世界は広いのだから

これは人それぞれだとは思うけれど,社会人として日常を暮らしを続けていると,日頃の行動範囲から離れる機会を得るのが難しい。

計画的に旅行プランを立てたりして予定を組むか,あるいは思い切って飛び出すなんてことをしたりして,何かしら意図的にいつもの行動を変える試みが必要になる。

仕事自体がおのずと自分を連れ出してくれるという場合もあるだろうから,やはり人それぞれといったところなのだろうと思う。

しばらく放置していた研究室ブログが,急にまた動き始めて,何を書いているかと思ったら,どこかデジタルや教育の情報化の行く末にネガティブな雰囲気を感じたような駄文を書いていることに,「この人,どうしちゃったの?いつものことだけど…」とお思いの方もいるかも知れない。

しばらく下手くそなコーディング作業(プログラミング)を続けていたので,多少その反動みたいなものがあるのかも知れないが,基本的にはデジタルもテクノロジーも相変わらず好きだし,GIGAスクール構想によるICT環境整備も素直によかったと思っている。

ただ,一方で,性急な変化がいくつかの均衡状態を崩す以上に歪めてしまっていることで,素直に通せる物事が不必要に複雑化しているように思う。

それと,いろいろなことがICTに染まりすぎて,同じ色に見えることが単純につまらない。

私がICTを自由に使えるようになりたいのは,情報を得たいということで終わるのではなく,情報の指し示す先にある「美味しい食事」を味わうことだったり,「魅惑の景色」を現地に出かけて見に行くことだったり,「興味深い話題」を人々と交流しながら共有することがしたいからだ。

そのためにICTが必要なら使うし,必要ないなら使わない。問題発見や解決が必要というなら関わるし,それほどでもないならわざわざ問題を掘り起こしもしない。

そういう適宜な生き方をできるということこそが私には大事に思えている。

もちろん,それもまた人それぞれだとは思うけれど。

文部科学省周辺で展開している先端技術活用とか,教育DXとかの話は,確かに今どきの技術動向を踏まえると進めておくべき取り組みだと思う。

でも,どれもこれも箱の中,家の中,学校の中。広げてみたかと思えばメタバースの中。

そこから離れて出かけていくことにどうつなげていくのかは,まるでイメージが描かれていない。

端末の見過ぎで近視が問題だとか,修学旅行をモバイル端末でデジタル化だとか,そういう矮小化された話題に落としていきたいわけではないし,何か具体的な対策を用意できるものでもない。

ここに面白いことがあるけれど,あっちにも面白いことがある。留まらずにめぐってみたら。

単純にそのことを「世界は広いのだから」と語ることが増えればいいのにと思う。

コンピューター学校出現!!

昭和の少年少女雑誌を中心に掲載されていた「空想科学画」や「未来予想図」は,ときどき話題になることがあるのでご覧になった人は多いだろう。

ネットで検索すればいくつも閲覧できるが,そうしたイラストを収録した図書も刊行されている。

『昭和ちびっこ未来画報 - ぼくらの21世紀』(青幻舎)
https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-315-1/
『昭和少年SF大図鑑』(河出書房新社)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309750378/

こうしたイラストレーションを描く画家としてブームの初期から活躍した人気の挿絵画家が小松崎茂氏だ。そして教育の情報化に関心を寄せる私たちにとって,無視することができない作品が「コンピュータ学校出現!!」である。

小松崎茂(1969)「コンピューター学校出現!!
「みんな未来予想に夢中だった 100年前に描かれた「百年後の日本」」(朝日GLOBE+)
https://globe.asahi.com/article/12786581

シュールな設定とサスペンスフルな絵柄が相まって,小松崎の未来予想図作品は独特な雰囲気を纏う。半分は下手な空想だと笑えるし,半分は得体のしれない不安を抱かせる。

GIGA端末は,コンピューター学校のロボットのように子どもの頭をこづきはしない。

その代わり,学習の難所を気づかせるようなガイドやナッジ(つつき)をきかせてくる。

ホッとしてもよいだろうか。

今日は大学院の学生と1 on 1授業だった。

授業の議論は教育ICTをテーマにしていなかったが,昨今の文教施策のほとんどがICT活用や教育DXを推進する流れにあって,議論も自然とそちらに向いてしまった。

ICTやデジタル技術の活用による教育現場の変革は,本当に私たちの望むものなんだろうか。そんな身もふたもない疑問を,恥ずかしげもなく私より若い世代に投げかけた。

デジタル化がもたらす効用は確かにある。実際,それで便利に物事を処理している。仕事のやり方も変わったかも知れない。その変化は価値観にも及ぶだろう。

しかし,さて,完璧ではないとしても,その効用はまだ足りていないのだろうか。「デジタルならでは」の何かを享受し足りない!と渇望しなければならない立ち位置なのだろうか。

もちろん,行政事務や業務処理の中にわんさと残っているアナログな部分を速やかにデジタル化して欲しいという要望はある。けれど,これは「デジタルならでは」の希求というよりは,単に「デジタル化する」ことの要望である。

「第3回教育振興基本計画部会事務局資料1」(31頁)より

私たちは,後手に回してきた第1段階「デジタイゼーション」の宿題に取り掛かり,あわよくば第2段階「デジタライゼーション」を成果として見せたがっている。そのうえ,タイミングはSociety5.0の議論を要請しているため第3段階「デジタルトランスフォーメーション」が論じられている。

第2段階を成熟させていく中で,何を必要として何は必要と見なさないかが各人の中で見極められなければならないにもかかわらず,まるでそのまま第3段階が連続的に接続されるかのように描いているポンチ絵は,人々の鵜呑みを誘ってはいないのか。

学習の難所を気づかせるシグナルが,通知表示やインフォグラフィックといったガイドやナッジであるうちは,スマート技術などによって順当な第3段階がもたらされるかも知れないと思えたりする。

けれど,腕のデジタルウォッチが通知のための振動を伝えてきたとき,頭ではないにしても,機械にこづかれている自分が居ることに少し驚いてしまうのだ。

教育の分割統治

いま次期(第4期)教育振興基本計画の準備が進んでいる。

教育振興基本計画部会(第11期~)
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo17/index.html

第4期は2023〜2027(令和5〜9)年の5年間の教育振興基本計画となる。

ん?ちょっと待て。

そもそも「教育振興基本計画」とやらは,私たちに何をもたらしてくれるものなのだろうか。第4期を準備中と書いたが,第1期から第3期までさえ,実のところ理解して過してきたのか怪しい限りだ。

そんな勉強不足な私たちに「おまえが知らないだけだ」と言いたげな資料を国はたくさん用意している。

20220207 次期教育振興基本計画の策定について(諮問)
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1415877_00003.htm

上記のWebページ「(諮問)【概要】」には,第4期の計画に盛り込んで欲しいことと,第1期から第3期までの概要がまとまっている。

第1期(2008〜2012)
基本的方針:今後10年間を通じて目指すべき教育の姿
方向性:
①社会全体で教育の向上に取り組む
②個性を尊重しつつ能力を伸ばし、個人として、社会の一員として生きる基盤を育てる
③教養と専門性を備えた知性豊かな人間を養成し、社会の発展を支える
④子どもたちの安全・安心を確保するとともに、質の高い教育環境を整備する
第2期(2013〜2017)
基本的方針:一人一人の「自立」した個人が多様な個性・能力を生かし、他者と「協働」しながら新たな価値を「創造」していくことができる「生涯学習社会」の構築
方向性:
①社会を生き抜く力の養成
②未来への飛躍を実現する人材の養成
③学びのセーフティーネットの構築
④絆づくりと活力あるコミュニティの形成
第3期(2018〜2022)
基本的方針:教育を通じて生涯にわたる一人一人の「可能性」と「チャンス」を最大化する
方向性:
①夢と志を持ち、可能性に挑戦するために必要となる力を育成する
②社会の持続的な発展を牽引するための多様な力を育成する
③生涯学び、活躍できる環境を整える
④誰もが社会の担い手となるための学びのセーフティネットを構築する
⑤教育政策推進のための基盤を整備する
第4期(2023〜2027)
主な諮問事項:
○オンライン教育を活用する観点など「デジタル」と「リアル」の最適な組合せ、及び、幼児教育・義務教育から高等学校、大学、高等専門学校、専門学校、大学院まで全体が連続性・一貫性を持ち、社会のニーズに応えるものとなる教育や学習の在り方
○学校内外において、生涯を通じて学び成長し、主体的に社会の形成に参画する中で、共生社会の実現を目指した学習を充実するための環境づくり
○多様な教育データをより有効な政策の評価・改善に活用するための方策

クラクラするには十分過ぎるが,国などが取り組む施策はすべてこれら基本計画を起点として組み立てられているから,期ごとの中身を入れ替えても通用するんじゃない?という素朴な疑問を発したくなったとしても,組み上げているジグソーパズルのピースが他とよく似ているからといって入れ替えできないのと同じで,教育振興基本計画に関わっている人達にとっては一つひとつが注意深く組み上げられた繊細な造形物ということになる。

そのことがよく分かるスライドがある。

「第3回教育振興基本計画部会事務局資料1」(3頁)より

2022年6月2日に開催された第3回中央教育審議会教育振興基本計画部会の配付資料のひとつである。

文字通りジグソーパズルのように組み上げられた様々な文書が,今日の教育政策を語るために必要なピースとして配されていることが分かる。これらも主なものに過ぎない。

これらをすべて見通して審議している人々がいる一方で,これらをほとんど知らない人々がいるというのがもう一方の現実である。自分の立ち位置に関係しそうなことだけ知っているというだけでも立派かも知れない。

そして,これらが第3期に関わるものであるから,当然のことながら審議中のものに加えて,新たに第4期に関わる関連ピースが山のように押し寄せることも容易に察しうる。

さて,ここまでのことさえ曖昧であるのに,ここから先に描かれていることはどれだけコンセンサスが得られているのだろうか。

ああ,いや,これは,本来,分割統治のもとで成り立っていたのであって,コンセンサスを得るものでなかったのではあるまいか。悪名高き行政の縦割りに理由があったとすれば,そもそもコンセンサスを得られないという現実の中で物事を処する行政の知恵だったのかも知れないと,そんな穿ちも蘇る。

もちろん関わっている人達は大真面目。ひとつひとつの仕事に対して茶化す余地はない。

とはいえ,8月31日の情景のように,後手に回してきた宿題を大風呂敷広げたまま必至に片付けようとしているかに見えるのは何故だろう。当の本人より,周りの人間の方が焦っている構図がそう見せるのか。

令和の学校教育がGIGAスクール構想とともに始まっているものの,その先にある学校教育のイメージが共有されているとは言い難い。諮問は2040年以降の社会を「望む未来を私たち自身で示し,作り上げていくことが求められる時代」として,ご自身でどうぞと委ねてくる。

けれど,デジタル技術がより導入されて変化がもたらされる「Society5.0」や,一人ひとりと社会全体の幸せを希求する「Well-being」を唱えられても,そこに自分自身を重ねられるようにイメージを描くのは難しい。

語られていることは,本当に私たちが望んでいるものなのか。あるいは望むべきものなのか。

そのことについて向き合ってくれる言説は届いていない。

成功と失敗の唯一の分岐点

「成功と失敗の唯一の分岐点はエラーの数だ」

ヒューマンエラーを研究する邱氏の『ERROR FREE −世界のトップ企業がこぞって採用したMIT博士のミスを減らす秘訣−』(文響社2022)は,そんな導入で始まっている。

日本の出版物はビジネス書扱いとなると邦題の付け方が長くなりがちなので,以下は英語表記をカタカナに開いて『エラーフリー』にしたい。

無謬性の原則に従ってきた行政官僚の世界に従属している公立学校教育は,どうしても「間違えない」ことを期待されてしまう。子ども達には「間違えさせない」ことを暗に目指していたところもある。

ある意味では「エラーフリー」を目指しているとも言えるが,日本の場合は「エラーは存在しない」というスタンスを確立することが優先されているように見えて,『エラーフリー』が説いている「エラーフリー思考」とは異なっているように思う。

邱氏が説明しいる「エラーフリー思考」は…

1. 人間は誰でもエラーを犯す可能性がある。
2. すべてのエラーは防ぐことができる。
3. エラーにはさまざまな発生源と形式があり,それに応じた解決策がある。
4. 組織の全員が,エラーフリーで仕事を進める方法と,エラーフリーの社内システムを構築する方法を知る必要がある。

という4つの命題で構成されている。

これだけ読むと「エラーを防ぐ」ことに焦点が当たりがちで,日本なら「エラー回避」から「エラーにつながる行為の回避」に思考がめぐりそうである。

ただ,この本で重要なのは「エラーにはさまざまな発生源と形式があり,それに応じた解決策がある。」の部分であり,解決策の妥当性や効果のほどはともかくとして,過去の様々なエラー事例を研究して分析整理したところが興味深い。

それによると,エラーには2つの形式,ヒューマンエラーには3つの型があるという。

エラーの2つの形式
 1.「省略エラー」(omission error)
 2.「誤処理エラー」(commission error)

省略エラー」という日本語字面だと直観的ではないが,「実行しない」エラーという言い方で「なすべきことや下すべき決断があるのに,驕りや迷い,怠慢から,あるいは現状変更に対する恐れから,何もしなかったために起こるエラー」と説明されている。企業の失敗のほとんどが省略エラーに起因しているという。

一方の「誤処理エラー」は,「実行して間違う」エラーであり,「行動して決定も下したが,その決定が間違っていた」というものだ。こうした間違いを犯した多くの企業リーダーが,仮に倒産に結びついたとしてもなお,どこが悪かったか理解できずにいるという。

この2形式を日本の教育行政とか学校教育に重ねて考えるだけでも,いろいろな立ち回りが思い浮かぶ。

ヒューマンエラーの3つの型
 1. 知識型エラー(knowledge-based errors)
 2. 規則型エラー(rule-based errors)
 3. スキル型エラー(skill-based errors)

ヒューマンエラーの型は,仕事内容と関係していて,「知識型エラー」は意思決定,問題解決,交渉,分析,審査,設計,計画,危機管理といった知識を要する仕事で発生するエラー,「規則型エラー」は作業手順書のようなルールやフローにおける規則に従って行なう作業で発生するエラー,「スキル型エラー」は規則的な定型作業を繰り返したことで習熟したスキルとして作業する中で発生するエラーとされる。

『エラーフリー』では,これをマトリクスに置いて,6タイプに分類を進める。

ヒューマンエラーの3つの3タイプと2形式
誤処理エラー 省略エラー
知識型エラー ミステイクエラー 10% 不作為エラー 30%
規則型エラー 遂行エラー 1% 怠慢エラー 5%
スキル型エラー スリップエラー 0.1% ラプスエラー 0.3%

表内の数値はエラー発生率。これらエラーには発生までの潜伏期間がある。またエラーの数は,時間経過とともに増加していく(たとえば根本原因を放置して機会損失を繰り返していくような)イメージであるため,早く対処する必要がある。

こうやってヒューマンエラーを検討したうえで,様々な対応を考えるというのがこの本のメインということになる。とはいえ,型ごとの原因解説やどんな回避策があるかを論じている後続部分は,特段珍しいことを記述したり提案しているわけではない。

たとえば,なぜ歴史は失敗を繰り返すのかという問いに「前の世代が学んだ教訓を次の世代で効果的に変更することができない」という答えを示すが,データやマインドセット研究によって導き出したという点は貴重ではあるものの,説明自体は目新しいわけでもない。

またこの本には,エラーを防止する14のテクノロジー・ポイントを実現するための方策といった提案云々もあるが,この部分は企業向けの色が強いので,日本の学校教育とかの文脈で考えるにはもっとアレンジが必要かも知れない。

いずれにしても,もとから「間違いがないためのエラー回避」を追究してきたような日本では,「わかっちゃいるけどやらないやめられない」ということばかりという感想にならざるを得ないだろうか。

GIGAスクールの時代になって,教育の情報化や教育ICT活用は,一時的にせよ機器環境の問題が取り払われた。いま展開している事柄は,ほとんどヒューマンファクターに基づいた問題や課題だ。だとすれば,『エラーフリー』で示されている分類を参照しながら,丁寧に現状把握してみるのも意味はある。

そうしたとき,おそらく日本は,知識型エラーに対する働きかけはたくさんあるけれど,規則型エラーに対するフォローは意外と弱いのではないかといった分析も浮かび上がるかも知れない。もしくは,そもそもエラー率の割合が過去の分析と全く異なる可能性だってあるかも知れない。

だから,長きにわたるこれまでの教育の情報化に関するアプローチも,まるで的外れなことを続けていた可能性だってあるわけで,無謬性の原則を守るがために踏襲し続けているのだとすれば,そこからの脱却が先なのかも知れない。

もっとも,令和に入って,平成最後の学習指導要領は大胆に方針を変えているし,文部科学省だって組織構成など変えて臨んでいたりするし,コロナ禍が従前のいろいろを壊してくれた側面もある。

そんな状況にあれば,いろんな間違いも当たり前のように生じており,エラーを前提としてそれを回避していくという考え方も受入れやすい。

今回の『エラーフリー』は,「成功と失敗の唯一の分岐点はエラーの数だ」と言及したが,これは決してエラーがあったら成功しないということを意味していない。エラーには種類があって,もちろん致命的なエラーはあれど,発生しても掌握できるエラーもあるのだから,そういうものに対して適切に対処していく経験を積むことも重要だろう。

この本が最後に「機会」というものに触れてエラー情報の共有について言及しているのも,そんなことを期待しているからじゃないかなと思う。