が、道具の作り手へと遡るからこそ、プログラミング体験・学習を通してプログラミング的思考なる論理的思考や、ITリテラシー、情報活用能力を身に付けるべきなんだ、という見解はあってもよいと思います。

ただ、そうしたところで「挙動の予測が困難な道具を使う社会」になることを見失っては、単なるIT人材育成話に留まるだけだと私は考えます。

どんどん進歩し続けている人工知能技術が、私たちの生活をどのように明るく彩り、どのようにトラブルを引き起こし、また、どのように人工知能の学習をデザインし、どのように調整していくのか。そういった事柄はすべて、私たちの描き方次第で、如何様にも変わり得る、まさに予測が困難な状況にあります。

そう考えたとき、小学校段階で必要な学習事項として新たに加えるものの一つが「プログラミング的思考」といった「仕組み」にフォーカスするようなものでよいのかどうか。他の教科との横断的な関係と中学校・高等学校との体系的な捉えの中で、もっと考えを深めてもよいのではないかと思います。

そうすると、意外とシンプルな実践と、もっとディープに記号や命令をいじる実践が組み合わさった形のカリキュラムが子供たちにとって必要になるかも知れません(これは単なる直感です)。

文部科学省の有識者会議の議論の取りまとめは、 第4次産業革命や人工知能について、社会に大きな変化をもたらすものであるという認識は持ちつつも、それを括弧に入れてしまい、激変する社会に対応するために求められる資質・能力とは何かを問うてしまいました。

しかし、人工知能という「人間とは異なる、学習をするもの」が、いよいよ括弧に入れられなくなって、相手をしなければならなくなったことが、いま足を踏み入れようとしている時代やその社会のはずです。

人間の意図によって制御される社会という世界観から、人間の意図を託した学習の成果によって制御される社会という世界観への転換を明示しない限り、「第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来」を見据えた学校教育をつくり出していくことは、遠いままかも知れません。

とはいえ、私たちや子供たちは、否応なくそういう時代に突入しています。お忘れなく。